三、 リ バ イ バ ル 時 代
この焰の使者の爲に時は熟した。蘇蘭には、二十年前、ウィリアム・チャーマース・バーンズの說敎の下に、キルレス及びダンデーに於て大なる日あって以來、絕えて大覺醒はなかったのである。忽然として今やその眼界に現はれ初めたこの新しい惑星を仰いで、來るべき惠の兆を望んで空を看った敬虔なる牧師等は滿足した。ノースが、目ぐるましい放蕩の渦卷に飛びこんでの無鐵砲な遊獵、亂暴な活動振は、國中での話題であった。ウライのバークレーを牛耳った男、彼は無論獵師會宴席上での題目であり、ウィスキー屋の勇士であったらう。然るに彼が今や新しい公の生涯に乗出して、而も贖の犧牲による無料の恩寵と救拯の敎理を宣傳するといふ、一驚を喫せしめたのも宜なるかな、何千何萬といふ人が、先に唯一の中年遊冶郎と知られたこの男を聽きに群がり集ふたものである。『今より十倍の働をなし遂げえたにしても彼は尚その前に置かれた仕事の全部には追ひつきえないであらう』とヂョージ・シンクレア卿は云ふた。
ノースの性格の烈しさ、若年時代の流星的冒險、又かくも著しい感化を致すに至った世界へ比較的晩年に出現した事などは、方面は全く異るが、自然、ミラボーと又この噴火山的人物に關してのカーライルの描寫を思はせる。『むさい瓦斯と夥しい蒸氣とを以てくすぶりの四十年。次でそれらを突破して燃ゆる山の如くに彼は中天を焦した』と。彼の感動も烈しかった。然しそれも浮づったところのない大真面目の魂の發露に外ならない。彼は、『今しも掠められ燒かれつゝある市より逃れ來った。炎のうなりと瀕死人のうめきは尚耳についてゐる。不思議にもよくも助かったと欣びつゝも、尚驚きおびえつゝふりかへり見る』者の如くに語ったと云はれてをる。とはいふものゝ彼の辯舌の賜物は修辭美文や誇張的言辭にあったのではない。一切は何とかして靈魂を神の國へとの彼の生涯の大願目に制せられたのである。而も敎育ある者にはその『要求に應ずる』爲には眞理の『換骨奪胎』も必要であると主張する盲目なる盲人の手引に對しては、この平易なる話し手、力量ある平信徒、平凡而も『舊式』なる敎を執りて離れざるものが、幾月も經ずして忽ち蘇蘭に於る最も著名なる說敎家となり濟ましたとのこの事實程力强い答辯はあるまい。然り多くの人々は先の彼の評判によって蝟集し來りはしたものゝ又單なる『記念物』を見せつけられたのではない。彼は實に明快に又力强く、基督者の信仰の生命的眞理を說き且つあてはめたのである。
エディンバラのグレイフライアースの敎會に於て、舊友ウィリアム・ロバートソン博士の爲に說敎した時、彼を聽かうとする人々の熱心は非常なもので、平素からの禮拜者等も唯六人程を除いては群れ出されて仕舞った程である。招かるゝまゝ進んでグラスゴー又クライドの工業大中心地、又そこよりロゼセイその他の西部地方の町々に到って、同樣の群衆は集會に群った。集會塲との間を洪水に拒まれた或地方からは二百の人々が或は狹い塀壁の頂を、或は何尺もある水の原を一列になって集會塲さしてやって來た。亦同じ困難の途を歸って往くのである。彼の到る處リバイバルであった。『ウィックに於ては』ヘイ・マクドウォール・グラントは書いてをる、『ノース氏は自分の後に留ったが、大群衆は續いて彼に耳傾けて群れ集ふた──或日曜午後の如きは無慮六千人であった』と。一八五九年、彼はかの著名なアバデンの運動に盡醉した。當時の重なる人物は、レギナルド・ラドクリッフ、ゴードン・フォロング、ピーター・ドラモンド(ドラモンド小冊子運動の創立者)、(パークルヒルの)ジョン・ゴードン、及びヘイ・マクドウォール・グラント等である。說敎をする事について或牧師等の間に强い反對があった。