聖 潔きよめ と 灌 膏あぶらそそぎ



 『ヱホバ、モーセにつげて言たまはく、癩病人らいびゃうにんきよめらるゝ日の定例のりかくのごとし。即ちその人を祭司の許に携へゆくべし」』(レビ記十四章一、二節)

 今朝はレビ記十四章をご一緒に深く考えとうございます。これは誠に驚くべき章で、いわゆる癩病人の潔めであります。癩病は一体全然不治の病でありますが、ただ、イスラエルの民の間においては時折、神の特別なる癒しの奇蹟によってのみ潔まるものでありました。これはちょうど主イエス御在世当時の奇蹟と同様でありました。
 さてこのレビ記十四章を見ますと、癩病患者がかの恐ろしい病から全く潔められ、しかもイスラエルの祝福の中に入れられる実に驚くべき事実が示されております。コリント前書を見ますと、旧約の様々な事実はすべて後世の私共のかがみとなるために書かれたものであると言われております。ですからこれもその一つであると思われますが、とりわけ本章の記事の如きは、只今申し上げた通り、イスラエルの国における不治の病の場合であって、これは罪人つみびとがあの最もいやしめらるべき癩病の状態から救われて神の御祝福を蒙るに至る恩恵めぐみの雛型を示したものであるという事が出来ます。レビ記を見て参りますと癩病はしばしば

罪 の 雛 型

として用いられております。しかもこの罪は何か一時的の失敗、またはその時の事情、境遇の不運などというものではなく、これを放って置くならばその威力をたくましくして蔓延する恐るべき性質であります。
 イザヤ書一章五、六節を開きますと、ここにそういう記事が出てまいりますが、すなわち罪人の生来のままの真相が如実に書き表されて居るのであります。

 『なんぢら何ぞかさねがさねもとりてなほうたれんとするか。そのかしらはやまざる所なく、その心はつかれはてたり。足のうらより頭にいたるまでまたきところなく、たゞ創痍きず打傷うちきず腫物しゅもつとのみなり。しかしてこれをあはすものなく包むものなく、またあぶらにてやはらぐる者もなし』

 これこそは実に恐ろしい罪の状態を表す記事であります。しかしながら、一面、十八節の如きには、これまた、驚くべき恩寵溢るる神の御約束を発見するのであります。すなわち癩病は既に癒され、すべての罪がことごとく洗い清められるというのであります。

 『ヱホバいひたまわく、いざわれらともにあげつらはん、なんぢらの罪はのごとくなるも雪のごとく白くなり、くれなゐのごとく赤くとも羊の毛のごとくにならん』

 更にイザヤ書をひもといて見ますと、この驚くべき全癒いやし能力ちからが一体どこから来るものであるかという事を教えております。イザヤ書五十三章におきましては私共の罪の贖いのために限りなき苦難なやみを受けさせたもうた主イエスの愛の御姿みすがたを拝するのであります。

 『かれはあなどられて人にすてられ悲哀かなしみの人にして病患なやみをしれり。またかほをおほひてさくることをせらるゝ者のごとく侮られたり。われらも彼をたふとまざりき。
 まことに彼はわれらの病患をおひ我儕われらのかなしみを担へり。しかるにわれら思へらく、彼はせめられ神にうたれ苦しめらるゝなりと。彼はわれらのとがのためにきずつけられ、われらの不義のために砕かれ、みづから懲罰こらしめをうけてわれらに平安やすきをあたふ。そのうたれしきずによりてわれらは癒されたり。われらはみな羊のごとく迷ひておのおの己が道にむかひゆけり。然るにヱホバはわれらすべてのものの不義をかれのうへにおきたまへり』(三〜六節)

 只今お読みいたしました聖言みことばの中に「彼はせめられ神にうたれ苦しめられ」という字句を見るのでありますが、これはヘブル語では殊更に癩病人に対する言葉であります。キリスト様は実にこの言葉の通りに責められ、苦しめられたもうた事が明白あきらかであります。すなわち

