第 十 四 章  力 の 霊



爾曹なんぢらひさしからずして聖靈によりバプテスマをうくべければなり …… されども聖靈なんぢらにのぞむよりのち爾曹なんぢら能力ちからうけ …… 證人あかしびとなるべし』(使徒一・五

爾曹なんぢら上よりちからさづけらるゝまではエルサレムにとゞまれ』(ルカ二十四・四十九


 弟子たちは聖霊のバプテスマについては洗礼者ヨハネから既に聞き知っていました。彼らはまたイエスから、父は求める者に聖霊を与えてくださること、父の霊が彼らの内で語られることを聞いていました。十字架につけられる前の最後の晩には、イエスは弟子たちに聖霊の内住について語り、聖霊が彼らとともに証言してくださること、彼らに世の罪を明らかにしてくださることを教えたまいました。彼らの心の中で、この聖霊の到来が意味するところは、彼らがこれからなさなければならないことと、それをなすために必要な力とに関係づけられるはずでした。イエスが最後にその教えを『爾曹なんぢら能力ちからうけ …… 證人あかしびとなるべし』という約束に集約されたように、そのことはまた弟子たちがそれまで求めてきたことの集約であるはずでした。すなわち十字架につけられてよみがえりたもうたイエスの証人となるという新しい天的な働きのために新しく天的な力を着せられるということです。

 このことは、弟子たちが聖書の中に見てきた聖霊の働きと完全に調和するものでした。聖霊はノアの洪水の日以前には人間と争いたまいました。モーセの時代には、聖霊はモーセと霊を受けた七十人の長老とを、イスラエルを統率し引導するという仕事のために、また神殿の建設に携わる者たちを教導するという仕事のために備えさせたまいました。士師ししたちの時代には、聖霊は彼らに敵と戦い征服する力を授けたまいました。王と預言者たちの時代には、彼らに罪に抗してあかしする大胆さを与え、またきたるべき贖いを宣言する力を与えたまいました。旧約聖書に聖霊が出て来る場合は、必ずそれは神の栄光と王国、並びにそれに奉仕するための備えに関係づけられています。メシアの偉大な予言に従って神の御子みこがナザレで伝道活動を始めたもうた時には、イエスが聖霊の油そそぎを受けたその唯一の目的は、囚われ人に解放を、悲しむ者に喜びをもたらすことでした。旧約の徒でありイエス・キリストに従う者でもある弟子たちの精神においては、聖霊を授けられる約束は、彼らのしゅ御座みざにのぼりたもうたのちに主のために彼らが大いなる働きをするための力を授けられるというこを意味していました。それ以外ではあり得ませんでした。聖霊は、慰めを与え、教え導き、魂を癒やし、イエスに栄光を帰することをその働きとするものですが、弟子たちにとってこのような聖霊の働きはすべて、彼らを離れてのぼられた主のために奉仕する力を授けられるという目的を実現するためにあるものでした。

 このことを神が今日こんにちのキリスト教会に理解させていてくださったらと思います。神の子らを導き励ますために聖霊の力を祈り求めるのであれば、その祈りはただこのことを目的とするのでなければなりません。すなわちキリストの証人となり、キリストのために世を獲得する真に意味のある奉仕をなすために力を求めるということです。力を知っている人は、力を空費することを必ず恥じます。どのような組織や企業においても、その大きな活動を決定するものは、力の正しい使い方です。そして聖霊は神の偉大な力であります。聖霊は、すべての力をゆだねられた方の御座みざから流れ下る神のあがないの偉大な力であります。このような力を神はただ自分のために、自分の美や聖や知や善のためにだけ求めている人たちに与えることで空費することを望んでおられると思いますか? いいえ、聖霊が天から注がれているのは、イエスがそのために彼の地位と生命とを献げられた仕事を継続するための力として注がれているのです。聖霊が成し遂げるためにくだられたこのみわざのために私共が備えられていて、それをなす意志が私共にあるということが、この力を受けるための不可欠の条件なのです。

