第三部 コロサイ書の研究 「神の奥義なるキリスト」



 この書翰の主題は
  奥義 = あなたがたのうちにいますキリスト(一章二十七節)
 あるいは二章二節にあるように
  神の奥義 = キリスト
であります。これに先立つ三つの書翰も同じで題目を持っております。

この奥義の結果 = 聖潔

 これは、また、神の秘密であって、私共異邦人が、召された召しに適って歩み、きよく責むべき所のない生活をいとなむために、私共に、黙示されたものであります(一章二十二節)。
 一章二十九節を見ますと、いかにパウロがこれを実生活に現しているかが見えます。これは「内に在すキリスト」を、実際的に、生活に現すことについて、新約聖書中最も助けとなる御言の一つであります。

 『わたしはこのために、わたしのうちに力強く働いておられるかたの力により、苦闘しながら努力しているのである。』

 それは、正に、蒸気機関のようなものであります。蒸気は内にたぎっていますから、内部の蒸気の力強い働きにしたがって労するというわけであります。ですから、ここに、信仰がどこに入りこんで来るか、そして、努力がどこに入りこんで来るかが解ります。あなたの内から、力強く働こうとして、あなたの内に宿りいたもうキリストに頼るところに信仰が入り来り、その中からのお働きにしたがって努め、労するところに、努力が入り来るのであります。
 そして、パウロは、彼らがこの真理を知るために、大いなる苦心をしております(二章一節)。
 パウロは彼らが『豊かな理解力を十分に与えられ』ることを願っています(さとりの充分な確信のすべての富 all riches of the full assurance of understanding ──二節英訳)。
 ヘブル書十章二十二節には『信仰の確信』(信仰の充分な確信 full assurance of faith ──英訳)があり、六章十一節には『望みの充分な確信』(the full assurance of hope ──英訳)がありますが、ここには『曉りの充分な確信』がある次第です。皆様は、これら三つのものを充分に祈り、黙想しなさることをお勧めいたします。神は私共が、充分な確信、固い信念を持つことを望みたまいます。
 ウィリアム・カバソーは、彼の日記の中に、彼のいわゆる神との「婚約」を新たにした時のことを記しております。彼は神が自分を受け入れたまい、彼は神に、そして神は彼に、新しく結合されたとの確信をいだきました。彼は書いております。「この後、私は神に対する確信が、いかばかり増し加わることを感じたことでしょう。私の道を辿り進むために、いかばかりの新しいたましいの力が感じられたことでしょうか」と。
 これこそはパウロが、これらのコロサイの信者たちに持たせたく願って祈ったところの充分な確信であります。彼らは神の秘密を知るべきはずなのです。この秘密は、すなわち、キリストです。そして、私共の霊的生活は、ことごとく、ここからまいります。ますます、この聖なる秘密を知り、キリストを悟るのであります。

彼らは、すでに、救われていた

 パウロがこの書翰を書き送ったこれらコロサイの人々は、明確に、生まれ変わっておりました。彼は申します、

 『神の恩恵めぐみをききて、真に之を知り』(一章六節──前訳)

また、曰く、

 『わたしたちは、この御子みこによってあがない、すなわち、罪のゆるしを受けているのである。』(一章十四節)

また、

 『あなたがたも、かつては悪い行いをして神から離れ、心の中で神に敵対していた。しかし今では、御子はその肉のからだにより、その死をとおして、あなたがたを神と和解させ、あなたがたを聖なる、傷のない、責められるところのない者として、みまえに立たせて下さったのである。』(一章二十一、二十二節)

さらに、また、

 『このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受けいれた』(二章六節)

 そして、また、彼らは「生命の新しさをも生かされた」とも言っております。(二章十三節)
 私は、以上、四、五カ所の引照を申し上げましたが、それは、この事を悟るのは非常に大切だからであります。私共が、より深い恵に進み、清い心を持つことがどういうことであるか、また、聖霊の盈満えいまんが何であるかを知りたくありますならば、まず、神の救いの明確な体験と、私共の主イエス・キリストによって神と和解しているという充分な確信との基礎の上に立たなければなりません。

故に、更に求むべきを勧める

 彼らは生まれかわっている、彼らは信仰を働かせた。彼らはキリストを受け入れた、そこでパウロは、彼らを勧めて、すでに受けたものよりももっと満ち充ちている、もっと深いものを求めるようにしています。一章二十八節に言うのに、

