基 督キリスト の 形 成 る ま で



 私共は新約聖書の中にガラテヤ、エペソ、ピリピ、コロサイなどの小書翰を与えられております。今朝はガラテヤ書を繙いて共にお学びしたいと思います。これらの書翰は謂わば聖書中のトラクト

聖 潔きよめ の 小 冊 子

ともいうべきものであります。
 パウロは、曾て、ローマにおいて捕囚とらわれの身でありましたが、獄中に束縛を受けながらも尚、伝道地に在る信者の霊魂たましいの重荷を負い、彼等のことを慮っては祈っておったのであります。ここでパウロは声をもって福音を宣べ伝えることができませんでしたが、彼は祈ることができました。その祈禱いのりの中で、彼は疑いもなく彼ら多くの基督者クリスチャンたちが何を要求しているか、その霊的欠乏は何であるかを鮮やかに認めることができました。これは遂にパウロをして筆を執らしめ、かの幽囚書翰を書き送るに至らしめたのであります。ですから彼の書翰の一つ一つは、皆信者を激励はげまして、より深き恩恵めぐみ、より高き経験へと前進せしめるものであります。そこには天来の大いなる教えがあります。何故かといえば、実際の経験はすべて神の聖教ティーチングに立脚しているからであります。私は皆様がこれらの書翰の一つ一つをつぶさに読み、パウロは各基督者に如何なる恩恵を得させようとしていたかを知って頂きとうございます。また、同時に、これを入念に味わうことによって、神が私共に満ち溢れしめようとし、慕い求めさせようとする恩恵は一体どんな教理に基づいているのかを承知して頂きたいのであります。

恩 恵 の 標 準

 ガラテヤ書四章十九節をお開き下さい。

 『わが幼児をさなごよ、汝らのうちにキリストの形成るまでは、我ふたたびうみ苦痛くるしみをなす』。

 これこそはパウロがガラテヤの諸教会にある信者達に得させようと目論んで心を注いだ恩恵めぐみの標準であります。ここにパウロは彼らのために心に秘めた重荷の祈禱いのりを言い表し、また彼らの心の要する恩恵の水準を最も明白に見抜いているのであります。勿論パウロはガラテヤの人々の救いのために、そして救われた当時、また、更に救われてから後にも、常に霊魂たましいに対する重荷をもっておりました。故に十九節のところで彼は『わが幼児よ……我ふたたび産みの苦痛をなす』と言っているのであります。真実の伝道者は、皆、彼のように、霊魂に対する重荷、しかも産みの苦痛くるしみ、陣痛の如き心膓こころの痛みの何であるかを十分承知しておることでありましょう。貴方もこの苦痛を経験しなさることを疑いません。一つの霊魂が生まれ出るために、何らこうした重荷なくして容易たやすく産み出されることを私は疑います。
 パウロはここに産みの苦しみをしているのであります。すなわち彼は信者たちが、ただに救われたのみならず、神の御霊みたまに満たされんことを重荷を負って祈り続けているのであります。皆様もそうでありましょう。啻に人が救われるためばかりでなく、救われた者がみな神の御霊に満たされんことを重荷を負って祈りなさるでありましょう。これこそはパウロが、時には獄屋に縛がれながらも朝夕離れることのできなかった切なる心の重荷でありました。つまり、パウロは信者たちが全くきよめられることのために産みの苦しみをしていたのであります。どうぞ皆様方もかくあるように願います。信者がこの経験の中にあるかないかはさほど大した問題ではないと思ってはなりません。彼らはそのうち、いつかはきよめられるだろうという風に取り扱いませんように。どうぞ格別に信者の聖潔きよめを皆様の祈りの重荷として、産みの苦しみをする程に、背負いなさるようにお勧め致します。

