カ ナ ン の 地



 『されば汝いま……たちてこのヨルダンをわたり我がイスラエルの子孫にあたふる地にゆけ』(ヨシュア記一章二節)

 何たる栄えあるご命令でしょう! 『この地に入り行け』というのであります。これこそはアブラハムが遙かに見て待ち望んだところのものであります。モーセが、ミデアンの地にあって、神がかねての約束のごとく、その民を如実に導き入れたまわんことを憧れたその地であります。これあるがゆえに、彼もその民も、四十年を通して、荒れ野を旅し続けることができたのであります。しかも、今や、この命令は下りました、
  『起ちてこのヨルダンを済り‥‥‥この地に行け』と。
 イスラエルの子孫の物語は、驚くべき天路歴程であります。神の深きことを尋ね求める私共に対して、教訓と助けと指導とに満ちております。神はこの物語を通して、愚かなりとも迷うことなき(イザヤ三十五・八)明らかさをもって、私共すべてが、聖潔と能力との道を悟ることを願いいたもうのであります。
 イスラエルの子孫は、はるか、エジプトの地に奴隷の生涯を送っておりました。何の所有もない無一物の民です。神は彼等をエジプトの国から救い出して、荒野に導き入れたまいましたが、彼等は不信仰と不従順とのゆえに、四十年の間、荒野に彷徨い、何の進歩も致しません。上ったり、下ったり、この上もない不満足の生涯を繰り返すのみで、寸尺の地をも所有するには至らなかったのであります。毎夜、臥床に入る彼等には、翌朝のための何のたくわえもありません。ただ、神は朝ごとにマナを与えたまいました。神は彼等と倶なり、雲の柱、火の柱をもて導き、ウリムとトンミムとをもて語りたまいました。しかし、彼等は、なお、流浪の民に過ぎなかったのであります。
 私は、エジプトと、シナイ半島と、カナンの地との大きな地図をお見せできたらばと思います。エジプトを真っ黒に塗りましょう。シナイ半島は灰色に、カナンは純白です。エジプトの国は、罪と罪の中に暮らす民とを示します。しかし、これらの民はエジプトから救い出されて、荒野に入っていたのです。出エジプト記十五章に、彼等の新しい讃美を聞くのも不思議ではありません。女たちは、神のこの救いを歓喜して、神の御前に、手鼓を取って、かつ歌い、かつ踊らざるを得なかったのであります。ああ、しかし、彼等は未だ彼等の国に入ったのではありません。彼等は救い出されました。しかし、神の栄えある御目的は、彼等を導き入れることでありました。彼等が神の豊かさの中に、彼等の当然所有すべきその所有の中に導き入れられ、王者のごとく治むるに至らんことでありました。
 クリスチャンにしてもそうです。エジプトから救い出されました。しかし、まだ荒野にさまよっている者が多くあります。もちろん、神は、日々、彼等を恵みたもうことを疑いません。しばしば、聖会において、また、奉仕において、大いなる恩恵めぐみの時も与えたまいましょう。また、疑いもなく、神は彼等を愛し、彼等を牧し、そのやさしき御愛の中に、これを盾のごとく囲み護りたまいます。彼等が幾多の攻撃の中にも安全なるを得るのもそのためであります。