 『が・證人あかしびと』というこの二つの言葉には汲めども尽きせぬ神的な意味があります。これは聖霊の働きと私共の働きとを完璧に描写しています。この働きは神の力による以外になし得ないものであるとともに、私共の弱さを強さに変えるものです。というのは、正直な証人ほど力あるものはないからです。訓練を受けた弁の立つ法律家でも正直な証人によって説得されます。ただ私共が見たり聞いたりしたことを語ること、また、沈黙によってであるかも知れませんが、私共になしてくださったことをあかしすること、これほど単純なことは他にありません。このことはまたイエスご自身の偉大な働きでもありました。『われこれがためうまれこれがために世にきたれり そは眞理まことについてあかしなさんためなり』(ヨハネ十八・三十七)。けれども、イエスの証人となることはこのように単純で簡単なことのように見えるかも知れませんが、実際には聖霊の全能の力を必要とするものであり、聖霊はそれをなすために遣わされたのです。私共が永遠の生命いのちの力によって、またきたるべき世の力によって、そして神の力によって、天において権を執られるイエスをあかしする者となりとうございますならば、私共の言葉と生き方によるあかしを強めていただくために、天的生涯を生きるための神の力を求めねばなりません。

 聖霊が私共を証人となすのは、聖霊ご自身が証人だからです。『(眞理まことみたまの)きたる時わがためあかしをなすべし』(ヨハネ十五・二十六)とイエスはおっしゃいました。ペンテコステの日にペテロは、イエスが天に挙げられたもうた時にイエスは父から聖霊を受けてそれを注ぎ出されたと説教しましたが、その時にペテロは自分が知っていることを語っていました。すなわち聖霊が彼に対して、また彼の内に、昇天のしゅの栄光を証言していたのです。聖霊がキリストの力と臨在が実在することをあかししたこの証言のゆえにペテロは議会を前にして大胆にかつ力強く次のように語ることができました。『神はこれきみとし救主すくひぬしとしてその右のかたあぐ 我儕われら此事このことあかし爲者なすものなり 聖靈もまたあかしす』(使徒五・三十一、三十二)。聖霊が、その神的な生命と力を伴って、私共にイエスが今この時に栄光のうちにあられることをあかしする時に、私共のあかしもまたイエスの力のうちになされます。私共はあるいはイエスの人格とみわざについて福音が書き記していることと聖書が教えることをみな知識としてもっているかも知れませんし、イエスの力について以前に知っていたことを過去の経験に基づいてあかしすることさえできるかも知れません。しかしそれは、ここで約束されている力、世に働くことのできる力をあかしするものではありません。私共のあかしに天来の生命の息を与えて神によって城砦をも打ち砕く力となすものは、今この時にイエスが人格として臨在されることをあかしする聖霊がそこに臨んでくださることなのです。聖霊があなたがたに今イエスを生命と真理においてあかししているちょうどそれだけを、あなたがたはイエスについてあかしすることができるのです。

 力を受けるバプテスマ、あるいは力を着せられることが、一つの特別な賜物のように語られまた求められることがあります。既に聖霊に印せられているエペソの人々に対して父がなお『智慧ちゑみたま』を与えてくださるように祈ることをパウロがはっきり求めているとすれば(エペソ一・十七)、私共が「力の霊」を同じように祈り求めることは正当なことであります。人の心を探られる方は霊の思いが何であるかを見ておられます。その方が賜物を与えられるのは、私共が正しい言葉で求めているかどうかによるのではなく、私共の心に聖霊が起す願いに従ってなのです。あるいは私共はパウロのもう一つの祈りに従って、『願ふはそのさかえとみしたがそのみたまをもて爾曹なんぢらうちの人を剛健つよくすこやかにし ……』(同三・十六以下)と祈り求めとうございます。どのような祈りの形を執るにしても確実なことは次のことです。すなわち私共が求めるものが、それが力の霊であれ霊の力であれ、神のもとから与えられるのは、絶えることのない祈りにおいて、膝をかがめて神ご自身を待ち望むことによってであるということです。聖霊は神ご自身から決して離れません。聖霊が現れる時も働かれる時も常になお神の存在そのものであられます。栄光の富に従って、私共の願いと思いを超えて力をもって事をなされるのは神ご自身であり、神ご自身がキリストにある私共に霊の力を着せたもうのです。

