神 の 奥 義 な る 基 督

二、 ピ リ ピ 書 の 研 究

── 純 粋 な き よ め ──



 新約聖書の各書翰は、きよめの小冊子であります。どれも、みな、信者たちを励まして、より深い真理を握り、より進んだ経験に達するようにと、それぞれの小教会へ書き送られたものであります。
 きよめについての一番良い本は何ですか、全き救いに導きたいと思う人に、送るのに何か良い本がありますかとは、よく尋ねられるところでありますが、神の御言みことばほど良い、また、明白なものはありません。ことに、これらの書翰は最上のものであります。恐らくこれほど、人を恵みの盈満えいまんに導くものは他にありますまい。
 この書翰の中心思想、また、使命のことばは、一章二十一節であります。

 『わたしにとっては、生きることはキリストであり』

 キリストは充分であります。キリストはすべてのすべてであります。キリストはあなたのすべての必要を供給したまいます。ゲルハード・テアシテーデンは救霊とリバイバルの恵みのために、非常に神に用いられた人でありますが、彼はそのメッセージを、いつも、次のように要約いたしました。「キリストは、もし全くこれを自分のものとすれば、一切、彼のみで充分である」と。
 誰のためにも、キリストは充分であります。しかし、誰でもまず、彼を全部自分のものとしなければなりません。『わたしにとっては、生きることはキリストである』。これこそは、パウロがピリピにある彼の愛する信者たちに生活せよと奨めてやまないところのものでありました。
 使徒行伝十六章には、あのピリピにおいての著しい働きが記されております。心の開かれたルデヤのこと、悪魔の力から救われた小娘、また、獄吏は地震を通して救われました。これらはピリピの三人の回心者でした。他にも、もっとありましたろう。パウロは、いかに、彼らを愛しましたか。一章三節から見ましょう。

 『わたしはあなたがたを思うたびごとに、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈るとき、いつも喜びをもって祈り、あなたがたが最初の日から今日に至るまで、福音にあずかっていることを感謝している。そして、あなたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。』(一章三〜六節)

 パウロは伝道者であるとともに、また、何たる素晴らしい牧師であったことでしょう。彼はこの書翰の中にあるような、これらの驚くべき真理を教えて、いかに彼らを全き満ち充ちた救いに導き入れましたか。そして、彼の教えはこの一語に尽きます。曰く、『わたしにとっては、生きることはキリストである』と。言いかえれば、「キリストをして私の生涯の力たらしめ、私の従って行く模範たらしめる」というのであります。
 かのメイフラワー号に乗って大西洋を横断した者たちの中に、その日記の中に次のように記した者がありました。「キリストの生きたもうたように生きること、これこそは私の祈りです。この新しい地において、不断、常住、キリストを顕しまつるように」と。そして、これはまた、私共の祈りでもあるはずです。
 各章の教え:本書の各章を全体として見ますと、
 第一章「キリストを生活すべきこと」(二十一節)
 第二章「キリストの思い」(五節)
 第三章「キリストを得る」(八節)
 第四章「万事キリストによって」(十三節)


第一章「キリストを生活しなさい」

 パウロはキリストが彼らの中に働いていることを確信しておりました。『あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している』(六節)。ですから、より深い恩寵のわざが彼らの心中に必要であり、また、パウロは、善きわざを始められたキリストはそれが全うされるまで続けたもうことを知っておりました。彼らはキリストを知りました。しかし、もっと必要でした。キリストは彼らをきよめたいと、なおも求めていたまいます。すでに知ったところよりも、なお深い経験へと導きたもうのであります。
 庭に薔薇が生えています。樹液は、春早い頃から、枝々をめぐります。芽が出て、小さい蕾があちこちに見え始め、やがて綺麗な薔薇の花となり、爛漫たる花盛りになります。信者もみな、そのようである筈であります。信者はみな、そのうちにキリストの生命いのちを持っております。そしてその生命は、あの薔薇の樹液のように、再創造の働きをいたします。あなたの衷にあるキリストの生命は、つねにあなたを栄光から栄光へ、主と同じかたちに化せしめる力であるでしょう。薔薇の衷にある生命は満開にまで至らせます。あなたの救いの究極、キリストがあなたの衷に生きていましたもう結果は、主ご自身の像に成ること、主の御姿にまで完成されることであります。あなたの衷に善きわざを始めたもうた御方は、最後まで、継続してくださいます。

