ビ・エフ・バックストン 講演
小  島   伊  助 編纂


沙 漠 の 大 河



聖 霊 の 傾 注



 『ヱホバ言給いひたまはく、なんぢら往昔むかしのことを思ひいづるなかれ、また上古いにしへのことをかんがふるなかれ。よ、われ新しきわざをなさん、やがておこるべし。なんぢら知らざるべけんや、われ荒野あれのに道をまうけ、沙漠に河をつくらん。野の獣われを崇むべし、野犬のいぬおよび駝鳥もまた然り。われ水を荒野にいだし、河を沙漠にまうけてわが民、わがえらびたる者にのましむべければなり。
 然るにヤコブよ、汝われを呼たのまざりき。イスラエルよ、汝われをいとひたり。なんぢ燔祭のひつじを我にもちきたらず、犠牲いけにへをもて我をあがめざりき。われ汝にそなへものの荷をおはせざりき。また乳香をもて汝をわづらはせざりき。なんぢは銀貨かねをもて我がために菖蒲あやめをかはず、犠牲のあぶらをもて我をあかしめず、かへりてなんぢの罪の荷をわれにおはせ、なんぢの邪曲よこしまにて我をわづらはせたり。
 われこそ我みづからの故によりてなんぢのとがをけし、汝のつみを心にとめざるなれ。なんぢそのなるをあらはさんがために己が事をのべて我に記念せしめよ。われら相共にあげつらふべし。なんぢの遠祖とほつおやつみををかし、汝のをしへの師われにそむけり。この故にわれ聖所のおさたちをけがさしめ、ヤコブをのろはしめ、イスラエルをのゝしらしめん。
 されどわがしもべヤコブよ、わがえらみたるイスラエルよ、今きけ。なんぢを創造し、なんぢを胎内はらのうちにつくり、又なんぢを助くるヱホバ如此かくいひたまふ。わがしもべヤコブよ、わが撰みたるヱシュルンよ、おそるゝなかれ。われ渇けるものに水をそゝぎ、たる地にながれをそゝぎ、わがみたまをなんぢの子輩こらにそゝぎ、わが恩恵めぐみをなんぢのすゑにあたふべければなり。かくてかれらは草のなかにて川のほとりの柳のごとくはえそだつべし。ある人はいふ、我はヱホバのものなりと。ある人はヤコブの名をとなへん。ある人はヱホバのものなりと手にしるしてイスラエルの名をなのらん。』(イザヤ書四十三章十八節〜四十四章五節)

 今晩ここにもう一度、待ち望み楽しみにしていたこの聖会に臨むことが出来まして、心から喜んでいる次第であります。如何にしてもと熱心に主を求めておられる方々とともに集まることは私の大いなる喜びであります。今晩も既にこの座に満つる空気によって私共一同の心が一つにされていることを承知して嬉しく思います。主にある皆様とお目にかかり、互いに交わり、また主が如何にお互いを恵みたもうかを語ることは私共の大いなる喜びでありますが、また、それは主ご自身の喜びたもうところでありますから非常に嬉しく楽しく思うのであります。しかし今晩お互いがここに集まりましたのは、そういう喜びもさることながら、ここにはもっと遙かに大いなる目的があるのであります。お互いはこの集会に列したからには、ここで私共を恵みたもう主ご自身にお目にかかり、主ご自身よりの聖声みこえに接しなければなりません。私共はそのためにここに集まったのであります。換言すれば、誰彼によりてとか、また誰彼よりとか言うのではなくして、主ご自身の御手より恵みを受けなければなりません。しかして私はそのために皆様の大いなる祈りが献げられていることを信ずるのであります。主は皆様の祈りに答えて必ず皆様を恵みたまいます。ただ今も歌いましたように、恵みの大夕立を降らせたもうことを信じます。
 さて、今晩神様の与えたもうた聖言みことばはイザヤ書四十四章三節であります。どうぞ神の御約束を信じなさい。