珍らしい迷信は遂にノースの樣な無資格な人物が講壇から堂々と說敎する事に対する反對として現はれた。然し人々は、『ノース氏が說敎をする』といふ代りに『ノース氏がお話をする』といはるゝ位の言の變化には些したる頓着もせずに彼の下に群り集ふた。どんな時にもレギナルド・ラドクリッフはこう書いて躊躇しなかった。『彼は何曜の夜にもあれ又晴雨に拘はらず夥しい會衆を有し、非常な能力をもって語った。これは曾て彼が非常な害毒を流した町である。今やこの塲所に於て彼は救主の回心せしむる力の生きた證人である』と。
彼が不信者等より際立った嘲笑を受けずにすむと想像すべくもなかった。より廣き奉仕を始むる樣友人等よりしきりに招きを受けつゝも、彼は神を俟望みつゝ、又余儀なき卑劣なる言を浴せられつゝ、既に丸一年を費してゐたのである。然し皮肉な批評家等には、彼の爲に神に感謝するよりもむしろその過去を見て彼を攻擊する機會が甚だ明白で見逃しえなかったのであらう。或者らは彼を口ぎたなく罵った。これらの敵の一人は集會の直前、手紙をもって彼を待伏せして、『說敎の前にこれを讀め』と堅く要求した。ノースはその信書を眺めたが、講壇に持ちゆいた。而して題句を告げるに先立ってその内容の梗槪を聽衆に示した。人々は沈默の中に耳を傾けたが更にノースは言を進めた。『こゝに言はれてをる一切は凡て眞である。これは曾て墮落し切った罪人であった私の誤りなき繪である。然し、おお、神の恩寵は如何ばかり驚くべきものであらう! かくの如き咎と罪の死より私を生かし又引き上げ今晩諸君の前に憐の器、その過去の一切の罪の神の羔の贖の血によりて全く潔め去られしを知る者として現はれしめるとは』と。
こんな風に彼は世俗の反對に應酬した。而して曾ては彼を遊獵の野に舞踏の蓆に知ってゐた数百の道樂者や無頓着連も、眞にこれは恩寵の奇蹟であると告白せざるをえざるに至った。『神が穢いものを糞堆から引き上げないという理がどこにあるか』との彼の質問に對して、彼らは唯肩をすぼめる外答へる事が出來なかった。のみならず彼には母の激勵があった。長年の祈が今は應答へられておどるばかりの喜に彼女は彼の前進を促して、神は單に彼を救ひ得しのみならず曾て惡に勇名を馳せたそれにも勝って、善に名を轟ろかしめうる事を思はしむるのであった。
この奇蹟的變化には實際何の反駁も出來なかった。初めて彼が說敎するとの評判が擴がるや前によく彼を知ってゐた一牧師は、『彼が何か善事を仕やうといふならば生涯ばかりでなく面つきも變へらるゝ必要がある』と公言した。この批評が神の恩寵の手術には當をえなかったのは不思議でもない。『改革せられたる面』が滯りなく現はれたのである。ドラスに於て彼に起った靈的革命直前、北方に旅行して彼は同行の朋輩間のさゞめきの中心であった。蓋し酒氣ふんぷん、向ふ見ずの行動は正に賭博人又狩人のスタイルを曝露した。程經て南方へ歸ると、件の仲間の一人が再び彼と同乗したが、これが同じ人であるとは殆ど信ずる事が出來なかった。ノースの容貌の變化がかくも驚くべき程であったのである。
かゝる人物がアルスターのリバイバルの當時、愛蘭にをらなかったと想像する事は出來ない。彼は愛蘭の長老敎會より招かれ多くの會衆は益せられた。ブッシミルスの近傍、ダンムル・ヒルに於ては七千人の會衆に語った。非常に大なる能力を以てして、集會の後迄も殘った多くの人々は尚も彼より聽かうと心を定めゐたものゝ如く、彼は又もや語って多くの人々はその時その塲にキリストを求めた。ベルファストに於てはリバイバルは非常に力强く、禮拜の塲所といふ塲所悉く群がったが、彼は莫大なる聽衆に說敎をし、又リバイバルの批評家連をも取扱って『彼らはたとひ死より甦るものありとも其の勸を受けざるべし』(路十六・卅一)より語って彼の能辯の効果は著しきものであった。ベルファストは彼の本陣であった。彼は絕え間なく說敎したが余りの時は自らその爲に備へた室に於て生命の道を索ねる富裕者又敎育ある階級の人々との會見に費した。