 『神は罪を知り給はざりし者を我らのかはりに罪となし給へり、これ我らが神に在りて神の義となるを得んためなり』(コリント後書五章二十一節)

 思うにこの節ほど深い真理はなく、またキリスト・イエスの十字架が何であるかをこれほど簡明に示しているところは他にありますまい。主イエスはただに我らの罪の重荷を彼の肩に担い悉く取り除き給うたのみならず、彼ご自身の中に私共の罪を取り入れて私どもの死のために彼ご自身罪とせられたもうたのであります。

罪 人 の 真 相

 さてレビ記十四章にかえってこの真理を共に学んで参りとうございます。その前に十三章の方を見ますと、ここに私どもは見るに忍びない癩病患者の実に惨めな、憐れむべき状態を詳らかに見るのであります。

 『癩病の患処くゎんしょある者はその衣服ころもを裂きそのかしらあらはしその口におひをあててけがたる者汚たる者とみづからとなふべし。その患処の身にある日の間はつねに汚たる者たるべし。その人は汚たる者なれば人に離れて居るべし、即ちえいの外に住居すまひをなすべきなり』(四十五、四十六節)

 実に彼はこの上もない惨めな憐れむべき状態に置かれております。ここに頭を露しているとあるごとく、その人の心は悲哀かなしみと絶望と苦悩なやみとに満ち、自ら汚れたる者、汚れたる者と叫びながら歩かなければなりません。尚すべての友から絶縁され、営の外に唯ひとり住まわなければなりません。これは申すまでもなく、凡ての罪人の包み得ない真相であります。ですから私共お互い、霊魂たましいに対する重荷を与えられている者は、この罪人のありのままなる姿を見て深く考えなくてはなりません。人は皆生まれながらにして罪人であり、斯様かような性質を持っておる者であります。
 しかし進んで十四章に移りますと、そこにはかく哀れにも人から見捨てられ世から見離されたその癩病人に対して、神様が備えたもうた大いなる祝福を見るのであります。すなわち

 『しかして尚その手に残れる油は祭司これをその潔めらるべき者のかしらにつけ、ヱホバの前にて祭司その人のために贖罪あがなひをなすべし』(十四章十八節)

 ここに私共は、まるで捨てられたような惨めな者が主イエスの聖前みまえあぶらそそがれたる者としてきよく在るさまを見るのであります。これは主の御前から投げ出されていたものさえ慈愛の主イエスより最善の恩恵めぐみを頂戴する事を示します。何故かと申しますならば神のきよき膏灌ぎを受けるのは主の祭司とイスラエルの王だけで、それ以外の者はこの恩典には浴し得なかったからであります。ですからこの一癩病人はイスラエルの民達の中でまたとなき最高の恩恵にあずからせられているのであります。ここにおいて私共が新しい霊魂たましいをお導きするに際して注意すべき肝要なる点は、自己の罪を悔ゆる霊魂を、啻に罪の赦免ゆるしにのみ導き止まっているのでなく、更に一歩進んで聖霊の盈満えいまんにまでお導きいたしたいということであります。

聖 き 灌 膏あぶらそそぎ

 『汝イスラエルの子孫ひとびとつげていふべし、これは汝らが代々よゝ我の為に用ふべき聖灌膏きよきそゝぎあぶらなり。是は人の身に灌ぐべからず、汝等またこの量をもて是に等しき物をつくるべからず。是は聖し。汝等これを聖物きよきものとなすべし』(出エジプト記三十章三十一〜三十三節)

