神 の 河



 『彼われにいひけるは、人の子よ、汝これを見とめたるやと』(エゼキエル書四十七章六節)

 預言者は、或る程度、これを見たのでありますが、実際の意味は、人の子よ、汝はこれを悟りたるや、これが何を意味するかを識りたるや、汝の霊の悟りはその意味を取り入れたるや、汝の信仰はそれを自らのものとしようとしてこれを要求するやというにあります。これを真に見とめたる者の心とは、充たされたる心、神の力の盈満の何たるを識る心、安息し、従って平安を見出した心であります。ハガルとその息子は荒野において渇きのために死に瀕しておりました。しかもすぐ傍に泉の湧き出る井があったのであります。しかし彼女はそれを見ません。ついに主はその眼を啓きたもうて、彼女は初めてそれを見、彼らの渇きは止められたのであります。

一、 聖 霊 の 河

 これはその能力と祝福とにおいての聖霊の絵であります。私共にとっても、また、その通りなのであります。主イエスは仰せたまいました。

 『我を信ずる者は、聖書に云へるごとく、その最も深い霊魂たましひの奥底より、ける水の河々流れ出づべし』(ヨハネ七・三十七参照)

 多分、主はエゼキエル四十七章のこの絵のことを言っておられます。ゆえに、主は私共自身の能力のため、また、私共が他の人々に祝福となるために、この驚くべき幻示を、私共に当て嵌めることを教えたまいたく思し召したもうのであります。
 サハラ砂漠の境に、フランスの技師たちが掘抜井戸を造って、砂漠に水を得たことがあります。土人たちは、そこに水が得られようとは夢にも思いません。しかし技師たちは働き続け、穿孔はいよいよ深く進み、ついに、或る日、水は、俄然、迸り出たのであります。何石とも知れぬ水が絶えず湧き出で、曠野に大河が造られました。土人や彼らの家畜の生活は一変しました。聖霊は、私共のために、ちょうど、同じことをなしたもうのであります。彼は私共の心の荒野や砂漠に臨みたもうて、

 『荒野に水わきいで、沙漠に川ながるべければなり』(イザヤ三十五・六)

聖業みわざをなしたもうのであります。
 私はかの『湧出』なる語を好みます。聖霊はあなたの心の冷たく乾いている時にも、その荒れたる所に湧き出でようとしていたまいます。彼はあなたの心の中にあって、主イエスがヨハネ伝四章において語りたもうように、湧き出でて永生に至る掘抜井戸たろうとしておいでなさるのであります。
 『人の子よ、汝これを見とめたるや』、神においてはかような生涯が恵み深くも可能であること、聖霊はただいまから、いつまでも、あなたにとって活ける水の河々となりたもうと見とめなさいましたか。
 詩篇六十五篇を開きますと、九節には驚くべき言葉があります。

 『なんぢ地にのぞみてみずそそぎ、おほいにこれをゆたかにしたまへり。神のかはに水みちたり』

 神の河に水満ちたり、あなたのために豊かな恩寵、豊かな喜悦、豊かな平安、豊かな能力、しかして最も明らかな光があります。一八九〇年(訳注、明治二十三年)日本への途次、私はナイアガラ瀑布を見ました。人はあの断崖から落ちるあの莫大な水量に感服せずにはおれません。
 八年後、私はナイアガラを再び訪れました。その八年間、私はそこにいませんでしたけれども、水は、その間、絶え間なく、同じ量の豊富さをもって、変わらずどうどうと落ち続けていたのであります。その後十九年を経て、今一度、眺めました(訳者言う、昭和十二年五月、二十年ぶりにカナダ経由で御来朝のみぎり、もう一度ナイアガラを見てきたとのお話がありました。この時からすれば三十年ぶりのわけです)。少しも変わっていません。もちろん、既に何百何千年と落ち続けて来ていたのであり、今もなお同じかの驚くべき水量もて落ち続けていることでありましょう。聖霊なる神も、同様の豊富さをもて来りたまいました。神の河に水満ちたり。悪魔は、常に、それは非常に小さい流れだ、僅かの滴りだ、おそらく、一度に飲み干して、すぐに乾き切ってしまうと、私共を説き伏せようと致しましょう。しかし、そこには、常に豊かさがあります。常に流れ、常に洋々たるものがあります。「海のごとく、測るべからざる恩寵、永遠に至る恩寵」、神の河に水満ちたりであります。
 詩篇第四十六篇を開きますならば、彼は第一に

