附 録


神  の  河



 今朝この懐かしい教会において、皆様と共に神を礼拝し得ます事を感謝いたします。心を開いて、ご一緒に、神の深き恩恵めぐみを感謝し、新しく恵まれとうございます。
 暫時の間、黙って、神の聖前みまえに静まって神に近づけよ。
 父なる神よ、血汐にて贖われました、あなたの子供たる私共を、宝座みざにつらならせたまいました事を感謝いたします。父なる神よ、聖旨みむねに適い、私共の上に豊かなる恩恵を与えたまわんことをこいねがい奉ります。どうか神よ、聖霊の感化によりて、本当の祈りと喜ばしき感謝とを捧げ、聖言みことばの深き意味を悟らせたまわん事を希い奉ります。神は、度々、この会堂にて御臨在を明らかにしたまいましたごとく、今朝、ここに臨在なし、銘々の心の中に聖声みこえを聞かしめたまわんことを、主の聖名みなによって希い奉る。アーメン。

エゼキエル書四十七章一〜十二節、黙示録二十二章一〜五節

 『人の子よ、汝これを見とめたるや』(エゼキエル書四十七章六節中)

 神はこの日、エゼキエルにこの異象を示したまいました。これはこの世において、人の心の中に成し遂げられる幻示まぼろしであります。これは神が一人一人の心の中に成したもううるわしい聖業みわざ、また、世の中にあまねくなしたもうであろう異象であると神はこの中に彼に示したもうたのであります。そして『人の子よ、汝これを見とめたるや』と仰せたまいました。ただに美わしい異象を見たかと仰せなさるばかりでなく、真に心の眼ひらけてこれを「見たか」と尋ねたもうたのであります。今朝、お互いもこの幻示を学ぶと共に、単にこれが何の意味であるか解ったというばかりでなく、心を開き、聖霊の感化により真にこれを「見」まして、これが皆様の生涯の中に経験せられんことを祈ります。

聖 霊 と そ の 御 恩 恵 めぐみ

 神の河とは聖書の中にしばしば記されております。これは聖霊とその御恩恵についての美わしい表現であります。川は神が造りたもうた自然界における美しいものの一つです。川は全地を流れうるおし、美わしくも幸いな恩沢を施しております。聖霊もそのごとく、人の心や性質の中を貫いてこれをきよめようとしていたまいます。ただに個人個人のみならず、町に、地方に、国々に、リバイバルを興し、リバイバルの恩恵をたそうとしたもうのであります。川はまた一つのものを他に伝達いたします。双方を結び合わせる働きをすると言うことができます。聖霊もその如く神の民達を一つに集めまた純潔になしたまいます。
 洋々と流れる河川の流れは如何に美しい自然の装飾でありますか。山の頂から谷間を流れ下るさまは如何にも麗しい眺めであります。その様に御聖霊も神の善美なる賜物をもたらしてお互いの生涯の中に及ぼしたもうのであります。

河 の 引 照

 今、聖書について河の引照を少し申し上げますならば、第一は詩篇四十六篇四節であります。

 『河あり、そのながれは神のみやこをよろこばしめ至上者いとたかきもののすみたまふ聖所をよろこばしむ』。

 お互いは神の住みたもう幕屋であります。神の河は神の聖所をよろこばしめます。これは歓喜よろこびの河であります。聖霊は何時も喜び楽しみ、神を讃美する歌を与えたもう。地上において歓喜とはこの上もなく美わしいものであります。世の人はクリスチャンの喜悦よろこびを嘆美して止みません。そしてその秘密がどこにあるか、またその同じ喜悦を如何にして得ることができるかを尋ねます。クリスチャンの持つ喜悦によって救われる者があるのであります。どうぞ皆様、心を開いて聖霊の喜悦を受け入れることを祈ります。
 次は詩の六十五篇九節であります。

