神 を 求 む る 心 の 備 え



 『汝は神を求むるために汝の心を備えたり(thou …… hast prepared thine heart to seek God)』(歴代誌下十九章三節=欽定訳)

 これはユダの王ヨシャパテに対する先見者ヱヒウの言葉でありますが、また、ここにおる私共にも当て嵌まる御言であります。私共もこの聖会のために相当の準備をする者でありました。私共はこの聖会を待ち望みました。そのために祈りました。祈っていただきもしました。しかし私共は、果たして、神を求めるために、私共の心を備えたでありましょうか。私共は聖言みことばに頼って神を求めましたが、私共の心は、かの聖言を受け入れた善き土壌のようになるように、その生ける力が私共の生涯に入り来るように備えられたでありましょうか。私共の心は神に近づき、イエスの血によって、いときよき所に入り来るように備えられたでありましょうか。
 ペンテコステの日に、聖霊の降りたもうた秘密はここにありました。主イエスは昇天したまいました。カルバリーの聖業みわざは既に完成せられ、完全なる贖いは成されました。神の側にはかの十日間の遅滞の必要は少しもなかったのであります。しかし弟子たちの側にその必要がありました。神は、あの十日の間に、彼らをますます低く低く謙らしめたまいました。一切の自負心を全く砕き、己を明け渡してしまうことの出来るようにしたまいました。そして弟子たちが恩恵めぐみを受けるために、ただ、ひたすら神にのみ期待するよう、彼らを神の前に低くしたもうたのであります。
 二日前、私は非常に大切な会見をしなければなりませんでした。そしてそれはずっと前から私の心に重く懸けられていました。私は如何に言うべきか、如何に答うべきか、如何にこの事件を処置すべきか等々を考えていたのであります。その会見について考えたり、祈ったりしていたので、落ち着いて読書も出来ないほどでありました。さて、私共は、このたび、ここに神との会見をなすために集うているのであります。神の栄光をして私共の心を照らさしめるために、神をしてその約束を私共の上に成就せしめまつるために、そして聖言を私共の心に刻ましめまつるために、ここに集うているのであります。心の備えがなければならないはずであります。
 この大切な問題について、皆様にもたらしたい四つの聖言があります。
 一、『自ら験しみよ』
 二、『己を潔めよ』
 三、『汝ら身を潔めよ』
 四、『己を献げよ』

まず第一に、『自ら験しみよ』

 『なんぢら信仰に居るや否や、自ら試み、自らためしみよ。』(コリント後書十三章五節)

 医師はまずその患者を充分に診察してからでなければ処方を書くことができません。そのように、私共も、如何にして神の光の中に立つかを見るためには、まず、験さなければなりません。かくのごとき験しのためには、時が必要でありましょう。
 ヨハネ伝十五章によって『自ら験しみよ』。かような、常に受けつつある生涯、従って常に果の繁くある幸いな生涯に歩んでおりますか。
 詩の二十三篇によって『自ら験しみよ』。あれはあなたの経験ですか。あなたはみどりの野を知っておりますか。主の臨在を知っておりますか。おお、願わくは神、その聖霊によって、このたび、真に私共を探りたまわんことを、そして私共が何処に立っておるかを示したまわんことを!
 あなたの祈りの生涯について『自ら験しみよ』。祈禱に能力がありますか。あなたの祈りは現実に、また深くありますか。真に神に近づきなさいますか。
 聖書を読むことについて『自ら験しみよ』。日々の日課はどのようですか。神様からの聖言を頂きますか。聖書はあなたにとって神の言ですか。神は聖言を通してあなたの霊魂に語りたまいますか。そして、或いは聖潔とか、或いは来るべき栄光とか、或いは神のやさしき御愛とかについての新しき幻示をあなたに与えたまいますか。あなたは、日々、マナを得なさいますか。
 成長の点について『自ら験しみよ』。あなたは昨年よりも今日、もっと主にありて喜んでおりますか。あなたは、以前にまさって、より深い、より現実な平安をもっていなさいますか。あなたは恩寵に、また、主イエス・キリストを知る知識に成長していますか。
 働きについて『自ら験しみよ』。あなたは主イエスのために霊魂を得ていなさいますか。あなたの語る招きの言葉は惹き付ける力を持っておりますか。
 『なんぢら信仰に居るや否や、自ら験しみよ』。これは、実際にキリストにおるかどうかという意味に取りたいと思います。あなたは本当に『罪については実際に死んでいる者、神に対しては生きている者と決算し』ていなさいますか(ローマ六・十一)。あなたは実際に信仰によって立ち、信仰によって歩んでおられますか。『自ら験しみよ』。