彼らのための祈禱

 パウロは、これらの弟子たちの衷に、主が働いておるのを知っていますから、彼らのために、四つの恵みを祈り求めます。
 一、愛の増し加わること

 『わたしはこう祈る。あなた方の愛が……いよいよ増し加わり』(九節)

 より深く、より満ち満つる愛! これはすべての信者の進歩であるべきであります。
 二、知識の発達

 『深い知識において、するどい感覚において……それによって、あなたがたが何が重要であるかを判別することができ』(九、十節)

 すなわち最も優れたことを判別すること、あなたに対する神の旨の何であるかを知ること、神は如何なる道をあなたに取らせることを願いたもうか、などを知るべきであります。
 三、透き徹る純潔

 『純真で責められるところのないものとなり』(十節)

 この純真という文字は、ギリシャ語に多くあるように、絵画的な語で「最も強い光の中に吟味されて、それでまじりのない純潔が見られる」という意味であります。信者は透き徹ったきよさをもって、純真であるべきであります。何の秘密も偽善も虚偽もあってはなりません。
 四、豊かな結実

 『義の実に満たされて』(十一節)

 ヨハネ伝十五章を見ますと、キリストにおる者は『実』を結ぶ、『もっと豊かに実らせる』、『実を豊かに結ぶ』と言われております。これは恵み深くも可能である進歩であります。もしも、私が妨げさえしなければ、私共は多くの実を結ぶに至り、『義の実に満たされ』という祈禱いのりは答えられる次第であります。

福音の勝利

 そのようにキリストは心の中に勝利を得たまいます。そして主はまた、福音の働きにおいても、勝利を得たまわれるのであります。一章十三節、

 『すなわち、わたしが獄に捕われているのはキリストのためであることが、兵営全体にもそのほかのすべての人々にも明らかになり、そして兄弟たちのうち多くの者は、私の入獄によって主にある確信を得、恐れることなく、ますます勇敢に、神の言葉を語るようになった。』

 何たる勝利でしょう! 主は囚人でさえあるパウロの証言を用いて近衛の士官たちの間に働いていたまいました。悪魔はパウロの働きが、いまや終わりとなることを願いました。しかし、キリストはこのような時、このような所においてさえ勝利を得て御名みなと御救いとを多くの人に顕したもうたのであります。
 キリストは、また、布教者たちが心の中に争いを持っていたにもかかわらず、勝利を収めたまいました。そして宣べ伝えられるところはキリストですから、パウロは喜びます。しかり、いよいよ喜ぶのであります。
 かく主イエスの御働きはすべての方面にわたっておりましたから、パウロは死さえも、大きな利益となることを承知しております。

 『わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。』

 彼は主イエスが一切を統べ治めていたもうことを知っておりました。ゆえに『生きるにも死ぬにも』、もし、キリストさえ崇められたもうならば、彼は喜んだのであります。一切は主のご計画の中にある。主は一切を導きたもう。ゆえに万事は主の栄光となり、福音の進歩の助けとなると彼は知っておりました。パウロは切迫している死の危険に直面しながら、キリストさえ崇められたもうなら、万事、善であると言うのであります。
 ゆえにパウロは、かく活けるキリストの力の活きた画を若い信者の目前に示しつつ、次のように命じております。