しかし、それにもかかわらず、彼等は依然として荒野におります。依然としてさまよい歩き、心はそのために苦しみ、痛み、破れんばかりであります。如何に多くの落胆せる霊魂たましいのあることでしょう。クリスチャンたちの間にです。彼等は昨年を振り返ります。救われた時のことを考えます。少しも進歩しておりません。歓喜も深くはなっていません。平安もまさって安定しておりません。また、かの時よりもまさって友達を導く力も加わってもおりません。大して恩寵に生長も致しておりません。知識は幾分増し、教会の仕事には、幾分、慣れて来たかは知れません。しかし、ああ、恩寵には、なおまだ、はなはだ幼稚であります。
 皆様は海岸へいらっしゃったことがありましょう。窓からは美しい紺碧の湾が見えます。湾の真中に一艘のボートがおります。あなたは、あれは何をしているのかと訝ったでしょう。翌朝もそこにおります。そのままです。漁船は、終日、忙しく活動しています。しかし、それには似もつきません。漁船は、或いは、徹宵、働きます。そうしては獲物を満載しては帰ります。しかし、あのボートは依然としてそこにおります。どうしてですか。一本の細いくさりがそのボートを海底の錨に繋いでおるのです。それで、確かに、上下には動いていますが、その鏈のために、前進がありません。
 ここに、そのようなクリスチャンの方はないでしょうか。あなたのクリスチャン生活はそのボートのようです。動きはあります。しかし、上下だけで、前方ではありません。あの漁船のように、出て往くことがありません。網を降ろして獲物を満載して帰るなどということは絶えてありません。あなたのクリスチャン生活は錨にくくられ、自由のないものだからであります。愛する友よ、警戒せられなさい。何か細い鏈のついているクリスチャンがたくさんあります。何か彼等を固着させ、前進せしめないものがあります。神はかかる人々へこそ呼び掛けたまいます、『起て、ヨルダンを済れ、この地を獲よ』と。
 『この地』──カナンの地とは、私共に、霊的に何を意味しますか。
 (一)これは安息を意味します。この意味は、ヘブル書四章に、驚くべく註解されています。あの章には、『神の民のためになお安息』のあることが示されています。ちょうど、イスラエルのために、安息があったように。彷徨ではありません、安息です。もはや荒野の倦怠や落胆ではありません、安息です。単に恩恵につかまって、跪いていることではありません。ホーリネスとは安息であります。
 新約聖書を見ますと、主は幾度も繰り返して、『我におれ』と仰せたもうを見ます。ヨハネ伝十四章には、主は仰せたまいました、彼等の心が備えられさえすれば、慰め主は来ると。十五章では、主はさらに深い秘密を語って、弟子たちは如何にして主におり、常にその生命を受け、液汁を受けるかを語り、それらの真理を『我におれ』という風に示したかったのであります。あれは豊かなる果を結ぶ安息の生涯の絵であります。
 (二)これは豊饒の意であります。これは豊饒の地であるはずでありました。