 『知恵をつくしてすべての人を訓戒し、また、すべての人を教えている。それは、彼らがキリストにあって全き者として(神の前に=前訳)立つようになるためである。』

 パウロは彼らを個人的には知りませんでした。しかし、彼らのために重荷を持ちました。これは私共に大きな教訓であります。多分、私共は、まだ救われていない人々のために重荷を持ちましょう。そして、禱告表を持っているかも知れません。あなたは、信者のために重荷を持ちますか。おのおのの人がキリスト・イエスにあって全くなるようにと重荷を感じますか。パウロはその重荷を感じました。彼は生まれかわった者たち、私共の主イエス・キリストによって神と和解した人たちが、恵の盈満にまで進み入るようにあこがれて止まなかったのであります。

 『聖なる、傷のない、責められるところのない者として、みまえに……』(一章二十二節)

 これは非常に高い標準ではありますが、パウロは、潔くきずのない者たらしめ得る救いのあることを知っております。傷なくとはレビ記にある犠牲のように「全きもの」の意であります。「責められるところのない」とは、主から何の咎も見いだされない者であります。

エパフラス、彼らのために祈る

 パウロばかりではありません。エパフラスも、また、彼らのために祈っております。

 『あなたがたのうちのひとり、キリスト・イエスのしもべエパフラスからよろしく。彼はいつも、祈のうちであなたがたを覚え、あなたがたが全き人となり、神の御旨みむねをことごとく確信して立つようにと、熱心に祈っている』(四章十二節)。

 彼は自分の愛する信者たちが浅い恵にとどまることをもって満足することができませんでした。彼らが神の恩寵の満ちみつる深さを知るようにと願い、パウロとともに獄屋にあって「熱心に祈り」、彼らが神の御旨をことごとく確信することを願ったのであります。「熱心に」とはギリシャ語では著しい語であります、「悶える」の意です。新約聖書に、この語が最初に使われているのは、ルカ伝二十二章四十四節で、主のゲツセマネの悶えです。

 『イエスは苦しみもだえて』

 私は、御聖霊がこの語をゲツセマネの記事と、このエパフラスの祈禱の記事とに用いたもうのは、私共にこの両者を結びつけて考えさせるためであることを信じて疑いません。エパフラスは信者が神の御意を確信して立つに至るよう、深い重荷と極度のあこがれをもってゲツセマネの祈禱をしたのであります。私共はクリスチャンが潔められるためにもこの類の重荷を知っておりましょうか、信者が潔められることは罪人が救われることよりも、もっと、大切であるかも知れません。ムーディは申しました。「私は十人の未信者がキリストに導かれるよりも、一人の信者のきよめられるのが見たい」と。氏は、世のために、また、神の御国のために、その方がもっと貴いと信じたのであります。

信者の肖像

 さて、一章九節以下を見ますと、パウロは信者のために祈っております。この祈禱は、そのうちにキリストの宿っている、きよめられたクリスチャンの肖像を私共に示します。この祈禱の七つの願いを御覧なさい。

 一、『神の御旨を深く知り』(九節終)

 内住のキリストはあなたがたに光を与え、神の御旨を知らしめたまいます。

 二、『主のみこころにかなった生活をして真に主を喜ばせ』(十節上)

 すなわち、あなたがたの生涯が主の愛と犠牲とに適わしいものであるように、そしてそれが主にとってお喜びであるために、主に値した歩みであるように。

 三、『あらゆる良いわざを行なって実を結び』(十節中)

 林檎の樹があります。芽を出し、葉を生じます。その中には生命があるのです。春になると、一面に花で覆われてそれは綺麗です。しかし、それは、その樹がそこに植えられている目的ではありません。秋、枝もたわわに、全樹、果実に覆われるのが見られましょう。それが林檎の樹の目的です。
 クリスチャンにも、この三段階のあることを信じます。ある者は生命を持っております。それは喜ぶべきことです。しかし、それが全部ではありません。また、ある者は神の美をもって甚だ美しいです。そうです。しかし、それだけで善いのではありません。世には、すべての善事によって、実際に、実を結んでいる者があります。パウロはコロサイの信者たちが、聖霊の実際的な実をもって実の繁くっている者であることを祈るのであります。果実には、その中に、種子があります。そして、その種子から他の樹が生じます。林檎の樹が生きているというだけでは他の樹は生じません。また、どんなに美しかろうと、ただ、花を開くだけでも、他の樹は生じません。しかし、樹に生じる果実から、たくさんの他の樹は生じるのであります。おお、私共はすべての善いわざによって、実を結ぶものでありとうございます。

