聖  潔
  パゼット・ウィルクス 著
  大 江  邦 治  訳


第一章  聖潔の必要



 我等はこれより四回にわたる朝の聖書研究において、新約聖書中に潔め(Sanctification)もしくは聖潔(Holiness)として訳せられているこの重大な語について共に考えたいと思う。今朝はまずその必要につきて学び、明朝はその性質、次にその方法を考え、最後にこれが実現の時を考えたい。
 そもそも称義と潔めとは新約聖書において信者の立場とその状態に関する二つの重大な語である。概言すれば称義とは『義と認められる』ことで、潔めは『義しき人とせられる』ことである。人が更生の恵みを受ける時に神はその人の一切の過去を赦して義と認めたもうと共に、新しき性質を与えて彼をして義たらしめたもうのである。されば聖パウロは当時の信者に書を送るに当たり彼らの多くはなお肉に属ける信者であったにも拘わらず、一般に聖徒すなわち潔められた者と呼んでいる。されども『潔め』は『新生』すなわち『潔めの始め』と『全き潔め』すなわち『完成されたる潔め』との二つに区別することができる。我等がこれより考えんとするところはこの第二の部分すなわち『全き潔め』についてである。ウェスレーが潔めのことについて書いたその大文章に『全き聖潔』と題しているは誠に故あることである。(但し本講演においては新生と区別するために『全き潔め』を単に『潔め』と称えることにする。)或る人は何故にこの第二の恩寵の御工なる潔めについてかく多く論ずるか、何故これを教えるか、何故にかくまでこれを高調するか、何故主イエス・キリストの御人格とその御臨在につきてなお多く語らぬかと問うかも知れぬ。その理由は講演の進むにつれて自ずから理解されることと思うが、まずこの処に集まれる我等一同は皆心中におけるこの第二の恩寵の工が必ずなされねばならぬを信ずるものであることを望む。
 エジプトから出ることは幸いであるがカナンの地に入ることは更に幸いである。されど教役者は誰も皆、人をエジプトから導き出すことは約束の地に導き入れるよりも遙かに容易いことを発見すると私は思う。すなわち人を回心せしめることは回心者を全き救いに入らしめるよりも遙かに容易である。モーセの時にもその通りであった。かのエジプトから導き出された大軍勢のうち唯カレブとヨシュアの二人だけが約束の地に達することを得たのみで、カナンの地を嗣ぐことは次の人々に遺されたのである。神の子供等の心から呟きと不信仰のエジプトを全く取り去って彼らをして御言の乳と蜜の流れる国に入らしめることは、おお如何に難しきことなるぞ!
 されば私は繰り返して言う、我等が恵みの主につきて語る前にまず恩恵そのものについて宣べ伝えることは最も必要であると。或る人は言う、『されど我等の求めるものは恩恵でなく恵みの主である』と。されどそれは真実でない。我等は恩恵も恵みの主も共に要するのである。黙示録第三章を見よ、ここに主はラオデキヤ教会の実情を診断して『悩める者・憐むべき者・貧しき者・盲目なる者・裸なる者』と呼び、終わりに『視よ、われ戸の外に立ちて叩く、人もし我が声を聞きて戸を開かば、我その内に入りて彼とともに食し、彼もまた我とともに食せん』というその最も幸いなる約束を付け加えたもうた。私がこの処に諸君の注意を願うは、この微温的信者の状態の叙述とキリスト内住のこの驚くべき約束とは一緒に書かれずして、その間に次の如き語の挿まれてあることである。すなわち『我なんぢに勧む、なんぢ我より火にて煉りたる金を買ひて富め、白き衣を買ひて身に纏ひ、なんぢの裸体の恥を露さざれ、眼薬を買ひて汝の目に塗り、見ることを得よ』である。ここに恩恵がある。我等がこの恩恵を受けるまでは『視よ、我その内に入る』すなわち頌むべき主イエスご自身そのうちに入るとは仰せられぬのである。されば私は今朝全く潔められることの七重の必要について語らんとするのである。
 第一に考えるべきはキリストを見奉ることである。

第一 キリストを見奉ることである

 力(つと)めて凡ての人と和ぎ、自ら潔からんことを求めよ、もし潔からずば、主を見ること能はず。(ヘブル十二・十四)

