ヱ ホ バ の 栄 光



 レビ記八章〜九章──これらの章は、イスラエルの民が、荒野において保った、かの大聖会の驚くべき物語であります。

 『汝等はその任職祭にんしょくさいをはる日まで七日なぬかうちは集会の幕屋の門口かどぐちよりいづべからず。は汝等の任職は七日にわたればなり。今日こんにち行ひて汝等のために罪をあがなふが如くにヱホバかくせよと命じたまふなり。汝等は集会の幕屋の門口に七日の間日夜ひるよるをりてヱホバの命令おほせを守れ。しかせば汝等しぬる事なからん。我かく命ぜられたるなり。すなわちアロンとその子等はヱホバのモーセによりて命じたまひし事等ことゞもことごとなせり』(レビ記八章三十三節〜三十六節)

 スウォニックにおけるこの聖会も七日のあいだ保たれて参りました。七日の間、神は私共のただ中に在して私共を恵み、聖別し、きよめ、また油そそぎ下さいました。これは実に主の聖前みまえにおける厳粛なる集いの七日間でありました。しかして、今日は八日目であります。

 『かく第八日やうかめにいたりてモーセ、アロンとその子等こらおよびイスラエルの長老等としよりたちを呼び、しかしてアロンにいひけるは、汝若き牡犢をうしの全き者を罪祭ざいさいのために取り、また牡羊をひつじの全き者を燔祭はんさいのために取りて、これをヱホバの前に献ぐべし。……ヱホバ今日けふ汝等にあらはれたまふべければなり』(九章一節〜四節)

 『かくせばヱホバの榮光汝等にあらはれん』(六節)

 『アロン民にむかひて手をあげてこれを祝し、罪祭、燔祭、酬恩祭しうおんさいを献ぐることをおへて下れり。モーセとアロン集会の幕屋にいり、いできたりて民を祝せり。斯てヱホバの榮光總體すべての民に顯れり』(二十二節、二十三節)

