第 二 十 四 章  聖 霊 の 宮



爾曹なんぢらは神の殿みやにして神のみたまなんぢらのうちいますことをしらざる』(コリント前書三・十六


 神が聖霊として私共の内に住まいたもうことの型として宮という比喩を用いることで、聖書は私共をアナロジーの研究へと招きます。宮とはすべてモーセが山で示された雛型に従って建てられており、その雛型とはそれが象徴する諸々の永遠の霊的実在によって投じられている影にほかなりません。神の真理は限りなく豊かで満ち充ちたものであり、実に多くのさまざまな事柄に当てはめることができるものですが、その中の一つとして神の宮という型があらわしている霊的実在は、人間の三重の本性です。人間は神の似姿として創造されました。したがって、宮は、人間が神の臨在に近づくという秘義を象徴するものであるだけでなく、また神がそこに住まうために人間の中に入りたもうその方法をも同様に象徴しているのです。

 宮が三つの部分から成っていることはご存じと思います。まず外側に、誰もが見ることのできた外庭がありました。外庭にはイスラエル人は誰でも入ることができ、外部に向けた宗教的儀式はすべてここで執り行われました。次に聖所がありました。そこには祭司だけが入ることができ、外から持ち込んだ犠牲の血とこう、パンと油とを神に献げるのでした。そして幕がありました。祭司たちはそこに近づくことはできましたが、その中に入って神と直接に面会することはできませんでした。神は誰も立ち入ることができない至聖所に、近寄ることのできない光の中に住んでいたまいました。年に一度、わずかな時間だけ大祭司がそこに入ることができましたが、それは、幕が裂けて除去されるまでは誰ひとりそこに入ることができないという絶対的な真理を確認することだけが目的でした。

 人間は神の宮です。人間の中にも三つの部分があります。私共の肉体は外庭です。それは目に見える外的な生であり、そこではすべての行為が神の律法の支配を受けます。そこに行われる礼拝とは、私共の周囲に私共のために存在する物事がいかに私共を神に近づかしめるかを確認することに尽きます。次に心があります。そこには内的生命があり、知性と感情と意志の働きがあります。新生した人にあっては、ここは聖所です。そこでは聖所で奉仕する祭司たちのように思想と情動と願望が働き、全き意識をもって神に礼拝を献げます。そして幕の内側に至聖所があります。ここは『至上者いとたかきもののもとなる隱れたるところ』(詩篇九十一・一)であって、すべての人間の視界と光から隠されています。そこには神が住みたまいますが、神ご自身の意志によってその幕が裂かれるまでは、人は入ることができません。人間は肉体と心だけではなく、霊をも持っているのです。心と意識の及ぶより一層深いところに霊的本性があって、人間と神とを繫いでいるのです。罪の力は大きく、ある人々にあってはこの場所が死んでおります。彼らは肉欲に支配され、聖霊を持ちません。別の人々の場合はこの場所は休眠しており、聖霊の働きを欠いた空虚な場所に過ぎません。しかし信者の場合は、その場所は既に聖霊に所有されている心の内なる部屋であり、聖霊は彼の心と肉体を神に聖なるものとするべく、その場所から栄光ある働きをなし始めようと待っておられるのです。

 しかしながら聖霊が既に宿っていても、それを認識せず、それにゆだねることをせず、崇敬と愛のうちに謙遜をもって大切に守ることもしないのであれば、それは比較的に小さな祝福しかもたらしません。私共が聖霊の住まいたもう神の宮であるという真理から学ぶべき最大のことは、私共の内に住まう至聖の臨在を認めて受け入れるということです。このことによってのみ私共は、外庭を含めた宮全体が聖霊の働きのために聖別されたものと見ることができるようになり、また私共が生まれつき持っている力のすべてを聖霊の導きと意志に献げることができるようになります。神殿のうちの最も神聖な部分は至聖所であって、他のすべての部分はこのために、またこれに依存して存在していました。祭司たちは決してそこに入ることができませんし、そこにいます栄光を目にすることもできませんが、それでも彼らはそこに見えない臨在があるという思いによってその行動を律し、その信仰を奮い起こしました。この至聖所によって犠牲の血のそそぎや立ち昇るこうの煙が意味あるものとなり、神に近づき、再び外に出て祝福する信任を与える恩恵となりました。祭司たちの働く場を彼らにとって聖なる場所とするのはこの至聖所でした。この幕の内に住まう目に見えない栄光を信じる信仰によって、彼らの全生活が律せられ、霊感を与えられていたのです。