み な 神 の 子 た り

 それからパウロはこの人々に聖潔きよめに到るみちを伝え示したく願っております。この人々は三章二十六節にあるように信仰によりて救われた者ばかりでありました。

 『汝らは信仰によりキリスト・イエスに在りて、みな神の子たり』

 また彼らは同章二節に見るように信仰に由って既に聖霊を受けた人々であります。

 『我は汝等よりたゞこの事を聞かんと欲す。汝らが御霊みたまを受けしは律法おきて行為おこなひに由るか、聴きて信じたるに由るか』。

 けれども三節に

 『汝らはくもおろかなるか、御霊によりてはじまりしに、今肉によりて全うせらるるか』

とあるように、彼らは愚かでありました。他の人々からその信仰を迷わされております。信仰により如何なる恩恵めぐみを受け如何なる体験に入れられるかを十分知らしめられた者でありながら、いつしか自らの努力、自らの業によって恵を得ようと肉を恃みとしている状態を見せられて参ります。そこでパウロは二章二十節において、自らが神の子イエスに対する信仰によりて生きている者であることを瞭然はっきり証言あかししております。

 『我キリストとともに十字架につけられたり。最早われ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり』。

 すなわち彼は自らの努力や業によって生きているのではない、ただキリスト・イエスに目を着け、彼を信じる信仰によって生きているのであると証明しているのであります。

二 種 類 の 信 者

 四章二十一節から二十三節までを見ますと、教会の中に二種類の人のあることを見るのであります。

 『律法おきての下にあらんと願ふ者よ、我にいへ、汝ら律法をきかぬか。即ちアブラハムに子二人あり、一人は婢女はしためより、一人は自主の女よりうまれたりとしるされたり。婢女よりの子は肉によりて生まれ、自主の女よりの子は約束による』。

 ご承知の如く第一の種類の人は自己を頼む者、すなわち自らを善なる者とするために自ら一生懸命に努力している人で、「肉によって生まれ」、律法の下に「束縛され」ている者であります。第二の種類の人とは申すまでもなく、信仰によりて生きている人で、「霊にある」者、「自由なる」者であります。パウロはガラテヤの信者たちにこの点をよく知って貰いたかったのであります。パウロは何とかして彼らに己が立場を悟って貰いたかったのであります。何故ならば、今は実に恩恵めぐみの時代、福音の時代であって、身はかかる時代に生存しながら、霊魂たましいは旧約聖書の律法おきての下に呻吟することが可能だったからであります。ですから、パウロは霊魂の重荷を負い、人が信仰によりその衷にキリストの形を成らせられるまではふたたび産みの苦痛くるしみをなすと言って、キリストの姿、キリストの品性が彼らの衷に形作られることを祈っているのであります。

深 ま り ゆ く 三 経 験

 さてこのガラテヤ書の中に三つの経験が示されております。

一、 回 心

 第一は一章十五、十六節です。

 『れど母の胎を出でしより我を選び別ち、その恩恵めぐみをもて召し給へる者、御子を我が内に顕しての福音を異邦人に宣伝のべつたへしむるをしとし給へる時、われ直ちに血肉と謀らず』

 これは回心の時でありますが、ここに私共は信仰の眼を開いてイエスを我が救い主として見、また、け入れることができ、それによって神とやわらぐことのできる道を見出し、キリストを友として知ることができるのであります。

二、 被 聖

 第二の経験は二章二十節であります。

 『我キリストと偕に十字架につけられたり。最早われ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり。今われ肉体に在りて生くるは、我を愛して我がために己が身を捨て給ひし神の子を信ずるに由りて生くるなり』。

 この節は消極的方面と積極的方面とを語っております。消極的方面では罪より全く離れ去り、積極的方面ではキリストをその心に頂いていることを示しております。すなわち消極的には自由を得、積極的には溢れる恩寵に浴し、キリストを主として享けているのであります。これは聖潔きよめの経験で、キリストは実に彼らの生命であります。しかし悲しいことに、ガラテヤの信者はこの信仰の一途いっとから離れてしまいました。パウロは重荷と痛みとをもってかく書き送らざるを得なかったのであります。