 旧約時代においてさえ、このような栄光ある終結を見ることができたと致しますれば、神が聖霊の能力ちからによって働きたもうことを喜び、聖霊、また、旧約時代になし得なかった御働きをなしたもうこの新約の福音時代においては、なおさらのことであります。
 私はこの四節のお約束を捕らえたいと思います。『今日ヱホバ汝等に顯れたまふべし』。或いは、六節の終わりに記されているように、『ヱホバの榮光汝等にあらはれん』。私共は神の恩寵、その御救い、私共への賜物、また、聖霊の能力などについて語り合って参りました。幸いなる題目でありまして、かく語り合うは当然であり、また、これは永遠に語り合うべきものでありましょう。しかし、これは賜物よりも少しく優るもの──主ご自身であります。『ヱホバ汝等に顯れたまふべし』。主御自らが自らを顕したもう。私共のただ中に、彼自ら、私共と偕に!
 主は、そのように、エマオ途上の二人の弟子たちに顕れたまいました。道すがら、彼らの心は重かったのですが、甦りの主は彼らに加わって共に歩みたまいました。主は彼らに聖書を開いて、キリストは苦難を受くべきであり、また、栄光に入るべきであることを示したまいました。その時、彼らの心は内に燃えました。私共も、過ぐるこの数日、このようなことを経験したではありませんか。弟子たちは家に近づいた時、主は行き過ぎんとする様をしましたので、『我らと共にとゞまれ、時ゆふべに及びて、日もや暮れんとす』と言って強いて止めました。主は留まろうとして入りたまい、パンをさくや、彼らの眼ひらけて、これは主であると識りました。主は御聖霊によって、私共にも、驚くばかりにと書を啓き下さいました。今朝聖書は私共にとって、かつてないほどに尊く感ぜられていると思います。今や、私共はかつてないほどに神の御意、神の恩寵、信仰の道等を悟らされております。おお、願わくは、今朝、このパンのさかれ、葡萄酒の灌ぎ出される時、主が私共の眼を啓いて主御自身を見奉ることを得させたまわんことを。『今日、ヱホバ汝等に顕れたまわん』。ここに、この聖餐の式、主自ら御制定の典において、主は自らを示し、その栄光を顕すを喜びたもうのであります。
 『ヱホバ我等に顯れたまわん』。それは如何なる風にしてでありましょうか。モーセが『ねがはくは汝の榮光さかえを我に示したまへ』と祈ったのは、この記事のつい数週前のことでありました(出エジプト記三十三章十八節)。モーセは多くの日の間、この山におりまして、かく祈ったのであります。しかし、かの時、主はモーセに御自身の栄光を示すことができませんでした。ただその恩恵めぐみを示し、それさえ、言わばその後ろを示し得たもうたに過ぎません。モーセは磐の裂け目に入れられ、神の手もて覆われ、かすかに主の栄光を垣間見させられたのであります。しかるに、ここに、神に反逆した、うなじこわい民、機あらばエジプトにも帰ったかも知れない民がおります。モーセすら主の栄光をほとんど見得ないとすれば、この背ける罪人等はいかがいたしましょうか。犠牲が献げられましたので、これらの反逆者、罪人らも近づき得るのでありました。旧約聖書のこの不思議な絵、この比喩において、私共は、反逆者、罪人さえも憚らず聖前みまえに近づいて、主の栄光を見奉ることのできる、神の恩寵の溢るる能力ちから御救みすくいの不思議さとを見させられる次第であります。
 今朝はその秘訣の幾分を学びとうございます。まず第一に、彼らが近づくことのできたのは、そこに大祭司があったからであります。これはイスラエルの中に初めてのことであります。彼は八章において、かねて聖別されています。そして栄えと美の衣服を纏い、かの『ヱホバにきよし』とえりつけた金の前板のある頭帽かしらつつみを頂いております(出エジプト記二十八章三十六節)。神の前に、この生ける大祭司がありましたから、主は自らをイスラエルに顕し、主の栄光は拝せられたのであります。ああ、今日、私共にも大祭司のあることを見とうございます。眼を挙げて、そしてご覧なさい。主を十字架にけられたまいし救い主、罪のための大いなる贖いとして知ることも幸いであります。しかし、かのヘブル書の記者が、キリストにある赤子たちがキリストに成長し、他の人々に明らかな証詞あかしをすることのできるクリスチャンとなることを切に願った時に、彼は我らの大祭司たるキリストについて書き贈ったのであります。三章に『大祭司を思ひ見よ』と命じ、三章から七章にわたって、栄光の中に在す我らの大祭司について語ります。八章の初めにおいては『今いふ所の要點はかくのごとき大祭司の我らにある事なり』と言います。これは栄えある事実です。私共には大祭司があります。真に私共の荏弱よわきをお感じ下さることができ、私共のすべての欠乏をよくご存じ下さる大祭司であります。