 この霊の力を求めるにあたっては、霊の働かれる方法に注意しとうございます。私共が特に気を付けなければならない一つの誤謬があります。それは、力が働く時にその力を感じることをいつでも期待してしまうということです。聖書では力は弱さと不思議な仕方で結びついています。両者は一方が他方に続くという仕方であるのではなく、両者がともに存在しているのです。『われなんぢらとともをりし時はよわく わがのべし所はたゞみたまちからあかしを用ゐたり』(コリント前書二・三〜五)、『そはわれ弱き時に强ければなり』(コリント後書十二・十;同書四・七四・十六六・十十三・三、四も参照)。この力とは神の力であり、信仰に対して与えられるもので、信仰は暗きにあって強く成長します。聖霊は神が選ばれた弱い器の内にご自分を隠されます。それは肉が聖霊の臨在を誇ることがないようにするためです。霊的な力は、信仰の霊によってしか知ることができません。私共が自分の弱さを感じて告白するとともに、私共の内に与えられている力を信じて必要な働きのために備えますならば、それだけ、私共は自分が何も感じることができないとしても神が働かれることを確信をもって期待することができるようになります。キリスト者は力を受けること待たないということによってだけでなく、また誤った方法で待つということによって多くのものを浪費しています。あなたがたの力がどれほど小さく思えるとしても、上からの力に深くゆだね、待ち、期待することによって、すべての召命に対して服従する忠実さと備えとをもつべきであります。休息と交わりとの間の時間を使って、あなたの内に住まいあなたを通して働こうとして待っておられる神の力を祈り信じるための訓練の時間となしなさい。このような修練と努力の時は、私共が信仰によって弱さを通して強くされることの証明をあなたにもたらします。

 私共はもう一つ、この神の力が働く条件について正確に理解する必要があります。自然を思いのままに支配することを望む人はまずあらゆる面で自然の法則に従わなければなりません。力を欲しがり求めることは、それが聖霊の力を求めることであっても、それ自体には特に恩恵を必要としません。力をもらって喜ばない人がいるでしょうか。多くの人は自分の仕事の中に、また仕事に添えて力が与えられることを熱心に祈り求めます。けれども彼らは力が働くために必要な唯一の立場を取りませんので、力を受けることはありません。私共は力を所有してそれを用いることを望みますが、神はその力が私共を所有して私共を用いることを望みます。もし私共が力の支配を受けるために力に自分自身をゆだねるなら、力は私共を通して支配するために私共に自分自身を与えます。私共が内心の生活において力に対して無条件に降伏し服従することが、私共が力を着せられるための唯一の条件なのです。神は従う者に聖霊を与えられるのです。『ちからは神にあり』(詩六十二・十一)、そして永遠に神にとどまります。神の力があなたの内に働かれることを願うのでしたら、あなたの内なる聖なる方の前にへりくだりと崇敬をもってひざまずきなさい。その方は最も小さな事においてもその方の指導に自らをゆだねることをあなたに求めたまいます。きよい畏れをもってへりくだって歩みなさい。さもなければあなたは何事においても神の聖旨みむねを知ることも行うこともできません。あなたを完全に制御する力、あなたの内奥の存在を完全に占有される力に明け渡された者として生きなさい。聖霊とその力にあなたを占有していただきなさい、そうすればあなたはあなたの内に聖霊の力が働いていることが分かるようになります。

 また私共はこの力の目的、すなわちそれがなそうとしておられる働きに関しても明晰でありとうございます。人々は自分の仕事が効果的になされるように力を調整し配分することにとても気を遣います。神はこの力を、私共の楽しみのために与えられるのではありません。また私共が困難を回避して努力を節約できるようにと与えられるのでもありません。神がその力を与えたもうのはただ一つの目的のため、すなわちその御子みこに栄光を与えるためであります。弱さの中にありながらこの目的に忠実である者たち、神の栄光のためには何でもする用意があることを服従とあかしによって神の前に明らかにしている者たちが、上からの力を着せられるのです。このように力を着せることができる男女を神は求めていたまいます。教会もまた、その伝道と礼拝があまりにも実を結ばないことをいぶかしみながらも、そのような人々を周囲に求めております。世もまた神につく人々の真ん中に神が立っておられることを確かめたいと待っております。亡び行く無数の人々が救われることを叫び求めています。その救いのために神の力が準備を整えています。私共は神が彼らを訪れて恵みを賜うように祈るだけで満足してはなりません。また私共が自分でできる限りのことをしようとするだけで満足してはなりません。信者よ、おのおのが完全にまた全面的に、イエスの証人として生きるために自分を献げなさい。キリストが父の代理人であられたように私共はキリストの代理人とならねばなりません。そのことがどういうことを意味するのかを神が神につく人々に教えたもうように願い求めとうございます。力の霊が私共のうちにあること、私共が父を待つ時に必ず父が私共を聖霊の力で満たしてくださることを信じて生涯を送りとうございます1