 『ただ、あなたがたはキリストの福音にふさわしく生活しなさい。そして、わたしが行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、あなたがたが一つの霊によって堅く立ち、一つ心になって福音の信仰のために力を合わせて戦い』(二十七節)

 パウロは彼らに届いたこの驚くべき福音に価して生活するよう、キリストを生活に現すようにと命じるのであります。


第二章「キリストの思い」

 『キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。』(五節)

 すなわち、もし私共がキリストを生活しているのならば、彼の御思いをして私共の思いをつかさどらしめよと言うのであります。私共にかかわる万事、私共の境遇、私共の計画、私共の将来に関して、主の御思いを持ちましょう。
 パウロはこの章を、私共はキリストに在って、すでに多くのものを頂いていると言って、始めております(一節)。『そこで、あなたがたに、キリストによる勧め』、これはたしかにあります。『愛の励まし』、何といううるわしい表現でしょうか、私共には神の愛の慰藉があります。そして、また兄弟姉妹たちの愛の慰めもあります。『御霊の交わり』、私共は御霊とともに歩むことを許されております。その愛を識り、その教導にあずかることが許されております。故に、そこには「謙遜あれ」と、彼は命じるのであります。

 『何事も党派心や虚栄心からするのではなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりもすぐれた者としなさい。おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。』(三、四節)

 私共がキリストを生活しているならば、これは私共の衷にある思いでありましょう。謙遜、柔和、自分よりも他人が勝っている者とする尊敬の思い、他人のことにも心を配る思いであります。
 さて、ここからパウロは、このキリストの思いの四つの偉大な実例を私共に示します。

一、キリストご自身

 まず、キリストご自身の偉大な実例であります。キリストは如何に最高の天から十字架にまで下りたまいましたか。この七つの驚くべき段階を彼は示しております。

 1.『キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず』(六節)

 主は喜んで第二の地位を取りたまいました。

 2.『かえって、おのれをむなしうして』(七節)

 主はすべての栄光を後にしたまいました。

 3.『しもべのかたちをとり』(七節)

 これはなお一段と低い段階でありました。しかも天使長としての僕でもあり得ましたろうに、なお低く下りたまいました。

 4.『人間の姿になられた。』(七節)

 最も低い地位をとりたまいました。

 5.『その有様は人と異ならず、おのれを低くして』(七、八節)

 なおも低く。

 6.『死に至るまで』(八節)

 主は地上において全き人にいましたまいました。死にまでは至りたまわなくてもよかったのではありますまいか。否、主は死に至るまで従いたまいました。しかも、最も恥ずべき、最も痛ましい死にまでしたがいたまいました。

 7.『しかも十字架の死に至るまで従順であられた。』(八節)

 以上は栄光から十字架へ、キリストの取りたもうた謙遜の七段階でありました。つねに、下へ下へと下りて行く段階でした。キリストもし私共の衷に生きていたまわば、私共の生活は、つねに、謙りでありましょう。私共は神の御前みまえに、つねに下に、更に下に、一切を明け渡しつつ、下りて行く生涯でありましょう。献身は、実に、大切でありますが、単なるただ一度だけの行為ではありません。これに引き続き、より深き謙遜へ、一層現実、実際的な自己の死へと下り行くべき踏み出しであります。

二、パウロ自身

 『そして、たとい、あなたがたの信仰の供え物をささげる祭壇に、わたしの血をそそぐことがあっても、わたしは喜ぼう。あなたがた一同と共に喜ぼう。』(十七節)

 もし私がキリストの実例に文字通り従い、あなたがたの繁栄のためには、私自身を死に至るまで与え尽くしてしまわなければならなくても、私には、ただ、喜びあるのみ、あなたがたすべてとともに、喜ぶのみであると、パウロは第二の実例として、彼自身の感慨を述べるのであります。