四五千の人々がロンドンデリーに於て或日曜日彼の說敎をきいた。彼は都合五十の說敎をしたがその多くは數千といふ聽衆に對してゞあった。ニウトン・ライマバティに於ては多數の人々が回心した。『救貧院にあった小娘が(一牧師はノースに書送ってゐる)入口を掃除してゐたが、卿の聲をきいて──そんな風向だったので──卿の「求むる者は來れ」との招きを繰返すのをはっきりきいた。彼女は家の中へよろめき入った。神の前に俯伏し即座に心の平安を見出した。卿の最後の野外集會には無慮一萬二千人以上を數へた。思ふに次回來らるゝ節は二萬になるであらう』。
その後愛蘭に於ける彼の集會についても云はれてをる。
『彼の凡の敎と勸の傾向は單なる感情を排して記されたる聖言を尊重する事にある。彼の熱烈なる訴の下に覺醒せられたるものゝ數は詳になすべくもない。不安の求道者等は曾てなき範圍に迄及んで彼の助言を求め、尚更に數百の人々はたしかに彼の重味ある言によって堅うせられ刺戟せられた』。
このアルスター訪問前より彼の勞を認めんとする一般輿論は蘇蘭自由敎會内に漸く的確なる形をなして現はれ、一八五九年五月、彼は同全体エバンヂェリストとして公認せらるゝに至った。この地位を受け入れて彼は一方に敎役者兄弟等よりの愛情に心からなる感謝を表してゐるが、同時に當時の通弊を忌憚なく曝露してその弱點にふれ一步も容赦することをしなかった。例せば次の樣に云ってをる。『英國々敎會、蘇國長老敎會、又疑ひもなく他の凡ての團體に於て人々は「敎會に加入する」といふ樣に幼少の時より育てられてゐるが、實は不信心無宗敎の骨頂である。人々は大學へ送られて敎會の爲に敎育される。而して英國では監督、蘇國にては長老の前に各々連れ出されて、同胞の魂の救の增進を希ふ心より敎會に加入すると。私の敎會では「契ひ」卿の敎會では「述べる」。而も彼らが斯く言ふ時に、自ら僞を言ひをる事を知ってをるのである』と。
一八五九年の暮つ方、彼はラドクリッフの一行に加ってロンドンを訪れた。富有階級にとゞく爲、當世風の集會所、ウィリス・ルームスが手に入れられて午後の連續の集會が催された。結果は非常に有効に、最後の求道者會の如き約六百人の出席を見た。この訪問中彼は又エクセタホール、セントヂェームスホール、その他種々なる劇場にて語った。かの歷史に輝くジョン・ストリート・チャペル(尊敬すべきバプテスト、ノエル師の)及び珍らしき献身的福音的の人ヘンリー・ハルの指導の下に當時救靈の塲所として有名なりし基督敎靑年會の西ロンドンの中心スタフォード・ルールスに於ては勿論であった。
或は蘇蘭に或いは英國に多忙なる公會の生涯の眞只中に、彼は同時にその私生涯に敬虔深き單純さを維持した。如何なる來客を宿しても、家拜と聖書硏究とは續けられた。或はホテルに又は下宿屋に滯在して彼は常に、主人にもあれ訪客にもあれ召使にもあれ一同を禮拜に歡迎した。これらの機會も亦常に一同を爽かにする時たるを失はなかった。蓋し公會に現はるゝと同じ彼の賜物はかゝる家庭的の小集會にも同樣に現はされたからである。彼はあらゆる水のほとりに種子を下ろした。『君よ』、曾て或人が彼にいふた、『そう何千といふ人に語らるゝは定めし非常な責任を感ぜらるゝ事だらう』。『私は六人の人々に語るにも非常なる責任を感ずる』と彼は答へた。
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