エ レ ミ ヤ の ペ ン テ コ ス テ



 旧約聖書を見ますと、神はしばしば特別な人達に臨んで、これと親しく個人的会見を行なっておられます。神はかのヤボクの渡しにおいてヤコブとお会いなさいました。ヤコブはかしこで新しい名を与えられました。モーセも同様に燃ゆる柴の中にて神に会い、そこにて聖声みこえを聞きまつりました。ギデオンもまた神との個人的会見を頂戴した一人であります。そこにて聖霊はギデオンを武装したまいました。また聖書を見ますと、かのサムエルがあぶらを注いだことによりダビデは聖霊に満たされています。かくして大預言書に至りますと、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル等、みな同じ経験を与えられているのを見るのであります。私は皆様が、これら聖書中の人物が如何に神と個人的会見をしているかその一つ一つの箇所を学ばれる事をお勧めいたしとうございます。これは私共お互いの霊魂たましいを引き上げる助けとなり、如何にして私共が聖霊を受ける事が出来るか、また聖霊を受けた結果は如何なるものであるかを充分に学ばしめるものであります。

神 の 顕 現

 さて、今朝は、エレミヤ記一章をお読み致しとうございます。これは彼と神との個人的会見であります。これがエレミヤの生涯を如何に変化せしめたかを学ぶ事に致しましょう。四節からお読み致します。

 『ヱホバのことば我にのぞみて云ふ、われ汝を腹につくらざりし先に汝をしり、汝が胎をいでざりし先に汝をきよめ汝をたてゝ万国の預言者となせりと。我こたへけるはあゝ主ヱホバよ、よわれは幼少をさなきにより語ることを知らず。ヱホバわれにいひたまひけるは、汝われは幼少をさなしといふなかれ、すべてわが汝をつかはすところにゆき、わが汝に命ずるすべてのことを語るべし』(〜七節、以下略)

 神はここでエレミヤに新しい能力ちからを与えたまいました。神がご自身を顕したもうのはいつでも、ご自身を切に求める者に対してであります。エレミヤはさだめし、この時、祈りの中に神を求めていたことでしょう。これはエレミヤが神の御姿を見たというよりもむしろ神の聖言みことばがエレミヤに臨んだものと見られます。
 私共に対しても大抵そうであります。神はしるされたる聖言を通して私共にご自身を示して下さるのであります。私は、時々、或る人々から尋ねられます、「聖潔きよめを受けるために何か助けとなる良い書物はないだろうか」と。世には確かに、聖潔を求める者に助けとなる書物が沢山あります。私は皆様が出来るだけそうした書物を読みなさることを強くお勧め致したい。けれども神が私共銘々に聖潔の経験を与えたもう時は、殆ど常に聖言の或る箇所を通してである事は深く注意しなければならない事であります。
 そこで、神の聖言がエレミヤに臨みました。五節を見ますと、

 『われ汝を腹につくらざりし先に汝をしり、汝が胎をいでざりし先に汝を聖め汝をたてゝ万国の預言者となせりと。』

 神は最初からエレミヤを創造したまいました。この五節の聖言を注意しますと、
  われ汝をつくり
  われ汝を聖め
  われ汝をたて
  われ汝を預言者となせり
 ですからエレミヤはこの聖言により彼の生涯が神の御手の中に全く握られて居ったことを承知いたしました。すなわち彼は神によって今日まで顧みられ、また神によって将来も種々計画が立てられていることを見たでありましょう。私共も同様にこの二つのことを記憶いたしとうございます。私共が今日まで導かれて参りました一切はことごとく神様のおもんばかって下された事柄であり、神様が私共に与えて下さったすべてのめぐみのためであり、同時にまた今後も私共が神の御用をして用いられて参ることの出来るのも神様のご計画の中にあるのであります。