第二に、『己を潔めよ』

 『されば愛する者よ、われらかゝる約束を得たれば、肉と霊との汚穢けがれより全く己をきよめ、神を畏れてその清潔きよきを成就すべし。』(コリント後書七章一節)

 あなたがすべての汚れから逃れることができると知るのは、如何に幸いでしょうか。神が私共に、すべての汚れから己を潔めよと命じたもう時、それは決して冗談ごとではありません。それは必ず成されるとの意味であり、潔むる力のあることを意味するのであります。あなたが自分で自分を潔め得るという意ではありません。神はその能力を用意していたもう。そして神はあなたに、彼を信ずる信仰によって、その潔むる能力をあなたに当て嵌めることを求めたもうのであります。
 この節の初めによって、あなたは約束に引かれてこの光栄に至ることを見るでしょう。特に、六章の終わりにおいて読む神の内住したもうとの御約束であります。もし、私共がこのような御約束の高さ、深さの幾分をでも味わうならば、どんな妨げからでも自らを潔めずにはおられないでしょう。もし、私共が、キリストが私共の心に宿り、私共は主と一つになり、主もまた私共と一つになりたもうということの何たるかを知りたく求めるならば、妨げとなるようなものは何でも振り棄てたいと願うに至り、また、神と共なる歩みの妨げや、キリストが満ち満てる程度において御自身を私共の霊魂の中にお顕し下さることを妨げる一切のものから、肉と霊とのすべての汚れから、自らを潔めたいと切に願うに至るでありましょう。

第三、『汝ら身を潔めよ』

 『汝ら身を潔めよ、ヱホバ明日なんじらの中にたへなるわざを行ひたまふべし。』(ヨシュア記三章五節)

 イスラエルの子孫はまさにカナンの国境まで参りました。もう一歩で、彼らが全生涯を懸けて仰ぎ望んできたカナンに入るのです。どなたか、今日、この集会の中に、そのような方がありますか。あなたはこの国の外におる。まだ全く神に従っていない、まだ実際にロマ書八章の経験に入っていないと。如何ですか、そのようですか。神の聖霊が私共の間に力強くお働き下さるならば、私共各自は、自分がどこにおるか、きわめて明白に見ることが出来ます。神はこの民に、『汝ら身を潔めよ』と仰せたまいました。わが前に低うせよ、わが栄えある約束を捕らえよ、わが汝のために如何なる意図を持つかを悟れと。それは不思議に思われるでしょう。そんな御約束が私共のうちになされたら、それは奇蹟だと考えるでしょう。しかし、神はまさにそのことをなすために私共をここにお集めになったのであります。奇蹟を行うため、心を変えるため、そして、実にいつまでも長続きする、一層深い恩恵めぐみを与えるために、導きたもうたのであります。何のも結ばなかった信者としてここに来た方があっても、その人はこの時から、救霊において、すべての善き業において、繁く果を結ぶクリスチャンとしてここから帰ることができるのであります。

第四、『己を神に献げよ』

  『己を神にささげよ』(ロマ書六章十三節)

 妨げとなるものを除いたら、あなた自身を神に献げなさい。神に支配していただきなさい。主は、確かに、あなたの霊魂の中に始めたもうた御業を全うしたまいます。このゆえに彼の能力ある御働きにあなた自身を献げ、委ねよ。あなたのための主の栄えある御思し召しに従い奉りなさい。
 大西洋を航海する汽船が港に近づきますと、水先案内がやって来ます。船長は水先案内を迎え、その責任は、事実上、全く水先案内に移り、船を港に安全に導き入れることは水先案内の責任となります。船長は自分の権威も能力も手渡してしまい、水先案内が責任を持ちます。これをあなたの生涯に当て嵌めなさい。そして神様に責任を取っていただきなさい。あなたは神を求めていますか。聖霊の盈満を求めていられますか。おお、神をしてあなたの一切の責任を取らせ奉りなさい。『汝ら自らを神に献げよ』。神はあなたの中にその業を全うしたまいます。彼は、あなたをその願うところの安息の港に引き入れたまいます。彼は、あなたがそうなさせ奉るならば、あなたを携えて、あなたの憧れていた、また、聖書の中に見て熱心に願い求めてきたその恩恵の盈満にまであなたを導き入れたもうでありましょう。
 『自ら験しみよ』、『己を潔めよ』、『汝ら身を潔めよ』、しかして『己を神に献げよ』。かくのごとく、あなたの心を備えなさい。真心を尽くして神を求めるならば、神はお会い下さいます。大いなる恩恵に与るというよりも、恩恵の源なる彼御自身を見出し奉るのです。キリストご自身が、あなたのすべてのすべてとなりたまいます。キリストご自身があなたの聖潔、あなたの能力、そしてあなたの純潔となりたもうのであります。



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