三、キリスト、まったき支配者

 かくしてパウロは遂に、ここに更に優れた第三の経験を持たしめて頂きたいと願っているのであります。四章十九節にあります。

 『わが幼児をさなごよ、汝らの衷にキリストの形成るまでは、我ふたたびうみ苦痛くるしみをなす』。

 すなわち貴方の生涯の一節ひとふしにまでもキリストの愛が現れるように、かくて貴方がキリスト御自身の代表者となって彼を顕すことができるようにと切に祈っているのであります。キリストとはあぶらそそがれたる者という意味でありますが、神の御子みこはすなわち膏灌がれた者である故にキリストであったのであります。しかし地上の神の御子は天に帰り、しかも地上には一群の男、女をお残しになって父の御許みもとに行かれました。それには深い聖旨みむねが秘められております。すなわち彼らをしてこの世に在りて小キリストたらしめる御目的でありました。主イエス御自身が膏灌がれたる御方であったその如くに、私共にもまた御自身の御霊みたまの膏灌ぎを与えてこれを主の小キリストとなしたもうのであります。これは私共お互いにとって何たる高い標準の召命めしでありましょうか。実に、最高、崇高なる召命であります。
 キリストを私共の心のうちに所有するとは実に驚くべき恩恵めぐみであり、かつまた大いなる特権であります。しかし、更に考えてみますとき、この世の人々の唯中に在って私共の如き者を通してキリストを顕現さしめたもうとはこれはまた更に進んだ、標準の高いまされる恩沢めぐみであり、かつ有り難き御思召おぼしめしであると言わなければなりません。私共の周囲の人々は聖書をしらべません。聖書の中にあるキリストとその恩恵の富とを知ろうとはいたしません。しかし神の深い御思召はこのキリストの霊もてあぶら注がれたる者たちが地上にとどまって彼御自身を表すこの一点にあります。故に私共に対する神の御計画は『衷にキリストの形成る』ことなので、これは実にキリストが完全な御支配をなし、その御霊を盈満えいまんの量りにおいて分与なしたもう状態であります。

神 の 傑 作

 ここに一人の巧みな彫刻師があります。彼は一片の大理石を手に入れました。しかしその辺りの住民はその石材に何の著しさをも認めません、ただ山から掘り出されたばかりの一石塊です。けれどもその彫刻師はその石材を前にしてこれを凝視みつめ、黙想し続ける時、その石材には美わしい天使の姿が浮かび上がって参ります。彼はその幻に基づいて仕事を始めます。彼はのみをもって石材の大部分を削り取ってしまうでしょう。それで美しい天使の姿は次第に彫り上げられて参ります。やがて最後の磨きがかけられます。ここに見事な芸術品は遂に仕上げられるに至るのであります。かく土砂の中から掘り出されたままの粗野な石材が遂には美わしい聖なる天使の形となり、天下に比類なき傑作となりますように、神はまた御霊みたま能力ちからにより私共の衷にキリストの御像みすがたを彫み込み、聖潔きよめの磨きをかけていやしき私共をさえ神の傑作に完成したまわれるのであります。
 されば私共お互いも世の罪人を見る時、彼らの衷にもこの栄光あるキリストのみ姿を想見し、その御形の具現あらわれの可能なることを認識いたしとうございます。それにより私共は他の人々のために祈ることができます。この驚くべき秘密、奥義中の奥義とも言うべき神の大傑作は、コロサイ書一章二十七節に最もよく示されているのを見るでしょう。すなわち

 『神は聖徒をして異邦人の中なるこの奥義の栄光の富の如何許いかばかりなるかを知らしめんと欲し給へり、の奥義は汝らの中に在すキリストにして栄光の望なり』。

 この驚くべき秘密こそは、我らの衷に在すキリスト御自身であり、これぞ栄光の望みであります。さらに二十八、二十九節は私共に示された一つの目標であります。

 『我らは此のキリストを伝え、智慧を尽してすべての人を訓戒し、凡ての人を教ふ。これ凡ての人をしてキリストに在り、全くなりて神の前に立つことを得しめん為なり。われ之がために我が衷に能力ちからをもて働き給ふものの活動はたらきにしたがひ、力を尽して労するなり』。

 私共は彼らを啻に救いに導くことにのみ止まることなく、更に進んで恩恵めぐみの盈満、奥義なるキリストにまで導き行かなければなりません。この二十九節は如何許りキリスト御自身が私共の衷に働きたもうかを啓示しております。キリストが私共の衷に力強く働きたもうその能力ちから活動はたらきに基づき、私共もまた力を尽くして労するというこの二つの方面を見て頂きたいのであります。ですから実際の能力として働きかけるものは自らではなく、キリスト御自身であります。私共はただ彼の働きの能力に従って御奉仕申し上げるにほかならないのであります。