三、テモテ

 『さて、わたしは、まもなくテモテをあなたがたのところに送りたいと、主イエスにあって願っている。それは、あなたがたの様子を知って、わたしも力づけられたいからである。テモテのような心で、親身になってあなたがたのことを心配している者は、ほかにひとりもいない。人はみな、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていない。しかし、テモテの練達ぶりはあなたがたの知っているとおりである。すなわち、子の父に対するようにして、わたしと一緒に福音に仕えてきたのである。』(十九〜二十二節)

 すなわち、テモテも主イエス・キリストの御足跡に従いました。彼はキリストの心を持っておりました。彼は己のことを求めず、他人のことを考えました。テモテはこれらの若い信者たちの身の上を案じ、また、キリスト・イエスのことを求めたのであります。

四、エパフロデト

 『しかし、さしあたり、わたしの同労者であり戦友である兄弟、また、あなたがたの使者として私の窮乏を補ってくれたエパフロデトを、あなたがたのもとに送り返すことが必要だと思っている。彼は、あなたがた一同にしきりに会いたがっているからである。その上、自分の病気のことがあなたがたに聞えたので、彼は心苦しく思っている』(二十五、二十六節)。

 また、三十節には、

 『彼は……キリストのわざのために命をかけ、死ぬばかりになったのである。』

 『命をかけ』、彼がパウロに協力して、そしてキリストに奉仕する機会を得たとき、おのが命をさえなげうとうとしました。彼は自分の利益、自分の安慰なぐさめよりも、人の祝福をこいねがったのであります。
 私はもう一人の実例を引用したいと思います。エクスターのジョセフ・アレンは、牢獄において、受難と痛苦のために心身を消耗しつくして、三十五歳の若さをもって逝きました。彼の若い妻は、彼が福音を宣べ伝えるために通らなければならない一切の苦難に、深く心を痛めました。そこで彼に書き送って、「主は私共の僅かばかりの外部的の不利益を補ってくださるために、外部的にも内部的にも、いろいろたくさんの方法を持っていたまわないことがありましょうか」と言って、更に「イエス・キリストは決して私共の負債者などにはなりたまいませんよ」と記しました。かく、ジョセフ・アレンはキリストの心を持ち、日々、福音を伝え進みました。彼は暁に起き出ては聖言みことばの上に主を求め、かく、朝まだき、得た新鮮なマナの力で日々を送りました。彼は実際に天的な思いの中にその生涯を送り、福音を宣べ伝えたのであります。彼の伝記者は申します、「彼は救霊のためには飽きるということを知らない人であった」と。これが彼に、この福音宣伝のために、彼の健康を、そしてその生命そのものをも賭けさせてしまったのであります。『キリスト・イエスの心を心とせよ』(前訳)。キリストの生命いのちは、皆様の心にも、必ずやこの御心みこころをもたらすことでありましょう。


第三章「キリストを得る」

 『わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大なる価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり』(八節)

 パウロは彼の求めた恩寵を、すでに、得てはいなかったか。満ち足りた救いを、すでに、得はしなかったか。主イエスを彼のすべてとして知り奉ってはいなかったか。しかり、その通りであります。しかし、彼は、なおもキリストにつけるまされるものを得ようとする深い饑えと渇きとを持っておりました。主の恵み深いことは、すでに、味わい知っておりました。そうであればこそ、更に主につけるものに対しては一層饑え渇いたのであります。おお私共も、みな、この饑えと渇きとを持たんことを!
 ヨシュア記十三章一節を見ますと、同じ真理が型と譬えによって示されてあります。