(一) 歓 喜 の 河

であります。

 『よしその水はなりとゞろきてさわぐとも、その溢れきたるによりて山はゆるぐとも何かあらん。河あり、そのながれは神のみやこをよろこばしめ至上者いとたかきもののすみたまふ聖所をよろこばしむ。』(三、四節)

 常に、これらの変動は続けられております。山は揺るぎ、水は鳴り轟き、丘は移り、地は変わります。しかし、河あり、平和に流れつつ、よろこびの河です。それは『そのながれは神のみやこをよろこばしめ、至上者のすみたまふ聖所をよろこばしむ』と言われております。すなわち聖霊は皆様の心の中に在して歓喜の河なのであります。
 『河あり』、どうぞここに力を入れなさい。悪魔は言います、「否々、それはもう過ぎ去った、砂の中に吸い込まれてしまって、もはや河は残っていない。もしあったにしても、僅か数滴に過ぎない」と。しかしそれを信じてはなりません。
 私は、かつて、日本のある修養会の終わりに、『河あり』というこの言葉を標語としてわかれたことを記憶いたします。ちょうど、ここで、こうして集まっているように、六、七日の間、修養会を致しました。私共は神の河、聖霊の能力を見させられていたのであります。そして、今や、おのおの周囲は未信者ばかりである中に帰り往く時も、なお、そこにさえも、この河の流れるを信じようと励まし合った次第であります。
 彼は、また、

(二) 平 安 の 河

であります。イザヤ書四十八章十八節を見ますと、

 『ねがはくはなんぢわが命令いましめにきゝしたがはんことを。もし然らばなんぢの平安やすきは河のごとく……』

 私共は、たびたび、繰り返して歌います。
   栄えある河のごと
    神の全き平和の河
   きらめきつ、増し加わりつ
    凡てに勝ちて流れ行く
 平安の河。あなたの境遇、困難、損失、失望の何たるにかかわらず、洋々と流れ続ける平安の河であります。流れるままに、いよよ深まり行く河、いよよ増し加わり行く平安、『すべて人のおもひにすぐる神の平安へいあん』(ピリピ四・七)、かくの如きは聖霊の果であります。かの聖霊は歓喜の河であり、平安の河であります。彼は、また、

(三) 潔 き 河

であります。

 『御使みつかひまた水晶のごとく透徹すきとほれる生命いのちの水の河を我に見せたり。この河は神と羔羊こひつじとの御座みくらより出でて』(黙示録二十二章一節)

 綺麗ではありませんか。水晶のように透き徹った神の河、それはあなたに生命を与えます。活気と体力と精神力とを与えます。潔き能力、聖潔の道を貫き保たせる力、自己中心の擡頭を許さず、潔く保ち、水晶のように曇りなき者と守る力であります。曇りなく透き徹った水晶ほど美しいものがまたとありましょうか。私共の永く住んでいた松江の山からは水晶が出ます。美しい日本産の水晶です。それで小さい水晶の珠を造ります。小さい透き徹った水晶の珠、そんなに美しいものはあまりありません。しかも神様は、生命の水、聖霊をそれに較べます。『おお、人の子よ、汝これを見とめたるや』。
 さて、厳かにも哀しむべき事は、聖霊を憂えしむる事のあることです。そして彼が私共の中に働きたもうこの歓喜、この平安、この生命の盈満を得る事のないことであります。
 三、四十年前の事でありました。支那において、一牧師は彼のご奉仕の中に非常に驚くべき御業を拝しておりました。或る午後、一人の悪魔に憑かれた婦人が伝道館に連れられて来まして、牧師は彼女のために祈りました。悪魔は逐い出され、婦人は驚くべく恢復されました。チャイナ・インランド・ミッションの二人の若い宣教師がこの祈禱の応答を見、やがて立ち去る時、働きのためにとて五十ドルの金を牧師に手交して帰られました。牧師はかねて自分のささやかな必要のために、ただ、神に信頼していたのでありますが、これは今まで手にした事のない大金です。彼は、今や、大きな事が出来ると考えました。一、二日して、かの不思議に癒された婦人から通知が来ました。またも悪鬼が入ったからすぐ来てくれとの彼女の友人たちからの要求です。すぐに駆けつけると、悪鬼に憑かれた婦人が言いました、『ははあ、また、来たか。だが、今はおまえは私をどうする事も出来ないぞ。おまえは強く偉かった、私は従わなければならなかったが、今はおまえは小さく弱い』云々。しかして牧師は何もなす事ができませんでした。彼は祈りました。しかし悪鬼は出て往きませんでした。彼は帰宅して一部始終を妻と語りました。妻は深く教えられたクリスチャンです。結局、件の五十ドルを返す事になりました。牧師は心にかの五十ドルに頼って、聖霊を憂えしめていたのであります。その金額を返した時に、牧師が私の友人たちに言った言葉はこうでした、
 「聖霊の憂えしめられざる臨在は、私にとって如何ほどのドルにも遙かにまさる」。
 おお、兄弟姉妹よ、注意して神とともに歩みましょう。そして憂えしめられざる聖霊が、常に私共と共にあるように、私共がそれないように、私共の目があれやこれやと惑わされないように致しましょう。そして、常に、河に目をそそぎ、常に聖霊は私共の充全であり、歓喜、平安、また能力であることを知るように致しましょう。

