神 の 奥 義 な る 基 督

一、 神 を 渇 き 慕 う

詩篇第六十三篇──渇いた魂の叫び



1 神よ、あなたはわたしの神、わたしは切にあなたをたずね求め、わが魂はあなたをかわき望む。水なき、かわき衰えた地にあるように、わが肉体はあなたを慕いこがれる。
2 それでわたしはあなたの力と栄えとを見ようと、聖所にあって目をあなたに注いだ。
3 あなたのいつくしみは、いのちにもまさるゆえ、わがくちびるはあなたをほめたたえる。
4 わたしは生きながらえる間、あなたをほめ、手をあげて、み名を呼びまつる。
5,6 わたしが床の上であなたを思いだし、夜のふけるままにあなたを深く思うとき、わたしの魂は髄とあぶらとをもってもてなされるように飽き足り、わたしの口は喜びのくちびるをもってあなたをほめたたえる。
7 あなたはわたしの助けとなられたゆえ、わたしはあなたの翼の陰で喜び歌う。
8 わたしの魂はあなたにすがりつき、あなたの右の手はわたしをささえられる。
9 しかしわたしの魂を滅ぼそうとたずね求める者は地の深き所に行き、
10 つるぎの力にわたされ、山犬のえじきとなる。
11 しかし王は神にあって喜び、神によって誓う者はみな誇ることができる。偽りを言う者の口はふさがれるからである。

 この詩人の叫びは、神の「力」と「栄え」を見ることであります(二節)。これは渇いた魂の叫びであり、心霊的に「荒れ野にある」魂の叫びであります。「あなたの力と栄えとを見るように」!
 出エジプト記二十四章を見ますと、山の麓において血潮が灑がれ、その血のゆえに七十人の長老たち、およびモーセとアロンが山に登ることができ、イスラエルの神を見ることができたと記されております。
 私共お互いは、このたび、この聖会の山に登って参りました。もしも御血に頼りつつ、この詩篇の語る恵みをあこがれてまいりますならば、私共もまた、イスラエルの神を見たてまつることでありましょう。『世はもはやわたしを見なくなるであろう。しかし、あなたがたはわたしを見る』と、主イエスは仰せられました(ヨハネ十四章十九節)。お互いは、聖霊によって主を拝し奉り、主は、今ひとたび、私共の心の中に、ご自身を顕し示し下されることでありましょう。私共は、顔覆いなくして主を拝し、その栄光を見たてまつり、栄光から栄光へと進み、聖霊の御力によって、主と同じかたちに化せられるのであります。
 さて、私共は、この詩篇を学び、その願望を満たされるために、この詩人のとった段階を見たいと思います。
 まず、彼は、『神よ、あなたはわたしの神』と始めます。これは、実に、幸いな始めであります。私共は神の聖霊によって新生し、永遠の命の確かな望みを懐いていると信じます。ですから、私共は『あなたはわたしの神』と叫ぶことができます。
 これは私共の要する一切ですが、理論上はそうです。『あなたはわたしの神』と言い得るならば、私共は天の処にある霊のすべての恵みで、すでに恵まれております。しかし、私共はキリストに在って私共のものである富を、もっと経験することが必要です。私共のためには、もっともっと、続いて来る恵みがあります。ゆえに、私共は熱心に、なお勝ったものを求めます。ここに三つの段階があります。
 一、わが魂は……かわき望む(一節)
 二、私の魂は……飽き足り(五節)
 三、私の魂は……すがりつき(八節)