 あがめまつる天のお父様、あなたがその子たちのために備えておられる恵みのゆえに感謝いたします。あなたはその子たちが弱さの中から立って力を与えられるように、そのおぼつかない歩みのうちに力ある霊の栄光があらわされるようになしたまいました。聖霊が力の霊としてくだってくださり、すべての力を与えられているイエスをその教会に臨ませてくださり、イエスの弟子たちをその臨在の証人としてくださいますゆえに、私共はあなたに感謝を献げます。

 わたしが生けるイエスをもつ時に力を与えられることを教えてくださるようにあなたに願い求めます。わたしが見たり感じたりすることができるように力が与えられることを期待しないようにしてください。それが人間の弱さの内に与えられる神の力であること、それによってあなたのみに栄光があるべきであることを、わたしが受け入れられるようにしてください。全能のしゅイエスがその力を保持され、弱さの中にみわざをなしたもうことを信ずる信仰のうちに私共が力を受けることを学ばせてください。そして聖霊によってイエスをわたしとともにあらせてください、それによってわたしがただイエスのみをあかしする者となることができますように。

 わたしのお父様、わたしは全存在をこの聖なる力に明け渡しとうございます。日々、終日、その支配のもとに従いとうございます。力に仕える者となり、いかに困難な命令にも従う謙虚さを身に負いとうございます。お父様、わたしがその力によって用いられるに相応しい者となることができるように、わたしをその力の支配下に置いてください。そしてあなたのむべき御子みこがほまれと栄光とを受けることがわたしの人生唯一の目的となるようにしてください。 アーメン


要  点

  1. キリストはかつて地上を歩まれた時にご自身がそうであったように、というよりもむしろ力の御座みざにあられる現在はなおさら、万能の神的存在として教会に臨在したまいます。教会が目を覚ましてこのことを信じるようになる時、塵の中から立ち上がって美しい衣を着せられる時、『上よりちからさづけらるゝ』(ルカ二十四・四十九)ために教会が神を待ち望む時、その時に教会のイエスに対するあかしは生ける力を帯びます。教会はその全能のしゅが教会の内にあることを世にあらわすことができるようになります。
  2. 『上よりちからさづけらる』(ルカ二十四・四十九)、『聖靈の能力ちからうけ』(使徒一・八)という出来事は、私共が自然に期待するところとは全く異なるしかたで起ります。それは弱さの内に働く神の力です。弱さの感覚は取り去られることはありません。力は私共の所有物として与えられるわけではないからです。神が私共と共にある時にのみ私共は力を持ちます。私共の弱さにおいて、弱さを通して、神が力を及ぼされるのです。
  3. 私共にとっての大きな誘惑は、力を見たり感じたりすることを期待してしまうということです。私共が必要とする唯一のものは、力のしゅが臨在することを霊的に認識することができる、そして主が弱さの内に働かれることを知っている信仰であります。力を着せられること、また力を受けるということは、主イエスに働いていただくことであり、信仰によってイエスを受け入れることです。それによって私共の心は主の目に見えない臨在を喜び、また主の力が私共の弱さの中に働いていることを知るようになります。
  4. 肉体の性質がそれを構成するさまざまな要素によって決まるように、キリストの教会が持つ力も教会を構成する個々の会員の状態によって決まります。信者の大多数が自分自身を全くしゅに献げて主の霊で満たされるまでは、聖霊は世にある神の教会を通して力をもって働くことができません。このことのために励み祈りとうございます。
  5. 意志と目的を持つ一つの人格的な力がわたしの内にあり、万事におけるわたしの意志の中に神の意志を働かせようと備えておられます。わたしの存在の深いところで今すでに支配を及ぼしている、わたしのものではない別の意志があります。それが現れるのを待たねばなりません。わたしがそれに服し従うなら、その力がわたしを通して働き出します。わたしは別の者の力のもとに生きるのです。
  6. 六、『われ人の權威ちからしたにある者なるに我下わがしたまた兵卒ありてこれゆけばゆききたれといへきたる』(マタイ八・九)。人が自分よりも高い力の支配下にあるならば、自分の支配下にある者たちをもその力が統御するようになります。他の者の上に立ち支配したいと思うなら、わたしはまずはじめに最も高い力のもとに服さなければなりません。

  1. 補註9を参照。(→ 本文に戻る


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