二、『よ、彼は祈りてをり



 今や彼はよはひ四十五年を數へた。はなやかな放縱家ボヘミヤじん、大びらに罪に執着せるもの、時しもかれの經歷には革命が起った。あるひは彼が敬虔に言表いひあらはしてゐるやうに、『神は私におのたましひを気遣はしむるをしとし給ふた』。その時彼はダラスの借り入れた家でカルタを遊んで居たが、突然にはかやまひの感にとらへられた。カルタを下に置き、シガーを口から離して、死ぬるのではないかと怖れながら息子に云ふた。『私はしにびとだ。二階へ連れてってれ』。かくて彼はとこにあって、こんなかんがへひらめきこむを覺えた。『自分の心のくはだてに從っての四十年、これが自分に何になるか』。自問しながおもひなほも進む。『今數分で、自分は地獄だ。一生をそのため明渡あけわたして來たこれらの事柄は自分に何の善をしてれるか』。彼は祈りにおしやらるゝを覺えたが、又結局臆病者のいのりにすぎないと感じた。『今迄いまゝでやって來た事を悲しんでゐるのではない。自分の罪の刑罰をこはがってゐるのだ。しかなほ膝まづいてあはれみを求むる事をさせまいとする何物かゞあったが、それは火をともさうとしてそのへやの内に下女のをる事であった。その時もはや十分じっぷんとは生きまいと信じながら、又自分に取っては神の憐憫あはれみよそにして何ののぞみもありえないし、又その憐憫あはれみを求めなければ期待する事も出來まいと知りながら、これが私の性分であった。このをんなへやを去るまで待たうか、それとも彼女の居る前で膝まづいて憐憫あはれみを求めやうか。なほこれが自分に取って左右いづれすべきかを知らない秤衡はかりであったのである。神の惠寵めぐみって私はかの小娘の眼の前で自らをひざまづかしめた。しかしてこれは私の轉機てんきであった事を私は信じて居る』。

 翌日かれの誠意は證據だてられた。自分は爾後じご神に仕ふると家内中のものに發表し又遠くにある友人等には手紙を出した。又さながら以前からの不斷の習慣ならはしであったかの如く、彼は家族のための祈禱を指導し始めた。撞球棒どうきうぼうもカルタももはや觸れられない。しとやかな莊重さがかれ振舞ふるまひにきはだって來た。乃至ないしは昔の朋輩はうばいからあがる嘲笑の合唱コーラスにもいさゝかのひるみも見せなかった。しかかれ靈戰れいせんは長びいた。悔恨と神をあへぎ慕ふもだえの中に格鬪した。悲觀的な思想は無神論にさそって來る。何時間も何時間も砂利道を辿たどおもひをしながらも、これこそは後年彼が傳道中ひとに訴ふるすゝめのもとゐをなしたことばであるが、彼は絕えず絕叫した、『神はいま給ふ』と。

 友人等は過勞の結果氣でも狂はなければと案じたが、つひある夜の事である。眠られぬまゝにとこげ出して羅馬書ロマしょの第三章を讀み始めた。するとたちまちに、受け入れられをるとの確信の光はかれの魂に破れ込んだ。彼はこれらのことばを讀んだ。『今や律法おきてほかに神の義はあらはれたり。律法おきてと預言者はそのあかしをなす。すなはちイエス・キリストを信ずるにりてすべて信ずる者に與へたまふ神の義なり。そはこれには何らの差別あることなければなり』(廿一、廿二)。バネ仕掛しかけやうに椅子から跳上はねあがって彼は叫んだ。『しこの聖言みことばまことならば、私は救はれた者だ。これこそ神が私に呈供ていけうしゐ給ふものだ!』と。爭鬪たゝかひ鋭烈はげしかったのである。かの目に見るやうなバンヤンの繪と文字通りの符合を見る。『如何いかばかりの嘆息ためいきうめき聲とが基督者クリスチャンの心から破れいでた事であらう! 兩刃もろはつるぎでアポリオンを傷つけたと知るまで、彼があんな氣持よき容子ようすをしたのを私は終始見なかった。その時じつに彼はにっこり笑って天を仰いだ …… やがて一本の手が現れて幾片いくひらかの生命いのちの樹の葉を差出さしだしたので、基督者クリスチャンはそれを取っていくさで受けた傷に押當おしあてると、立所たちどころにそれがなほった。…… そうすると元氣づいたので、つるぎを拔いて手に持ったまゝ旅にいで立った』。