神 の 充 全

 しかしエレミヤは六節にあるように、この神の約束を信ずる事が出来ませんでした。

 『我こたへけるは噫主ヱホバよ視よわれは幼少をさなきにより語ることを知らず。』

 すなわち自分は幼少おさない者、微弱かよわい者であると言い表し、神の計画しておられる働きはとてもなすことが出来ないと申しておるのであります。これはちょっと謙遜のように響きますが実は不信仰でありました。私共もこの類の不信仰に対してお互い自らの心を探らなければなりません。そこで神はエレミヤをお叱りなさる意味において、『我を幼少をさなしと云う勿れ』と申された。何となれば神は幼少い者、微弱い者を選んでご自身の栄光のために用いたもうからであります。ですから神様は『わが汝を遣すところにゆき、わが汝に命ずるすべてのことを語るべし』と仰せられたまいます。そして八節に『なんぢ彼等のかほを畏るゝ勿れ』と仰せになっておられます。その理由はわれ汝とともに居り、そして汝を救うからというのでありました。私は皆様が神の御用に遣わされて行く時、エレミヤの経験したことを良くお判りなさると思います。私共は、しばしば、とかく神のお言葉、神の御能力おちからを信じない傾きがあります。けれども神様はここで、おまえは不十分ではあるが私はお前等の充全であるではないかとお語りなさるのであります。私共はこの二つの事を充分知らなければなりません。自分は不十分なる者、充全をもたぬ者、しかし神は我らの充全にて在したもうと。私共は神様の御言葉を信じていつでも前進して行く筈であります。神様は御遜りもて私共の不信仰のところにまで近づき来り助けようとしていたまわれるのであります。
 しかし、神はここで約束だけを与えたもうたのではありません。九節にありますように、

 『ヱホバ遂にその手をのべてわが口につけ、ヱホバ我にいひたまひけるは、視よ、われ我言わがことばを汝の口にいれたり。』

 すなわち神御自身がエレミヤより離れたまわなかったのであります。ですから神は私共の微弱かよわきを助けて下さるという約束だけではなく、真に神様が私に触れて下さったのだという自信を持つことが出来るように私共のうちに臨んで下さるのであります。神が私共に触れたもうたと感ずることは幸福なことであります。これは私共の信仰を強めるところのものであります。が皆様は、この感じに捕らわれてはなりません。神様の私共に願うことは感情に頼らず神の聖言をそのまま信ずる赤裸々な信仰であります。そこで神様はエレミヤの口に触れたもうたのであります。

聖 言みことば の 能 力ちから

 更に神様はエレミヤに聖言を与えたまいました。

 『みよ我けふ汝を万民のうへと万国のうへにたて、汝をしてあるひは抜き或はこぼち或はほろぼし或はたふし或は建て或はうゑしめん』(十節)。

 ご覧なさいます様に、神の聖言には二つの大きな結果が伴うのであります。すなわち一方には一切のものを抜き取ってしまうが、他方にては植えつける。すなわち破壊と建設であります。この両面の働きがあるのであります。ですから私共も神の聖言を宣べる時、この二つの事を期待することが出来ます。すなわち私共が聖言を宣べ伝える結果として、人々の中から罪が取り除かれ、神の恩恵めぐみが植えつけられることを期待しなければなりません。
 神はしばしば、御自身の聖言をエレミヤに与える事によりエレミヤを励ましたもうたのであります。

 『故に万軍の神ヱホバかくいひたまふ、汝等このことばいふにより、視よ、われ汝の口にあるわが言を火となしこの民をたきゞとなさん、その火彼らをやき尽すべし』(五章十四節)。