 『そは汝の神ヱホバ汝をして美地よきちに携へ入れたまふ、これは谷より、山より湧き出づる水の流れあり、泉あり、深き淵ある地なり』(申命記八・七=英訳)

 神はすべてのクリスチャンを豊饒の地に導き入れたまいとうございます。それは貧弱な霊的生活ではなく、富める豊かなクリスチャンとして霊の豊かさをもってこの世に歩まんがためであります。すなわちその霊魂の衷に聖霊が宿りいたもうて、単に滴りくらいではなく、生ける水の河々のごとく、洋々と流れるクリスチャンたらしめたいのであります。
 ロマ書五章を開いて、この驚くべき十七節をご覧なさい。

 『まし恩恵めぐみと義の賜物とを豊かに受くる者は一人のイエス・キリストにより生命いのちに在りて王たらざらんや』

 『恩恵……を豊かに受くる者』、恩寵をその豊かさにおいて受けるというのであります。しかもあなたの考えのような豊かさではない、神のお考えにおいての豊かさ、神の王たる富、神の王たる宏大さにおいて、能力ある者のごとくに、生命に在りて統べ治め、キリスト・イエスによって、生命にあって支配しているというのであります。『この地』とはそのようなことです。すなわち、あなたの敵は逐い出されました。仇は外になりました。あなたは罪に対しては真に死に、神に対しては我らの主イエス・キリストによりて生ける者なのであります。
 皆様は、これが如何に美しく、かのバンヤンの天路歴程に描き出されているかをご記憶でしょう。ベウラの地の物語です。そこには生ける水の流れがあります。日々、太陽は輝いています。平和があります。そこでは彼等は、しばしば、目指す天の都の門を見ることが出来ました。新郎と新婦の契約は新しくされます。感謝すべきかな、これらはすべて聖書の絵です。すべてのクリスチャンにとってのベウラの地であります。クリスチャンの日々の実際の生活体験なのであります。しかも神様のご命令は、
  『起ちてヨルダンを渡り、この地に到達せよ』
であります。
 さて、未だこの地に入っていないと自覚する霊魂はありませんか。私が描きました地図から言えば、そういう方は黒からは出ました。しかし、まだ白に入りません。灰色におるのであります。自分がどこに立つかを、まず、はっきり見ることは善いことであります。チャールス・ウェスレーがジョン・ウェスレーに次のように書き送った時代がありました、
 『あなたのペンテコステはまだです。あなたのペンテコステの日が来たならば、あなたはちょうど今、多くの霊魂が救われるのを見るように、その日には多くの霊魂の潔められるのを見るでしょう』と。
 皆様は、天路歴程において、クリスチャンと希望者とが、疑惑城に捕らえられたことをご記憶ですか。彼等は、そこに、死人の骨の散乱している中に、饑えつつ、暗黒の中に、しかも、幾度となく巨人の恐ろしい打擲を受けながら、一週間も横たわっておりました。皆様は彼等が祈り明かしたかの土曜の夜をご記憶ですか。そして明くる日曜の朝(それは神様は、いつも、祈禱の中に導きを与えたまいますからですが)、クリスチャンが突然叫び出しました、『おお、私は何という馬鹿者だろう。何だってこんなカビ臭い牢屋の中になぞ、こうして横たわっていたのだろう。私の懐の中には鍵があったではないか。これはこの疑惑城のどんな錠前でもみな確かに開けてしまうのに!』と。彼は約束の鍵を取り出しました。神に感謝せよ、もし、ここに、倦み疲れた霊魂があるならば、絶望している霊魂、落胆している御方、また、自分の生涯は暗い陰気な小部屋の中に、悪魔の影響の中にあったと気付かれる霊魂があるならば、神に感謝せよ、もはや、そんな陰気くさい牢獄の中に横たわっている必要はないのです。ここに神の約束の鍵があります。自由にあなたを解放して、太陽の光の真中に、恩恵の盈満に、あなたのすべての敵に打ち勝つ力の真っ只中に引き入れようとしている鍵があるのであります。
 如何にしてかくなし得ますか、如何にして私共はこの地に入ることができましょうか。
 それに答える前に、一言申し上げとうございます。

 『我ら懼るべし』

 これはヘブル書四章に与えられているまず第一の勧めです。

 『れば我ら懼るべし、その安息に入るべき約束はなおのこれども、恐らくは汝らのうちにこれに達せざる者あらん。』(一節)

 これこそは懼るべき事であります。神は招き、道は開かれ、その側には懼るべきことはありません。しかし、恐るべきは、一つの霊魂でも、神が招きたもうにもかかわらず、入り来らぬものがありはしないかであります。
 さて私共は如何にして入ることができましょうか。神は三つの命令を与えたまいます。

 まず第一に、神はイスラエルの子孫に、入れと命じたまいました。しかして神の命令には能力が伴います。しかして神は、ここにおる私共一人一人にも同じように命じたまいます。彼のご命令はこのように参ります、
  『汝ら潔かれ』
また、このように参ります、
  『我におれ、さらばわれ汝におらん』
また、このようです、
  『宜しく御霊に満たさるべし』
 かようなのが神の命令であります。
 私共は神の命令に従いますか。私共は今ヨハネ伝十五章のような経験に生活していますか。私共は御霊に満たされるとは如何なることか知っていましょうか。しかし、私共は、こういう経験を既に得ているにしても、いないにしても、感謝すべきかな、これを得ることができるのであります。
   よし、過ぎ去りし日は
    つまずき、倒れ、恐怖に充つとも
   そを貫きて、十字架のもとに
    すべてを投げ出し、そこにぞ留めん
 御宝座の前に私共は自らを投げ出すことができます。御宝座の前こそは、私共がこのご命令に服することのできる場所であります。あらゆる過去の罪と呟きとに打ち勝ちうる所であります。

