願くは平和の神、みづから汝らを全く潔(きよ)くし、汝の霊と心と体とを全く守りて、我らの主イエス・キリストの来り給ふとき責むべき所なからしめ給はん事を。(テサロニケ前書五・二十三)
今朝は人の心を潔めるために神の執りたもうところの道を共に考えよう。我等は過ぐる二朝、この大いなる経験の必要と性質につきて考えたが、今朝更に神の霊はこの幸いなる秘訣の他の点にまで我等の心を導きたまわんことを願う。
私は曾て我等の兄弟ジョージ・グラブ氏が、『神は我等が「如何にして」と問うときに一つの賜物をもってこれに答えたもう』と言われし事を記憶している。実にその通り確かに神はかく賜物をもって『如何に』の問いに答えたもう。『爭で(再び)生るる事を得んや』とニコデモは言った(ヨハネ三・四)。また『井は深し、その活ける水は何処より得しぞ』(ヨハネ四・十一)、『いかで己が肉を我らに与へて食はしむることを得ん』(ヨハネ六・五十二)、『何故おのれを我らに顕して、世には顕し給はぬか』(ヨハネ十四・二十二)、『死人いかにして甦へるべきか』(コリント前書十五・三十五)などの問いの一つ一つに主は答えてそれは神の賜物であると仰せたもう。すなわち『神は……賜ふほどに世を愛し給へり』(ヨハネ三・十六)、『汝に活ける水を与へしものを』(ヨハネ四・十)、『世の生命のためにこれ(我が肉と血)を与へん』(ヨハネ六・五十)、『父は他に助け主をあたへ給ふべし』(ヨハネ十四・十六)、『愚かなる者よ……神は御意に随ひて之に体を与へ……たまふ』(コリント前書十五・三十八)とある。
我等が数日共に考えている聖潔の経験においてもその通りである。それは一つの賜物である、しかして賜物はやはり賜物である。我等をして幸いなる事実を捉えしめよ。悔い改め、信仰、献身、これらはみな人間の側である、されど聖潔は賜物である。すなわち神が我等の衷にまた我等の為に為したもうところのことである。主はつねに『神与へ給ふ』と仰せたもう。願わくは神が今朝諸君の疲れたる失敗したる心にこの鎮痛薬を注ぎ入れたまわんことを。
されば如何にして衷心潔くせられるや。如何にして想像、思念、記憶、願望、愛情、良心、意志が全く健全になされ、『衷なるすべてのものが神の聖き御名を頌むる』に至るであろうか。これがこの時間において共に考察せんとするところである。
平和の神、みづから汝を全く潔くし……給はん事を。汝らを召したまふ者は真実(まこと)なれば、之を成し給ふべし(テサロニケ前書五・二十三、二十四)
これは我等の第一の宣言である。この工を成したもう者は神すなわち平和の神である。注意すべきはこれは力の神また愛の神でなく安息の神であるということである。安息を与えたもう神御自身我等を潔めたもうのである。潔めは我等が何かしてまた努力してこれに入るというようなものではない。我等がこれを採用してその後にこれを保ち続けるというような一種の心理的態度を言うのでもない、これは現実のこと、衷なる悪よりの実際的解放であって、神が人の霊魂に与えたもうものである。
この第二十四節にある、真実、召し、成すの三つの語に注意せよ。この潔めの大いなる工の成し遂げられるためには神の真実、神の愛、神の力、すべて極度まで働くのである。しかしここに暫時第二の語なる『召す』を高調したいと思う。この召すということは神の愛を表示している。『神は何処にても凡ての人に悔い改むる事を命じ給う』。されどもこの処にては神は召したもう。ジョン・ウェスレーは如何なる時に全き潔めの教理を説教すべきかと問われたとき、これに答えて『人々が潔めを渇き求めるまでは決してこれを説くべきではない、しかしてこれを説くに当たってはつねに人をこの経験に推しやるようにするよりも、むしろ牽き付けるようにすべきである』と言っている。しかり彼は内住の罪より離れて安息の地に入るように我等を召し、我等を口説き、我等を誘い、我等を招待したもうのである。私は人々を無理に献身の状態に推し進めんとする当時代の仕方をいかがわしく思うものである。主イエスは人々が自分から進んでその罪と欠乏を言い顕すよう、そのような仕方で常に人に近づきたもうたことである。かのサマリヤの女を取り扱いたもうた仕方は、この恵み深き御なされ方の美しい一例である。主は彼女に御自身より逃れ去れば去ることのできる機会を与えたもうた。ヨハネ伝八章に録されある姦淫を犯せる女の場合にもまた同様であった。すべての人の目が立ち去るパリサイ人の方に注がれている間に、ひそかにその場を逃れることは彼女にとって如何に容易であったであろうか。されども主イエスの御優しさと恩寵は彼女を捕らえて、赦し潔める御工の成されるまで離れしめなかったのである。