すべての腐敗と悪、すべての反逆とを知りつつも、なお、極端まで救いたまいます。私共の大祭司はまされる約束に基づいて仲保なかだちしたもう。私共のために執り成そうとして常に生き、己が民を神に連れ来ろうとして常に神の前にいたもうのであります。それが大祭司の職です。すなわち、よしその民が無智にてさまよい、汚され、失敗したものであっても、なお、これを神に連れ来るのであります。大祭司は礼拝者を神に近づけ、至聖所に引き入れ、そこにおいて神を見奉り、栄光を知り奉らせることにおいてその威光と栄光とを示したまいます。どうぞ私共の眼の彼に向けられんことを! イエス・キリストを私共の大祭司として見奉らんことを! そしてかく彼を見奉る時、私共は、新しき活ける道より至聖所に入るを得ます。主はそこに在し、手をとって私共を導き、神に引き合わせ、至聖所の奥深く導き入れたもうのであります。私共の大祭司は私共を神に至らせ、顔と顔とを合わせて相交わることを得させんためにそこに在したもうのであります。
 これは私共が栄光を見得んがための第一の栄えある事実であります。第二の事実はカルバリーであります。神の御子は大祭司で在したもうばかりでなく、彼は、また、犠牲であります。大祭司は献ぐるものを要したのでありますが、主は自らを献げたまいます。主は自らをかの大いなる贖いとしたもうのであります。レビ記に帰りまして、九章を見ますと、栄光の顕れる前に、次から次へと、各々異なった意味をもつ多くの犠牲を献ぐべきでありました。しかして後に、栄光は来りました。しかし一切はカルバリーに総括されます。『そはきよめらるる者を一つの供物そなへものにて限りなく全うし給ふなり』(ヘブル十・十四)。すなわち、カルバリーには、あなたを全くきよくする充全があります。カルバリーには、最も深く汚れたる罪人をも救い、全く腐敗した者をも潔むる充全があります。カルバリーには全く潔めて栄えあらしむるに足るあなたのための充全があります。そしてやがて栄光の御前に至った時、あなたは、それが、ただカルバリーによってのみなされたことであるを知るでありましょう。あなたのわざでも献身でも、その他の如何なる行為によってでもありません。ただ、単純なる信仰もて彼に来る者を、限りなく全うした一つの供え物によってのみなのであります。彼は大祭司であると共に、犠牲でありたまいます。
 しかも私共がこれらの犠牲を見て参ります時、そこには、さらに深い意味があるのであります。種々異なる犠牲を見る時、宜しく、私共は喜ぶべきであります。人々は罪祭を献げ(レビ記九章八節)、それから、燔祭(十二節)と、そして酬恩祭(十八節)を献げました。罪祭は罪の取り除かれたることを語っております。しかも罪の行為ばかりではありません、罪そのものです。『よ、これぞ世の罪を除く神の羔羊こひつじ』(ヨハネ一・二十九)。すなわちこれは私にとって──私の罪は除かれた、旧き人は脱ぎ去られたことを意味します。今朝、私共がカルバリーに近づく時、この側を見ることができます。すなわち、主は死にたまいましたから私共は死んでおります。私共はカルバリーの救いに罪から自由にせられました。主は私共のための罪祭であります。そして私共は罪の潔めを、全き救い出しを十字架の麓において頂くのであります。今朝、イエスの死の御印のまわりに集う時、私共は手を私共の罪祭の上にいているのであります。そして、もう一度、信仰によって主の十字架と御苦難との功績と恩恵とを頂戴するのであります。しかして今朝、私共は真に罪に対しては死にて罪より解き放たれ、神に対して生ける者であることを、この主イエスの御肉と御血の御印の前に喜ぶ次第であります。
 次に彼らは燔祭を献げました。燔祭は祭壇上に全部焼かれました。それはほのおの中に神の御許に昇り行きました。これは全き服従の雛型であります。カルバリーに来って、そこに、神の御子の燔祭、父なる神への全き御服従を見、私共もそれに与り、神の子の御服従に与っている者であることを主張する時に、私共は、神が私共を受け納れたまい、私共は永久に神のものであることを知るのであります。献身は決してあなた自身の努力、あなた自身のわざによるものではありません。これは、私がこの燔祭に与り、主イエス・キリストの十字架に与り、しかしてこの十字架において神が私を受け取り、そして、全く御自身に至らしめたもうことにあるのであります。
 しかして、次に、彼らは酬恩祭を献げました。交わりの供え物、この供え物において供える者が神に近づき奉るところのものであります。彼らは、今や、神と友であることを知ります。あたかも放蕩息子が父との交わりを得て共に食したごとくであります。ちょうどそのように、カルバリーにおいて私共も私共の酬恩祭を見出します。私共は、血によりて、神との交わりを有することを知ります。私共は父へ参ります。そしてその間には何物もありません。キリストが私共の平和で、彼によって、私共は父への接近を得ているのであります。