 『われ渇けるものに水をそそぎ、たる地に流をそそぎ、わがみたまをなんぢの子輩こらにそそぎ、わが恩恵めぐみをなんぢのすゑにあたふべければなり』。

 神様は私共に対する大いなる愛のお心から、私共のために大いなる恩恵を備えたまいます。すなわち『わが霊をなんぢの子輩にそそぎ』と。まず、神様の私共に与えたもう

最 高 の 恩 恵

は聖霊であります。聖霊こそは私共のすべての欲求を満たし得る御方、私共の心を満ち足らしめたもう御方であります。
 聖霊は私共のすべてのけがれとすべての罪とを洗いきよめたまいます。聖霊は私共に天来の愛と喜びと平和とを満たしたまいます。また聖霊は私共に主イエスのためにあかしする能力ちからを与えたまいます。聖霊は私共個人個人に関心を持ちたまい、私共のすべての願いを知り、私共を導いて最も高い恩恵にまで至らしめたもうのであります。ですから皆様にどんな願いがありましても神様はそれを与えたもうことが出来ます。すなわち聖霊を与えたもうことによって、しかなしたまいます。神様は最も大いなる賜物として私共に聖霊を与えたもうのであります。神様はさらによく主イエスを識り、主のために輝いた証の生涯を送らしめんために、私共に聖霊を与えたまいます。かく神様は私共一人一人のために聖霊の恩恵を備えたもうのであります。
 さて、先程の第三節を見ますと、

 『われ渇けるものに水をそそぎ』

とありました。私共は時に沙漠を横切る旅人のさまを考えることができます。長い沙漠の旅行で既に飲むべき水も尽き果て、如何に求めてもそこには一滴の水もなく、いよいよ渇くままに、倦み疲れた旅路を続けなければならないことがありましょう。そのような時には、もし水を得ることができるためには、その手に持つすべてのものを犠牲にしても厭わぬ心になると思います。主は

渇 け る 者 に

水をそそぐと仰せたまいます。切実に渇くごとくに神を求める者に、言い換えますならば何を捨てても、どうしてでも与えられたいと求める者に聖霊を与えると仰せたもうのであります。皆様お一人お一人のうちにも、聖霊を頂くためには一切をさらけ出し、また献げてもとの切なる渇きのあることと思います。『われ渇けるものに水をそそがん』。
 聖霊は新約には約束の聖霊、

父 の 誓 い し も の

とありまして、実に幸いな恩恵めぐみであります。これはあなたや私のために備えられた恩恵でありまして、お互いをして新約の生活をなさしめるために与えたもうたものであります。ヘブル書八章六節には

 『されどキリストは更にまされる約束に基づきて立てられし勝れる契約の仲保なかだちとなりたれば、更に勝れるつとめを受け給へり』

とあります。すなわち神様はその選びたまいし民イスラエルと旧約において一つの契約を交わしたまいましたが、しかし新約の私共に対してはその御子イエス・キリストを与えて、イスラエルに与えたまいし契約よりは更にまされる契約を与えると仰せられていたもうのであります。しかして我らの主イエスは天に昇り、その契約の『仲保』となって下さったのであります。かく主が契約の仲保となりたもうたのは、続いて十節と十一節に書かれてある契約を証明したまわんがためであります。

 『「れば、かの日の後に我がイスラエルの家と立つる契約はこれなり」と主いひ給ふ。「われ我が律法おきてを彼らのおもひに置き、その心にこれを記さん、また我かれらの神となり、彼らはわが民とならん、云々」』。

 第一は十節の中頃に『われ我が律法を彼らの念に置き』とありますように、聖霊により私共の心の中に大いなる光を与え、霊的悟りを与えたもうということで、これこそ聖霊を通して私共に与えられる恵みであります。次には『その心にこれを記さん』とありまして、これは私共の罪にけがれた心をきよめ、神の聖心みこころ、神ののりを心から楽しむ者として下さるとの御約束であります。第三には『また我かれらの神となり、彼らはわが民とならん』とあります通り、これはすべてのすべてでありたもう神御自身が、私共のために私共の神となり、主となり、一切の供給者となりたもうとの聖言みことばであります。ですから私共は聖霊により天来の真の光を心に与えられ、真に潔き者とせられて神様の御心を楽しみ、またすべての求めを満たされ、神様との親しき交わりを頂くことができるのであります。しかしてイザヤ書四十四章三節の『われ渇けるものに水をそそぎ、たる地に流れをそそがん』とは、今申し上げたような恵みをことごとく注ぐとの御約束であるのであります。
 聖霊のことを聖書の中には様々な象徴シンボルをもって言い表してあります。例えば火、油、水、風などで、そのうち

水 と し て の 表 現

は聖書のいかに麗しい象徴でありましょう。物は水によりて清く洗われることができます。水によりて生けるものの身体からだは満足せしめられます。水が蒸気となりますれば力となり、どんな機械でも動かすことができます。私共はこの三つの方面から聖霊について考えることができます。聖霊は私共に純潔と、全き満足と、能力ちからとを与えるものであります。ですから神様が、『われ渇けるものに水を注がん』と仰せたもうことは、求める一人一人にこの三つのものを与えたもうということであります。
 主イエスが御在世の時、格別に大切な真理を語りたもう時にはしばしば『誠に誠に汝等なんぢらに告げん』と仰せたまいました。この四十四章三節も実に大切な約束でありますから、前の一節、二節を見ますれば『されど……今きけ』と