神は今朝諸君を引きたもう。神は憫れな、失敗した、失望しているあなたの霊魂をば招きたもう。神はこの潔める工を成したもう者は平和の神御自身であることを諸君に語りたもうのである。
神の言葉のうちに最も驚くべき題目の一つは預言者エレミヤによる使言である。この預言書の始めの方を開きて見よ。不貞と罪の故をもってその妻を去らせた人が再びこれを帰すということが考えられるか、かくすることによってその地は大いに汚されるであろう(三・一)、されどもなお神は呼びて『汝若し唯帰らば我汝を受けん、唯汝の不義を認めよ』と言いたもう、その不義を認めるということが唯一の条件である。神の御嘆きは『彼らが我を忘れたる日は数へがたし』である。何故我等が救いと勝利を得ることができぬかといえば、それは我等がそのありのまま、すなわち罪と一切のことのそのままに心を尽くして神に帰らぬからである。昔の放蕩息子の如くに、襤褸を纏ったままにて帰ることを命じたもう、しかして神御自身我等を全く潔めたもうのである。これはこの恵みを受ける第一の秘訣である。されどこれを信ずることの如何に難しきことぞ。我等の心は、神がかくまでに恵みたもうことを握って信ずることのほとんど不可能であるほどに毒せられている。願わくはこのスウォニックの修養会の数日のうちに不信任と猜疑と不信仰のすべての毒が抜き去られ、天の潔き信仰が我等の傷ついた弱い心に注ぎ込まれんことを。
霊魂(たましひ)の父は我らを益するために、その聖潔(きよき)に与らせんとて懲しめ給へばなり。(ヘブル書十二・十)
ヘブル書十二章に今一つの秘訣がある。注意して読むならば『忍耐』または『忍び』という語に気づくであろう。ここに主イエスは二つのことすなわち十字架と罪人の逆らいしことを忍びたもうたと書いてある。記者はこれを我等に対する警告また模範として用いている。もし無罪のキリストが罪人の言い逆らいし非難を忍びたもうことができたとするならば、まして罪深き我等が慈悲深き天父の御懲治と御譴責を堪え忍ぶことはできる筈であるというのが記者の議論である。
このことなしには潔める恩寵というものはあり得ぬのである。我等は罪を責め懲らしめたもう神の御言を甘受する覚悟があるであろうか。我等は神の民──他の信者──を通してくる非難、面責をば怒ることなくして受け入れることができるであろうか。ことにこの集会の間、我等は充分な心構えでいるであろうか、我等はこれを歓迎するであろうか。潔めに対する認罪なくしては何れの程度までも到達することはできぬ。これは我等自身の潔めの為に必要であるばかりでなく、我等の奉仕の為にも実に貴重な資源である。我等みずから罪の自覚なくして決して他人をして罪を認めしめることができぬ。我等は天使の如くに説教することができるかも知れぬが、それは唯『鳴る鐘や響く鐃鉢』の如きものである。もし我等が神の聖潔に与らんと欲するならば神は我等を懲らしめたまわねばならぬ。この節の聖潔は原語「ハギオテース」で十四節のは「ハギアスモス」である。前者は一つの状態を語り、後者は我等をその状態に至らしめる道行きを語っている。神の言葉は如何に精確なることよ。私は、聖語の深き研究者は必ずその一語一語の霊感によることを信ぜずしてはおられぬ筈だと思う。聖書はその一語一語──名詞、動詞、形容詞──とそれぞれその精確適切なる意味を持って用いられている。