 『なんぢ地にのぞみてみずそそぎ、おほいに之をゆたかにしたまへり。神のかはに水みちたり』。

 神の河に水みちたり。そうです、神は豊かに聖霊をみちみてる有様において与えたまいます。聖霊によって平安、喜悦、能力ちからに満たされることができます。先程の四十六篇四節に『河あり』とありました。その通りに聖霊の大いなる河があります。けれどもサタンは河はないと言います。聖霊の実在を疑わせる働きをするのです。けれども彼は嘘つきです。河はあります。今朝こんちょうも聖霊の河はここにも大河となって流れていたまいます、ハレルヤ。サタンは私共を説き伏せて河は乾涸ひかららびてしまったとか、あるいは水は細くかすかにしかないと言います。しかし、どうぞ、この聖言みことばを堅く握って頂きたい、『河あり、水みちたり』。しかして神は確かに御銘々のうちにこれを実験することを願っていたまいます。
 イザヤ書四十八章十八節、

 『ねがはくはなんぢわが命令いましめにきゝしたがはんことを。もししかからばなんぢの平安やすきは河のごとく、汝の義はうみの波のごとく』

 神の河は同時に平安の河であります。聖霊のある所には常に平安があり、常に新鮮また常に深まりゆく平安であります。
   神の平安 河のごと
    栄光ある平安 心をみたす
 神の平安を実際に体験するのは幸いなことであります。私共の周囲には平安を覆すような種々さまざまな事があります。私共がクリスチャンである事に対して苦々しくあったり、あるいは反対したりする者もあり、あるいは失望せしめるような事も多々起こって参ります。しかし聖霊は神の深い平安をもって臨みたまい、いつもかき乱されざる平安をもって私共を満たしたもうのであります。
 最後に黙示録二十二章一節を見ますと、ここには生命の水の河があります。

 『御使みつかひまた水晶のごとく透徹すきとほれる生命いのちの水の河を我に見せたり、この河は神と羔羊こひつじとの御座みくらより出でて都の大路の真中まなかを流る』

 聖霊は神の生命をもたらしたまいます。真に生かされている生涯は神の愛を識らしめられておるものであり、また真の生命は神を悦ばせ奉る生活をなさしめるものであります。主もわが来りしは羊をして生命を得しめ、かつこれを豊かならしめるためであると仰せたまいました。ですから聖霊によって豊かな生命が得られるのであります。野球やテニスを盛んにやっているスポーツ青年達をご覧なさいますなら、彼らの中には豊かな生命のある事を知りましょう。熱心な伝道者が働きを励んで時もなお足らない有様はちょうど同じようであります。その心の中に豊かな生命が漲っておりますからじっとしていることが出来ません。または一家の主婦たり、母たる御方が神様のためにその家を導いている様を見たり、母なる姉妹方がそのお子さん達を正しくうやうやしく育てるのを見たり致しますが、その原動力はいずれも神の生命が豊かに魂の中に活躍しておるからであります。聖霊はその如く豊かに私共の中に満ち盈ちる御方であり、私共はこの御方を心の中に迎え入れることが出来るのであります。

神 の 河 の 働 き

 さて、エゼキエル書四十七章に帰りまして、神の河が如何なる働きを致しますか。まず第一に癒す業を致します。

 『彼われに言ふ、この水東の境に流れゆきアラバにおち下りて海に入る、これ海に入ればその水すなはちゆ』(八節)。

 世には腹立ち易い人があります。しかしその人が聖霊に満たされるならば、平安を与えられて癒されてしまいます。また、自己中心な人があれば、一度聖霊に満たされる事によって、何とかして他の人々のために働こうと憧れるに至ります。実にこれは癒しの能力であります。皆様が何でありましても、これではならぬと自覚する事がありますならば、彼に来るならば癒したまいます。魂が鈍れておりますか、それが癒されます。聖言みことばうるわしさが見えませんか、そのためにも癒しを与えて聖言の中から美しくしき事を見せたまいます。あるいは家庭において躓き倒れ、罪の中にある者がありますか。すなわちこれは霊的跛者あしなえですが、これをも癒して歩み続け得るようになしたまいます。ゆえにこれは実に癒しの河であります。
 次にこれは救霊の河です。多くの人々をキリストに導くものであることを知ります。

 『およこの河の往くところにはもろもろの動くところの生物いきものみないきん、又はなは衆多おほくの魚あるべし』(九節)。

 甚だ多くの魚が獲られる、魚とは霊魂たましいのことです。真に救われて新生した者は他の人の救いを願って止みません。新生は聖霊によってのみ行なわれるものです。聖霊に満たされるなら、聖霊はあなたを通して他の人を生命いのち平安やすきに導き至らしめようとしたまいます。
 また、この河は様々な霊的奇蹟を行いたまいますことをイザヤ書などにおいて見ることが出来ます(三十五章五、六節等)が、この十二節を見ると特に新鮮爽快ならしめ、また、多くのを結ばしめるものであります。