 私共はこの灌膏そそぎあぶらが如何に聖く尊きものであるかを承知するのであります。同時に他の一切の贋物、あらゆる模倣物からこれを守ることを見るでありましょう。今私共は聖霊の時代に生存させられております。しかも神の御霊みたまは信ずるすべての者の上に臨みたもう驚くべき御約束の賜物であります。今日私共の陥り易い危険は、御霊の聖なる御方にて在したもう事をあまりにも重んぜず、尊び奉らないこの一点にあると思います。私はお集まりの皆様を神様がお用い下さいまして多くこの癩病患者を神の聖き灌膏あぶらそそぎにまで導き得させたもうように願います。どうぞそうした御奉仕において神の御前にある尊厳うやうやしきをもって一つ一つを注意深くなさいますように。私共は聖く尊くあるべき御聖霊の灌膏そそぎあぶらの真似をする事が悲しくも可能であります。私共は容易に感情を煽り立てる事も出来ます。かくしてかかる真似事をもって聖霊のバプテスマであるかの如くに思わせる事もあります。時には集会をさえ、いわば煽り立てるようにして、これを興奮した状態に導き、これが真実まことの火と聖霊のバプテスマであるかの如くに思わせる事もあります。どうか私共は心して神に対する厳粛と恐懼おそれとをもって栄光ある聖霊の灌膏そそぎあぶらのことを宣べ伝えとうございます。

潔 礼きよめごと の 三 式

 さてこのレビ記十四章の中に、癩病患者を聖き灌膏あぶらそそぎにまで導くことにおいて、すなわちその潔礼の中に、三つの事を憶えて頂きとうございます。八節と九節と十節から十八節までとであります。今、九節を見ますと、『しかして第七日なぬかめに』とありますが、これは第一の部分が済んでから七日目の事であります。そして十節のところに第八日やうかめとありますが、九節の第七日と十節の第八日にご注意下さい。換言すれば、この癩病患者は三つの恩恵めぐみをいただいているのであります。すなわちこの恩恵の盈満にまで至るためには次の恩恵の三段階のある事を認めるのであります。
 今日こんにち、私共お互いは主イエスの十字架上における完全なる贖罪あがない功績いさおの故に、誰にても直ちに彼の恩恵の盈満にまで入れられるのであります。使徒行伝十章を見ますと、あのコルネリオが神の恩恵により直ちに盈満を受けているのを見るのでありますが、もし皆様が多くの罪人、または信者をお導きしようとするならば、肝要な事は、まずその人の現在の霊状如何を見定める事であります。それによって後、如何に導くべきかその中心点が鮮やかになって来る次第であります。

一、血 の 贖 罪

 レビ記十四章一節から三節までのところをお読みいたしますと、まず祭司が営を出でて癩病人のところまで近づいて行ったのであります。人間が製造した所謂この世の宗教において、また他の如何なる宗教においてでも、罪人は神に到る道を自ら難行苦行する事によって発見しなければならないのが常であります。またかく教えられるのであります。しかし聖書の教える真理はそうではありません。神自らが降り近づいてこれを引き上げたもうという実に驚くべき恩恵であります。主イエスは実に私共の卑賤いやしきにまでお降り下さいました。目もあてられぬ恐ろしい状態にあった私共お互いに近づき来り、抱き上げ、その双肩に担い下さったのであります。しかも主は今なお曠野あらの歴廻へめぐりては罪人を探し求め、遂にはこれを見出して救い上げたもうのであります。
 かく私共はこの律法の儀式のまず最初において神が罪人に対して与えたもう優渥ゆうあくなる御恩恵の程をうかがわされるのであります。
 癩病人は二羽の雀を神の聖前みまえに捧げる事を命ぜられております。癩病人は大抵無一物でありますから、神はその貧しきさまを慮りたまい、無価値なる小雀を二羽持ち来れと要求しておられるのであります。ここにもお互いは神の罪人に対する愛と憐憫あわれみの如何ばかりなるかを知るでありましょう。
 ではこの二羽の雀は一体何に供せられるのか、一羽は死のため、そして他の一羽は自由に解き放たれんがためのものでありました。すなわち罪人とキリストとを表しているのであります。それも罪人たる我が死んで、キリスト様のみが自由の天地に解き放たれるのは当然のことでありますが、幸いなるかな、福音のよき音信おとずれ、これはまたそれと反対に主イエス様が私共のためにお死に下さり、その故に罪人なる我が自由なる者と解き放たれるに至ることを宣言しているのであります。それがために一羽の雀が殺され、もう一羽は殺されたるものの血と水の中に浸されるのであります。