真理の霊が初めて我等の心を訪れたもう時に彼は我等を責め懲らしめ我等をして惨めなる感を抱かしめる。聖霊によらずして誰も自ら罪を悲しみ憫れに感ずる者はない。されば認罪と悲惨の感のために却って神を頌めよ! 記憶せよ、これは神の懲治の御手である、何となれば認罪を離れて何の活ける信仰もない。活ける信仰というものは聖霊に依りて砕かれ、認罪せしめられたその心中にのみ働くものである。諸君の心の堅いところと自己の義をば砕くべく神が心の新地に鋤を入れたもうたであろうか。諸君は諸君自身の愛もなく喜びもなき有様を示されたであろうか。それは諸君を召したもう愛の神の懲治の御手である。それを恐れるな、それを避けて逃れることをしてはならぬ。それを歓迎せよ。神の聖前に俯伏せよ。神は御自身の聖潔に与る者たらしめんと求めたもう。罪人の言い逆らいと非難を堪えたまいしイエス・キリストを憶えよ、彼は諸君が『真に潔めらるる』ために諸君を引き諸君を勧めまた優しく諸君を懲らしめたもうのである。諸君は教理を知ることによって或いはこれに関する哲理学を研究しこれを知ることによってこの恵みを得ることはできぬ、諸君はまず頭脳から入ることはできぬ。頭を垂れよ、神の罪を責め懲らしめたもう御手の前に頭を下げよ。かくして諸君はこの経験に入ることができるのである。ハレルヤ
されば愛する者よ、われら斯る約束を得たれば、肉と霊との汚穢(けがれ)より全く己を潔め、神を畏れてその清潔を成就すべし。(コリント後書七・一)
我らに貴き大なる約束を賜へり、これは汝らが……神の性質に與る者とならん為なり。(ペテロ後書一・四)
『神の性質』それは如何なるものであるか、『神は霊なり』『神は光なり』『神は愛なり』『神は焼き尽くす火なり』これらは新約聖書に与えられある神の性質の四種の定義である。神の性質は霊的である、我等がこれに与るときに我等もまた霊的のものとなりて,霊に属ける永遠のこと、天に属する事を悟る者となる。それは我等から肉に属くものを取り去る。『神は光なり』すなわち我等の霊魂に甘美な明確な確信を持ち来らす。これは我等の心から暗黒を取り去る。『神は愛なり』、我等はまたこれに与る者となる。それは我等から悪意を取り去る。『神は焼き尽くす火なり』これは我等から私心と罪のすべての不純物を滅ぼす。
しかしてすべてこれらはみな神の約束を通してである。この約束こそは恩恵を我等に伝達するものである。私は神の約束を通してにあらずして潔めの恵まれたる状態に入った人について聞いたことがない。我等はこの集会にて人を離れて独り静かに主の御前に大いなる貴き約束をば読み、また読み返し、これを是認し、また更に再び是認し、これを訴え、また再び訴えて祈る必要がある。
一人の青年が曾てウィリアム・カルボッソーに手紙を送って『昨夜私が全き潔めのために神の約束を訴えて祈りつつあった間に、突然と信仰の我が心の中に湧き出ずるを覚え、しかしてこの御工の成されたことを信ずることが出来る様になった』と言っている。
これは悪魔からその武器をもぎ取る唯一の道である。録されたる聖言のみ役立つのである。主イエスも曠野にてかく聖言を用いたもうた。彼が申命記から引用したもうた聖言は、すべてその民の曠野における旅の物語からであった。主は御自身曠野にいまして、同じ地位にあるその民と共にその昔に帰り、彼らが失敗したそのところで勝利の言葉を持って敵に出会いたもうたのである。諸君も曠野から出でてカナンの安息の約束の地に入らんことを願うならば主が引用したもうた聖言の前後の関係を研究し、これと主イエスの試誘とを比較して見よ、神はその約束を通して潔めたもう、その約束を通して神は我等を引き、励ましまたその印を捺したもう。神は愛をもって召し愛をもって懲らしめ罪を悟らしめたもうたが、今愛をもっていと貴き大いなる約束を提出したもう。神はその御招きとその御懲治に約束の恵みの奨励を加えたもう。これを捕らえよ、それが約束されているということを捕らえよ、力を尽くしてこれを捕らえよ。
イエスも己が血をもて民を潔めんが為に(ヘブル書十三・十二)
我等は今、事の全体の中心に来た。これはこの潔めの大いなる工のなし得られる功徳を生ずる原因である。ロマ書五・九において我等は『その血に頼(よ)りて義とせらるる』ことを読む。けれどもここには一層深いことすなわち『血を以て潔めらるる』ことが録されている。多くの人は潔めの方法としてキリストの十字架を見ないため恵みを受け損じるのである。主イエスが罪のために死にたもうたということは彼らは十分によく承知しているけれども『罪を除く為に』死にたもうたということは彼らの目に隠れている。彼らはその犯せる罪のために彼らの代わりに死にたもうた神の羔羊として彼を見るけれども、彼らの罪を除きその性質すべてより古い蛇の毒をば排除し去るべく彼らのために詛われたる者となりたもうた、すなわち蛇として挙げられたもうた彼を視奉らぬ。