二、 深 ま り 行 く 経 験

 さて、河はますます深く深まり行きます。皆様の霊魂の中においても、いよいよ深く、すなわち、聖霊なる神のいや深き体験となって参ります。

(一)

 最初、水はくるぶしまででありました(三節)。水の中を歩いていれば足は汚れません。これは御霊によって純潔に歩む謂です。これは聖霊の最初のお働きです。神の願いたもうことはその子らの潔からんことであります。この世における神のすべての力強き御業、ゲツセマネとカルバリ、復活とペンテコステ、すべてはこの目的のためであって、汚れたる罪人を潔くするためでありました。これこそは神の目的です。このためにこそその生みたまえる独り子をさえ賜ったのです。このためにこそ主イエスは御苦痛を嘗めたまいました。聖霊は来りたまいました。穢れたる罪人を潔くするためなのであります。
 皆様は聖霊を受けたならば、恩寵の流れに足を浸し、踝にまで保たしめ奉り、潔く保たしめ奉りなさい。

 『我なほき心をもてわが家のうちをありかん』

とダビデは詩の第百一篇(二節)に言っております。これをまた私共の聖別、献身たらしめましょう。御霊にありて歩みつつ、清く保たれ、イエスの血、すべての罪より私共を潔めたもちたまいつつ。

(二)

 かくて彼はなおも導かれ進みます。

 『彼また一千をはかり、我をわたらしむるに水膝にまでおよぶ』(四節上)

 聖霊の第二の御働きは膝の働きであります。御聖霊はあなたを膝にまで連れ来りたまいます。すなわち彼が励まし盛んならしめるのは祈禱の生涯であります。彼はあなたに祈ることを教えたもう。心に内住したもう聖霊なる神は、その心を祈禱の神殿としなければ止みません。聖霊は私共に祈ることを教え、『アバ父よ』と申し上げることを教えたもう。それは非常に甘美です。『アバ』とはまさに幼児おさなごの言葉で、聖霊は、いかに私共が、かの幼児のような単純と信頼とをもって祈るべきかを教えたもうのであります。幼児はその父の智慧と愛と力とを信じ切ってその許に参ります。聖霊はそのように祈るよう、私共を霊感したもうのであります。
 或る時、かつて日本へ行く途中、船の中に無線電信の設備がありました。時に許されてその中の機械を見るのは非常に興味深くありました。船はその設備によって、たびたび救われます。その時の技手は多分二十五歳くらいでありましょうか、そう偉い人のようには見えません。しかし、五百マイルも隔たっている見えない人々と語ることができました。
 ちょうど私が見ていた時、彼はニューヨークと通信していました。おおその顔をご覧なさい。目も耳もただニューヨークにのみ集中せられ、天にも地にもその他には全く余念がありません。ちょうど機械が思うようでなく、それを合わせる事に苦心していられましたが、そうして、重要なメッセージを得ようとしておられたのであります。
 神は皆様が無電の技手たらんことを求めたまいます。神はあなたが、如何に他の人と語り合うべきか、見えざるものに、神御自身に語りかけるべきかを教えんとしたまいます。また、如何に聖声みこえを聞くべきか。祈禱の人は、しばしば、船を救うところの者であります。これはあなたの持ち得る最も大切な能力であり、祈禱の能力、神にメッセージを送る能力、神の声を聴く能力であります。聖霊なる神は、ここにおる一人一人にこの能力を与えたく思し召したもうのであります。水は膝にまで及ぶべきであります。

(三)

 『しかしてまた一千を度り、我を渉らしむるに水腰にまで及ぶ』(四節下)