厳 粛 に

語り出でられているのであります。またこれはその前の四十三章に、イスラエルが如何に罪に落ち込んだかを語りたもうて、続いて『されど……今きけ』と仰せたもうのであります。四十三章二十二節を見ますれば、『しかるにヤコブよ、汝われを呼たのまざりき、イスラエルよ、汝われをいとひたり……』、民の中に祈りの怠慢があったというのであります。神様はこのことを感じ、またこれに御心を留めたもうて、神の民がその神を呼び頼まなかった、すなわちその神に祈らなかったことに罪を認めたもうのであります。お互いも自らを探らなければなりません。神様は私共にも、汝らは我に祈らざりき、と仰せたまわなければならないのではないでしょうか。果たして皆様の神様の聖前みまえにおける祈りの生活はいかがでありましょうか。世にはクリスチャンといってもこの神様との祈りの交わりを知らず、この祈りの恵みを持たぬ者もあります。これ罪なりと神様は仰せたまいます。二十二節の終わりには『われを厭ひたり』とあり、これはクリスチャンの心が冷たくなり、祈りに倦み疲れ、神様の方に向くことに飽きたるさまであります。聖言みことばも読まず、祈りをしようともせぬ冷たい心の状態であります。更に次の二十三節、二十四節は、民の中に神様に対する愛の表れが認められないとの神様のおかこちであります。神様はその民が神様を愛する愛の故にする、いと小さきわざすらも、それを喜び尊びたもうのであります。神様に仕え奉るために払う犠牲、主イエスをあかしする言葉、また亡び行く霊魂たましいを主イエスに導くこと等々、これらの何か一つのいと小さき行為さえも、神に対する愛のゆえになされることを神様は非常に喜びたもうのであります。二十四節の終わりには『なんぢの邪曲よこしまにて我をわづらはせたり』とありますが、今晩私共の誰かに対してこれが事実でありは致しませんか。誰か己の邪曲によりて神様をわずらわせ申している者はありませんでしょうか。皆様の心の中に怒りの思いが満ち、しばしば言葉にそれが出ては来ませんでしたか。罪深い思想が思いを乱しはしませんでしたでしょうか。或いは神様に対して当然なすべきことを示されつつ、それを怠ってはいませんでしたでしょうか。神様は神の民の或る者が邪曲をもって神様をわずらわせたと仰せたまいます。
 神様はその民の中にかかる罪を認めたまいました。しかし神様はこれを罰しようとはしたまわず、さらに進んでこれを恵まんとしたもうのであります。神様は私共に、だからお前は自らの罪の当然の報いを自ら負えよと仰せたもうかと思えば、そうではなく、二十五節には『われこそ我みづからの故によりてなんぢのとがをけし、汝のつみを心にとめざるなれ』と仰せになっておられるのであります。すなわち神様御自身、自らの故によりて立てられた御約束により、クリスチャンとなってからの罪もことごとく消し去りたもうとの御言葉であります。或る人はもっともっと恵みに進んでいたはずであるかも知れませんが、それらの罪のために妨げられて参りました。しかし神様は、主イエス・キリストの血はすべての罪より我らを潔むと仰せたまいます。私共の過去の生涯の固き自己中心、たかぶり等の罪をも心に少しの記憶も留めないほどに、無かったと同じように神様は消し去りたもうのであります。かくのごとく、私共の罪のすべてをことごとく洗い潔めるために神様はさらに進んで聖霊の盈満みたしを提供したもうのであります。すなわち神様がかく私共の心をすべての罪と汚れより全く潔めたもうのは、私共をして麗しくも尊い聖霊御自身の殿みやたらしめんがためなのであります。これは如何に光栄あることでありましょう。
 四十三章十九節をご覧下さい、