パウロは十字架によりて罪より解放されることを説き、ヨハネは血によりて罪が潔められると言い、ペテロは救い主の御苦難と傷によりて癒されることを我等に示さんとしている。我等は或いはこの奥義をば理解はなし得ぬにもせよ、信仰は我等の聖潔のために主の死が獲得し保証したもうところの一切をば信じまた領有するのである。
初代メソジストの大人物ジョン・スミスは『私が今日ほどにイエスの血の必要を感じたことはかつてない、しかしてそれほどに御血を用いたことはない』と言っている。我等は今この時に実際に主の血をば如何に用いているであろうか。或いは十年前にその血の御いさおしによりて我等は救われたかも知れぬ、けれども今日この瞬間において血は我らに対して実際的に如何なる工をなしつつあるであろうか。ヨハネ六章において我等は主の肉を食らいその血を飲む者に保証されたる四つの恵みのあることを読む。すなわち第一は永遠の生命の賜物である。ここに過越の羔羊として彼を食らうことがある。第二はキリストの内住である。ここに酬恩祭としての彼の犠牲に与ることがある。第三は奉仕の能力である。ここに他人のために罪祭の牲を食らうことがある。第四は未来永遠の救いである。ここに愆祭としてキリストを食らうことがある。聖霊は殺されたる羔羊の犠牲というこの基礎の上においてでなければ決して我等と偕に住まうべく入り来りたもうことはできぬのである。涙も祈禱も悔い改めも献身を誓うことさえも、さては服従の如何なる工も聖霊の内住を確実にする効力はない。彼は唯イエスの御血を信ずる信仰に答えてのみ内住の客として我等の心に入り来りたもうことができるのである。
我等は自分の涙によってでなく、主の御血によって潔められ浄くせられるのである。また我等自身の苦痛や禁欲、修行によってではなく彼の十字架を通して、彼と共に磔殺されるのである。我等のこの憫れな病める性質が癒されるのは、我等自身の努力や或いは献身の誓いによるにでなく、全くその受けたもうた傷によりてである。
今一度染みも汚れもなき主が『罪となされ』たもうた、その十字架を眺めしめよ。もし全人類のすべての想像力を一つに集め得たとしても、この奥義を測ることができようか、罪の思いも怒れる気分もねたましき感情も、はたまた汚れし肉欲の願いをも、かつて一度も経験なしたもうたことのない……しかり、我等が天使の有様の如何なるものかを経験的に知ることのない如く、これらのことを何一つ経験したまわぬ、汚点もなき神の子にとりて、この『罪となさるる』ということが何を意味するかを理解することはできぬ。考えることも書くこともできぬほどの地獄のすべての汚れをもって漲る、測るべからざるこの世の大洋が、汚点なき御心の上に波打ち寄せ来ることが、彼御自身にとってどんなにあったであろうか。我等はこれを想像し得るであろうか、否、我等はこれを理解することはできぬ。ただ我等は主がその御血をもって我等を潔めたもうということを信じ得るのみである。この事実が我等を捕らえる時に、しかして我等が、キリストの贖罪をなし潔めることをなしたもう御血を信じて大胆に進む時に、何たる確信が我がものとなることよ! その時信仰は最早感情に頼らず、推論にも頼らず、ただの真理ばかりにも頼らず、或いは神の言葉ばかりにも頼らずに、その足の下に依りて立つべき岩を見出す。それはすなわち主の贖罪的犠牲の死という歴史上の大事実である。
潔むる流れを我は見る、我は見る
我は飛び込む、おおその時血汐の流れは我をきよむ
おお主を頌めよ、血汐の流れ我を潔む
血汐の流れは我を潔む、げに血汐の流れは我を潔む
諸君が主の血によりて聖くなされしことを知りまたかく感ずる時に、その時こそ傲慢は終わりを告げるのである。聖霊が我等の心に入り来りて罪に従うことから我等を守りたもうという教理は全く不十分である。このことの起こる前に我等の霊魂に確実な即刻のしかも根本的の整理が行なわれねばならぬ。すなわちそれは我等の悪しき性質の傾向の除き去られること、我等の人となりの隠れたる泉がアダム伝来の悪の傾向から潔められることである。