 ここに我等の心にこの大いなる工がなされねばならぬ第一の理由がある。我等の生来のこの腐敗を取り去るところの恩寵の第二の工の必要なる所以はこれ無くしては『主を見ることあたはざる』からである。キリストの御言にも『幸福(さいはひ)なるかな、心の清き者。その人は神を見ん』とある。この御言はその第一義においては或いは御再臨の時に『起るべき凡ての事をのがれ、人の子のまへに立ち得る』(ルカ二十一・三十六)ことに関しているかも知れぬけれども、これはまた今ここに我等にも当て嵌めることができる。すべての真のキリスト者の願いは主イエスに見え奉らんことである。我等は我等の霊魂のうちに主がご自身を顕したもうことを慕い求める者である。かつもし我等が主の二つのご命令、すなわち『信ずること』と『愛すること』【第一ヨハネ三・二十三、二十四を見よ】を守るならば主は我等に御自身を顕したもうとは、主の最後の大いなる御約束である。されば主が我等に現実でありたまわぬは何故であるかと言えば、それは我等の『信ずること』と『愛すること』に失敗するからではあるまいか。しかして何故にこの二つのことに失敗するかと問うならば、それは必ず我等の信仰と愛とを弱くし、妨害し、破壊するところの不信仰、肉の心すなわち心の腐敗というものが存在するからである。この一物が除かれる時に我等は心を尽くして信じまた愛することができると主は仰せたもうたのである。しかりその時に我等は御言のうちに主を見、自然界において主を見、その聖奠において主を見、その御摂理のうちに主を見奉る。我等は実にかく主を見つつあるや。我等の心が純潔なる時にかくあることができる、すなわち主を見奉るのである。ハレルヤ!
 諸君は主イエスを見奉ることに関して御言を究べたことがあるか、東方の博士等はベツレヘムでわざわざ小さい嬰児を見てそれが主にて在すことを知った。そしてかく主を知り奉ることが彼らをして拝せしめ、崇めしめ,犠牲的の献げ物を奉らしめたのである。
 牧羊者もまた来りて嬰児を見てこれが主で在すことを知った。彼らもかく主を見奉ることによって讃美と感謝と証詞とに導かれた。
 シメオンが宮に入り来ったその日に疑いもなくその母に抱かれて来た他の多くの嬰児もあったことであろう、しかしてマリヤは彼らのうちに混じって入り来る普通の一賤女に他ならなかった。さればもしそれが諸君や私であったならば何ら気に留めることもなくして見過ごしたであろうが、シメオンはそうではなかった。彼は主を見た。そしてこれが世の救い主で在すと知った。かくて彼は叫んだ、『主よ今こそ御言に循いて僕を安らかに逝かしめたまえ、我が目はや主の救いを見たり』と。かく主を見ることが彼をして神を讃美せしめ、ヨセフとマリアの祝福を祈らしめたのである。
 次にアンナも入って来た。彼女もまた幼児を見てそれがキリストにて在すことを知った。しかして直ちに感謝をささげ、このことを告げひろめた。
 サマリヤの女も主イエスにお目にかかり、その霊魂を潔める水を受けた後、彼女の救い主として主を知り奉ったのである。彼女は無論自然にメシヤは偉大なる王で国民的救済者であると思っていたのであるが、彼女の心が純潔になされるや否や彼女は賤しき様なる大工、今彼女と語るところの彼がそれであるということを見、また信じたのである。しかり彼女の側に立ち、彼女の顔をうち見やり、彼女の霊魂に救いを持ち来りつつあるそのお方こそメシヤにて在すことを見た。かく主を見知ったことが彼女をして直ちに宣教者たらしめたのである。
 おおこの潔めるバプテスマ、霊によりて、御血潮に浸されるこの潔めるバプテスマがこの集会にて我等のものにてあらんことを。かくして信仰の内なる眼は開かれ、それより主を見奉りつつ進み行くことができる。すなわち主の恩寵を証ししつつ、その御名を讃美しつつ、広く喜びの音信を語り告げつつ進み行くことができる。しかして実に十字架の宣教者たらしめることができるのである。
 私は今は第二の理由に移らん。

第二 キリストと一つとなること

 真理(まこと)にて彼らを潔め別ちたまへ……これ皆一つとならん為なり。(ヨハネ十七・十七〜二十一)