 神様はエレミヤを励まして、彼のうちに与えた聖言はさながら火の如くなって焼き尽すと申されました。私共が遣わされて往く時、この約束を主の聖前せいぜんに差し出す筈であると思います。この神の聖言を私共が与えられて出でいて宣べるならば、その聖言は火の如くなって彼等の中に働くでありましょう。つまり神はかく宣べる御自身の聖言により他の人々の心の中に命と熱と能力ちからとを与えたもうでありましょう。そのようにして私共は、宣べ伝えられた聖言を通して神が人々の心の中に驚くべき事を為して下さるという事を見ることが出来るのであります。エレミヤは、一章四節に『ヱホバの言我にのぞみて云ふ』とあります様に、神の御言みことばを頂いたのであります。このエレミヤ記の中に皆様は五十度も『ヱホバの言我に臨み』とあるのを御覧なさるでありましょう。
 皆様は初めて神の聖言が皆様の衷に臨んだ時の事を記憶なさって居られますか。その最初の経験こそは皆様の生涯の転機でありました。しかしそれ故にそれだけで、以後引き続き神の能力の中に御奉仕なさる事が出来ると思ってはなりません。新約聖書を見る時、聖霊に満たされた人達は繰り返し繰り返し聖霊に満たされて居るのを見るのであります。皆様は聖霊を受けたならば、神様が度々聖霊をあなたに充たし、御自身の御言みことばを直接あなたに与え下さる事を期待して頂きたいのであります。皆様よ、どうぞエレミヤ記を通読なさいますように。そしてこの聖言の臨んだという引照の所を赤いペンで記しなさるようにお勧め致します。
 そのように度々神の聖言がエレミヤに臨んだ時、その都度その都度彼は驚くべき能力に充たされて語ったのであります。ですから何ヶ月前、何カ年前に頂いた恩恵めぐみに留まるのでなく、皆様方が常に新しい恩恵を頂く事を切にお勧め致します。

二 つ の しるし

 皆様が宣べ伝える言葉は神の聖言として頂いたのでなければあまり大した結果はございません。エレミヤが神の聖言を与えられた後に神様は彼を力づけるために二つの徴を見せたまいました。これは多分最初の神との個人的会見において与えられたものではなく他の時に与えられたのでありましょう。十一節、十三節を見ますと、

 『ヱホバの言また我に臨みていふ、ヱレミヤよ汝何をみるや。我こたへけるは巴旦杏はたんきゃうの枝をみる』
 『ヱホバの言ふたゝび我に臨みていふ、汝何をみるや。我こたへけるは沸騰にえたちたるなべをみる、そのおもては北より此方こなたに向ふ』

とありますので、ここに二つの異なった時と、二つの異なった経験とを見ることが出来ます。
 第一の徴。十一節に神様は『ヱレミヤよ汝何をみるか』と尋ねておられます。神は私共が聖言を読み、そして祈ろうとする時に、しばしば私共に「お前は一体何を見たか」と御質問なさいます。エレミヤは『巴旦杏の枝をみる』と答えることが出来ました。この巴旦杏の枝とは「いそがしむる枝」という意味であります。どうしてヘブル人がそう読んだかと云えば、春になると巴旦杏はすべてのものより真っ先に葉を出したからであります。ですから十二節を見ると『ヱホバ我にいひたまひけるは汝善く見たり、そはわれすみやか我言わがことばをなさんとすればなり』と仰せになっております。神様はここで御自分の働きを速やかになさる事を期待していたまいます。謂わば信仰の巴旦杏を見たいのであります。神様は唯今ここで働きたもうと期待する、皆様よ、これが信仰であります。エレミヤが見たところのものは或いは唯普通の自然界に生えている巴旦杏だったかも知れません。しかし神はしばしば自然界の何でもない事物をもってお語りになります。皆様が田舎道を辿る時、或いはひとり海辺に憩う時、神様はあなたにお語りなさるという事を御期待なさいませ。
 第二の徴。十三節に第二の徴が見えております。ここで神様は『沸騰たる鑊』と仰せになっております。これは謂わば煮え立って、今にも煮えこぼれて災禍わざわいを多くの人に与えるというような事であります。神はこの事によってエレミヤに、彼等の罪故にもうその審判さばきが近づいている事を実感させたく願いたもうたのでありましょう。罪はさながら火の如くに、鍋を煮え立たせる如きものであります。しかも審判は今やまさにその沸騰点で、はや間近にのぞんで来ている事を見せていたまいます。これを読む時に、エレミヤにはもう審判が眼前に近づいているという気持ちが充分に現れて居ります。
 以上はエレミヤが個人的に神様にお目にかかった彼と神との会見でありますが、これは彼の実験し得た彼の個人的ペンテコステでもありました。