内 在 の 大 能

 あの蒸気機関車の中には蒸気がたぎっております。この蒸気が力の原動力となって機関に働きかけ、その力に応じてあの重い列車をも楽々と走らせることができるのであります。この書簡を見る時に、パウロは或いは『キリスト汝の衷に在す』といい、或いは『御霊汝の衷に在す』という風に言い表しておりますが、ヨハネ伝十四章を見れば主イエスもそこで、慰むる者が来るといい、また自ら弟子達に来りたもうといっております(十四、十七、十八、二十三の各節)。この二つの間には何等相違がありません。日々の生涯の経験から言えば全く同じであります。いずれにしても能力ちからは衷にあるのです。パウロがこれらの基督者に得させたいと憧れておったことは、すなわち聖霊の臨在、その内住の経験に入らしめんことでありました。私共が信仰によりきよき生涯を送り得るのも全く内住の主の御力に由るもので、これは主の御恩恵とも言うことができます。すなわちキリストが成して下さった御聖業の故と、及び聖霊が為して下さる聖工みわざの故とであります。

二 つ の 御 派 遣

 『れど時満つるに及びては、神その御子みこつかはし、これを女よりうまれしめ、律法おきての下に生れしめ給へり。これ律法の下にある者をあがなひ、我等をして子たることを得しめん為なり。く汝ら神の子たる故に、神は御子の御霊みたまを我らの心に遣して「アバ、父」と呼ばしめ給ふ。れば最早なんぢはしもべにあらず、子たるなり、既に子たらばまた神に由りて世嗣よつぎたるなり』(四章四節より七節)。

 ここに二つの御派遣を見ます、すなわち神は御子を遣わし、また、私共の心の中に御子の御霊を遣わし下さるのであります。神が御独子おんひとりごを世に遣わしたもうたのは、五節にあるように、我等を贖い、また、子として受けたまわんがためでありました。また神が御自身の御子の御霊を遣わしたもうのはキリストが如何ばかりの御方で在したもうか、その一切を私共に黙示して私共を全くきよめんがためであって、これによりて「アバ、父よ」と呼ばしめたもうのであります。すなわち神が私共の真実の父たることを知らしめ、更に父としての親心の愛を顕し私共の霊的のすべての必要を満たしたもう事実を知らしめんためでありました。なお七節に見ますように、彼の子たり、また世嗣たることを知らしめんためでありました。しかもこれは患難なやみ多きこの世に在りながらも心嬉しくち得る驚くべき栄光の期待であり、それのみならず永遠に至るまで抱き得る栄光の望みである。地上において裕福なる家庭の世嗣として生活できることは確かに喜びでありましょう。しかし神の世嗣は更に勝った光栄であり、喜悦よろこびであらねばなりません。私共はこの故に患難、苦労の中を通らされましてもなお心励まされる次第であります。どうぞこれを信ぜよ。パウロはこのことがガラテアの信者の栄光の望みとならんことを切に願っているのであります。

恩 恵めぐみ の 方 法

 それでは如何にしてその恩恵を得ることができるでしょうか。衷にキリストの御形みかたちが成るみちは何でありますか。それは十字架と聖霊であります。この書翰によって見ますならば、キリストの十字架と御霊の内住とによってこれが完成されることが示されております。

一、 十 字 架 の 能 力

 殊に、まず、キリストの十字架の奥義がこのガラテアの信者達に徹底するように、これが繰り返して伝えられているのであります。もう一度三章一節を見ますれば、

 『愚なるかな、ガラテア人よ、十字架につけられ給ひしままなるイエス・キリスト、汝らの眼前めのまへあらはされたるに、誰が汝らをたぶらかししぞ』。

 疑いもなくキリストの十字架は彼等の眼前に掲げられました。まるで大きな広告のように、誰の眼からも逃れ得ないほどに、人々の前に描き着けられたのであります。疑いもなくパウロは十字架の能力が如何に偉大であるかを語り、聖書にかなって自らを救拯すくい犠牲いけにえとしたもうた彼を伝え、十字架による全き自由、罪よりの完全なる聖別を教えたのであります。パウロはこの書翰中に三カ所にわたって『キリストとともに十字架につけられたる』ことを教えております。

 1.『我キリストと偕に十字架につけられたり、最早われ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり。今われ肉体に在りて生くるは、我を愛して我がために己が身を捨て給ひし神の子を信ずるに由りて生くるなり』(二章二十節)

