四、 砂 は  る



 ノースは單に說敎をもってのみ滿足せず、更に進んで重荷おもにあるものと語り、又必要を覺えては翌朝の會見を定むるを常とした。くして彼は多くの人と會談し、常に會話の中心を個人のすくひの問題に置いてあるひは勸めあるひさとした。同時に彼は回心者、求道者等と廣く通信を保った。その手紙を受くるところ、(ムーデー・スチュアート氏の證言の如く)じつに、『貴族や貴夫人、印度インドの王族や獨逸ドイツの貴夫人、職業人夫にんぷや多忙なる商人、兵士や水夫又は淋しいオーストラリアの叢林そうりん中の借地人、乃至ないしは靑年男女、女敎師、從僕、郵便夫、農僕等にまで及び、しかも彼らは一齊いっせいたゞ一つの大問題に關して書き送るのであった』。

 かれの簡にして要を穿うがつ書信の賜物たまもの及び靈的助言を求めてまぬ無限の要求、これは彼をしてトラクトを書かしめた二大事實である。これらは何千何萬と配布せられたが、この簡潔なる著作は如何いかにもいたづらに言辭をらうせず、單刀直入頭星ずぼしを指す眞面目そのものゝ人物にふさはしき產物であった。かれの手紙もトラクトもおほいに尊重せられたが、その勸むるところ健全、その用語は明快。細心の注意と熟練したるたくみとをもって印刷せられたるかれの說敎は今尚いまなほ多大の興味をそゝっている。書中みなぎるは深き罪のおそれと、罪人つみびとの唯一の避所さけどころを一刻の猶豫もなく求むべきを勸むるかれの鋭敏なる感覺とである。

 年と共にかれの名は蘇國スコットランド同樣英國イングランドの大都市にも知れ渡った。如何いかにもせよ所謂いはゆる『說敎家』ならざる彼は丸々一時間はいうに話す。時としてはじつに二時間にもわたったのであるがこれは彼にはめづらしい事ではなかった。聽衆も彼を勵ましてやれやれといふ。彼もまれならずこれに從って特に罪を刺されし人々のために第二の說敎をすれば人々はよろこんでとゞまる、ノースなればこその經驗であった。ロンドン着早々の野外集會に、彼が全くそゝぎ出し切り疲れ切ってめるまで耳傾けゐた聽衆の中から、『もっともっとやり給へきみ』と彌次やじ口調で叫び出した者があった。『やり給へ、きみことばは金文字で印刷しておくべきはづだ』と。

 彼は群衆の黃金の口クリソストム、嚴肅に人の心を捕へ切る天性の能辯家である。バーミンガムにおいて約一時間以上も大群衆に語って終るや一紙片が手渡された。もう一度說敎せよといふのである。承諾の意を示すや拍手喝采、荒くれ男らが三千人も寄りあつまって來た。プリマスにおいては群衆を制するために會場なる大會堂の扉をとざさなければならなかった。かれ能力ちからの秘密をたしかむるもまたかたくはない。彼は每日を三時間の聖書硏究及び默想をもって始め、かくしてかれの眞理の書物の聖なるページより汲み出す神の智慧と知識は、いよいよ豐かにかれの中に藏せられたのである。

 かれの長らくの神のための勞は何ら財政的には報酬せられなかったが、かれの多くの友人等はつひに彼に永久的の住家すみか呈供ていけうせんとして醵金きょきんした。彼はこれをもってエルビンの郊外、ビショップシルに一戶をあがなった。しかしこれにも彼はたゞおのが事のみを思ひをる事が出來なかった。そこには考へなければならない貧しい隣人りんじんたちがあった。彼は要する金員きんゐんを友人等に募って彼らのために會館を建設した。

 回心の當時、彼は診察を受けた醫師からもう二十年は生きられると告げられた。この豫言はかれの記憶を去らなかった。漸時ぜんじ虛弱を覺ゆるにつけて、砂はすみやかに漏りつゝあると感ぜられたが別にひるみも見せなかった。最後の二ヶ年はグラスゴーのために献げられたが、かしこにおいて彼は傳道の世界に新しく輝きめたムーデーやサンキーらと欣然きんぜん協力したものである。ノースのことばなほも新鮮味をもってきらめいた。今一度リバイバルきたれりとのおもひかれの魂を歡ばしめたが又彼は親友キントーア卿に書き送って、『私のをはりは遠くない』と語ってをる。はたしてしかり。一八七五年の秋、日曜日のゆふべ、アレキサンドリアの公會堂に『われ萬物をあらたにせん』とむらがる聽衆に語ったが、十六年前のかれの訪問を思出おもひだしてはよろこびに堪えなかった者もすくなくはなかった。水曜日と金曜日は自由敎會において說敎し、土曜日には、滯在してゐたチュリチェワンにおいて、やまひかゝった。近くのへやに眠った友人はかれの倒るゝを聞いて助けに走った。醫藥ものぞみすくなしと告げられてノース夫人は迎へられた。『私はかつては非常に死を恐れたものである』、死に臨める彼はいふた、『しかし今は恐怖もない。私はキリストに安息してをる』と。數日ならずして、一八七五年十一月九日彼はそのやすみに入った。『平安をもってゐるか』、一友人は終焉にさきだ少時しばし彼に訊ねた。しかして答は『完全パーフェクトなる平和ピース』であった。埋葬はエヂンバラ、ディーン・セメタリーにおいて營まれたが、哀愁の友人等は灰色の花嵐岩みかげいしもて方尖塔ほうせんとうを建てゝその所にしるしたて、かれの名の下に簡單に刻んでいふ、『よはひ四十四にして不敬虔の生涯より轉じてしゅに仕ふ。爾來じらい異數いすう能力ちからもて福音を宣傳のべつたへ救靈のためたふとく用ゐらる』と。