 『さてヨシュアは年が進んで老いたが、主は彼に言われた。「あなたは年が進んで老いたが、取るべき地は、なお多く残っている」』。

 彼らはヨルダンを渡りませんでしたか。エリコをとりませんでしたか。この地のただなかに壇を築いて、全地は彼らの所有であると宣言されたのではありませんか。三十一王は、すでに、撃破殲滅、すべての期待は実現したのではありませんか。そうです。しかし、神は仰せたまいます。『取るべき地は、なお多く残っている』と。そして、クリスチャンよ、よし主はあなたを驚くべく導き、豊かな恩寵を嗣がせたもうたとしても、なお取るべく多くの地が残っております。パウロ自身、これを実感いたしました。すべてのきよめられた人もそう感じます。パウロはなおも神を饑え渇き、より多くの恵みを渇き求め、なおも、身を祈り屈めて、生命の水を充分に、また、自由に飲もうと求めたのであります。ですから、彼はここで『キリストを得る』と言います。彼は、三十年前、すでに一大決意をしたのです。が、なおも目当てに向かって肉薄するのであります。

 『わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。』(七節)

これは彼が回心の時にした決心です。彼は後悔しましたか、怠りましたか、ご覧なさい。

 『わたしは、更に進んで、わたしの主イエス・キリストを知る知識の絶大なる価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり』(八節)

 彼は申します。「わたしはこれを実現した、かの決心を果たしました。わたしはキリストのためにすべてのものを損であると計算しようと決心しましたが、その通り実行しました。すべてを損したが、わたしの決心は依然同じです。このことに関するかぎり、わたしの決心は微塵も変わりません」と。彼は決心して以来、その決心を生活し、今、なお、同じ思いであるのであります。
 そして私は、キリストのために大いなる決心をなされた皆様もその如く生活し、今、なお、キリストのためには、すべてを損であると思うに相違ないと思うのであります。
 さて、これらのことの故に、今や、彼はキリストと全く一つになりたいと願うのであります。

 『キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり』(十節)

彼は申します。「願わくは御苦難において、また、したがって彼の勝利において、主に統合されんことを。願わくはキリストわがうちに生きたもうゆえに、苦難にあずかり、その勝利にあずかり得んことを」と。
 今から百年前、チャールズ・シメオンは、ケンブリッジ大学において、一つの大きな勢力でありました。彼はある教会の牧師であり、彼の大学の特待校友でありましたが、今日のケンブリッジ大学クリスチャン同盟と呼ばれる人々は、長い間、シメオン党と呼ばれたほどで、これは彼の模範と教えとの著しい証明であります。チャールズ・シメオンは福音を伝えるために、当時、非常に苦しめられたものであります。他の連中はこれを好みません。できれば、彼を沈黙させてしまおうとして、苦々しい迫害を加えました。ある日、迫害のただなかに、圧迫されること甚だしく、ために、神様に、何か慰めの御言を求めました。書翰をと思って開いたギリシャ語の新約聖書がさかさまでした。それをまわして読むと、

 『人々……シモンといふクレネ人……をとらへ、十字架を負はせて……従はしむ』

とありました。シモンはシメオンと同じ語です。これは彼にとって非常な慰めと励ましでありました。彼は言う、「あちこち、歩きまわっていると、キリストのあとから十字架を背負っていくことの特権が、まざまざと、思われました。それが私の上に置かれることのどれほど驚くべき栄誉であるかが見えました。私の心は主に昂げられました。そして祈りました。『主よ、それを、私の上に置いてください』と」云々。彼はパウロとともに、キリストの苦難にあずかることを祈っておった次第であります。
 さて、パウロはかく願います。それは彼の心の中に大いなる望みがあるからであります。

 『なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。』(十一節)

 彼は第一の甦りにあずかること、主イエスに会うために携え挙げられること、羔羊こひつじの婚姻の宴席につらなることをあこがれておるのです。彼はたしかにこれに到達しうるとは確信いたしません。その救いに関しては少しも疑いはありません。彼は永遠の栄光に行きつつあることは確信しておりました。彼は申します。

 『わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。』(コリント後書五章一節)