 四、『神を知る知識をいよいよ増し加え』(十節下)

 聖書を読むことによって、また、その意味の深さを知ることによって、いよいよ、神を知る知識に増大しつつ、また、日ごと、週ごと、神のお取り扱いによって、ますます、神ご自身を知り奉りつつ。

 五、『神の栄光の勢いにしたがって賜るすべての力によって強くされ』(十一節上)

 神の力は栄えあるものですから、神はそのすべての力によって、あらゆるたぐいの働きのために、強くされることを求めたまいます。
 次のことは忍耐です。

 六、『何事も喜んで耐えかつ忍び』(十一節下)

 神はあなたの衷に、忍耐を増し加えるために、かなり多くの試練を与えたもうかも知れません。内住のキリストは、あなたに忍耐をもたらしたまいます。そして、試練の中においてさえも、あなたに喜びを与えたまいます。かくて、あなたは、激しい苦しいすべての試練の中をも貫いて、つねに、笑顔をもって神を讃美することができるのであります。

 七、『感謝することである』(十二節終)

 すなわち神の御救いに対して感謝することが記されております。すべての御恩寵に対する讃美であります。
 以上はクリスチャンのうるわしい肖像でありますが、あなたの内に在すキリストは、あなたの内から、このような姿を刻みあげて下さろうと、待ち構えておられるのであります。

キリストの肖像

 私共は、また、ここに、驚くべきキリストの肖像を与えられております(一章十五節〜二十節)。神の御言の中には、キリストの御姿が、あちらこちらに見られます。しかし、ある意味において、これは聖書中、またと見られない最も驚くべきキリストの御肖像であります。その内容をご覧なさい。

 一、『御子は、見えない神のかたち』(十五節上)

 神は不可視です。人は神を見ることができません。多分、天使らさえも神を見ないでしょう。しかし、キリストは神ご自身の御像みかたちそのものです。そして神が如何なるお方かを見ることが出来るために、福音書の中に、主の御姿が綴られております。他の人アダムは不可視の神の像でした。しかし、アダムは罪によってその像を失いました。そこで神はもう一人の人、主イエス・キリストを与えて、不可視の神の像として世に在らしめたまいました。そして、今や彼は私共の内に働き在したもうのであります。これは私共、お互いが、見えない神を現す像であるためであります。

 『あなたがたは……造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。』(三章十節)

 聖霊はこの御像が私共の内にもう一度つくられるために、私共を新たになしつついたもうのであります。これは第一のことであります。

 二、『すべての造られたものに先立って生れたかたである』(十五節下)

 神の御子が被造者であるという意味ではありません。彼が全創造の主であるとの意であります。主は、あたかも一大財産の嗣子、充分に成長した息子が父の家に居り、父を助け、働き、その全所有を管理しておるようなものであります。故にキリストは全創造の長子であり、主であります。
 第三に彼は万物の創造主であります。

 三、『万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。』(十六節)

 思想は、かの驚くべく、また、栄えある御救いに細かく入りこんで参ります。普通、造物主といえば、私共は、単に、この世界の創造か、全宇宙の創造を考えます。しかし、この御言は、それよりもはるかに進んで、天使の創造、かのセラピム、ケルビムの創造に及んでおります。天の最強の勢力も主イエス・キリストによって創造されたのであります。

 四、『万物は彼にあって成り立っている』(十七節下)

 これは今日の多くの科学者の了解し得ない秘密であります。科学者はこの地球が、幾千万年もの間、どうして、毎年毎年、かの太陽の周囲を公転しているかを説明することができません。地球は、どうして、遠くへすっ飛んでしまわないのでしょうか。乃至はまた、太陽の中に落ち込んでしまわないのでしょうか。また、太陽は、どうして、あのように燃え続けていくかを知ることの出来る者は誰もありません。太陽の中で、燃えつくす燃料は莫大なものです。この地球の百個ぐらいを、毎週、太陽に注ぎ込むようなものでしょう。太陽の炉を燃え続けさせるためには、そのくらいを要します。どうしてこれが続けられているのですか。ここにいっさいの秘密の説明があります。すなわち、『万物は彼にあって成り立っている(よろづの物は彼によって保つことを得るなり──前訳)』。