 『河のかたはら、その岸の此旁彼旁こなたかなたくらはるゝ果を結ぶもろもろの樹、おひそだたん。その葉はかれずその果はたえず月々新しき果をむすぶべし、これその水かの聖所きよきところより流れいづればなり』。

ど こ か ら 流 れ る か

 さてこの聖霊の河は私共にとりまして何処から流れますか。これは自らの心を励まして得られません。自らの興奮によって得られるものではありません。エゼキエル四十七章一節、或いは黙示録二十二章一節にあるごとく、これは天より下るものであります。どうぞ神の御座みくらを仰ぎ望みてこの恩恵めぐみを得よ。私共は、時には、他の人から、または周囲の環境から恵まれることがあります。けれども、それは永続きが致しません。神御自身から直接に、神対我として、二人の間において頂く恩恵、それこそ永続きのするものであります。聖霊はペンテコステにおいて河のごとく注がれました。神の御子は天に昇り、地上に聖霊を注ぎたまいました。あれこそは聖霊の凄まじい御働きの始めでありました。しかし、ペンテコステはあのとき必要な恩恵であったので、今はそうではないと考える必要はありません。あの日、流れはじめて以来、今に至るまで同じです。今日までも滔々と流れ続けた河は純潔そのもの、新鮮そのものです。聖霊の大河はあの時と同じく今日も流れ続けて止みません。あの初代の弟子達の受けたと同じく今も受けられます。そして神の河は私共をいよいよ神に近づかしめるものであります。

厳 粛 な る 警 戒

 しかし厳かなことはこれを妨げ、または憂えしめまつることが出来るという一事であります。

 『但しその澤地さわ湿地ぬまとはいゆることあらずして盬地しほちとなりをるべし』(十一節)。

 そのように御聖霊を受け入れない心があるというのです。『盬地となりをるべし』。何たる不幸でありましょう。その心は受けずして苦々しい状態に留まっておる有様です。どうぞ皆様の心の中に自由に働きたもう御方なる聖霊なることを記憶せよ。
 数年前のことでありました。私の二人の友人が大学を卒業して支那に宣教師として参りました。奥地深く入りましたとき、一人の熱心な支那人牧師に会いました。この方は多くの霊魂たましいを救いに導くのみならず、癒しのためにも神様に非常に用いられておりました。件の友人達はこれを見て神を崇めましたが、別れに際して若干の金を渡して帰りました。続いて御用のために用いられるようにとの意でありました。そのころ牧師はちょうどある一つの事のために特別な祈りの時をもったのでありますが、何だか祈りにいつものような自由と能力ちからがありません。静まり、伺っておりますと、あまり明らかな光もなく、有耶無耶うやむやの間に受け取っておいた例のお金に原因のあることが示されました。牧師は早速そのお金を私の友人の許に持参して涙ながらに返したのでありますが、その時彼の言った言葉は、「憂えしめられない聖霊の臨在は如何なる大金にもはるかに優るものである」でありました。私共も常に注意致しとうございます。憂えしめられておらない御聖霊の臨在を常にお保ちなさい。人々の心があの十一節のようになるのは御聖霊を心の中に憂えしめるからであります。どうぞ教会の内にも働きの中にも聖霊が憂えしめられずして働きたもうようご注意下さい。憂えしめられざる御聖霊は極めて自然に流れます。常に新鮮、光を放ち、また純潔です。そして沙漠に流れ入ってはこれを癒します。
 しかしてこの神の河なる聖霊は教会においても個人においても、流れるままに

い よ い よ 深 ま り 往 く

流れであります。今朝、皆様が聖霊を迎え入れることは事の初めに過ぎません。この聖霊の経験がいよいよ深く、いよいよ高く進み行くことは実に幸いであります。

 『その人東に進み、手に度縄はかりなはもちて一千キュビトをはかり、我に水をわたらしむるに水踝骨くるぶしにまでおよぶ』(三節)。

 初めに水はくるぶしにまで届きました。これは御霊によりて歩むことで、新約書中ガラテア五章十六節を思わしめるものであります。すなわち事務所でも職場でも、何処いずこにても神を悦ばしめる歩みをすることの出来ることを示しております。母は家庭に純潔を保ちながら子女を養育することが出来ます。