 信仰を持つ者においても全く同様です。神の聖霊が彼の内に住まっておられるのですから、その人は自分が神の宮であるという驚嘆すべき奥義の現れの前におののき立つことを信仰によって学ばなければなりません。そうすることによって初めて人は、聖なる崇敬の念をもって、またそうすべきだという喜ばしい確信をもって神の召命に自らを献げることができるようになります。人が聖所である自分の心にのみ目を留めている限り、すなわち自分の心の内をよぎるもののみを見て知るだけである限り、彼が聖霊を求めてもしばしば徒労に終わってしまいますし、また自分の働きが少なく弱いことを苦い恥じらいをもって認めるだけに終わります。私共一人ひとりが自分という宮の中に至聖所があることを知ることを学ばなければなりません。私共のうちなる『至上者いとたかきもののもとなる隱れたるところ』こそが宮における奉仕の中心的真理とならなければなりません。このことが私共の『我は聖霊を信ず』という信仰告白の真の意味なのです。

 それではこの隠れたる内住を信じる深い信仰はどうすれば私共のものとなるのでしょうか。私共は神の幸いな聖言みことばの上に立ち位置を定め、その教えを受け入れて適用しなければなりません。そこに言われているとおりのことを神が実際になそうとされていると信じなければなりません。わたしは神の宮であります。それは昔に神が命じて建てさせた宮とちょうど同じでありまして、そこにわたし自身がそうなるべきところのものを見るようにと神は聖書に示しておられるのです。そこでは至聖所が中心点であり、本質的要素でした。幕がある間はそこは暗い内密の隠された部屋でした。それはただ信仰の対象であって、祭司と民衆とに信ずることだけを要求しました。わたしの内なる至聖所も同様に目に見えない隠されたものであり、ただ信仰のみがそれを知り触れることができます。聖なるものに近づく時には深いへりくだった崇敬の念のうちにひれ伏さなければなりません。そしてわたしは神のおっしゃることを信じますと言わねばなりません。父と子とともにある神なる聖霊が今にもわたしの内に住みたまいますと言わねばなりません。真理の圧倒的な栄光がわたしの上に臨み、わたしが聖霊の宮であること、そしてその秘められた場所で聖霊が御座みざに君臨したもうことを信仰によって事実と認められるようになるまで、黙想して静まりとうございます。日々わたしが黙想と礼拝に身を委ね、わたしの存在全体を開いて聖霊に明け渡すなら、その時に聖霊はその神たる愛の生ける力によって、その臨在の光をわたしの意識の中に向けて照らしたまいます。

 この思想が心を満たす時に、内住の秘められた臨在に対する信仰が影響力を発揮します。聖所は至聖所によって支配を受けるようになります。心の中の意識の世界にあるもの、すなわちすべて思想と感覚、感情と意志とは、内なる御座みざに座す者の聖なる力の前に来てそれに従うべく自らをゆだねます。失敗と罪の恐るべき経験の中から新たな希望が立ち昇ります。これまでわたしがどれほど願ったとしても、神のために自分で聖所を維持することはできなませんでした。神が自らのために維持しておられるのは至聖所だからです。もしわたしが内なる宮で聖なる礼拝を通して御名みなのゆえに神に栄光をするなら、神はわたしの存在全体を通して神の光と真理とをあらわしたまいましょう。そしてわたしの精神と意志の内にそのきよめ祝福する力をあらわしたもうでありましょう。そして神の力は、心を通して肉体の中にまで、神の法則に従って確実に到達して働きたまいます。隠れたところにおられる聖霊が、心を通して肉体の中に、すなわちその中の情動や欲求、あらゆる隷属的な思考の中にまで、深く貫徹します。聖霊を通して肉の行為は死に絶え、神と小羊の御座の下から流れ出す川の水が、きよめと生命を与える力をもって肉体の中を流れるでありましょう。

 兄弟よ、あなたは生ける神の宮であって神の霊があなたのうちに住んでおられることを信じなさい。あなたは聖霊によって封印されました。聖霊こそ、あなたが子であることと父の愛とのしるしであり、生きた保証なのです。もしこの思想が今に至るまであなたにほとんど慰めとならなかったとすれば、それは次の理由によるのではないかどうか調べてみなさい。すなわちあなたはあなたの内的生活の諸相のうちであなたの目に映ることの中に、つまりは聖所のうちに、聖霊を探し求めていたのではないでしょうか。そのためにあなたはほとんど聖霊を見分けることができなかったのではないでしょうか。そしてそのために慰め主が与えようとしておられる慰めと力づけとをわがものとすることができなかったのではないでしょうか。いいえ兄弟、そこではありません、そこではないのです。もっと深く、『至上者いとたかきもののもとなる隱れたるところ』にまでくだりなさい。そこであなたは聖霊を見出すことができます。そこで信仰が聖霊を見出します。そして信仰が父のみまえにきよい崇敬をもって礼拝する時に、また心が自分が見出したものを思って恐れおののく時に、あなたは神があなたに聖霊の大能のわざを賜わるのをきよい静まりのうちに待ち望みなさい。きよい静まりのうちに聖霊を待ち望みなさい。聖霊が神として現れ、その宮を栄光をもって充たしたもうことを確信しなさい。

