訳  序



 今、再び、この小冊子を日本の霊界に送り出すことのできることを嬉しく思います。思い返せば、ちょうど、八年前、と言えば、それは終戦後匆々そうそうのことでありました。本という本が、ほとんど、焼けてしまったのでありましょう中に、ことに、霊的の読み物、たましいの糧の乏しい中へ、取り敢えず送り出せたのがこの訳本でありました。まるで、すきがえし紙に印刷したような粗末な、五十頁そこそこのもの、外地の一兄は手にして涙がこぼれたといいますから、よくも出してくれたと喜んで泣いたのかと思ったら、日本には、こんな紙しかないのかと思ったら泣けてしまったのだとの事で、何だかこっちが泣きたいような気持になったことでした。それでも、神戸聖文舎の西田昌一氏の努力の贈り物であったのです。二千部は間もなく無くなり、その後、暫く、絶版になっていましたのを、今度、西田氏の了解もあって、バックストン記念霊交会の方から同師著叢書の一として発行できることを、殊のほか、喜ぶものであります。単なる再版、又は、重版でなく、テキストも口語訳にして、全部、書き直しました。改良版であることは読者のお認め下さるところと存じます。
 さて、内容は、初版の訳序にも紹介しておいたように、これは一九三一年六月、英国スウォニックにおける日本伝道隊年会でされたバックストン師の説教であります。最初の詩篇六十三篇からのメッセージは、最初の歓迎会のそれで、いわば、全会衆の心を備えるためのようであります。次のピリピ、コロサイは、集会の間に、他の講演に伍して述べられたものであります。一九三七年(昭和十二年)五月末、二十年ぶりに来朝された時の御講演は、『雪の如く白く』、『砂漠の大河』、『基督の形成るまで』及び『恩寵の成長』として世に送り出しています。(また、その後、『エホバの栄光』なる一冊子も出しました。)これは、年代は遡りますが、それらに続くものとしてお味わい下されば幸いに存じます。先生は、終戦の翌年二月、八十六歳の高齢をもって、天のホームに、永遠の生命に輝かしく入り逝かれたのでありますが、さすがに、栄光の中から声あって私共に語るような、このようなメッセージの手に入ることを感謝するものであります。
 本書の題は、コロサイ書の主題を採りました。しかし、その霊解の冒頭、「この奥義の結果はホーリネスであります」と力説されるあたり、先生の面目躍如たるを思い、また、ピリピ書を結ぶにあたって、「ですから、皆様は、ここに、本当のホーリネスを有します」よ仰せられるところなど、先生の着眼点は、どこまでも、心と生活との聖潔であり、そして、これを弱い卑しい私共の上に、可能ならしめて余りある、偉大な栄光の救主イエス・キリストであることを痛感する者であります。
 今や、先生の物の、おいおい知れ渡って来ている時、それらの尊い御遺著の中にあってこの一小冊子が、キリストの満ち足れる福音の救い潔むる能力の証人、また、指南として、私共の存する祖国に、その霊界に行き亘らんことを切に祈るものであります。満潮のように、基督教が祖国に漲り溢れると共に、その栄光輝く神の奥義なるキリストの福音の満ち足れる恩恵が、すべて主の名をもて称えられる者たちの心と生活とに入り行かんことを! かく祈りつつ、この第二版を送り出します。
  昭和三十一年四月十七日
                          舞 子 に て
                             小  島  生