 この処に我等が潔められるべき今一つの深き真理がある。すなわち我等がキリストと一つであり得るためである。ヨハネ伝十五章において主は弟子等に『汝らは既に潔し』と仰せながら進んで十七章においては『父よ彼らを潔め別ちたまへ』と祈っていたもうが、この二つの語はギリシャ語にては全く異なった語である。もし時があるならば私は種々なる聖話を引いて当語の相違の実例を示すことができるが、今一、二の例を示せば、テモテ後書二・二十一に『人もし賤しきものを離れて自己(みづから)を潔(いさぎ)よくせば、貴きに用ひらるる器となり、浄められて主の用に適ひ、凡ての善き業に備へらるべし』とあるこの始めの言葉はヨハネ伝十五章に用いられた言葉と同じであり、後の言葉は十七章にある言葉と同一である。またコリント後書七・一に『肉と霊との汚穢(けがれ)より全く己を潔め、神を畏れて清潔(きよき)を成就すべし』とあるこの処にも同様の区別を見る。しかり、諸君はキリスト者である以上は潔き者である、諸君は葡萄の樹と一つである。されども主はなお『おお父よ彼らを潔くならしめ、而して一とならしめたまえ』と祈りたもうのである。されば我等の或る者が知るところよりも一層深い清潔があり、また一層深い一致があるのである。ロマ書のうちにはキリストとの二重の一致のあることが甚だ明瞭に表れている。すなわちその六章においてパウロは我等がキリストと、その死と葬りと復活において一つなることを語る。けれどもその七章においては、神のために実を結ばんために結婚においてキリストと一つとなることについて語っている。しかして彼は進んで『旧き夫』が死んでしまうまではキリストと一つとなって実を結ぶことのできないことを説明している。この七章にある夫というは肉の心また旧き人の何たる適切なる絵画ぞや、この旧い夫は離婚することもできない、またそれを圧迫しおくことも、穴蔵に押し込めることも、屋根裏に隠し置くこともできない。彼は死ぬべき者である。彼の死なくしては、天の新郎なるキリスト・イエスと結婚し一つとなることは決してできないのである。旧約聖書に記されたる、アビガルがその夫ナバルの死にし後ダビデ王と結婚した物語はこのことの驚くべき比喩である。ナバルとは愚者の意である、すなわち愚者はその名、愚かはその性質であった。アビガルが家に帰りて彼に事の如何に絶望的であったかを語った時に、彼の心がそのうちに石の如くなったと録されている、されども彼に死の一撃を与えたもうたのは神であった。我等の場合においてもその通りである、もし我等が信仰をもって御言を言い、天の新郎の側に立ちて衷なるナバルに死罪の宣告を与えるならば、その余のことは主ご自身これをなしたもうのである。
 我等がこの日頃追い求めおるところのものは、我等をして主イエスより独立せしめる或る驚くべき恵みを受けることでなく、却って我等をして彼と一つならしめる恵み、すなわち願望においても、意志においても、動機においても一なるもの、失われたるこの世界の救いに対する神の願いにおいて一なるもの、キリストと一なるものとならしめる恵みを受けることである。これが我等の求めるところである、もしこうでないならば、我等はあまり価値のないものを受けるに過ぎないであろう。宗教というものはもし私の理解するところが正当ならば、喜悦に溢れること、感情の熱すること、異言を語ることなどに依って成立するものではない。我等をしてキリストと一つとなってこの失われたる世界に向かわしめることを意味する。しかしてもし私がキリストと一つになされるならば、それは私の生涯に恐るべき変化を起こすであろう。そのとき私はキリストの見たもう如くにこの世界を見、キリストの感じたもう如くに感じ、キリストの愛したまいし如く愛し、キリストの歩みたまいし如く歩むに至るであろう。諸君も記憶せられる如くパウロはキリストの苦難に与ることを知りたいと祈ったのであるが、私は思う、これはキリストの過去の苦難のことを言ったのではない、必ず十字架上のキリストの御苦痛に対する感情的の同感を意味しない、彼は確かにキリストの現在の御苦痛を考えていたと思う。主がこの憫れな、生温き、衰え行く教会を見て感じたもうその苦い御失望をば考えてかく言ったことと思う。おお何たる失望と悲しみと苦痛を、主イエスはその御自身の民に対して感じたもうことであろう。しかして我等もまた主との交わりにおいて幾分かそれを知ることができる。これこそ私がこれに与らんと願うところの苦難である。願わくは主が、我等すべての者の主を一つになることのできるほどに我等の心を潔めたまわんことを。何となれば主イエスとの一致には我等がこの数日考え来れるところの浄め潔める経験を必要とするからである。
 さてこれより潔めの必要なる第三の理由に移らん。