ペ ン テ コ ス テ の 結 果

 このエレミヤの個人的ペンテコステは彼に如何なる結果を与えたでありましょうか。聖霊が私共に与えて下さる結果も全く同じものであります。今ペンテコステのいくつかの結果を学びましょう。

一、 キ リ ス ト の かたち

 これはエレミヤをキリストの如くに致しました。これは実に驚くべき結果であると云わねばなりません。

 『彼等いふ「或人はバプテスマのヨハネ、或人はエリヤ、或人はエレミヤ……」』(マタイ十六章十四節)

 キリストの時代における人々はキリストの事をエレミヤだと申し上げたという。当時の人々は、エレミヤの衷にあった父なる神に対する燃ゆるばかりの愛や、罪人つみびとに対する憐憫あわれみを主イエスの衷に認めたのでありましょう。彼等はエレミヤの衷に見えていた罪人の救われることの厚き願望、そして悔い改めさせる熱心さを主イエスの衷にも認めたことでありましょう。コリント後書四章十、十一の両節に

 『常にイエスの死を我らの身に負ふ。これイエスの生命いのちの我らの身にあらはれん為なり……イエスの生命の我らの死ぬべき肉体にあらはれん為なり』

とあります様に、これは神の子供等の切なる願望でなくてはなりません。私共の周囲の人々は聖書を読みません。が私共の生涯、その私生活を読みます。世の人々は主イエスを見ませんが、私共を見るのであります。神様の思し召しは聖霊が私共の衷に臨みたもう事によって、世人が私共の衷に主イエスを見んことであります。

二、祈 禱いのり の 霊

 エレミヤは祈禱の霊を頂いたのであります。皆様はエレミヤ記を読みなさる時、彼が幾度か祈り出しているのを見るでありましょう。また祈りの中に彼の霊魂たましい全部を注ぎ出しているのを見るでありましょう。エレミヤは語っているかと思うと、その説教の中に祈っているのであります。

 『ヱホバよ汝の目は誠実まことを顧みるにあらずや、汝彼らをうてどもかれら痛苦いたみをおぼえず、彼等を滅ぼせどもかれら懲治いましめをうけず、其面そのかほいはよりも硬くして帰ることをいなめり』(五章三節)
 『イスラエルの家よ、ヱホバの汝らにいひたまふ言をきけ』(十章一節)

と頂いた聖言をイスラエルの人々に告げておりますが、その六、七節を見ると祈り出して居ります。

 『ヱホバよ、汝にたぐふべき者なし、汝はおほいなり、汝の名は其権威ちからのために大なり、汝万国の王たる者よ……汝を畏るゝは当然なり、そは……その諸国くにぐにのうちにも汝に比ふべき者なければなり』

 また十章二十三節に

 『ヱホバよ、われ知る、人のみち自己おのれによらずかつ歩行あゆむ人は自らその歩履あゆみを定むることあたはざるなり』。

 これらを見ますと、如何にエレミヤが祈りにほとばしり出ていたかが判ります。彼は絶えず祈っておりました。如何に祈禱の霊に満たされておったことでしょう。御霊みたまに満たされるとは常に祈禱の霊に満たされて、神との絶えざる交わりの中にあるをいうのであります。

三、 聖 言 の 愛

 エレミヤが聖書を愛したということでございます。

 『われ汝の言を得て之をくらへり。汝の言はわが心の欣喜よろこび快楽たのしみなり』(十五章十六節)