神 の 奥 義 な る 基 督

一、 神 を 渇 き 慕 う

詩篇第六十三篇──渇いた魂の叫び



1 神よ、あなたはわたしの神、わたしは切にあなたをたずね求め、わが魂はあなたをかわき望む。水なき、かわき衰えた地にあるように、わが肉体はあなたを慕いこがれる。
2 それでわたしはあなたの力と栄えとを見ようと、聖所にあって目をあなたに注いだ。
3 あなたのいつくしみは、いのちにもまさるゆえ、わがくちびるはあなたをほめたたえる。
4 わたしは生きながらえる間、あなたをほめ、手をあげて、み名を呼びまつる。
5,6 わたしが床の上であなたを思いだし、夜のふけるままにあなたを深く思うとき、わたしの魂は髄とあぶらとをもってもてなされるように飽き足り、わたしの口は喜びのくちびるをもってあなたをほめたたえる。
7 あなたはわたしの助けとなられたゆえ、わたしはあなたの翼の陰で喜び歌う。
8 わたしの魂はあなたにすがりつき、あなたの右の手はわたしをささえられる。
9 しかしわたしの魂を滅ぼそうとたずね求める者は地の深き所に行き、
10 つるぎの力にわたされ、山犬のえじきとなる。
11 しかし王は神にあって喜び、神によって誓う者はみな誇ることができる。偽りを言う者の口はふさがれるからである。

 この詩人の叫びは、神の「力」と「栄え」を見ることであります(二節)。これは渇いた魂の叫びであり、心霊的に「荒れ野にある」魂の叫びであります。「あなたの力と栄えとを見るように」!
 出エジプト記二十四章を見ますと、山の麓において血潮が灑がれ、その血のゆえに七十人の長老たち、およびモーセとアロンが山に登ることができ、イスラエルの神を見ることができたと記されております。
 私共お互いは、このたび、この聖会の山に登って参りました。もしも御血に頼りつつ、この詩篇の語る恵みをあこがれてまいりますならば、私共もまた、イスラエルの神を見たてまつることでありましょう。『世はもはやわたしを見なくなるであろう。しかし、あなたがたはわたしを見る』と、主イエスは仰せられました(ヨハネ十四章十九節)。お互いは、聖霊によって主を拝し奉り、主は、今ひとたび、私共の心の中に、ご自身を顕し示し下されることでありましょう。私共は、顔覆いなくして主を拝し、その栄光を見たてまつり、栄光から栄光へと進み、聖霊の御力によって、主と同じかたちに化せられるのであります。
 さて、私共は、この詩篇を学び、その願望を満たされるために、この詩人のとった段階を見たいと思います。
 まず、彼は、『神よ、あなたはわたしの神』と始めます。これは、実に、幸いな始めであります。私共は神の聖霊によって新生し、永遠の命の確かな望みを懐いていると信じます。ですから、私共は『あなたはわたしの神』と叫ぶことができます。
 これは私共の要する一切ですが、理論上はそうです。『あなたはわたしの神』と言い得るならば、私共は天の処にある霊のすべての恵みで、すでに恵まれております。しかし、私共はキリストに在って私共のものである富を、もっと経験することが必要です。私共のためには、もっともっと、続いて来る恵みがあります。ゆえに、私共は熱心に、なお勝ったものを求めます。ここに三つの段階があります。
 一、わが魂は……かわき望む(一節)
 二、私の魂は……飽き足り(五節)
 三、私の魂は……すがりつき(八節)