 この時から疑惑は去って不變のあかしを與へられた。罪を悔ゆる深刻な感じがかれの上にあった。次の新年から用ひ始めた聖書テスタメントにはこう書きつけられた。『その罪をて神の子を十字架にけし男、ビー・ノース』。又彼はやさしき感情をもって自らをかの宮の美麗うつくしの門においいやされた跛者あしなへに比べるのであった。『そのふしぎなるわざよりいやされたる人は四十歲餘しじっさいあまりなりき』(徒四・廿二)。

 長い間の聖書硏究と、多くの日のいのりのち、彼はつひ如何いかいやしい事なりともキリストのために働かうと决心けっしんした。まづ簡單なはじめとして、エルビンにてトラクトを持って『町の最も邊鄙へんぴところに出かけてった。彼は手始めとして一人の老婆に一枚を手渡したが、彼女は嘲りもせずに受取うけとったのにノースは一驚いっけうを喫した』。實際ある人々はかれの信實を疑ったり、又は彼もかの『あくリットルトンけうるいの人物ではないかと怖れたりなどして彼を避けた。しかし彼は彼らの無言の誹謗そしりも謙遜に忍び決してけは取るまいと决心けっしんしては、踏傍みちばたのトラクトにもその上に石を置いて飛ばないやうにさへして置いた。じつに全生涯を通じてトラクト配布に勉勵した彼ではある。て彼は今や御靈みたまの指導のもとに、貧しき人々の訪問を始めた。

 『御靈みたまひそかおほせた。「ブラウンロー・ノース、かしこにあの門番小屋に一人のをんながゐる。お前は彼女のもとって宗敎を語るべきはずである」と。しかし肉は言ふた。「そういふ事はなすべきではない。お前のたものはたゞお前のものとしておけ」と。しか御靈みたまはどうしてもやすきを與へ給はない。わたしつひに門番小屋にをるかの婦人のもといて聖書を讀み又しゅが私の魂になし給ひし事を語った』。

 斯樣かやうな使徒的單純さをもって彼は神に從ひ、如何いかに魂をべきかを學んだ。どんなこはれた小屋にも困らない。どんな塲合にも彼にはむづかしすぎはしなかった。エルジンの貧しい病める人々の中を行きめぐっては慰安ゐあんを供給し、暗黑無智のたみに對しては福音の美と全く救ひ給ふ神のそなへを說き示してやまなかった。こんなサマリヤ巡禮におともした一人の友はかう書いてをる。

 『私はこれらの訪問を决して忘れまい。こと一度いちど、何年もそのとこを離れることの出來ないある貧しいあさましいむくろそのものなる老婆を訪れたノース氏は小さい腰掛こしかけを取って腰を下ろし、蜜柑の皮をむいてやる。しかこれが周圍は語るだに胸の惡くなるへやの中においてゞある。私はこんなおつき合ひは到底出來ない。十五分もらうものならとんだおかげを蒙って仕舞しまふと感ぜずにはをられなかった』。

 しかし彼が傳道者として注目せられ評判せらるゝに至ったのはかゝる訪問の結果である。じつかれの眞價は長くかくされてはをれなかった。しかし彼が文字通り福音宣傳に『ひ込まれ』た事も事實である。彼此かれこれの瀕死の、あるひいたましい男又女をおとづるゝやう招かれてけばそこには彼に聽かうとする近隣の人のむれが待ってゐた。間もなく彼は毎夜家庭集會を營んでゐたのである。へやも階段も熱心な聽衆に一杯である。一週一回の集會のため高間たかまをしつらへてもなほ多くの人は入れなかった。かく續くるまゝにかれの聲はれ、休息と轉地のやむなきに至った。しかし間もなく再び活動に復し、自由敎會の牧師が留守になるのでノース氏がしなければ安息日には說敎がないといふやうな事のために、彼はもとのホーム、ダラスにおいはたらきを續けた。彼は承諾して驚きいぶかる聽衆の中にあって、かの感動を與ふる自分のおほいなるすくひの實驗を物語った。次の朝、かはに洪水があった。二人の子供は板子いたごで渡らうとして押し流され溺れた。その父は悲しんでゐる母のなぐさめをノースに依賴して來た。莊重な又情熱家なる彼にはもって來いのつとめである。彼は又同時に同情してって來てゐた群衆に說敎した。村をこぞってかどを訪れてゐたのである。說敎依賴の招待は迅速に增加した。しかして語るところ常に熱心なる聽衆のむれを見たばかりでなく、そこには又かの深遠なる靈の動きの神々しき面影おもかげ我儕われら所謂いはゆるリバイバルととなふるものが見られたのである。



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