 『祭司また命じてその鳥一羽をやきものの器の内にて活水いけるみづの上に殺さしめ、而してそのいける鳥を取り香柏とくれなゐいと牛膝草ヒソプをもとりこれかの活水の上に殺したる鳥の血の中にその生る鳥とともにひたし』(十四章五、六節)

 この故に私共は罪人に語り告げます、キリスト様が彼の罪のために身代わりとなって死んで下さったと。聖言みことばはこの罪人は殺されたる鳥の血の中にうるおさるべきだと命じております。その如くに主イエスの血により罪人が全く癒されるのであります。
 更に七節をお読みいたしますと、

 『癩病より潔められんとする者にこれを七回なゝたびそゝぎてこれをきよき者となしそのいける鳥をば野に放つべし』

とあります。この生ける鳥は殺されたる鳥の血と水とによって自由に飛びかける事が許されます。これは申すまでもなく、主イエスの贖罪あがないの血を受け罪より全く自由に解き放たれる罪人の状態を最もよく表すものであります。続いて八節を見て参りますと、この癩病人は外部的にも潔きものとせられ、イスラエルの幕屋の中に住み得るまでにされておるのであります。これこそは、かの憐れむべき癩病人にとりて、最も素晴らしい恩恵めぐみであります。かつては営の外に棄てられて顧みられなかった者が、今は全く潔められイスラエルの天幕の中に入れられるというのであります。この時はまだ自らの天幕の中には入ることを許されない、すなわち全き自由の霊交まじわりは許されませんが、イスラエルの天幕の中に入れられた事は事実であります。

二、 水 の 洗 潔あらい

 第二の恩恵は九節であります。

 『しかして第七日なぬかめにその身の毛髪をことごとくそるべし。即ちそのかみと髭と眉とをことごとく剃りまたその衣服ころもあらかつその身を水にそゝぎて潔くなるべし』

 『第七日に』であります。これは特別に聖潔きよめについて肝要なる律法おきてであると思います。ただに濯う儀式であるのみならず、また剃刀かみそりをもって剃る儀式であります。一体これはどういうことを描き出しているかと申しますと、その人の全生涯を神の鋭利なる剃刀にまかまつって、すべての罪、汚穢けがれの分子を悉く剃り落とし、全くきよめ別って頂く事を教えるのであります。しかもこれは罪赦されたる罪人たちのみが全き聖き心を受けんがために神の聖前みまえに連れ来られ、その御許に跪き奉る状態であります。
 支那内地伝道を起したハドソン・テイラー氏の生涯には私共の霊的生涯に大いなる助けとなるものがあります。氏は十六歳の少年の時に救拯すくいを受け、主イエスが彼の罪を負うて彼の救い主となって下さった事実を承知させられたのであります。その時以来、彼は主イエスに全愛を捧げまつり、自らの全愛全生涯は他の何物にも捧ぐべきではないと固く心に決めたのであります。しかしながら彼はなお自分の中に腐敗のある事を知り、聖言みことばを学びましたが、間もなく神は全き純潔を与えたもう御方であるその秘密を発見したのであります。彼は祈り求めました、遂に彼は全き純潔の恩恵めぐみを経験せしめられました。その時彼は自らの霊的確信の喜悦よろこびを姉の許に手紙で知らせました。手紙の冒頭にはハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤと書き出されております。そして彼は引き続き主が如何に祈禱いのりに応えて全き純潔を与えたまいましたかを詳記しているのであります。私共お互いも既に罪赦されたる人々を導く御奉仕においてこの全き純潔の聖業みわざにまでお導きする者でありとうございます。さればこのしき御恩寵に浴するためには、時には鋭いナイフや剃刀にも自分の生涯を全く委ねまつり、託し切ってしまわなければならない事を教えなければなりません。
 嘗て支那内地で非常な栄光が拝せられた時、一人の兄弟はこの純潔の恩寵に与ったのでありますが、早速家に帰って妻に語るよう、「私はいよいよ心を定めた、今後如何様な事があっても、主イエス様にお従い申すつもりだ」。ところが奥さんは答えて言う、「それは誠に結構な事ですが、貴方のおっしゃるようにしようと思えば、私共はたちまち商売替えをしなくてはいけなくなるでしょう。」「そうだ、私の言う意味はそれだ。」その時以来、彼は商売替えをして全生活を捧げ、全き信仰の生涯を送りましたが、彼の店先には一つの看板が上げられました、「我は主イエスの小さき一人の僕である」と。すなわち彼は鋭い剃刀にその生涯を委ねて、その全部を神様に明け渡してしまったのであります。