 『彼また一千を度り我をわたらしむるに水膝にまでおよぶ』(四節)。

 これは祈禱いのり能力ちからです。実に神様の前に切に求める価値のあるものであります。祈りの力を持つ者は地上この上もない力を持つ者であります。英国から参りますとき、船の甲板の高い所で無電の技士が働いているのを見ました。彼は遠いところにおる人と話を交えているのです。見たところ偉大な風もしておらない一青年です。しかし、彼の働きは大切な働きであり、その時は尊い時でした。時としてはその無電が船全体を救うような尊い働きをするのです。教会の中においても、人の前に立つ者が最も大切な人のように思われます。しかし、何処においても、最も大切な人は祈ることの出来る人であります。その人は一教会を救い、また、多くの霊魂を導き得る者であります。どうぞ御聖霊が皆様の膝に及んでおりますように、そして皆様が真に祈ることを得る者たらんことを。

 『しかしてまた一千を度り我を渉らしむるに水腰にまで及ぶ』(四節)。

 これは私共に与えられる奉仕の能力ちからであります。主のために迫害をも困難をも忍んで戦い、多くの成功をち得る能力です。私共にもこの奉仕の能力、耐え忍びの能力の豊かならんことを。

 『彼また一千を度るにはやわが渉るあたはざる河となり、水高くしておよぐほどの水となり、徒渉かちわたりすべからざる河とはなりぬ』(五節)。

 神はこのように豊かにバプテスマを施したまいます。あたかも沈めひたしたもうが如くです。生きておるのは最早われならず、キリスト我がうちに生きたもうのであると。これは当然の御目的です。かくしてお互いが潔められキリストを現すことが出来るようになるのであります。神は聖霊によってキリストの住居すまいを私共の心の中にお造りになります。そして、闇の中に光があれば外に輝き出るように、内住するキリストによって世の人の前に光を輝かしめたもうのであります。
 エゼキエルはこの異象を見せられたときに、『人の子よ、汝これを見とめたるや』と尋ねられました。私も厳粛に、また愛をもて、お尋ね致したい、『皆様よ、これを御覧なさいましたか』。この聖潔きよめ幻示ヴィジョンを見ましたか。御聖霊が皆様にとって如何なる御方ですか。河のごとく、常に流れる御方ですか。臨在を見とめなさいますか。彼は今も流れ流れていたもう御方です。どうぞ浅い意味においてではなく、深い意味において知って頂きとうございます。
 皆様は、今朝、この異象を見ましたことを信じます。主の御前みまえに跪き、一切全部をご提供申し上げ、聖霊をして皆様のすべてのすべてとして臨ましめ奉りなさい。
 
 祈ります。
 
 あなたの心の中に、主ご自身から、如何なるメッセージを受けなさいましたか。心を静かにして深く考えなさい。主は如何なる恩恵めぐみを与えたまいとうございますか。
 
 主よ、聖言みことばによりてこんな美わしい幻示まぼろしを示したまいしことを感謝いたします。ただ幻示のみならず、心のうちに深い経験を得させたまえ。今、聖言みことばに従い、ひれ伏す私共に御自身を与えたまわんことを願い奉ります。神の河を心の中に豊かに流したまわんことを。父なる神よ、今朝このところに御臨在を現したまいましたことを感謝いたします。御言を与えたまいましたから、どうぞ、聖霊の経験を与えたまわんことをこいねがい奉ります。今信じて受け入れます。信じて渇き求めるばかりでなく、信じて受け入れて頂戴いたします。今からいつまでもだんだん深くなる経験を与えたまいまして、恵みより恵みに進み行くことのできるように助けたまえ。主の聖名みなによって希い奉ります。 アーメン。



ADDRESSES BY BARCLAY F. BUXTON, M.A.
THIRD SEIRES

【基督の形成るまで】
     ビー・エフ・バックストン 講演
     小  島    伊  助 編纂
     頒布価 ¥450

昭和14年5月10日 初版発行
昭和28年12月1日 再版発行
講述者  B・F・バックストン
発行所  バックストン記念霊交会
       武蔵野市境南町4丁目7−5
       振替口座 東京6-66649番
       郵便番号 180


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