第三 用いられることと能力

 人もし……自己を潔よくせば、貴きに用ひらるる器となり、浄められて主の用に適ひ(テモテ後書二・二十一)

 主を見奉ることは幸いである、主と一つとなることもまた実に幸いである、されども潔めを必要とするなお他の理由がある。すなわちここに掲げたるこの聖句によって表れているところのそれである。これは実に驚くべき句ではないか、我等のうち自らの荏弱と失敗と惨めなだらしなさを知る者は、神が我等を尊きに用いる器としてくださる、浄めてくださるばかりでなく主の用に適い凡ての善き業に備えられる者となし得たもうということを驚いて止まないのであろう。ここに我等が何故に能力に欠乏しているか、神の御奉仕に大いに用いられ得ないかの理由がある。すなわち我等がなお衷に潔くないからである。しかして主は我等を用いたもうならば我等が高ぶって自らを誇るに至るということを知りたもうのである。ブレングルの言える如く『主よ我を用いたまえと祈らず、我を用いられる者となしたまえと祈れ』、神は今日も男も女も彼らの才能の極限まで用いつついますのであるから、もし我等が他の人が我等ほどに用いられても主を讃美しうるほどに自己というものから脱離しているならば神は我等を用いんと待ち設けたもうであろう。おおそれは何たる自由なるぞ! 我等のうちの或る者は他の教役者が自分よりも勝って用いられると聞く時に、心の中に湧き出る嫉み妬みの束縛を知っている、しかして或る者はまた用いられる者は誰であっても我等の主イエスさえ崇められたもうならば一向意に介せぬ心の自由さを知っている。おお我等はこの内心の純潔、すなわち嫉みたかぶりとすべての悪しき行為の除かれることを如何に慕い願うことよ! 我等がかく自由になるまでは主の御用に適うことができぬのである。これが我等の清き心を要する所以である。かくなれば神はその思し召すままに我等を上げ、また思し召すままに下げ、自由に取り扱いたもうことができるのである。何故かならば主は我等は最早主に対する御奉仕よりもむしろ主イエス御自身をもって占領され満足され、如何に取り扱われるも不平にも思わずまた呟きもせず、却ってなお主を讃美するということを知りたもうからである。しかり神は我等がエジプト後にありし時に夢想したところよりも更に深い、更に強い、更に現実な御工を我等の心になさんとしていたもう。その時我等の心に思いし一切は我等が奴隷の状態にあるということであった。けれども神に感謝す、我等は今は奴隷の状態を脱していることを! けれども我等が曠野に達した時に我等は我等の衷になおエジプトの分子が多く残っていることを発見し始めるのである。我等はこの腐敗する悪しき物がなお如何に多く存在するかを苦い経験によって発見し始める。もちろん我等はこのものが我等の衷にあることを欲せぬ、けれどもこの一物は我等の言行のすべてに忍び込んでやはりそこに存在するのである。これは恒にその悪しき思いを湧き出す汚れたる泉の如きものである。されば主イエスは我等を浄くし、自由にし健全になしたもうまでは如何で我等を取り我等を用いたもうことができようか。
 けれどもなお我等が潔められざるべからざる他の理由がある。

第四 愛する能力

 なんぢら真理に従ふによりて霊魂(たましひ)をきよめ、偽りなく兄弟を愛するに至りたれば、心より熱く相愛せよ。(ペテロ前書一・二十二)
 命令の目的は、清き心……より出づる愛なり。(テモテ前書一・五)