一、わが魂はあなたをかわき望む

 あるお方は、たしかに、霊的に渇いて、聖潔の必要を示されていると思います。あなたは今までの生涯と奉仕を振り返って、はなはだ不満足を覚えています。もっと深い恩寵の業の必要を感じさせられます。よろしい、もしきよきに対して饑えと渇きとがあるならば、神に感謝しなさい。神はあなたに会いたまいます。豊かに恵みたまいます。
 『わが魂はあなたをかわき望む』。私共は主ご自身を要します。彼こそは私共の願うすべてです。そして、それをこそ、私共は要するのです。主は私共のすべてのあこがれを満たしたまいます。その『いつくしみは、いのちにもまさり』ます(三節)。すなわち、生命そのものを所有しているよりも、主の恵みに与る方が、はるかに優れてよいと言うのです。これは無上の願望です。ですから彼を求めます。私はこれを力説したいと存じます。時には、その欠乏を示されながら、なお教義を求め、経験を求めて、神様ご自身を求めない魂があります。私共は彼をかわき望むゆえに、彼を求めるのであります。
 『私は切にあなたをたずね求め』。私共は彼を、その御言みことばの中に求めとうございます。どんなに偉大な御救いを期待しうるかとたずねましょう。私はほんとうにきよくなれるのか。ほんとうに聖霊に満たされ得るだろうか。キリストが私の中に顕現され、そして、以後、私は主の中に、主は私の中に宿るなど、ほんとうにできることであるか。こういうあなたのあこがれは、たしかに、あなたを神の御言へと連れて行くと思います。どうぞ神の御言の上に時間をかけなさい。聖書をしてあなたに語らしめなさい。主はあなたを愛して、あなたのためにご自身を与えなさいました。これは、水の洗いをもって御言によってあなたを潔め、あなたを聖なる者となさるためであることを悟りなさい(エペソ書五章二十五節)。祈禱のために時間をとりなさい。あなたの祈禱は、ただお願いすることばかりでなく、神との交際であるように。主を知り申し上げなさい。聖顔みかおを拝するように求めなさい。
 そして、私共は、また、讃美しつつ主を求めましょう。『わがくちびるはあなたをほめたたえる』と言い、『わたしの口は喜びのくちびるをもって、あなたをほめたたえる』と言っております(三、六節)。それは、あるいは、沈黙の讃美であるかも知れません。私共の周囲に、何か神の創造の美を見る時のように、または、キリストの御言を心の中に豊かに住まわしめる時のように、内心の讃美でもありましょう。御言の中に主を求めましょう。そして、祈禱の中に、また讃美の中に、主を求めましょう。『わたしは切にあなたをたずね求める』。熱心に、すなわち、あなたを求めるためには他のものは打ち捨てますと。心して、真に、彼を求めなさい。それは私共は彼を饑え渇きおるのです。静かに、ただひとり、主を求めましょう。主に近づき奉るために、時間をかけて待ち望みましょう。

二、わたしの魂は……飽き足り(五節)

 詩人は祈りました。神を尋ね求めました。いまや、確信を懐きます。私共のすべてのあこがれが満足させられることは可能ですか。私共のすべての願いにかなえられますか。安息のできるほどに、全く、満足させられますか。「飽き足りる」! これは、旧約・新約聖書中に、しばしば出てくる大文字であります。
 真にあなたの魂が飽き足らわしめられるように神に求めなさい。単に恵みの幾しずくかではなく、あるいは僅かの慰め、もう少しの喜びばかりではなくして、あなたの魂が『髄とあぶらとをもってなされるように』(六節)飽き足りることができるように、げに、神がその王の富の中から与えようと備えておる最上のものをもって、もてなしたもうように求め奉りなさい。主は天の恵みを与えようとして備えていたまいます。全き恵みを与えようと備えていたまいます。『わたしの魂は髄とあぶらとをもってなされるように飽き足り』。
 私は、皆様が、たしかに、信仰もて神に近づきつつあると思います。そして、ここに登って来たときと同じ姿ではこの山から下り行かない。そこには、たしかに、変化がある。すなわち、ここで真に、神にまみえ奉ったことのゆえに、変わった者として下りて行かれることと思います。さながら、髄とあぶらとをもって飽かしめられた者のように、受けましたから、もはや、求めていません。求めても、なお受けない者のようには下り行かないことを信じます。これこそは、信仰と期待とをもってご自身を求める者に、主イエスがなしたまいたく思し召されるところのことであります。

三、以上の結果は『わたしの魂はあなたにすがりつき』(八節)

ということでありましょう。結果は生命の新しさであり、かつてなき神とのより近い歩みでありましょう。
 ペテロは主に従って審判所まで行きましたが、彼は『遠くからイエスについて行き』ました(マルコ十四章五十四節)。これは彼が、困難と罪とわざわいとに陥った原因でありました。
 私共は、おのおの、この願いを眼の前に置いて進みたい。すなわち、今後、右にも左にも曲がることなく、主にすがりつき行きとうございます。主の歩みたもうたように、その残したもうた模範のように歩みとうございます(ペテロ前書二章二十一節)。
 このように、私共が第一節の『わが魂はあなたをかわき望む』の御言みことばをもって始めますならば、私共は五節に進み、『わたしの魂は飽き足り』というに至りましょう。しかしてその結果は、たしかに、八節でありましょう。すなわち『わたしの魂はあなたにすがりつき』と。



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