 ここに判然と見ることができるように十字架上に私共の自我が全く磔殺されてしまっているのであります。ですからこの十字架の能力ちからにより私共は自我の圧迫から全く釈き放たれております。この信仰に生きることが大切であります。

 2.『キリスト・イエスに属する者は肉とともにの情と慾とを十字架につけたり』(五章二十四節)

 ここに第二の磔殺を見るのであります。すなわち私共は肉にける愛情と慾情とを全く聖別されなければならないことを教えております。警戒せられとうございます。

 3.『れど我には我らの主イエス・キリストの十字架のほかに誇る所あらざれ。之によりて世は我に対して十字架につけられたり、我が世に対するもまたしかり』(六章十四節)

 すなわち私共は世に対してもまた十字架につけられたる者であります。ですから私共はこの十字架の能力ちからにより私共の三敵である自我、肉、そしてこの世から全く切り離され、神の前に聖別せられるのであります。信仰によりてその恩恵めぐみの体験を知ることができるのであります。斯様かようにこの三つから全く救い出されることにより、私共は真実に自由であり、真実の解放を経験致します。すなわち

 『キリストは自由を得させん為に我らを釈き放ちたまへり。れば堅く立ちて再び奴隷のくびきに繋がるな』(五章一節)。

二、 聖 霊 の 内 住

 私共はかくキリストの十字架により一切の罪より釈き放たれ、自由の身とされるのでありますが、そればかりでなく私共は同時に神の御霊みたまの内住によってキリストの形が衷に成されて来るのであります。しかもこれは唯、十字架の能力ちから、主イエスを信ずる信仰によってのみ頂戴できる恩恵めぐみであります。三章十四節にありますごとくこれは『われらが信仰に由りて約束の御霊を受け』ることによって成就せられるのであります。この三章を見ますと「信仰」という語が十四度も出ております。これによっても恩恵を受けるのに如何に信仰が肝要であるかを明らかにしております。いにしえイスラエル人がエジプトを出た時にも彼らの前にカナンの地の約束が掲げられました。彼らはその約束を信じ、しかして信仰によってカナンに入ったのであります。

恩 恵めぐみ の 結 果

 さて、かように聖霊が私共の衷にお住みなさる時にそこには必ず伴うべき結果があるのであります。七つばかりの結果を挙げましょう。

一、 生 命

 まず第一の結果は生命であります。

 『もし我ら御霊みたまに由りて生きなば……』(五章二十五節)。

すなわち御霊こそは私共を生かす生命であります。

二、 進 歩

 第二は進歩、成長であります。

 『……御霊によりて歩むべし』。

『歩むべし』! 前進であります。神は御霊によって生命いのちを受けた私共がクリスチャン生涯に歩み出し歩み進むことを願いたまいます。しかもこの歩みは御霊による歩みで、ちょうど、自然の歩みの一歩一歩ひとあしひとあしであるように、霊のそれもまた一歩一歩を信仰によって健実に踏み出すのであります。ここに健実な前進があるのでこれは神の懇ろなる御思召おぼしめしであります。

三、 純 潔

 五章十六節、

 『我いふ、御霊によりて歩め、さらば肉の慾を遂げざるべし』。

御霊の内住の第三の結果は聖潔きよめであります。御霊はすなわち聖霊でありまして、純潔を離れて御霊の存在はありません。これは神の民の特質であります。

四、 聖 導みちびき

 『汝等もし御霊に導かれなば、律法おきてしたにあらじ』(五章十八節)。

 第四の結果は日々の生涯における聖導です。これほど鮮やかな聖言みことばはありません。神の御霊を心に頂きますならば、常に神の御導きを蒙り、その聖旨みむねを知らされるのであります。

五、 結 果

 第五の結果は果を結ぶことであります。

 『れど御霊のは愛・喜悦よろこび・平和・寛容・仁慈なさけ・善良・忠信・柔和・節制なり。かゝるものを禁ずる律法おきてはあらず』。

 この二十二、三節に示されているこれら数々の結果こそは、キリストが私共の衷に形づくられることの何たるかを如実に示しているものであります。

六、 人を助け得る能力ちから

 第六は他の人を助け得る力であります。

 『兄弟よ、もし人の罪を認むることあらば、御霊に感じたる者、柔和なる心をもてこれを正すべし、かつおのおの自ら省みよ、恐らくは己も誘はるる事あらん』(六章一節)。

 ですから衷なる御霊によって私共は心からなる謙遜と愛と同情とをもってこれらの人々に対することができます。そしてかかる人々を罪の束縛から全く救い出すように導くことができるのであります。