 腰は力の箇所であります。ですから、今や、私は神の奉仕に出で往き、霊魂を主イエスに連れ来ることが出来ます。『水腰にまで及ぶ』、ですから私は主のために忍び、主のために堅く立ち、霊魂の救いのためとさえあらば、己が事を顧みずして労し得るのであります。聖霊なる神は私共に能力を与え、霊魂を暗黒より救い出して、的確に福音の妙なる光の中に導き入れしめたもうのであります。『人の子よ、汝これを見とめたるや』。

(四)

 しかして、更に、

 『彼また一千を度るに早わが渉るあたはざる河となり、水高くしておよぐほどの水となり、徒渉かちわたりすべからざる河とはなりぬ』(五節)

 しかして神の恩寵はまさにそのようであります。神の河に水は満ち、豊かに充ち満ちております。新約において、パウロは、この神の恩寵の豊富さを表すに、ほとんど適当な語に窮しております。彼は『キリストの測るべからざる富』(エペソ三・八)と言い、『おもひにすぐる神の平安』(ピリピ四・七)と言います。『言ひがたく、かつ光栄ある喜悦よろこび』(ペテロ前書一・八)とあります。また『測り知るからざる愛』(エペソ三・十九)と言い、『我らのすべて求むる所、すべて思ふ所よりもいたく勝る』(同三・二十)神は答えまた与えたもうと言っております。皆様は、この彼の用いる超最上級の用語の意味を解りなさいますか。或る人々は、これは大袈裟に言っておるので、地上において言い難き喜悦や思いに過ぐる平安など我らの知る所ではないと言うかも知れません。私共が聖霊を知るに従って、神の恩恵めぐみは徒渉りすべからざるほどの水のごとくであることを知るに至るでありましょう。

三、 他 に 生 命 を 与 う る 生 涯

 それはただに私共自らのためばかりではありません。次の三つの節を読むならば、この河は、また、他の人々の生きんがためであることが解ります。『この河のいたる処にては物みないくべきなり』(九節末)。すなわち

 『この水、東の境に流れゆき、アラバ(砂漠、或いは平地)におち下りて海に入る』(八節)

 聖霊は私共を導いて、砂漠のような霊魂のおる所に至らしめたまいます。爽やかならしむる水を渇き求めている人々、荒れた乾いた人々、満足なき人々、であります。神は砂漠を変じて『番紅サフランの花のごとくにさきかゞや』く所たらしめたまいます(イザヤ三十五・一)。

 『さかんさきかゞやきてよろこびかつよろこび且うたひ』(同二節)

 それは水が湧き流れ出で、砂漠に河が流れたからであります。
 エジプトはナイル河によって創られています。ピラミッドの頂上に登って見るならば、エジプトはナイル河の流域にほかならないと解ります。ナイル河の水が浸潤して生気と活気とを与えている土地にほかなりません。エジプトはナイル河で出来ています。しかして、神の教会は聖霊によって創られているのであります。神の教会とは聖霊の在したもう所、しかして、聖霊の働いています所にほかなりません。他の何処でもありません、まさにその所であります。他のすべては荒れ果てて、果を結ばぬ所であります。あたかもエジプトの他の部分が、ナイルの水が浸潤していないためにすべて砂漠であるがごとくであります。神はその僕たちを世界のあらゆる部分に押し出したまいました。彼らを用い、彼らを通して渇ける霊魂は生命の水を見出して満ち足らわしめられました。しかして今や、かつては地上の地獄であったシエラ・レオネの如き所も、喜悦と平和の家々のある処となっております。
 同様の事がウガンダでも、チネベリー(Tinneveli:南インド)でも、朝鮮の内地、支那、日本その他についても言い得ます。
 この聖会において、私共は、私共自身の霊魂の中に取り入れて参りました。今や、神は私共に砂漠に出て往けと命じたまいます。他の人々もまた味わい、生きて、神の教会の増し加わり、主の『救はるゝ者を日々教会に加へ』たまわんがためであります。
 『人の子よ、汝これを見とめたるや』。皆様は聖霊なる神が、皆様にとって如何ばかりの御方となり下さり得るかをご覧なさいましたか。あなたはこの御約束を要求しましたか。皆様は信仰を昇らされてこの信仰を盈ち満たさるることを要求しなさいましたか。もし然らば神は皆様を御栄光のために用いたもうことができます。そして皆様より『活ける水、河々となって流れ出づる』に至るでありましょう。



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