 それゆえに私共は、これらの様々な供え物において、カルバリーの様々な方面を見、主イエスの死によって私共にもたらされる大いなる救いの様々な部分を見るのであります。いわば太陽の光線をプリズムにかけて見るようなものであります。白一色の陽光も、或いは青、黄、赤と様々な色に分かたれて見えます。こういうすべての色が太陽の白い一色の中に皆あるのです。しかし間にプリズムを置いて光線を屈折させるので、初めてそういう風に見えるのであります。ちょうどそのように、主イエスは潔められる者を十字架において、一つの供え物によって永遠に全うしたまいましたが、私共は、神の聖言によって、その犠牲に連なる異なった真理を見るのであります。それはすなわち罪祭であり、燔祭であり、また酬恩祭であることを見るのであります。私共が、パンが裂かれ、葡萄酒がそそがれるのを見る時に、私共は、私共の一切の必要のために備えたまいし主御自身の前に額づき拝むのであります。これらの御しるしを通して、あなたのために裂かれたる御体をご覧なさい。
 ウェールズのプリンスについての一つのお話があります。殿下はある私設の病院を訪れられたいとの手紙を受け取られました。そこには、戦争において非常な傷を受け、癒ゆる望みも絶え果てた三十六名の人々が、忍耐と勇気の激戦を続けておるのでありました。殿下は日を定めておやりになった上、その当日、おしのびで、その小さい病院へ車を走らせました。
 型のごとく病床の間を行きめぐり、感激した掛の人々によってドアの方へと導かれなさいましたが、殿下は、突然、足を止めて仰せられた、「患者は三十六人と聞いたはずだったが、私は、二十九人しか見舞わなかった」と。
 他の七人はあまりにひどく負傷しているのでご遠慮申し上げたのだとの説明を聞かれると、「その人たちのためにならないのか、それとも私に遠慮してか」とお尋ねになりました。「殿下にご遠慮申し上げてであります」が答えでありました。
 ただちに、殿下はそれらの七人をも見舞おうと言い張られるので、ついに人々はその一画にご案内致しました。殿下は一人ひとり丁寧にやさしく見舞い、慰めと励ましの言葉をかけ、彼らの犠牲に対し英国の名において感謝せられるのでありました。それから殿下には、またもドアのところで立ち止まられ、「ここには六人しかおらぬ、もうひとりはどうせられたか」とお尋ねになってやまない。
 実はこの七人目の人は、誰も目を当てる者がない、人間の貌を失ってしまっているほどに醜く不具になって、独り、一室に、寝台の上に置かれ、そこから動かされることを自分も好まないのだと説明されました。
 「殿下、この人はお会いにならぬ方がよろしうござります」と告げられますと、「どうしても会いたい」と仰せられます。「いいえ、殿下、お会いになってもその甲斐もありませんし、また、実際、二目と見られない姿であります。」「でも、わしは会いたい。」
 掛の者の一人が、薄暗い、言語に絶した悲劇の部屋に殿下をご案内申し上げました。その話によれば、殿下にはベッド近く歩み寄られ、お顔は蒼白を呈せられたが、首を垂れてそこに立ち、この殿下を見ることも聞くこともできない負傷兵、怖ろしい人間の破壊物に、じっと目を注がれました。あたかも、残虐無道の戦争の与える懊悩、苦悶の最後のひとあがきまでも見極めようとせられるがごとくに。やがて、きわめて静かに殿下には身をかがめられ、そしてその負傷兵の顔にキスせられるのでありました。
 殿下は身を起こし、その苦難の蔭の外に出で来られるや、恭しく仰せられるのでありました、
 「この人の体は私のために砕かれたのだ」と。
 今朝、私共はパンと葡萄酒のまわりに集うております。そして私共のために砕かれたもうた神の御子のおからだを偲んでおります。神の御子は大祭司に在したもうばかりでなく、いけにえでありたまいます。彼は犠牲となりたまい、御自身を与えたまいました。主はあなたの腐敗を除かんがために、あなたのために、かしこに、罪祭となることを求めたまいました。主はあなたが全く神に献げられ、神に与えられてしまうために、あなたのために、かしこに、燔祭とならんことを求めたまいました。主はあなたが神との交わりを保ち得んために、かしこに、酬恩祭となることを求めたまいました。しかしてその唯一の道は御自身を与えることでありました。ほかに道がありませんでした。主の御体は砕かれました。そして、今朝、主の死を記念して『の來りたまふ時にまで及ぶ』のであります(コリント前書十一・二十六)。かように、それによって私共が栄光を見ることのできる第二の事実はカルバリーです。
 しかして第三の事実は約束の御言葉であります。