七、 報 酬

 第七の結果は栄光の御国みくににおいて賜る報酬であります。ハレルヤ、これは信仰によりて私共のものでございます。

 『己が肉の為にく者は肉によりて滅亡ほろびを刈りとり、御霊のために播く者は御霊によりて永遠とこしへ生命いのちを刈りとらん』(六章八節)。

結   論

 さて、私共は、以上、これらの経験の土台となるべき教理を学んで参りました。もったいなくも私共が神の世嗣であることを教えられ、また、神はかかる世嗣に対して天来の祉福さいわい恩恵めぐみとを、よろこんで与えなそうとしていたもうことを見て参りました。しかもキリストの十字架は、神が私共に与えんとする一切の恩恵を受ける妨げとなる如何なるものからも完全に救い得る血の能力ちからであることをも教えられました。そして聖霊は只今この世に在りて私共信ずる者のうちに生命となって働きつつ在したもうことを知らされたのであります。されば私共に残された為すべき唯一のことは、すなわちすべてのことをなし得たもうこの御方、主イエス・キリストを信仰により心開いてお迎え申し上げ、十字架を仰ぎ望むことであります。かくしてこそキリストの御形みかたちは卑しき私共の衷にまで形造られて来るのであります。無限の神の愛、御霊みたまに由れる恩恵の数々は常に私共の前に無代価で提供されてあり、神のはかり知るべからざる御計画の中に私共を置いていて下さる真理を教えられたのでありますが、注意いたしまして、これを受けるに何物にもさまたげられないよう、気を付けとうございます。私共はしばしば繰り返して、「主よ、あなた御自身の御導きにより、あなた御自身の聖旨みむねをわが衷におなし下さい」と祈りとうございます。
 また、しばしば神の聖なる御前みまえに出て、この約束を握って切に祈り続けとうございます。神が与えんとしたもう最善最高の恩恵以下では決して満足いたしませんと申し上げとうございます。かくいたしまして私共ひとりひとりがキリストの形衷に成って、彼から遣わされて行く者、地上における小キリストとせられとうございます。
 されば『わが幼児をさなごよ、汝らの衷にキリストの形成るまでは、我ふたたびうみ苦痛くるしみをなす。』
 
 祈ります。
 
 神は私共に大いなる恩恵めぐみと愛を示したまいました。面覆かおおおいを取りたまいまして、私共に大いなる聖旨を示し、限りなき神の恩愛を表したまいました。どうぞ今までの欠点と、今までの不信仰と、今までの罪を謙って懺悔せよ。いま十字架によって、すべてそんな重荷を下ろすことができます。そして全き自由を得ることができます。どうか不信仰を捨ててただ信ぜよ。信仰は如何なるものであるか、神は卑しい私にも尊い恩恵を与えたもうことを信ずる、また神は只今その恩恵を与えたもうことを信ずることであります。そうですから只今の御約束を信じて、只今それを受け容れよ。只今十字架にけられて、聖霊をれることができます。
 主よ、今朝この書によって私共に新しい驚くべき恩恵を示したまいましたから、あなたを崇め奉る。おお主よ、どうぞ聖言みことばに従い只今私共めいめいに御祝福を与えたまわんことをねがい奉る。どうか十字架によってすべて妨げるものを取り除き、御約束を賜いまして、真心をもって聖霊の溢れる程の恩恵が受けられるよう恩恵を与えたまわんことをこいねがい奉ります。
 おお神よ、あなたは私共に信仰の道を示したまいましたことを感謝いたします。今、謙遜をもってあなたの約束を信じてきよめられて、聖霊を得ましたことを感謝いたします。聖なる哉、聖なる哉、聖なる哉、万軍のエホバよ、あなたに感謝を捧げ奉ります。どうぞ今から私共各自にあなたの聖書によって、霊の糧を豊かに与えたまわんことを主イエス・キリストの御名によって懇い奉る、アーメン。
 
 願わくは主イエス・キリストの恩恵、父なる神の慈しみ、聖なる御霊みたまの交わり汝らとともにあらんことを! アーメン。



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