 至聖所を覆う垂れ幕はかりそめのものであったことを思い起しなさい。時が満ちて肉の垂れ幕は裂かれました。同じように、あなたの心の内的生命が深奥にある聖霊の生命に明け渡され、すなわち至聖所と聖所との間の交流が真実で恒久のものとなった時が、あなたの心において時が満ちる時です。キリストにおいて垂れ幕は裂かれ、その栄光のみからだから聖霊が流れ出しました。そのキリストの力によってあなたにも同じ経験がもたらされます。すなわち垂れ幕が取り去られ、至聖所と聖所とが一つになるのです。日々におけるあなたの意識的生活の中に、秘められたところにあった隠された栄光が流れ込みます。すなわち聖所における奉仕がすべて、永遠の聖霊の力によるものとなるのです。

 兄弟よ、ひれ伏して礼拝いたしましょう。『ヱホバおきてその聖住所きよきすみかよりいでたまへばおよそ血肉ある者ヱホバの前に肅然たれ』(ゼカリヤ二・十三)。


 いと高き神様、わたしの霊、心、肉体があなたの宮であるというこの驚くべき恵みの神秘を前にしてあがめつつ御前みまえにひれ伏します。

 わたしのうちにもまた至聖所があって、目には見えないあなたの栄光がそこにとどまりたもうという幸いな啓示を、深い沈黙と礼拝のうちにわたしは受け入れます。

 神様、それについてのわたしの無知をお赦しください。

 霊なる神、大能の神たる聖霊がわがうちに住まいたもうという幸いな真理を、いまおののきをもって受け入れます。

 お父様、それについて語るばかりでそれに生きることをしないという罪をわたしが犯すことがないように、このことの意味するところをわがうちに明らかにしてください。

 幸いなるイエス様、御座みざにいますあなたにわたしは全存在をゆだねます。あなたを信じます、あなたが力をもって立ち上がり、わがうちに支配を確立してくださることを。

 あなたを信じます、生ける水の流れで満たしてくださることを。

 幸いなる聖霊、聖なる教師、力あるきよぬしよ、あなたはわがうちにありたもう。ひねもすわたしはあなたにお従いします。わたしはあなたのものです。父と子とのためにわたしを完全に所有してください。 アーメン


要  点

  1. ヨハネ四・二十四で霊と言われているものは、人間の魂の最深部、そこを通して魂が神的世界との交わりを保つことができる場所を指している。それは自己制御の座であり、ロマ書一・九に『心をつかふる所の神』とある部分に表されている真の礼拝が執り行われる聖域である。」──ゴデット
  2. パウロはコリントの信者たちにその深い肉的状態から立ち上がることを奨励するにあたって、彼らが聖霊の宮であるという事実に立って彼らを説得しようと一度ならず試みていることに注意してください。今日こんにちにあっては、多くの人々は聖霊の内住の教理は成長したクリスチャンにのみ説教されるべき真理だと考えています。しかし私共はここで、すべての信者が聖霊をもっていること、すべての信者がそれを知るべきであること、そしてそれを知ることこそ低レベルの肉的生活から脱して立ち上がるための最も効果的な手段であることを学ばなければなりません。すべての信者をこの彼らが生まれながらに持っている権利についての知識へと導くべく励まなくてはなりません。
  3. 肉体こそが聖霊の宮であります(コリント前書六・十九)。もし私共の霊が神の霊で満たされるなら、それは肉体にも顕れます。『れいより身體からだ行爲はたらきころさばいくべし』(ロマ書八・十三)。神の霊は、とりわけ私共の肉体を神への奉仕にふさわしいものとするために支配し、きよめ、力づけるために与えられていることを、私共は信じとうございます。聖霊が肉体に内住することによって、肉体は復活の生命にあずかるための生ける種子たねとなるのです。
  4. このことをあなたは知っているでしょうか。完全に、明確に、永続的に認識できているでしょうか。信仰によってそれを受け入れているでしょうか。あなたの最深の自己意識がみずから「そうです、わたしは神の宮です、神の霊がわがうちに住まいたまいます、御名みなをほめまつれ」と声を上げるまでに、この知識が全き経験となるよう日々励んでいるでしょうか。


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