Brownlow North (1810-1875)


小 島 伊 助 譯

ブラウンロー・ノース

日本傳道隊聖書學舎出版部發行



一、 蝗 虫おほねむし の 年



 ブラウンロー・ノース、受祿牧師じゅろくぼくし御曹子おんそうし、監督の孫、英國の首相──ノース卿──の甥御の息子、彼は當然ギルフォードの伯爵領を相續すべき者として成長した。從って彼が何か實職にための教養を受くべきなどとはかれの緣者のたれ一人、必要と思った者もない。イートンにおいて、彼は『茶目紳士』であった。血氣な上流人には固有な特徵と社會一般から思はれてゐたかの思ひ切っての放蕩生活に、彼もつとに勇名をとゞろかしたものである。賭博といへばチャールス・ヂェームス・フォックスにも劣らない。酒といへばシェリダンをも凌ぐ。まさに彼は直系血統の『淫蕩人コリントじん』として『ヨーロッパ第一貴族』の暗黑時代に御威光を輝かした上流者流の御他聞ごたぶんに洩れぬ發展ぶりをなしたのである。

 貴族靑年の敎育のひとつである大陸旅行に送られて、彼は家庭敎師にかるたあそびを挑み、じつはこのかうの費用にとてこの學識ある紳士に託せられてゐたかねの全部を捲上まきあげて、爾後じご彼を監督先生どころではない居候ゐさふらふあつかひにして仕舞しまった。またわづか十七才くらゐの冬の頃、彼はチェルンテンハムで十九人以上の貴女等きじょらに結婚を申込まをしこんで渦卷を起したが、しかもどれもこれ幾歲いくとせかはらぬかれの愛情を確信してかれの申込を承諾せんばかりにみな心を動かしてゐるのであった。かれの救はるゝやうにと明暮あけくれ祈ってやまなかった敬虔なノースの母は、憤り切ってゐる親等おやたちに一切の顚末を說明するの苦役にがやく引受ひきうけなければならなかった。又いかにも乗馬競爭にもって來いの新式遊步塲いうほじゃうががあった。靜かに健康を養ふ連中は少なからず狼狽らうばいしたが、彼は何人かの親友らと屢々しばしばそこで競技をおこなった。

 その結末は劇的である。ノースとかれの友人の一人が高速力で通路をひた走りに走ってくと、一輛いちれう驛傳えきでん馬車が突然かどまがって向側むかふがはへやって來た。あはやと見るまにノースの相手は車にぶつかり、その上を越えてもんどり打って大路おほぢに倒れ間もなく絕命して仕舞しまった。今やノースはチェルテンハムにはゐられなくなった。又同時にギルフォード伯爵領には直系の嗣子しゝうまれた事が分った。今やかれの收入は年三百ポンドに減ぜられた──金使かねづかひの荒い彼に足るべくもない。

 何とかしやうの緩和策に賭事かけごとに手を出せば出すほど負債の穴に陷ってつひに彼はビュー・ブラムメル等のやうな流行的放蕩者流をめこんで、妻(愛蘭アイルランドの牧師の娘、上品なる婦人)や子供を引具ひきぐしてフランスへと逐電ちくでんした。

 しかしこの生來うまれつきの冒險家は、どうしたところでボーロンにある遊冶郎いうやらうの植民地の居候ゐさふらふ生活に、こっそり落ちつく事は出來なかった。家族を蘇蘭スコットランドに送って自分は當時起ってゐたポルトガルの内乱に加はった。しかしリスボン事件の落着と共に一八三五年、蘇蘭スコットランドに歸って、爾來じらいこゝはかれの撰びのホームである。しかし如何なる家庭の感化もこのうはづった心を馴らす事は出來なかった。彼はますます家をよそにしたが、これは又たんに彼が大膽だいたんな又巧妙な遊獵家いうれうかであったがためである。

 アバデンに冬籠ふゆこもりをして彼はアバデン、ハントリー間往復──八十マイルの距離──を八時間で走らうと、ウライのキャップテン・バークレーと五十ポンドかけをした。これは同地方全體の興味をそゝったが、る若い辯護士はノースにむしろ賭金かけきんを拂って仕舞しまへと忠告した。それは到底たうてい出來ない藝當であったのである。しかしノースは尻込しりごみするどころではない。見事に勝って見せると豪語したのみならず、次の日もう一度繰返くりかへすがどうだと、かの辯護士に新しいかけを挑んで第二の競爭をこしらへて仕舞しまった。定められた道程みちのりに、『折柄おりからひどい雪と霜の中をノースは三頭のアバデンの貸馬かしむまで乗り切り、その夜舞踏會で夜中よるぢう踊りあかし、翌日二番目の競爭をやってこれにもまた勝利を博した』。狩塲かりばでのかれの恐ろしい步度ほどは評判になって、『先にノース、次に獵犬れうけん』との俚言りげんをさへ作った。

 しかしこんなむなしい一切の所業しわざにも、深い宗教的信念なしにはをられなかった。時には全くそのおもひあっせられて仕舞しまった。幼い時から神の眞理がたくはへられてゐて、時々には立派な决心けっしんをした事も幾度いくたびか。しかしそれも激しいその情癖じゃうへきを暗くされたおもひの前には一溜ひとたまりもなかったのである。一八三九年、ハントリー・ロッヂにおいて、夕餐ゆうさんの席上、敬虔なる貴婦人、ゴルドン公爵夫人、エリザベスとの會話において彼は深い印象をあたへられた。夫人はこの出來事をこう書きあらはしてゐる。『ノース氏はハントリーに滯在して銃獵じうれうふけってゐて全く無頓着不敬虔であった。かれの友人等は彼をしてそのしきみちめさせしき友達から退しりぞかせやうとの意思おもひをもって、何とか彼に注意せらるゝやうにとわたしもとに手紙を寄せられた。わたしはお引受ひきうけをして、ある夕餐ゆうさんに招待した。氏はわたしそばしてゐたが、突然、非常に重々しくこういはれた。「御夫人、度々たびたび神に祈っても聽かれぬ者はどうすべきであるか」と。わたしはどう答ふべきか敎へ給へと心を神に昇らせたが靜かにおもてを見つめて、にはたれにも洩れきこえぬやうに、「なんぢら求めてなほ受けざるは、慾のためにつひやさんとてみだりに求むるがゆゑなり」(ヤコブ四・三)と言ふた。かれ顏色がんしょくかはった。おほいに動かされしものゝ如く、そのゆうべは非常に平靜に、しかして辭し去らるゝ前には厚く禮を述べらるゝのであった』と。

 かれかたくなな心をやはらげたらしい今一つの出來事は、かれの次男の病氣であった。結局心は神につける事柄に傾き、英國々敎會に入會をけっした程である。かくて牛津オックスフォードで學び、牧師補職ぼくしほしょくの約束を得たが、かれ靈狀諮問れいじゃうしもんの段となって、基督敎キリストけう々職などとはがらにもない事であると感ずるまゝを告白せざるを得なかった。『ノース君、し私が君で、君が私の立塲にあったなら』リンコルンの監督は彼にたづねたものである『君は私に按手あんしゅせらるゝか』。『けいよ、私は致しますまい』が答であった。確かに彼はおのれが資格なきを鋭敏に意識してゐたが、のちかれのいはるゝ如く、『家は掃き淸められて飾られたが、しかし空虛であった。しかしてその人ののちさまは、はじめよりも一層しくあった』。その通りである事が證據だてられた。一時の改善はあしたの雲のやうにすぎ去った。彼はあたらしく又公然と自らを蕩盡たうじんの生涯に投げこんだのである。



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