 謂わばエレミヤはおなかがいていて何か食べなければひもじい、食べ物が備えられるに及んで貪り食ったというが如くであります。神の聖言は我が心の欣喜快楽であると、神の御霊がそのように心の衷に宿り、聖書が欣喜、快楽となる事は幸いな恩恵めぐみであります。しかもこれは事実多くの恵まれた男女に見る事の出来ることで、その方々が如何に聖書を愛し、よろこび、楽しんで愛読して居るかを見るのであります。どうかこの十五章十六節を皆様が重んじなさるようにお勧め致します。

四、 霊 魂 の 重 荷

 霊魂に対する深刻な重荷を与えられました。

 『あゝ我わがかうべを水となし我目わがめを涙の泉となすことをえんものを、わが民のむすめの殺されたる者の為に昼夜ひるよるなげかん』(九章一節)
 『汝らきけ、耳を傾けよ、驕るなかれ、ヱホバかたりたまふなり……』(十三章十五〜十七節)

 如何に柔しく懇ろに霊魂たましいに応答しているかを見るでありましょう。彼は申しております、霊魂が神の聖言を聞かないのならば、私は隠れたる処に退いてそこで泣き悲しもうと。
 どうかこの事について私共自らを探りとうございます。皆様よ、如何でしょうか、悔い改めない頑固な霊魂のために隠れたる処にて泣いて祈りなさいますか。

五、 止 み 難 き 伝 道

 神のお言葉を忠実に宣べ伝えたことであります。その時はエレミヤの生涯の中にて迫害の最も激しい時で、彼はもう神の聖言を語るまいと決心した程であります。しかしその決心も固く保つ事が出来ませんでした。彼は沈黙するを得ず、神の聖言を語らずにはおれなかったのであります。

 『こゝをもて我かさねてヱホバの事をべず又その名をもてかたらじといへり、されどヱホバのことばわが心にありて火のわが骨の中にとぢこもりてもゆるがごとくなれば忍耐しのぶにつかれて堪難たへがたし』(二十章九節)。

 これは気を附けておくべき聖言であります。すなわち彼は神の聖言を語らざるを得なかったのであります。パウロも『もし福音を宣べ伝えずば我は禍害わざわいなるかな』と申しました。しかしてエレミヤが聖言を述べる時にはやさしく、同情深く、愛をもって語り、どんな罪人でも悔い改めなければならないように語りました。殊に二章の如きはエレミヤの柔しい、愛に満ちた、行き届いた説教であることを見るのであります。

 『ヱホバのことば我にのぞみていふ、ゆきてヱルサレムにすめる者の耳につげよ、ヱホバくいふ、我汝につきて汝の若き時の懇切まこと、なんぢがちぎりをなせしときの愛、曠野あらのなる種まかぬ地にて我に従ひしことをおぼゆと』(二章一、二節)
 『故にわれ尚汝等とあらそはん、またなんぢの子孫とあらそふべしとヱホバいひたまふ』(九節)
 『それ処女をとめはその飾物かざりものを忘れんや、新婦はなよめはその帯をわすれんや、されわが民の我を忘れたる日は数へがたし』(三十二節)。

 神は私共にもやはりこんなやさしさと思い遣りと懇切さとをもって語って下さいます。聖霊が臨む時に私共もかくなし得るのであります。

六、 能 力ちから づ け

 第六に神がエレミヤに与えたもうた恩恵めぐみは、彼の衷なる人に能力を与えたもうた事でありました。

 『視よ、われ今日けふこの全国とユダの王とその牧伯つかさとその祭司とその地の民の前に、汝を堅き城、くろがねの柱、あかゞねかきとなせり』(一章十八節)。

 神様はここでエレミヤを堅き城、鉄の柱、銅の垣となしたもうたのであります。神は私共が如何なることに遭ってもびくともせず、毅然として譲らざる確固不抜の霊を与えて下さるのであります。先にも申しましたように聖霊は柔しい愛に満ちたものを与えて下さると同時に、確固不抜な断じて譲らない強い霊をも与えて下さるのであります。私共が人間性に所を得させると銅の垣鉄の柱とは似もつかぬものとなるでありましょう。が、神のきよ御霊みたまが宿るならば何事にも屈しない鉄の柱となることが出来ます。