 『アロン民にむかひて手をあげてこれを祝し』(九章二十二節)。

彼はこれらの犠牲から来るところの祝福を彼らに宣言致しました。彼が述べた祝福は、民数記六章二十四節から二十六節にある祝福であります!

   『ねがはくはヱホバ汝を惠み汝を守りたまへ
    願くはヱホバそのかほをもて汝をてら
       汝を憐みたまへ
    願くはヱホバその面を擧て汝をかへり
       汝に平安を賜へ』

 これはアロンが民を祝した祝福であります。アロンは、その時、そこで、民に向かって、彼らに対する神の御目的と聖旨みむねと御約束とを宣べました。これらの平和のことばをもってアロンは民に、その犠牲によってすべての故障は悉く取り除かれ、今や、神と彼らとの間には何物も介在しないことを宣べたのであります。民は、今一度、神の聖顔みかおが彼らの上に輝かされ得ることを見ました。神は彼らを祝し得たもう、神は彼らを守り、聖顔を彼らの上に照らし、しかして恩恵めぐみ深く在して平安を与え得たもうことを知ったのであります。しかも、アロンがこれらの主の言葉を宣べた時、聖言みことばは神の能力ちからをもて民に臨んだことは疑いを入れません。民は神がこの成し遂げられたる贖いをもってご満足なしたもうたこと、血はその働きを成したこと、そして、今や、神はただ民を祝福したもうばかりであることを知ったのであります。神は、民のために定めたもうたこと、すべて彼が願いたもうたこと、その全能の力をもてなし得たもうすべてのことを、今や、自由に、何の碍げなくなし得たもうのでありました。贖いが成されたためにかくなし得たもうのであります。それゆえにこの背ける者たち、うなじのこわい民、けがれし者、姦淫者、忽ちにしてその心が神から離れ去った者共も、今や神の聖顔の光の中に連れきたられることができたのであります。神のほほえみは彼らの上にありました。神の恩寵は彼らの上に注がれました。犠牲は受け入れられ、彼らは神の民、神は彼らの愛する者であり、神は彼らのもの、彼らは神のものであったのであります。
 私共の心に恩恵を印刻するものは聖言であります。カルバリーが私共に何をもたらすかを知るのは、主の言によってであります。主の言によってこそ私共は、カルバリーにおいて罪から自由にされ、カルバリーにおいて、聖霊によってバプタイズせられることを知るのであります。カルバリーにおいてこそ、私共は、天の処における一切の霊の恵みをわがものとすることができます。主はきよめられる者を一つの供え物をもて限りなく全うしたもうからであります。
 そうでありますから、かの大いなる集いの終結において言われております。

 『モーセとアロン集会の幕屋にいり、いできたりて民を祝せり』(レビ記九・二十三)

 彼らは入っていって、しばしそこに留まりました。彼らは献ぐべき香を持って至聖所の奥深く入り行き、神の臨在の輝くところに至りました。そこに暫時の間留まった後、出で来って民を祝したのであります。

 『かくてヱホバの栄光総体すべての民に顕れ』

 しかも私共の大祭司は入り往かれ、神の御前に顕れていたまいます。かしこにて、あなたのため、私のために、香を献げていたまいます。主は血を示していたもう。さればこそ私共はこの地上において恩恵を蒙ることができるのであります。さればこそ私共は近づく時、恩恵を蒙ることができるのであります。すなわち、カルバリーの救いであり、主が聖父みちちの前に入り往きたもうたからであります。
 しかして主は再び出で来りたまいます。しかもそれは間もなくであるかも知れません。主は新郎の栄光と新郎の美の限りをもって来りたまいつつあります。主はご自分に属する者を求め、これを聖許みもとあつめんとて来りたもう。けさ私共は、このささやかなる集いにおいて、かの羔羊こひつじの婚姻を偲びつつ、ちぎりを結ばんとしております。神は、これを、かの時の前嘗とし、かの時与えらるべき天の恩恵の幾分をもて私共を満たしたもうことを私は信じます。主はこのささやかなるふるまいを、来るべき大宴席の絵とならしめたまいとうございます。ここで、このえんにおいて、どれほどの歓喜、どれほどの恩恵があるにしても、もっと善いものが来りつつあります。もっと栄えあるもの、もっと神的なるもの、もっと天的なるもの、もっと太陽の輝きに充つるもの、羔羊の婚姻が来りつつあるのであります。けさ私共はこのふるまいに与るために、この小さきテーブルのまわりに集うておりますが、近づき得る一切の特権は皆様のために裂かれたかの御体から参ります。今日、私共はここに坐しております。しかし、やがて、ああ、やがて、かの日が参ります。その日来らば、私共はかしこに、かの羔羊の婚姻の筵に侍るのです。そこには、私共の愛する親しき者たち、先に私共の中から先駆けした者たちも共におります。しかしてもう一度私共は栄え輝く聖会を、また栄え輝く主の晩餐を、主の聖前に坐し、その栄光に与りつつ、守ることでありましょう。



   ヱ ホ バ の 栄 光
         頒布価 ¥200
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昭和26年12月10日 初版発行

講述者  ビ・エフ・バックストン
発行所  バックストン記念霊交会
     武蔵野市境南町4丁目7−5
     振替口座 東京66649番
     郵便番号   180


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