 五、『そして自らは……教会のかしらである』(十八節上)

 彼は躰のかしらであります。それは彼が死人の中よりの長子、死と罪に対する勝利者であるからであります。二章の終わりには、今一度、同じ題目が取り上げられておりますが、ここでは、ただ、主イエスの栄光の一項目として、触れられております。

 六、『神は、御旨によって、御子のうちにすべての満ちみちた徳を宿らせ』(十九節)

 すなわち、神の完全のいっさいは、神の御子のうちに宿るべきであったのであります。彼は、決して、神ご自身に劣りたまいません。『御子のうちにすべての満ち充ちた徳を宿らせ』。

 七、『そして、その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させてくださったのである。』(二十節)

 彼は十字架の血によって平和をなして十字架による和解者であります。これは主の最高の栄光であります。主は十字架にまで下りたまい、その十字架によって、万物を神と和解させたもうたのであります。

天にあるキリスト、心の中のキリスト

 この書翰の中に、私共は、『神の右に座しておられる』キリスト(三章一節)について読みますが、同時に、また、『うちにいますキリスト』(一章二十七節)として読みます。これは同一のキリストであります。天において、このように栄えあるお方、万権の御掌握者が、私共のうちに宿って、その御力と御恩寵とを分け与えようとしていたまわれるのであります。

 『キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。』(二章九、十節)

 主はこのすべての満ち足りている徳とすべての彼の恩寵とを私共に分与して下さろうと備えていたまいます。パウロが、コロサイの若い回心者たちに、このキリストを知らせたいと願って、そのために祈禱の力闘をしたのも、当然のことであります。

 『わたしが……どんなに苦闘しているか……それは彼らが……神の奥義なるキリストを知るに至るためである。』(一、二節)

 願わくはこの一事が私共各自の中にも成就されますように!

キリストを明らかに見るべきこと

 時に、汽車で旅行をしていると、窓が曇って、何もはっきり見えなくなることがあります。広々とした田舎を通っているのか、町を通過しているのかくらいは解りますが、景色ははっきりとは見えません。しかし、窓を拭うと、美しい風景が見えて参ります。通過している町の様子や、大きな古城、そのほかの建物も目に入ってくるのであります。
 パウロはこれらの信者がキリストを明らかに見奉ることを祈っております。一章九節以下ではクリスチャンの肖像、すなわち、内住のキリストが彼にとって、どんな御力となって下さるのであるかを見、十五節以下ではキリストご自身の肖像を見まして、私共にいかばかり栄え輝く救い主が与えられているかを知らしめられたのであります。

さらに深くさらに高く

 今や、パウロは、彼らがキリストを知るために祈ります。

 『このようにあなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのだから、彼にあって歩きなさい。また、彼に根ざし、彼にあって建てられ』(二章六、七節)

 言いかえれば、あなた自身の根を深くキリストの中に下ろし、キリストから養分を受けることであります。私共は根を世俗的なものに下ろし、一部分は霊的に、一部分は肉的になることもできましょう。しかし、パウロは、彼らが一番豊饒な土壌に根を下ろし、キリストの中に建設されるようにと祈るのであります。根ざすとはキリストから受けるために、いよいよ、低く下りていくことを意味しますが、建てられるとは、日毎に聖書を読むことや、日毎の祈禱や、霊的の事柄に精進するなど、不断の励みによって、いよいよ高く上ることであります。
 そして、主は私共のかしらであることを知って、私共は「養分を供給され(having nourishment ministered)」「神の増大をもって増大(increaseth with the increase of God)」するのであります(二章十九節=英欽定訳)。恩寵、喜悦、平和、熱心、能力等に、いよいよ、増し加えられるでしょう。「神に育てられて成長していく」のであります。

 『このかしらから出て、からだ全体は、節と節、筋と筋によって強められ(供給され)結び合わされ(相聯りつつ)、神に育てられて成長していくのである。』(二章十九節)