かくて誘惑は以前よりは百倍も増加しかつその力を強くして来れど、感謝すべきことにはそれはもはや内よりにあらずして外よりである。同時に聖霊は堕落より誘惑者の誘惑に従うことより時々刻々守らんとて我等の衷に入り来りたもうのである。この罪を破壊する潔めの経験は主イエスの血すなわち十字架上に流されたる神の子の血によりて成し遂げられ、謙れる霊魂の活ける信仰によりて理解され、捕捉され、しかして光の中を歩むときにその幸いなる効果が時々刻々持続されるものである。
御霊の潔(きよめ)により云々(ペテロ前書一・二)
我等がこれまで言ったことはみな真実である。父なる神はその召したもう愛、懲らしめたもう愛、約束なしたもう愛によりて潔めのこの工をなしたもう。主イエスはその死と血を流したもうことによりてこの『神的の恩恵』をば獲得しこれを供給し確保したもう。しかしてなお──我等は謹み畏みつつ言う──聖霊の御働きなくしてはこれはみな無効であったろうと。
救い主は『わが去るは汝らの益なり。我さらずば助主なんぢらに来らじ、我ゆかば之を汝らに遣さん』(ヨハネ十六・七)と仰せたもうた。
かくあることは我等にとりて実に幸いなることである。もし救い主が地にとどまりたもうたならば我等のうち主を見奉るものは如何に少なくあったであろう。さらば主に見え奉らんとて世界の各地より集まり来れる旅人は汽車も汽船も旅隊も満ちしならん。されども貧しき者は比較的少数のほか御面影を拝し奉ることは得なかったであろう。しかるにすべての者が主を見奉ることを得るために聖霊なる助け主は来りたもうたのである。キリストの事物を受けてそれを我等に顕したもう者は御霊である。
諸君は意味が解らぬと言われるか、これを握ることができぬと言われるか、二千年前に流されたるイエスの血が如何にして我が心を潔めるや、かくも遠き昔の十字架にわがこの自己的な性質がどうして釘づけられることができ得ようか。如何にしてわがこの病的の記憶力、思念、意志がかの切り裂かれたもうたカルバリのキリストの体によりて癒されることができようか。愛する霊魂よ、諸君のその如何にしてとの問いに対して主は答えて『我助け主を送らん、彼すべてこれらのことを汝らに教えん』と言いたもうたのである。血を当て嵌めたもう御方は聖霊である。百五十年以前にチャールズ・ウェスレーによりて書かれた精妙なる詩句を聞け。
『永遠の霊よ来りませ
救い主の死の御いさおし
人のために受けたまいし御苦痛を
感謝に溢るる人みなにもたらしたまえ
主の御受難の真の記録者よ。
信ずる人々の心々に
今ぞ活ける信仰を分け与え
今ぞ御救いを示したまえ
主の臨終の見証者よ、来りませ
神たる記憶者よ、来りませ
キリストを当て嵌めたもう御力を
人にも我にも感じさせたまえ。』
『彼の御受難の真の記録者』『主の御最期の見証者』『神たる記憶者』とは聖霊の御職分を如何に精妙に言い顕したる名称ぞや。
しかり我等はみな聖霊に依り頼むほかはないのである。独り我等の室にて静まりて彼を待ち望むことの如何に必要なることぞ。警戒せよ、すべての危険の最大なるものは我等自身の理解の効果により或いは我等自身の意志の奮闘によって進入せんとすることである。或いは前者により或いは後者により或いは双方とも用いて入らんとする者がある。けれどもみな等しく無用の業である。ただ聖霊のみその道を示したもう。聖霊のみよく入らしめたもうのである。もし主イエス御自身永遠の霊によりて自己を献げたもうならば、まして我等は如何に多く聖霊の強迫し、圧服し、輝かし、力づけたもう御力に依り頼むべきことであろうか。されば我等自身の無能なること、偶像に傾くこと、不信仰なることを知って御約束を訴えて神を待ち望むときに聖霊は我等をして信ぜしむべく、またすべての思想を虜にしてキリストに従わしめるように我等を助けるべくその処に在すことを憶えしめよ。
イエス……言ひ給へば、直ちに癩病さりて、その人きよまれり。(マルコ一・四十一、二)
汝らは既に潔し、わが語りたる言に因りてなり。(ヨハネ十五・三)