 『それ神の国は飲食にあらず、義と平和と聖霊によれる歓喜(よろこび)とに在るなり』(ロマ書十五・十七)。すなわちこれは肉体の食物飲物でなく、霊魂の食物と飲物である。我等は信仰と愛であるところの義を食物と呼び、平和と歓喜を飲物と称することができる。世には霊的酩酊者と言うべき人もたくさんにある、彼らは感情的なる経験の平和と歓喜以外には何をも要せぬのである。されども信仰と愛とは感情的ではない、これらは甚だ実際的である。愛というものは必ずしも感情的なることを要せぬ、否これは堅固で現実で善き業に満ちているものである。愛し得る能力の秘訣は潔き心である。神と人とに対する純粋無垢の愛というものは決して苦きと嫉みをもってなお汚れおる心より出ずることができぬ。恰も喜びの新しき酒を古き革袋に入れることのできざる如く、天的愛の布きれをもって旧き衣を補うことはできぬ。我等の裸体の恥の露われぬためには補綴せぬ、汚点のない聖潔の上衣、愛の下着を着るべきである。願わくは潔き心より出ずる愛を有たんとの篤き願望を神が我らに与えたまわんことを! 諸君或いは言わん、『しかり我等は「愛」という語は好むけれども「潔き心」という語を好まぬ』と、よしされど何れにしてもダビデはこの語に故障がなかった。そして私はダビデの仲間になって彼と共に『あゝ神よわがために清(きよき)心をつくりたまへ』と呼ばん。おお神の言葉を蔑視することを慎めよ。キリストは『我と我が言葉とを恥づる者をば、人の子もまた……恥づべし』と宣言したもうた。『清き心よりの愛』これよりももっと美しき何物があり得ようか? さればこの数日間我等をして心を尽くし精神を尽くし力を尽くしてこれを求めしめよ、神は潔め満たし溢れるまでにならしめたもうであろう。
 神の御言は我等の全く潔められるべきなお他の理由を提出している。

第五 キリストの再臨のための備え

 願くは平和の神、みづから汝らを全く潔くし……我らの主イエス・キリストの来り給ふとき責むべき所なからしめ給はん事を。(テサロニケ前書五・二十三)

 私は諸君が聖書を取りてこのことに関して注意して見られんことを願う。しかしてテサロニケ前書三・十二〜十三、第一ヨハネ三・三、テサロニケ後書一・十一〜十二、テトス二・十三〜十四、その他すべてでなくとも少なくともなお多くの聖句を見られよ。心の聖潔と主の顕現とのこの二つは決して離されておらぬ。もし主が来りたもうて我等の心中に嫉み、たかぶり、悪意、不親切、不信仰、人を怖れることや十字架を恥じることなどを見出したもうならば、おお我等は如何に御前に恥じ恐るべきことよ。諸君はその心中にこれらのものをどのくらい残し置いたとは思わぬのである。諸君は我等を謙遜ならしめるために少しの罪を残さねばならぬと言われるか、諸君は実際かく信ぜられるか、罪というものは決して人を謙遜ならしめるものではない。もしそうであるならば悪魔は地上の最も謙遜なるものである筈である。否! 否! ただ神の恵みのみが人をよく謙遜に保つことができるのである。この再臨に対する準備こそは実にこのことの深く厳かな一面である。──白き衣──婚姻の礼服──主の顕現に対する備え──ただ羔羊の婚姻の筵に入る権利を有つばかりでなくこれに適わしき者となること──これは確かに我等のために作られたる心の聖潔──我等のために購われたる恩恵である。これなくして我等は婚姻の筵に入るを得ば、外に残されてたとえ終わりには火を通すごとくして救われるとも『大患難』の時代を通過せねばならぬのである。我等はこの婚筵に入るの権を得るをもって満足してはならぬ、これに入るに適わしき者となることを要する。我等に帰せられる義は前者(すなわち婚筵に入るの権)を与えるけれども、主が顕れたもう時にその御前に恥じることなからしめるものは彼の与えたもう義、すなわち我等がこれを我がものとしてこれを着るべき『我等の聖き』なるキリストである。それから第六の理由は何であるか。

第六 恥辱を蒙る時に讃美せしめる能力

 この故にイエスも己が血をもて民を潔めんが為に、門の外にて苦難(くるしみ)を受け給へり。されば我らは彼の恥を負ひ……その御許に往くべし。……イエスによりて常に讃美の供物を神に献ぐべし。(ヘブル十三・十二〜十五)