七、 リ バ イ バ ル の 信 仰

 最後に第七の結果として与えられたものは、リバイバルを期待した明らかなる信仰でありました。
 エレミヤは望みに輝いております。皆様はこの事を三十一章、三十三章に見るでしょう。エレミヤはイスラエルの恐ろしい罪人つみびとである事を見ました。が同時に神の愛をもそこで見ました。彼等罪人を救い得る神の能力ちからを見たのであります。ですからイスラエルが罪の腐敗のどん底に呻吟している時に、そこより回復し、リバイブし得て余りある神を見たてまつったのであります。すなわち彼はここに得た聖霊により、神の期待を見奉ることが出来たのであります。かくしてこそエレミヤは如何に恐ろしい迫害をも堪え忍ぶことが出来たのであります。三十一章三、四節

 『……我かぎりなき愛をもて汝を愛せり、故にわれたえず汝をめぐむなり。イスラエルの童女をとめよ、われふたゝび汝をたてん、汝は建らるべし。汝ふたゝびつゞみをもて身を飾り歓楽者たのしむものの舞にいでん』

 エレミヤは神がイスラエルを永遠に変わらざる愛をもってもてなしいたもう事を承知しました。ですから彼等が必ずリバイブされる事を信じたのでありました。その如くに聖霊が臨むならば、神の深き愛を見ることが出来ます。神の能力ちからを知らしめて頂くことが出来ます。ですからリバイバルは必ず来ると信ずる事が出来るのであります。
 私共はかく仔細にエレミヤの神との個人的会見を学んで参りました。神様が如何にしてエレミヤの衷に全き聖潔きよめを与えたまいましたか。また彼の生涯にどんな結果が与えられましたか。私は皆様が特にこの七つの結果に就いて自らの心をお探りなさる事を祈ります。この七つの事柄により、自らを知ることが出来ます。個人的に主にお目にかかったかどうか。果たして御霊みたまの中にあったかどうかを学ぶことが出来ます。私共はこの七つの結果を想いめぐらして黙想し、もしまだこの標準のはるか遠い者である事をお感じなさいますならば、遜って神に近づき、エレミヤに与えられた聖霊を与えられるように祈りとうございます。
 
 この聖書研究によりあなたがたは何をお覚りなさいましたか。何をお学びなさいましたか。神はあなたに対して何を約束なさいましたか。天より何をお受けなさいましたか。
 祈ります。
 
 おお父よ、今一時間の間に、聖なる聖言みことばを研究しまして、心の中にどういう高い恩恵めぐみが下りましたか。おお神よ、どうぞ聖言にしたがい、私共を探り、私共を恵みたまわん事を乞い願い奉る。エレミヤに与えたまいました恩恵と能力ちからと様々なる心を、どうぞ私共にも賜わんことを乞い願い奉る。どうぞ私共をも、主イエス・キリストの如き者たらしめたまわん事を乞い願い奉る。おお父よ、聖言により私共の心を探り私共が遜り、聖前せいぜんに祈ることが出来るように聖霊を与えたまえ。おおどうぞ、私共銘々に聖霊を満たしたまわんことを願い奉る。今まで度々自分の事を出しました。度々自己おのれに依り頼みました。どうぞこの不信仰を赦し、そのけがれを全くきよめたまいまして、本当にあなたを信ずることが出来るように恵みを与えたまえ。どうぞこの一時間の研究により、私共銘々の心の衷に聖霊をみたしたまわんことを乞い願い奉る。これを主イエス・キリストの聖名みなにより乞い願い奉る。アーメン。
 願わくは主イエス・キリストのめぐみ、父なる神のいつくしみ、聖なる御霊の交わり我等と共に在らんことを。アーメン。



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