今朝深く思いめぐらしてきた題目はもはや終わりに近づいた、けれども今一つ残れる肝要なる題目は『御言によりて潔めらる』ということについてである。我等は既に神が我らの心の潔めを成し遂げるために御自身の約束を我等に与えまたこれを用いたもうことを見た。我等はただ録されたる御言を通してのみ、実地に神を信じキリストの成就されたる御工を信じ、また聖霊の活動しつついます御臨在を信ずることができる。御言はつねに恵みの媒介者である。我等の心の中に的確なる神の約束を隠し、これを領有し悪魔の攻撃に対してこれを用いることによりまたそれを通して神を信ずることによりて、しかりこれによりてのみ我等の願うところの目的すなわち霊魂の潔めに達することを得るのである。しかして我等がこれを為し約束に歩み出し、背後の橋を焼き棄てたる後に神はなおその御言を通して進んだ御工のなすべきものを持ちたもうのである。
御言によりて神は御自身の御工を印したもう。聖書はかくの如き神の御働きの実例を繰り返して我等に供給している。日曜日において私は預言者イザヤの潔めにつきて諸君に語った。その処にて我等は熱炭の彼の唇の触れ、彼が焼き潔める焔を感じたる後セラピムが再び『視よこの火なんぢの唇にふれたれば既になんぢの悪はのぞかれ、なんぢの罪はきよめられたり』(イザヤ六・七)と語っているのを見る。またマルコ伝五章に録される血漏を患う女の場合においても、我等は彼女が『病のいえたるを身に覚え』たる後、主は彼女の歩みをとどめ彼女が後日に至りて、単に自身の経験に依頼するによりてその確信を投げ棄てることなきようにとて『なんぢの信仰なんぢを救へり』すなわち汝の祈りや決心や献身ではなく、また熱心奮発によるのでなくただ単純に信ずることによって汝は回復されたのであると仰せられたことである。おお如何に彼女はその言葉をその心に秘めおいたであろうか。もう一つの例は(私が見出しに掲げたる物語)マルコ一・四十、四十一にて我等に語っている。この哀れなる癩病人は失望しきって主を求めた。しかも自己の絶望的信仰をもって信じたのである。救い主は同情に動かされて御手を伸ばし、彼に触れたもうた。しかし主の御手もて触れたもうたことも、その御同情も癒さなかったが、御言を出したもうや否や癒しの業はなされたのである。
この集会にてもかくあれ、主がその御言を語りたもうまでは我等をして休むことなからしめよ。諸君、そのありのままにて神の御約束を信ぜよ! 諸君自身のために別に特殊の約束を要するわけではない、神の約束はみな『キリスト・イエスに在りて然りまたアァメン』である。大胆に来れ、謙って待ち望め、単純に信ぜよ、自由に取れよ。されど諸君が既に約束を握り、諸君を召し、懲らしめ、約束し、聖霊に由りて罪と汚れを潔める泉にまで導きたまえる神の忠信に依りすがって安息しつつあるとき、なお主を待ち望め。既になしたもうたその御工をば、その御口よりの言葉もて主が印したもうまで沈着に期待して待ち望めよ。ここに多くの人に祝福となった短い五つの句がある、これはまた諸君の益となることであろう。
我がささぐるものは神これを取りたもう、
神はその取りたもうものを浄めたもう、
神はその潔めたもうものを満たしたもう、
神はその満たしたもうものを印したもう、
神はその印したもうものを用いたもう。
願わくは諸君の信仰(諸君の理解でなく)がこれらの容易き階段を導き上らんことを、徐々にしかも確かに進み行かんことを。諸君の上る階段の一つ一つを験し見よ、これらは十分に諸君の重さを負うであろう。しかと依りすがれ、堅固に歩め、一階段を上るごとに『更に高く』と言え。讃美し続けよ、ただ信ぜよ、かくして御工はなされるのである。平和の神御自身今日諸君を招き、今日約束を与えたもう。その愛の御手は諸君を懲らしめて今日甚だ苦しき時を与えたもうた。よしさらば彼を見上げて感謝せよ。かくするときに太陽の差し出ずるを見るであろう。涙と日光、そこに虹が現れる。
神の諸君を祝福したもう道は私が示さんとしたこの単純な五階段にあるのである。我等の一人一人みな約束の血に入り得んことを、この地すなわち乳と蜜の流れる地、神の賜物なる地、豊かなる地、しかして自己の努力によらずして入るべき地である。キリスト・イエスにあるその驚くべき約束の地はみな諸君のものである。