 『されば地にある肢体、すなわち淫行・汚穢けがれ・情慾・悪慾、また慳貪むさぼりを殺せ、慳貪は偶像崇拝なり』(コロサイ書三章五節)

 ここに「殺せ」とありますが、これはギリシャ語を見ますと「鋭利なる刀剣を抜きはなって殺せ」という意味を含んでいるのであります。

三、 聖 霊 の 灌 膏

 さてレビ記にかえりまして、十節に、私共は第三の恩恵めぐみを見るのであります。

 『第八日やうかめにいたりてその人二匹ふたつの全き羔羊こひつじの牡と当歳なる一匹ひとつの全き羔羊の牝を取りまた麦粉十分の三に油をまじへたる素祭と油一ログを取べし』

 第一の儀式で私共に当て嵌められたるものは血であり、第二には水でありましたが、次に来るべき第三の恵は油であります。言い換えますと第一、罪人は主イエスの血を要します、第二に神の聖言みことばなる水を要します、そして最後に来るべき第三の点は、聖霊の油を要することであります。十一節と十二節をお読みいたしましょう。

 『潔礼きよめごとをなす所の祭司その潔めらるべき人と是等これらの物とを集会の幕屋のかどにてヱホバの前に置き、しかして祭司かの羔羊の牡一匹を取り一ログの油とともに之を愆祭けんさいに献げ、また之をヱホバの前にふり揺祭えうさいとなすべし』

 潔められた罪人は集会の幕屋の門にて神の聖前に携え来られるのでありますが、私共は如何なる霊魂たましいでも真に聖霊の油そそぎを願う者を神に近づけ、お連れ申さなければなりません。油は申すまでもなく御聖霊の型であります。

 『汝らは聖なる者より油を注がれたれば、すべての事を知る。……汝らのうちには、主より注がれたる油とどまる故に、人の汝らに物を教ふる要なし。の油は汝らに凡ての事を教え、かつ真にして虚偽いつはりなし、汝等はその教へしごとく主に居るなり』(ヨハネ壱書二章二十節、二十七節)

 すなわち聖霊のバプテスマの事をここには油そそぎと記されているのであります。
 かくしてこの儀式において潔められた癩病人が近づけられ、その衷にこの恩恵めぐみに与るためには羔羊こひつじが捧げられるのであります。しかもこの時に及んで癩病人は、自らの汚穢けがれのために羔羊の生贄いけにえが壇に載せられているのを見せつけられるのであります。もしも私共が聖霊を受ける事を切に求めているならば、そしてまたその恩恵にまで到達するためには、十字架の贖罪あがないいさおがあります。神様がいつも私共に見せつけたもうのは十字架であります。常に新鮮に、しかもより強く見せつけたもうのはこの十字架の御功みいさおなのであります。さればお互いが切実に聖霊によれる火のバプテスマを求めるならば、先ずこの全き贖罪の十字架を十分に見せつけられる事が肝要であります。すなわちカルバリーとペンテコステとの密接なる関係をもっと深く承知して頂きたいのであります。
 三十数年前のことであります。ウェールズにあの有名なリバイバルが起りました。その結果は今日もなお随所に見るのでありますが、エバン・ロバーツという人は聖霊の盈満を切に求めて日夜祈っておりました。彼は或る時町の修養会に出席いたしました。その時の説教はロマ書五章七節からでありました。すなわち説教者は世の如何なる泉もなし得ぬ贖罪、唯カルバリーの血のみがなしあたう主イエスの十字架の血潮の効力を強調したのであります。これこそはエバン・ロバーツにとって最も大切な最も適切なるメッセージでありました。彼はこの時、一個の罪人として十字架の麓に近づけられ、主イエスが彼の罪のために身代わりとなり全き贖罪の道を開きたもうた事を示され、その晩その座において泣きくずおれて祈り、聖霊のバプテスマを受けたと証しております。