一、わが魂はあなたをかわき望む

 あるお方は、たしかに、霊的に渇いて、聖潔の必要を示されていると思います。あなたは今までの生涯と奉仕を振り返って、はなはだ不満足を覚えています。もっと深い恩寵の業の必要を感じさせられます。よろしい、もしきよきに対して饑えと渇きとがあるならば、神に感謝しなさい。神はあなたに会いたまいます。豊かに恵みたまいます。
 『わが魂はあなたをかわき望む』。私共は主ご自身を要します。彼こそは私共の願うすべてです。そして、それをこそ、私共は要するのです。主は私共のすべてのあこがれを満たしたまいます。その『いつくしみは、いのちにもまさり』ます(三節)。すなわち、生命そのものを所有しているよりも、主の恵みに与る方が、はるかに優れてよいと言うのです。これは無上の願望です。ですから彼を求めます。私はこれを力説したいと存じます。時には、その欠乏を示されながら、なお教義を求め、経験を求めて、神様ご自身を求めない魂があります。私共は彼をかわき望むゆえに、彼を求めるのであります。
 『私は切にあなたをたずね求め』。私共は彼を、その御言みことばの中に求めとうございます。どんなに偉大な御救いを期待しうるかとたずねましょう。私はほんとうにきよくなれるのか。ほんとうに聖霊に満たされ得るだろうか。キリストが私の中に顕現され、そして、以後、私は主の中に、主は私の中に宿るなど、ほんとうにできることであるか。こういうあなたのあこがれは、たしかに、あなたを神の御言へと連れて行くと思います。どうぞ神の御言の上に時間をかけなさい。聖書をしてあなたに語らしめなさい。主はあなたを愛して、あなたのためにご自身を与えなさいました。これは、水の洗いをもって御言によってあなたを潔め、あなたを聖なる者となさるためであることを悟りなさい(エペソ書五章二十五節)。祈禱のために時間をとりなさい。あなたの祈禱は、ただお願いすることばかりでなく、神との交際であるように。主を知り申し上げなさい。聖顔みかおを拝するように求めなさい。
 そして、私共は、また、讃美しつつ主を求めましょう。『わがくちびるはあなたをほめたたえる』と言い、『わたしの口は喜びのくちびるをもって、あなたをほめたたえる』と言っております(三、六節)。それは、あるいは、沈黙の讃美であるかも知れません。私共の周囲に、何か神の創造の美を見る時のように、または、キリストの御言を心の中に豊かに住まわしめる時のように、内心の讃美でもありましょう。御言の中に主を求めましょう。そして、祈禱の中に、また讃美の中に、主を求めましょう。『わたしは切にあなたをたずね求める』。熱心に、すなわち、あなたを求めるためには他のものは打ち捨てますと。心して、真に、彼を求めなさい。それは私共は彼を饑え渇きおるのです。静かに、ただひとり、主を求めましょう。主に近づき奉るために、時間をかけて待ち望みましょう。

二、わたしの魂は……飽き足り(五節)

 詩人は祈りました。神を尋ね求めました。いまや、確信を懐きます。私共のすべてのあこがれが満足させられることは可能ですか。私共のすべての願いにかなえられますか。安息のできるほどに、全く、満足させられますか。「飽き足りる」! これは、旧約・新約聖書中に、しばしば出てくる大文字であります。
 真にあなたの魂が飽き足らわしめられるように神に求めなさい。単に恵みの幾しずくかではなく、あるいは僅かの慰め、もう少しの喜びばかりではなくして、あなたの魂が『髄とあぶらとをもってなされるように』(六節)飽き足りることができるように、げに、神がその王の富の中から与えようと備えておる最上のものをもって、もてなしたもうように求め奉りなさい。主は天の恵みを与えようとして備えていたまいます。全き恵みを与えようと備えていたまいます。『わたしの魂は髄とあぶらとをもってなされるように飽き足り』。
 私は、皆様が、たしかに、信仰もて神に近づきつつあると思います。そして、ここに登って来たときと同じ姿ではこの山から下り行かない。そこには、たしかに、変化がある。すなわち、ここで真に、神にまみえ奉ったことのゆえに、変わった者として下りて行かれることと思います。さながら、髄とあぶらとをもって飽かしめられた者のように、受けましたから、もはや、求めていません。求めても、なお受けない者のようには下り行かないことを信じます。これこそは、信仰と期待とをもってご自身を求める者に、主イエスがなしたまいたく思し召されるところのことであります。

三、以上の結果は『わたしの魂はあなたにすがりつき』(八節)

ということでありましょう。結果は生命の新しさであり、かつてなき神とのより近い歩みでありましょう。
 ペテロは主に従って審判所まで行きましたが、彼は『遠くからイエスについて行き』ました(マルコ十四章五十四節)。これは彼が、困難と罪とわざわいとに陥った原因でありました。
 私共は、おのおの、この願いを眼の前に置いて進みたい。すなわち、今後、右にも左にも曲がることなく、主にすがりつき行きとうございます。主の歩みたもうたように、その残したもうた模範のように歩みとうございます(ペテロ前書二章二十一節)。
 このように、私共が第一節の『わが魂はあなたをかわき望む』の御言みことばをもって始めますならば、私共は五節に進み、『わたしの魂は飽き足り』というに至りましょう。しかしてその結果は、たしかに、八節でありましょう。すなわち『わたしの魂はあなたにすがりつき』と。



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