 ついでにここで注意しておきたいことは『己が血をもて潔むる』という御言である。この頃宣伝する教理に潔めは聖霊内住の結果であるとするものがある。もちろんこれは真理であるが、全き真理ではない。ロマ書五・九に『その血に頼りて義とせらるる』とあり、されど今ここにてその御血によりて我等の心の潔められることを学ぶ。この意味は明白である。聖霊が来て我等の心を占領したもう前にイエスの御血の効力によって我等の心より内住の罪が逐い出されてしまわねばならぬ、──『罪の体』は十字架によって破壊されてしまい、霊魂の疾病は『彼の傷』により癒されるべきものである。ここに多くの人が集会に来て祈りまた献身し聖霊を求めても、我等の知るところでは決して聖霊を受けず、つまりは想念だけで満足して現実なる何物も受けないのは何故かの理由がある。すなわち彼らは神の霊が入り来り彼らを占領したもう前にまず主の御血によって潔められることを要するということを見ない、この点が欠けているのである。『彼の血は我等を潔くならしむる』ものである、何となればこれは罪を滅ぼす力である。私はこのことをついでにここに述べたのである。さて我等の前に本文の要点は、潔める恵みと力なくしては我等は『彼の恥を負い、陣営より出でて彼の御許に往く』ことをなし得ぬということである。潔めの甚だ現実なる結果はキリストの恥辱を負うを恥じざることのできる能力である。試みに問わん、たとえば汽車に乗って旅行する時に諸君は主イエスを恥じぬか、私は諸処を旅行して如何に多くのキリスト者が彼を恥じるかを見出す。彼らは他人に彼を告白して彼らを主に導く力を有っておらぬ。或る人々はこの偽りの恥辱を苦しいことと感じている、我等はそうでなかろうか。そこに生来甚だ強い性格の人がある、けれども彼らがキリストの証をするという段になると全く弱いのである。人を懼れる心、十字架を恥じる心を根抜きにするにはただ人間生来の性格の力以上のものを要するのである。我等がかりそめにもキリストを恥じるというは何たる驚くべきことぞ! かの日に至りて我等が顧みて所謂この世の様を見、しかしてこの世の前にてキリストを恥じていたかと思い出す時は、おおこれは何たる時、何たる瞬間であろうぞ! 愛する友よ、諸君はこの数日の中に我等のこのキリストを恥じる心から離れることができようか、諸君はそれができ得ると信ぜられるや? 私はそれができることを知る者である。最も臆病な人々でももしも彼らがただ主のその御血汐をもって全く潔めたもうに任せ奉るならば主は彼らの衷より恐怖と偽りの羞恥を取り去りたもうことができる。けれども主にこのことをなさしめ奉るには諸君は自らそれについて十分な認罪がなければ、すなわち諸君の立証も礼拝も証の言葉も誠に惨めなものであると感じて『おお願わくは神が私を他人を助け得るところ、他人の祝福となり得るそのところへ連れ来りたまわんことを!』と叫び出すに至らねばならぬ。或る小さい児童に何故獅子はダニエルを喰らうことを得なかったであろうかと尋ねると、『それは彼が三分は砂利でその余は硬い脊骨でできていたからだ』と答えたということであるが、私は願う、この数日の間に或る人々をダニエルとならしめ、来るべき日において吼える獅子なる悪魔をして不消化の発病に苦しましめたまわんことである。
 主は我等が御自身の恥を負いて陣営の外に行き得ることのために御自身の御血をもって潔めたもうのである。罪祭の犠牲の体は陣営の外で焼かれた。それは祭壇の上で殺されたる後に全く焼き尽くされたのである。この火は聖霊のことを語っている。しかして『体』はパウロの顕著なる語『罪の体』『死の体』および『肉の体』を思い出さしめる。パウロは何故にこれらの言い顕わし方を用いたのであろうか。それは必ずその破壊され焼き尽くされるべきものは(ただその犯罪、習慣、行為ばかりでなく)罪の実体またその総体であることを我等に明らかにせんためであったろう。この罪の体が焼き尽くされたる結果は主の恥を負いて、迫害、罵詈、恥辱の中にも彼によって讃美の供え物を神に献げうる能力が与えられるのである。我等は主の御血に由って浄くなされまた潔められざる心より決して実際の讃美感謝を出すことはできぬ。少なくとも苦難と恥辱のうちにて讃美感謝することはできぬのである。
 今最後に今一つの理由について考えん、これは潔められたる経験のおそらくは最も肝要なる結果であろう。

第七 順うことのできる能力

 父なる神の預(あらか)じめ知り給ふところに随ひて御霊の潔(きよめ)により柔順ならんため、イエス・キリストの血の灑(そそぎ)を受けんために選ばれたる者(ペテロ前書一・二)