 回心よりの二十一年、傳道開始よりの二十年は過ぎた。よしかれの生涯の序幕は恐ろしく又長き惡のそれにもせよ、彼は大英國の知れる最も力强き効力ある說敎家の一人でなければならない。かれの奉仕はこゝまであぢはって來たやうに四重であった。かれの說敎した大集會において人々はかれの雷のひゞく如き說敎のもとにわなゝきふるひ、自らをひくくし心を明渡あけわたあはれみたすけとをキリストに求めてのたうちまはった。神を求むる人々との無數の個人的會見において、おのが暗黑の過去のうらみと鋭き論鋒ろんぽう又やさしさはおほい御靈みたまの用ひる所であった。彼はその通信において、目掛くる人のすくひのために燃ゆる如き熱心を披瀝ひれきなし、常にさとく又愛深あいぶかく問題を取扱とりあつかってゐるが、かれのこの福音的書翰は屢々しばしば愛藏せられしのみならず又廣く流布せらるゝところであった。最後にかれのトラクトと書物とにおいて、彼は即坐そくざに注意を喚起し印象深く一大結論にまで導く細心の注意とふさはしきとを努めたが、世界のあらゆる方面は眞理と平安とのこのつばさある使者の如何いかに効力ありしかをあかししている。

 さりながかれの仕事の脊後はいごかれの人格があった、──思想家又說敎家としての偉大な力量の全く御靈みたまの支配と指導のもと明渡あけわたされたる神の力あるうつは。彼は長く酒杯さかづきとゞまり、かくも多くのたふとき歲月を愚かなる遊興の世界の頭領として空費せるにも似ず、その風貌は印象深きものがあった。頭部は獅子の如く又ルーテルの面影を見せて塊大くゎいだいに、眼は壯麗なる思想と命題におもひの輝かさるゝにつれて光明と精力とに燃え、全人格はおのがもたらす福音の使命のことばの中に投げこまれて辯明も口實もその必要を認めざる程に、神の全き謀議はかりごとを宣揚せん事をこれ努めた。かれ樣姿やうしは魅惑的であった。とはいふもの偶然なる奇矯變態きけうへんたいの致すところではない。聖なる眞理を美しくつらね、時をあがなっていたづらなる時をつひやさゞらんとし、生涯の全主眼はいつこひつじの勝利にと願はれたる者の堂々たる單純さよりかゝげられたるそれである。

 大群衆はかれことばかゝって飽くなきのさまであったが、しかし誇り高慢たかぶる微塵の氣振けぶりもない。はたらきかれのものでなくして神のものなのである。かれのむなしき數十年間の影響は容易たやすくは根絕せらるべくもなかった。しかかれの生涯の白大理石上の汚點の如き種々なる仕振しぶり特質に關して友人等の親切なる指示さしずに會しては賢明なる忠言を謝し、又神のたすけをひたすらに求め、如何いかにもして召されて託せられたるこの福音の戰士としてあらゆる意味においてふさはしくすごすべく彼はこひねがふてやまなかった。ふるき世的の蠻勇は死失しにうせた。他日ブラックダグラスの騎手ともなりかねまじく、乃至ないしは放蕩の凝血ぎょうけつもとにマルストンムーアに向って進軍すべき騎兵ともなりかねまじかりし火の如き熱靈ねつれいも、今は幼兒えうじの如き信仰に所を讓った。その臨終のとこおいて彼は困難な息使いきづかひの中から友人にさゝやいた、『イエスは私にきたり給ふた。そして「われ絕えてなんぢを去らず、更になんぢを棄てじ」とのたまふた。しかり彼は决してかなし給はなかった』と。彼は說敎のくゝりにおい屢々しばしばきたらんとする時を繪がき出した、『天にいての最初の五分間』は如何いかにあらんか、信仰は變って見ゆるところとなり、キリスト御自身も如何いかに『なんぢもし信ぜば神のさかえを見るべしとわれなんぢひおきしにあらずや』(約十一・四十)と思ひ出さしむるならんかと。今や蟲喰むしばまれ錆腐さびくさりて枯れ果てし不作の前生涯は挽回せられた。これらを償ひえて餘りある努力の滿二十年の終焉において、彼は全き確信もて死のきたらざる世界に靜かにあゆみを運んだのであった。基督キリスト者のさかえある確固たる期待はかくも見事に現實化された。地において信仰によりて知りし所は今や天に於て見るところの知識となったのである──すなはち「神は在し給ふ」と。(完)



昭和十一年四月二十七日印刷      定 價 金 拾 錢
昭和十一年五月 一 日發行        送 料 貳 錢


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  譯 者     小   島   伊   助
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  發行人     澤   村   五   郎
        兵庫縣明石郡垂水町盬屋八十七
  印刷者     落   田   健   二
        兵庫縣明石郡垂水町盬屋八十七
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