第九十五篇 題目 神の安息 (十一)
- 率われらヱホバにむかひてうたひ すくいの磐にむかひてよろこばしき聲をあげん
- われら感謝をもてその前にゆき ヱホバにむかひ歌をもて歡ばしきこゑをあげん
- そはヱホバは大なる神なり もろもろの神にまされる大なる王なり
- 地のふかき處みなその手にあり 山のいたゞきもまた神のものなり
- うみは神のものその造りたまふところ 旱ける地もまたその手にて造りたまへり
- いざわれら拜みひれふし我儕をつくれる主ヱホバのみまへに曲跪くべし
- 彼はわれらの神なり われらはその草苑の民その手のひつじなり 今日なんぢらがその聲をきかんことをのぞむ
- なんぢらメリバに在りしときのごとく 野なるマサにありし日の如く その心をかたくなにするなかれ
- その時なんぢらの列祖われをこゝろみ我をためし 又わがわざをみたり
- われその代のためにうれへて四十年を歴 われいへり かれらは心あやまれる民わが道を知ざりきと
- このゆゑに我いきどほりて彼等はわが安息にいるべからずと誓ひたり
一節に──『率われらヱホバにむかひてうたひ』
六節に──『いざわれら拜みひれふし』
七節に──『その聲をきかんことをのぞむ』(即ち換言すれば『いざわれら聞くべし』となる也)
本篇の主意は此三の事なり。是は又恩惠を受くる順序にて、我等は恩惠を受くる爲に此三の事を爲さざる可らず。
▲本篇の大意は『わが安息』(十一)即ち神の安息なり。本篇に神の安息に入らざるは何故なりやを示す。即ち
一、神に聞かざる故なり(七終)。神の聲を聞かざる者は安息に入る事を得ず──『今日なんぢらがその聲をきかんことをのぞむ』
二、心頑固なる故なり(八)。即ち己が旨のみを求めて神に讓らざるが故なり──『なんぢら……その心をかたくなにするなかれ』
三、心誤れる爲なり(十始)。即ち心より罪を撰ぶが故に安息に入る事能はざる也──『かれらは心あやまれる民』
四、神の道を知らざる故なり(十終)──『わが道を知らざりき』
▲本篇に於て神は如何なる御方なるやをいろいろの方面より述ぶ。
一、救の磐(一)即ち動かす可らざる確なる救──『すくひの磐にむかひてよろこばしき聲をあげん』
二、大なる王(三)──『ヱホバは大なる神なり もろもろの神にまされる大なる王なり』
三、造主(五、六)──『うみは神のもの その造りたまふところ 旱ける地もまたその手にて造りたまへり いざわれら拜みひれふし我儕をつくれる主ヱホバのみまへに曲跪くべし』
四、牧者(七)──『彼はわれらの神なり われらはその草苑の民その手のひつじなり』
以上の四に於て神の惠の次の四の方面を知る事を得。
1.神は救ひ給ふ
2.神は治め給ふ
3.神は保ち給ふ
4.神は養ひ給ふ
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