★ 人類を破滅に至らしめる罪の本質は不従順である如く、主イエス・キリストの福音の中心は、従順ならしめることであると言うとも、これは決して過言ではない。我等はただ羊の如く迷いて帰るべき途を知らぬものであるばかりでなく、『みなおのおの己が道にむかひゆける』ものである。それは甚だ愉快な道、また非常に立派な道であるかも知れぬ、けれどもやはり神より離れた自己の道である。
 贖いの目的は全き従順の処に連れ帰ることである。主イエスは御自身神の御意に対して確かなる従順の生涯を送り、これによって従順の道理に合うこと、義しきこと、また実に幸いなることを自ら我等に示さんとて来りたもうたのである。しかし我等はかかる生涯はまず我等の性質の全き潔めすなわち反逆、我意、および自己を喜ばす心の皆除去されることを経験することなくしては不可能なるを十分に確信しているであろうか? 聖霊なる神は凡ての念を虜にしてキリストに従わしめ得たもうのである。かくして、ただかくしてのみ我等は喜び順い、御足跡に従い申し上げることができるのである。『柔順ならんため』、我等はこれらの語の価値を充分よく承知している、我等自身も我等の僕として頑強なる種類の人を要せぬ、我等が信頼しうるところの男女を要するのである。彼らはさほど立派な人でなくともただ全く忠実で従順であれば満足するのである。我等のまわりにこの種の人を有することは如何に快くあり、また反対の種類の人を有つことは如何に失望を感ずることぞ! 神においては反対であろうか、否、決してしからず。神も光彩ある立派な男女を要したまわぬ、従順なる者、柔順ならんために潔められたる者を要したもう。おお願わくは神が我らをかかる者となしたまわんことを。この集会の結果として我等が『主よ恵みによりて汝に順い奉らん』と申し上げるに至らんことを。願わくはこの時にすべての不順の精神、自己を喜ばす心を取り去りたまわんことを。我等のうちの或る者は自己の不徹底な性質を十分よく知っている、我等は極めて巧みにこれを友人より覆い隠すことができる、されど我等は自らこれを知り、神もまたすべてを知りたもう。されど神に感謝す、神はそれをすべて変え、我等の身も心も霊もみな潔めたもう、かくして我等は彼に順い、御栄えのために自身を用いるべく神のために備えることができるのである。
  
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 以上は我等の霊魂のうちに潔めの大いなる工を要する所以の数個の理由である。今本篇を結ぶ前に今一度これを瞥見せん。
【一】 我等は『主を見る』ことを得るために潔めを要する。心が潔くあるまでは霊幻もあり得ない。罪と恐怖と不信仰とは我等の霊魂の視力を汚しまた朧ならしめるものである(マタイ五・八、ヘブル十二・十四)。
【二】 我等はキリストと一つとなり得るためにこれを要する、ただ意志においてのみならず、願望においても感情においても動機においても、しかり我等の霊魂のすべての能力と感情において全く主と一つになり得るためにこれを要するのである(ヨハネ十七章)。
【三】 我等は主の用に適う器となり得るためにこれを要する、能力と有用とは我等の性質の潔めに関わっているのである(テモテ後書二・二十一)。
【四】 我等は愛し得るためにこれを要する。愛というものは我等の心からすべての悪が除去されるまではあり得ない、我等は衷心の潔められるまでは愛することあたわぬのである。愛の純粋なる実質は潔き器にのみ注ぎ入れられまた潔き器よりのみ注ぎ出されるものである(ペテロ前書一・二十二)。
【五】 我等は主の御再臨のために備えるためにこれを要する。すなわち我等の裸体の恥の露われざるため、主の来りたもう時に彼の御前に大胆に立ち得るためである(テサロニケ前書五・二十三)。
【六】 我等は主の恥を負いて陣営の外に出で、その処にて讃美感謝をささげることのできるためにこれを要する。すなわち常に喜び、絶えず祈り、凡ての事を感謝し得るためにこれを要するのである(ヘブル十三・十二〜十五)。
【七】 最後に我等は主に全く従順なることのできるためにこれを要する。すべての我意と自己を悦ばすことが我等の心より取り去られるまでは、主の御足跡に従い行くことを得ぬのである(ペテロ前書一・二)。
 願わくは聖霊がこれらの単純なる思想を我等の霊魂に祝福となし、我等の心を動かして神の愛子の犠牲によりて我等のために買いまた獲得されたる凡てのものを求めしめ、また得せしめたまわんことを、アーメン。



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