私共のかしらであるキリスト

 私共のかしらであるキリストは、はじめの『あなたがたのうちにいますキリスト』とは、少し違う言い方のように思われますが、実は同じ真理を教えるもので、私共はキリストから、すべての恩寵、すべての養い、すべての力をいただくのであります。そして、私共が要するいっさいを受けるのは、私共が彼に結合されるからなのであります。

私共がキリストと共にあずかる恵

 さて、私共が主に結合される結果いただく恵には、以下のような偉大な事柄があります。

 一、割礼 『あなたがたはまた、彼にあって、手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼を受けて、肉のからだを脱ぎ捨てたのである。』(二章十一節)

 キリストの割礼の故に、私共は霊的割礼の特権にあずかります。キリストは肉の罪の躰を脱ぎ去りたまいましたから、私共も、信仰によって、そうすることができます。私共も彼に結合せられますから、私共も、キリストの割礼によって、肉の罪の躰を脱ぎさるという事実の上に、かたく、立つことが出来るのであります。
 割礼にあずかって罪の躰を脱ぎさるというのは消極的方面であります。その甦りにあずかり、神の生命を与えられるのは積極的方面であります。

 二、甦り 『あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。』(二章十二節)

 このように、「神の活動における単純な信仰(the faith of the operation of God =欽定訳)」によって、私共は生命の新しさに、死から甦らされるのであります。かくてキリストは私共の力となり下さり、その御力によって肉の罪のすべての躰を脱ぎさるのであります。かくて私共は彼から甦りの力をいただき、天の処において神と共に歩むことのできる力をいただくのであります。
 二十三節は、効果のない救いの道について語っています。『知恵のあるしわざらしく見えるが』肉と罪とからの救いのためには何の力もないものがあります。「さわるな、味わうな、触れるな」などという、さまざまな規定があります。私共はみな、そういう人間の了解の上にもとづいた規定に従うことの何であるかを知っていると思います。それらは肉から、罪から救うことはできませんでした。唯一の救いの道は、私共は肉の罪の躰を脱ぎさり、甦りの生命をいただいていることを自覚して、かしらにつき、その恩寵をして、私共を養わしめまつることであります。

勤勉でありなさい、忠信でありなさい

 そこでパウロは、三章から、さらに進んで、はなはだ実際的な点に説き及んでおります。

 『このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから』

 すなわち、あなたには、あなたがたのなさなければならない何事かがあるというのであります。実行しなければならない、ある勤勉があるのであります。

 『上にあるものを求めなさい。』(一節)

 すなわち、よしあなたの中に、甦りの生命があるにしても、自らを励まし、勤め励まなければ、あなたは上にあるものを求めはしないでしょうというのです。そしてあなたは、全き心で、一心をもって、忠信であるのでないならば、罪に対する死を経験しないでしょう。これは、何よりも肝心なことであります。

罪を絶ちなさい

 『だから、地上の肢体したい……を殺してしまいなさい。』(五節)

 「何だ! 私共はもう死んでおると思った」と彼らは言うかも知れません(三章三節)。「もはや、なすべき何ものも残ってはおらないはずだ」と。パウロは申します。「いいえ、なすべきことは大いにあります! 地にある肢体を殺しなさい、いろいろの肉躰の慾を死の場所に保ちなさい、それらを常に殺すのです」と。
 かように、キリストと共に割礼され、キリストと共に甦ったあなたは、常に守り、祈り、霊の生活に、不断、留意する必要があるのであります。

 『これらのことのために、神の怒りが下るのである。』(六節)

 これらこそはクリスチャンから力を奪うものであります。これらを除きさるべきことを、全く、無頓着でいるからであります。
 電気の煌々とともった大きな建物があるといたします。電気は太いワイヤーで引き入れてあります。しかし、もし、このワイヤーが、どこか、何か金属にさわっている所があるといたしますと、電流は洩れて、暗くなります。電気はついております。しかし、当然あるべきほどに明るくありません。世にはそういうたぐいの信者が沢山あります。彼らの生活のかくれた部分に、どこか、彼らの力を盗むものがあります。あなたのためには、『全身も明るいだろう』(マタイ六章二十二節)と、主イエスも仰せられたように、神のため、赫々たる光をもって輝くことの出来る力が備えられているのです。しかし、もし、何か、かくれた罪が心の中にひそんでいるならば、その力の幾分はあなたから奪い去られてしまい、その結果は、あなたの光は、主が思し召していられるほど充分には輝き光らないということになるのであります。だから、地上の肢躰を殺してしまいましょう。