 次に第二の命令がありました。ヨシュア記三章五節です。

 『ヨシュアまた民に言ふ、汝ら身をきよめよ、ヱホバ明日なんぢらのなかたへなるわざを行ひたまふべしと。』

 紅海においては、このような命令はありませんでした。かしこにおいては、道は開かれ民は直進するばかりで、何の準備も必要ありませんでしたが、ここでは、準備の必要がありました。『汝ら身を潔めよ、肉と霊との汚穢けがれより全く己を潔めよ』、能力ちからある潔めの力を受けよ、自分を潔くせよ。

 しかして第三の命令は、同じ章の第三節であります。すなわち──契約のはこに従え、さらば汝に道を示さんというのであります。

 『汝ら祭司たちレビ人がなんぢらの神ヱホバの契約のはこ舁出かきいだすを見ば其処そこ発出たちいでてそのうしろに従がへ』

 キリストは神の臨在の櫃であります。私共は彼に目を留め、彼に従わなければなりません。最後まで従い通す備えをなしなさい。かの天路歴程の伝道者はクリスチャンに申しました、『あの光を見守っておいでなさい、すると道が解ります』。契約の櫃に従い往きなさい。主ご自身に眼を注いで従いなさい。主イエスの臨在をして、あなたの前に進み往かしめ、あなたの案内者たらしめ奉りなさい。さらば彼はあなたを導いてヨルダンを越えて渡り往かしめたまいます。
 当時、ヨルダンは水が岸にまでも満ち溢れておりました。そこを渡り往くなどとは、望みなきことのように見えました。しかし、神の命令は明らかでした。同様に、あなたにとっても、潔められるなどとは、不可能に思われるかも知れません。しかし、神の御言は明白です。これを要求する信仰は真剣です。絶体絶命です。すなわち神が語りたもうたから進むのです。そして神の約束したまいしところを要求するのです。神様は一人一人にそのように踏み出せと命じたもうのであります。
 皆様は、申命記にある鷲の巣雛の美しい譬えをご存じでしょう。

 『わしのその巢雛すびな喚起よびおこしその子の上に翺翔まひかけるごとくエホバその羽をのべて彼らを載せその翼をもてこれをおひたまひき』(三十二章十一節)

 親鷲は彼等のために居心地の良い巣を造りました。しかし、今や、彼等は成長しました。もう飛ぶことを習うべき時です。しかし、巣雛は、巣の中に心地よく、幸福で、いつまでもそこに固まり合っていて、信仰の生涯に冒険しようとは致しません。しかし、親鷲は彼等よりも賢明です。巣は追々に毀たれていきます。そして、この上もなく居心地の悪い所となり、ついに一羽は信仰の踏み出しをして、大空めざして飛び出します。すると、初めて気がつきます。空気が自分を支えるかのごとくです。自分の翼も自分を支えてくれます。しかも下には、万一墜ちても、母鳥の逞しい翼が張られています。
 神様は御自身のしもべたちの一人一人をも、かような踏み出しにまでお招きになります。思い切って信仰の生涯に、信仰の翼を用いるように、そして、その信仰が役に立つことを発見するようにと招きたもうのであります。すなわちヨルダンを渡ってこの地に踏み入る所にまで招きたもうのであります。
 もちろん、彼等が信仰によって渡り往った時も、それはまだ、単に始まりに過ぎませんでした。彼等は、ヨルダンの此方において、その敵に曝され、未だ寸地も得てはおりません。しかし、それでも、彼等はこの地の内側に入ったのであります。それは栄えある始まりでありました。そしてその時から彼等は敵をこの地から追い出して、この地を領有し、神は豊かに真実に在しますこと、神の約束の彼等を保ち支えしこと、しかして神は、なおも、彼等の『すべて求むる所、すべて思ふ所よりもいたく勝る事をなし得』たもうことを(エペソ三・二十)知ることができたのであります。『起ちてヨルダンを渡り往け!』しかしてこの地を領有せよ。



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