 『視よ、われ新しきわざをなさん、やがておこるべし』。

新 し き 事

をなさんとあります。皆様が指をこの十九節につけてこの約束を成就したまえと切に神様に祈られんことをお勧めするものであります。
 更に十八節を見ますれば神様は

 『なんぢら往昔むかしのことを思ひいづるなかれ、また上古いにしえのことをかんがふるなかれ』

とありまして、私共にもはや振り返ってそこに留まるのではない、古い経験に齧り付いていたり、罪の記憶にさまたげられたりするな、昔のことを思い出すな、『視よ、われ新しき事をなさん』、汝の救いを全うせん、全然新しき事をお前の心の中にしてやると仰せたもうのであります。しかしてこの新しき事とは、聖霊がなしあたわざることなきすべての力をもって私共のうちに与えられたもうことを言うのであります。しかして四十四章一節に『されどわがしもべヤコブよ、わがえらみたるイスラエルよ、今きけ』、すなわち、されど神の言うところを今聞け、とおっしゃっています。しかしてこの大いなる約束を与えたもうに、まず御自身の神としてのあらゆる権威とご資格とをもってしておられます。我は汝を創造し、汝を胎内に造り、また汝を助けるヱホバであると。神様があなたの造り主ですから、またあなたを恵みたもうことがお出来になるのであります。
 ここに非常に善い時計が一つありまして、たまたまそれが狂ったとするならば、私共はそれを時計屋のところへ持って行くでしょう。それは時計を造る者なれば、また直し、なめらかに動かし得るからであります。主は、我は創造主なり、さればまた汝を恵むことができるのであると仰せたもうのであります。
 神様の与えたもう恵みの約束は、第一に四十三章二十五節のごとく、私共の咎を洗い消したもうことで、次は四十四章三節のごとく、水を注ぎたもうことであります。すなわちまず潔き心、次に聖霊を満たしたもうことであります。どうぞこの幸いなる順序を覚えて頂きとうございます。まず潔き心を与え、しかして次に潔き御霊がこれを住まいとして臨みたもうのであります。聖霊はけがれたる器には臨みたまいません。
 三節をもう一度よく見させて頂きましょう。ここには実に幸いな三つの約束があります。第一は『渇けるものに水をそそぎ』とあり、これは

個 人 へ の 注 ぎ

であります。皆様はこの修養会に列し、心からの飢え渇きを持っておられることと思います。主はかかる人を知りたまいます。更にもっともっと主を知りたいと飢え渇くその人に御目を留めたまいます。聖霊はかかる人々に今日注がれるのであります。願わくば皆様が今日この修養会にて聖霊の水を注がれ、いつまでも続く恵みを受けて頂きたく思います。いつまでも続く恵みを受ける人は飢え渇く人であります。全員が一人のごとくなって、一人も恵みに漏れる者のないよう切に祈らなければなりません。
 第二は『たる地にながれをそそぎ』と仰せたまいますが、『流』は英語では洪水となっておりまして、すなわち

リ バ イ バ ル の 恵 み

であります。神様はリバイバルの恩恵めぐみを地方地方、また日本全国に注ぎたまいます。この集まりは或る方面から申しますればまことにささやかな集まりでありましょう。しかし、神様はこれをもってよく日本全国のリバイバルの口火たらしめることがお出来なさるのであります。『流れ』、『洪水』、英語の floods、この聖言みことばをお握りなさることを願います。洪水的な恩恵、すなわち豊かな氾濫する恩恵を与えたまえと祈らなければなりません。神様は実に乾ける地に洪水を注ぎたまいます。今まであまり恵みを知らなかったところへ、このリバイバルの恩恵を与えたまいます。今までのリバイバルを考えましても、霊的状態の低下して死のごとき様にある時に、神様は著しきリバイバルを与えたもうことがしばしばでありました。かつて三十年前、英国の西部の一地方にリバイバルが起こったことがありますが、当時その地方の教会はまことに死んだような霊調の低下していた時でありました。時に、そこに四人の青年がおりましたが、これをいたく重荷に感じ、山に入って神様の聖前みまえに身を低くし、何とぞと飢え渇き、只管ひたすらに祈り出したのであります。彼らは祈りの中に『われ乾たる地に流れ(洪水)をそそぎ』との約束を見、更に、我らのためにこの約束を成就なしたまえと、聖霊の注がれんことを熱心に祈り出しました。主はこれに応え、彼らに聖霊を注ぎ満たしたまいました。彼らは満たされ燃やされて山を降って教会に来り、神様の恩恵の業を証しました。これを聞いた人々は刺されました。不信仰と妨げた心とを刺されました。そしてこの小さい集まりから恩恵が始められ、ついにそれからそれへと次々にかなり広い地方にリバイバルが起こりました。このリバイバルの知らせはインドに届き、そこに在った宣教師の中に燃え上がり、さらに飛んで朝鮮の宣教師の間にもこのリバイバルを与えられたのでありました。これは神様の与えたもうた洪水であります。
 第三の約束は『わがみたまをなんぢの子輩こらにそそぎ、わが恩恵めぐみをなんぢのすゑにあたふべければなり』。私共はしばしば幼児おさなごをなおざりにして、霊的のことは彼らには解らぬと取り扱ってしまいますが、これは私共の不信仰であります。聖霊は私共の心を照らし、神様の聖旨みこころを悟らしめたもうごとく、幼児の心にもその聖業みわざを与え得たもうのであります。『わが霊を汝の子らにそそがん』。これが成るよう祈るべき筈であります。皆様の幼児たちの上にも聖霊の与えられるよう、約束に立ってお祈りなさい。日曜学校のリバイバルのためにも祈りなさい。近隣の幼児のためにもお祈りなさい。昔、主がエルサレムの宮に入りたもうた時、主を見奉った子どもたちがホサナ、ホサナと呼ばわったと書かれていますが、主はこれをよみし、これこそ全き讃美であると仰せたまいました。パリサイ人等はこれを好みませんでした。しかし私共は神様のお恵みが幼児たちの上にも成就されるよう祈りとうございます。
 最後に、これらの結果は五節に示されております。実に