 しかし、彼は第一の甦りに達するかは確かではありませんでした。それが彼の大いなる願望であり、あこがれでありました。おお、これは、また、私共のあこがれでもあらんことを! さらば私共も、また、キリストを、彼の満ち充ちている充全において、得ようと求めることでありましょう。後のものを忘れ、前のものに向かって励み、目当てに向かって肉薄することでありましょう。『小羊の婚宴に招かれた者は、さいわいである。』すべての救われた者が、皆、かく招かれるというのではありません。
 皆様は長距離競走を見たことがありますか。ケンブリッジ大学では、三里競争において、競争者はグランドの周りを九回走ります。皆、スタートを見守ります。あなたは、あるいは誰か友人に力こぶを入れていられるかも知れません。スタートしました。一回走って二回目に入りました。差がついて来ました。しかし、まだ、本気ではありません。何回も廻りました。多分、十五分くらいかかります。あなたは少し気が弛むかも知れません。あちこちには、雑談の声も聞こえます。選手たちは、依然、走り続けています。ついに、幄舎テントの中から、鐘の声が響きました。最後のコースに入ったのです。今や、ぼんやりしている者は一人もありません。いよいよ、最後の一回りです。あるいは、今までに落伍した選手もあるかも知れません。走っている者も懸命ならば、観衆も本腰です。最後のスパートをかけました。一人が先頭に立ちました。次が抜きました。また抜かれました。競り合っています。観衆は興奮のるつぼです。無頓着にしている者は一人もありません。皆それぞれ、知人の名を呼んでいます。歓声を揚げています。満場白熱、ついにテープは切られました。競技は終了しました。
 私共は、今や、最後のコースに入っているのかも知れません。さながら、主、再び来たりたもうて競技の終了直前の如くです。今はクリスチャンが心を弛めておるべき時ではありません。全力を打ち込み、全勇気と感激とを打ち込んで走るべき時です。今は最後のコースです。やがて速やかに、私共のコースは終わりましょう。勝利か、永遠の損失ですか。
 パウロは、何か、このような切迫感を持っておりました。ですから、『なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである』と申します。おお、私も、願わくはかの小羊の婚宴に招かれる幸いな者の中に在り得ますように!
 『キリストを得る』! 決して渣滓おりの中に居着いてしまいなさいませんように。そして、「救われたときに、皆、得ているのだ」などと言ってはなりません。
 決してそうではないのです。あなたのために、もっと、もっと、備えられております。キリストを、その満円において得るために、あなたは自分を奮い立たしめなければなりません。


第四章「万事キリストによって」

 『万事キリストによって、わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。』(十三節)

 この章においては、キリストが私共を力づけたもうによって得られる七つの恵みが述べられております。

一、不断の喜び(四節)

 『あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。』

 あなたはあなたに力を与えたもうキリストによってかくすることができます。

二、煩わされない自由(六節)

 『何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもっていのりと願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。』

三、絶えない、また、増していく平安(七節)

 『そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。』

 これはまったく「キリスト・イエスによって」であります。これらの驚くべき恵みは主イエスの御力とその祝福ある御働きとによって私共に与えられます。

四、うるわしい事柄をおもう思い(八節)

 『最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。』

 すべて、これらのことは、みな、キリストによってであります。

五、完全な満足(十一節)

 『わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。』

六、全能の力(十三節)

 『わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。』

 どんなクリスチャンでも、弱くあるべき筈ではありません、私共は私共を強くして下さるおかたによって、すべてのことを為すことのできる特権があります。

七、一切の欠乏に対する無尽蔵の供給(十九節)

 『わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう。』

 願わくは神この書翰を私共に啓き、衷に宿りいたもうキリストのメッセージを、銘々に示したまわんことを! 願わくはこの書翰が私共を励まして、より深い恩寵、より高い恩恵を求めしめたまわんことを!
 ここに皆様は、純粋なホーリネスを有します。ここに皆様は、キリストがご自身のものである各々に頒け与えようと思し召していられるところのもの、各々の衷に働こうと用意していられるところのものを持つのであります。『あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいない』(一章六節)。



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