恩 賜 の 聖 霊

 再びこのレビ記にかえりまして更に進んで十四節を見ますと、この癩病人の身体の三カ所に油が注がれているのを見るでしょう。

 『しかして祭司その愆祭けんさいものの血を取りその潔めらるべき者の右の耳の端と右の手の大指おやゆびと右の足の拇指おやゆびに祭司これをつくべし』

 油を手にして立っている祭司とはすなわち天に在したもう我らの大祭司なる主イエスであります。彼は父なる神より約束の聖霊を受け、いまこれを私共各自に注がんとしていたもうのであります。潔められたる癩病人が主の聖前みまえに立つ、すなわち主が手に油を持ち、聖霊のそそぎ油を与えんとしていたもう姿であります。これぞ約束の聖霊を求めるお互いが如何なる方法をもって上より聖霊の賜物を頂戴しまつる事が出来るかを如実に示すものであります。されば、既に約束の聖霊の賜物を受け取っていたもう我らの大祭司イエスの聖前に近づきまつることこそ、この上もなく大切な事であります。かく私共が主の御臨在の聖前に近づきたてまつるは祈禱いのりに対する信仰の故によってであります。
 どうか愛する皆様方よ、聖霊の盈満を求める兄弟姉妹を、主の御臨在の前に導きなさいますように。彼こそは実に聖霊のバプテスマを施したもう御一方にて在したもう。このそそぎ油は彼の御手みてからのみであります。
 なお、更に、潔められたる癩病人は油そそがれたる者として神の大祭司としての特権にまで与らせられるのであります。

 『われらをの父なる神のために国民となし祭司となし給へる者に、世々限りなく栄光と権力ちからとあらんことを、アァメン』(黙示録一章六節)

 きよき油そそぎを受けました者は王とせられるというのであります。潔められたる癩病人が王者の如き権を与えられ、大祭司の如くに神の大前おおまえに何憚る所なく自由に近づき奉ることを得させられるというのであります。故に彼は王の如くに人に語り、大祭司の如くに神に向かいて力ある者であります。されば愛する兄弟姉妹よ、私共お互いも霊魂たましいを導き得んがためにかくの如き聖き灌膏あぶらそそぎを受け、王たる者、祭司たる者として神の大前に力ある者とせられん事を祈ります。
 聖なる哉、聖なる哉、聖なる哉、万軍のエホバよ、今朝けさ聖言みことばに従って、あなたの御臨在を経験することを得させたまいました事を感謝いたします。私共は皆各自汚い癩病人でありました。心の中に尚こんな罪汚穢けがれをもっております事を懺悔いたします。しかし御血潮によって全く潔め、私共をイスラエルの真中に導きたまいました事を感謝いたします。
 おお神よ、今迄私共を恵み、私共を祝福し、私共を聖前みまえに近づかしめたまいました事を感謝いたします。どうか今あなたに近づいております私共に油のそそぎを与えたまえ。あなたはすべての権威とすべての恩恵めぐみとをもっていたもう救い主でありますから、どうぞ今朝聖霊の油を各自の頭に注ぎたまわんことをこいねがい奉る。
 おお主よ、救われた賤しい癩病人にそんな善きめぐみを与えたもうことを感謝いたします。どうぞ今朝、信じて今あなたにお近づき申しますから、新たに私にまた兄弟姉妹めいめいに聖きあぶらをそそぎたまわん事を主イエスの聖名みなによって冀い奉る。
                                アーメン



| 目次 | A || 1 | 2 | 3 | 4 | B | 1 | 2 | 3 | 4 |
C | 1 | 2 | 3 | 4 | D | 1 | 2 | 3 | E || 1 | 2 | 3 | 4 | 5 |