栄 光 あ る 結 果

であります。

 『ある人はいふ、我はヱホバのものなりと、ある人はヤコブの名をとなへん、ある人は主のものなりと手にしるしてイスラエルの名をなのらん』。

 すなわち明らかに神をあかしいたします。聖霊を受けた人は自らを主に帰し、己は主のものと大胆に証詞あかしするに至るのであります。かかる証詞を通してリバイバルの火は他の人々の心に燃え移るのであります。
 私共は今、以上いくつかの御言葉によって神様の幸いなおぼし召しを読みました。いかばかり私共個人個人と、私共の地方及び国に対して御心を用いたもうかを学んだのであります。しかしここに一つの

厳 か な 警 戒

があります。すなわち昔、エゼキエルが神の御意を人々に伝えた時、人々は美しい音楽に耳を傾けるがごとく、その聖言みことばに耳を傾けてこれを楽しんだとありますが、ただそれだけで、人々は『求める』結果がなかったと神様はかこっていたもうのであります(エゼキエル三十三・三十二)。お互いはこの点に注意を致しとうございます。聞き過ごしにしてはなりません。この聖言を聞いて切に神の前に近づきとうございます。神の前に深い悔い改めをなし、全き明け渡しをし、献身をしなければなりません。信仰によりて堅くこの約束を捕らえて聖前に出て来なければなりません。その報いは偉大なるもの、栄えあるものであります。心は潔められ、聖霊は満たされ、リバイバルは与えられます。神はこの聖会で、しかも今晩、こうした恵みを与えることができるのであります。祈りの内に主に近づくこの時、主が我らの中にお入りなさるようにお祈りいたしましょう。祈ります。

 あなたは静かに神の聖声みこえを聞きなさいましたか、どうですか、心の中に神のメッセージを受けましたか。神はこの聖言をあなたの心の中に囁きたまいとうございます。皆様方御銘々にこんな恵みを与えとうございます。どうぞ、他の兄弟姉妹を忘れて、どうぞ神の使いの声を忘れて、ただ主に目を注ぎて祈れよ。静かに神と交わりまして、どうか神の聖前みまえにひれ伏して、神に祈れよ。神はあなたの心の中に恵みを受けるのを妨げる物を示したまいますならば、それを指さしたまいますならば、どうぞただ今それを全く棄てよ、全く悔い改めよ。どうぞ心より疑いを追い出して神を信ぜよ。神は今晩あなたに豊かに聖霊の洪水を与えたまいとうございます。どうぞ疑いの雲を全く追い出して信ぜよ。明らかなる光を握って神の約束をどうぞ信ぜよ。あなたは今まで読みましたとおりにいろいろな罪があったかも知れません、けれども主はイエス・キリストの血潮に由りすべての罪よりあなたを洗い潔めます。潔き心をもって聖霊御自身を受け入れよ。主はあなたの上に聖霊を注ぎたまいます。どうか、黙って主ご自身に対してその賜物を願えよ。

 主よ、あなたは今晩、私共にこの貴い御約束を与えたまいましたことを感謝いたします。あなたは忠実なる救い主ですから、必ずこの約束通りに恵みを与えたもうことを、信じて感謝いたします。おお主よ、どうぞ今晩この集まりの上に、息を吹きて「聖霊を受けよ」と命じたまえ。主イエスよ、どうぞ権威をもって私共にこの恵みを植え付けたまわんことを乞い願い奉ります。私の心の中にあなたの約束を信ずる信仰を創造したまいましたから、どうぞ今晩、聖霊御自身を銘々の心の中に住ましめたまわんことをこいねがい奉ります。信じて祈りますなら、あなたは必ず応えたまいまして、我らに恵みを与えたもうことを信じて感謝いたします。おお主よ、信じて感謝いたします。
 聖名みなに由りて感謝して祈り奉ります。 アーメン。



| 目次 | 1 | 2 | 3 | 4 |