クリスチャンの甦りの生涯

 かくて、私共は、キリストの甦りの生命を生活しながら前進する者となります。ここに、キリストと共に甦ったクリスチャンの、もう一つの肖像があります(三章十二節以下)。その特性を見て参りましょう。

 一、『キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。』(十五節)

 平和をして、あなたがたの心の中のいっさいの問題を定めさせなさい。ギリシャ語では「アンパイア──審判者──たらしめる」意です。クリケット競技などでも、審判官が「アウト」を宣すれば、競技者はそれに従います。
 「神の平和をして、あなたがたの心の裁決者たらしめよ。」
神の平和が、あなたに囁くとおりに従いなさい。

 二、『キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。』(十六節)

 私はこの「豊かに」という語が好きです。キリストの言葉を、そのすべての富、ゆたかさにおいて、そのすべての栄えある力において、あなたの衷に宿らせなさい。

 三、『そして、あなたのすることはすべて……いっさい主イエスの名によってなし』(十七節)

 彼に名において! それは、あなたは彼に属するものですから。彼の性格において! それは、あなたのうちに彼が宿りいたまいますから。
 そしてパウロは、進んで、これが家庭において、また、いろいろな関係において、如何に実生活に現され、身をもって説明されるはずであるかを語っております。それは、聖潔はまず、家庭においてこそ、生活されるべきだからであります。

祈り続けなさい

 かくてパウロは、最後の命令を与えます。

 『目をさまして、感謝のうちに祈り、ひたすら祈り続けなさい。』(四章二節)

 「目をさまして祈れ」。彼らは、すでに、この書の驚くべき真理を学びました。この驚くべき救い主を知りました。そしてキリストは彼らの内に宿りいたまいます。しかし、彼の最後のすすめは「目をさまして祈れ!」であります。この必要は常にあります。熱心でありなさい、倦んではいけません、祈り続けなさい。そしてなおも彼は申します。「このことの中に、醒めて守りなさい(watch in the same =欽定訳)」、油断してはいけない、祈りに、つねに、活発でありなさい、答えを期待しなさいと。
 彼は彼らのために祈りましたが、今や、自分のために、特別の祈禱を求めます。

 『同時にわたしたちのためにも、神が御言のために門を開いて下さって、わたしたちがキリストの奥義を語れるように……祈ってほしい。』(三、四節)

 彼は周囲の人々に、救いを提供すべき機会を願って止みません。私共も、宜しくかかる門戸の開かれることを祈るべきであります。
 この書翰中、私共は、すでに、かなり多くのことを祈禱について読みました。一章においてパウロは信者のために祈りました。四章においてはエパフラスの彼の信者のための祈禱がありました。そして、今、最後に、パウロが彼らに、祈れ、我らのために祈れというのを見ます。彼は偉大な人物でありながら、祈禱の必要を感じます。この一事において、人はキリストと彼の弟子たちとの相違を見ます。主は一度もわがために祈れと仰せたまいませんでした。しかし、パウロは、ここで祈ってくれと申します。彼は自分のよわさ、自分の欠乏を知っております。

 『同時にわたしたちのためにも……祈ってほしい』。

 「わたしたちのために祈りなさい」──というのです。
 以上、このようにして、私共はこの書翰を閉じます。おお、願わくは私共が如何に驚くべき救い主を与えられているかを見るように! そして、信仰によって、彼を私共の内に宿りいたもうお方として、受け取りまつらんことを! かくて、すべての御力を与えられんことを! そして、このことの故に、私共は、つねに、『目をさまして、感謝のうちに祈り、ひたすら祈り続け』ましょう。



ビ・エフ・バックストン 述
小  島   伊  助 訳

神の奥義なるキリスト
  −ピリピ書・コロサイ書霊解−

CHRIST. THE MISTERY OF GOD
Addresses by B. F. Buxton,
Fifth Series



 神の奥義なるキリスト
 (C) 頒布価 ¥300
 
 昭和24年5月1日 初版発行
 昭和31年7月20日 改訂再版
 
 講述者  ビ・エフ・バックストン
 発行所  バックストン記念霊交会
      武蔵野市境南町4丁目7−5
      振替口座 東京 6-66649 番
      郵便番号  180


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