第四章  聖潔の時



 今日なんぢら神の聲を聞かば……心を頑固(かたくな)にする勿れ。(ヘブル三・十五)

 我等は今この連朝の研究の最後に達した。しかも恐らくはこれは最も肝要なるものであろう。我等は神の潔めの恩寵の必要と性質とその道とを見た。しかして今日我等は何時これが我等のものとなり得るかを知らんことを求めるのである。『汝は潔くなさるることを欲するや、それは何時なさるべきや』何時我等は生来の罪より離れて安息の地に入り、我等の心中に内住の慰め主を受けることができるであろうか。
 この問いに対しては『今』という唯一の答えあるのみである。何となればよしや我等が来週、来月もしくは来年にこれに入るとしても、その達したる時にはやはりそれは『今』であるからである。されば何故今日ここで入ることができぬであろうか。我等がこの答えをかく単純にする理由は、我等の側の唯一の条件は信仰であるからである。すなわちそれが献身と信仰とによるでなく、まして献身のみによるでなく、ただ信仰のみによるのであるから、その時は『今』でなければならぬ。
 これに関しては私は、かの神の大いなる僕なるジョン・ウェスレーの言葉を引き、またウェスレーが使徒ヨハネ以来の最も聖き人と信じた、かのマデレーのフレッチャーの言葉を引用したいと思う。
 ジョン・ウェスレーの言葉に『日ごとに、時ごとに、瞬間ごとにそれを待ち設けよ。されば何故この時、この瞬間にこれを待ち設けることができないか。もしあなたがこれは信仰によると信ずるならば慥かに今それを待ち設けることができる。しかしてこの徴によりて、すなわちあなたが信仰によって求めるか、工によって求めるかを確かに知ることができる。すなわちもし工によって求めるならば、あなたが信ずる前にまず第一に何かなさんことを欲するのである。すなわちまず服従せねばならぬとか、或いはかくかくせねばならぬと思うであろう。それならばあなたは今日まで工によってそれを求めているのである。もし信仰によって受けるならばあなたが今あるままにてそれを受け、しかも今それを受けるであろう。信仰によってそれを受けよ、あなたが今あるそのままにてそれを受けよ』と。
 マデレーのジョン・フレッチャーの言葉は一層力強くそれを語っている。『信仰の善き戦いを戦えよ。すべての誘惑、落胆、世に属ける思想、無益なる交友、不信仰なる心と肉の念の躊躇を打ち破って進め。イエスに触れ、彼より出ずる癒し慰める力を覚えるまで努めよ。しかして君が彼に至る道を明らかに知るときに、主が聖霊の力強き働きによりてあなたの衷に生きたもうことを発見するまでその接触を繰り返せよ。あなたは今かかる信仰によりて主に行き、続いて時々刻々主に行くことがあなたの特権なることと、あなたはあなたが今有つちょうどそのような疲れ果てた、錯乱した、動揺した固い心のほか何物をも主に持ち行くべきではないということを記憶せねばならぬ。
 『ここに多くの惨めなしかも貴い魂の重大なる誤謬がある。すなわち彼らはまだ慰安も平和も喜びも愛も有たぬ故にそれが僭越のことではないかと思って信ずることを恐れる。しかして信ずる前にこれらのものを期待するは樹を植えない前に果実を期待すると同様であるということを思わぬのである』と。
 しかし我等は信仰がこの貴き経験を受ける唯一の条件であると言うと共に、我等の信仰は安価な容易な、信じます主義でないことを付言せねばならぬ。
 信仰は聖霊に依りて我等のうちに作られたる強き活ける力である。これによって我等はキリストを我等の聖としてまた全き贖いとして捉えることができるのである。
 我等のこの終わりの聖書研究にて、活ける効力もある信仰によってもって働き得る条件、すなわち全き救いに至る我等の信仰の基礎を見ることは大いに我等を助けることと思う。

第一 熱心なる願望

 幸福(さいはひ)なるかな、義に飢ゑ渇く者。その人は飽くことを得ん。(マタイ五・六)
 凡て祈りて願ふ事は、すでに得たりと信ぜよ、然らば得べし。(マルコ十一・二十四)

 私は今朝ここで多くの人々の心に完全なる救いに対して大いなる願望が起こっていると言っても慥かに誤りでないと信ずる。我等はキリストに在りて生命と自由と喜びの盈満の幻を与えられつつあった。そしてそれは我等をして心を尽くしてこれを求めるに至らしめたことである。さて主イエスはルカ十一・十三において聖霊の賜物のことを語りたもうた時、小さい飢えている子供の比喩すなわち飛行機、自転車さては運動具などの如きものを求めるでなく生命のためになくてならぬパンを求めている子供の比喩を前置きとしてその御約束を与えたもうた。今我等の子供が食事時を過ぎて飢え疲れて家に帰ったとせよ、彼等はその手を組んで『お母さん、食事をさせたいと思いなさるならば頂きますが、そうでなければそれでもようございます』などと言ってはおらぬ。否、彼等は早く食べたいと願う、そしてそれを得るまではやかましく言うに違いない。我等も神に対してその通りであるか。我等は飢え渇いているであろうか。我等は愛と喜びと平和と能力の生涯に渇き、絶え入るばかりに求めているであろうか。我等はキリストに在る盈満せる喜ばしき溢れるばかりの救いを求め、願い、慕いおるであろうか。かかる救いは不満足な怨みがちな性格から救出して、非難し易き批評好きな固い赦さぬ精神から全く離れしめるのである。凡ての罪よりの解放である。ただ不愉快な嫌悪すべき不義からばかりでなくすべて自己を喜ばすことや心の気儘剛情より全く自由となることである。もしかかる救いが我等の深い願望であるならば、信仰は今ここでこの働きを始めることができるのである。

第二 認  罪

 己が身を……献げよ、これ当然の祭なり。(ロマ書十二・一)

 ここに効力ある信仰の第二の条件があると信ずる。すなわち神の要求の当然なることを認めることである。私はここに献身そのものについて語らずただ献身の当然なるを認めることを語るのである。我等は神が我らに求めたもうところのこと──御自身に対する全心を籠めての信心と真実忠誠の愛──の我等にとりて正当で、道理あるしかも最善のことであるを信じおるであろうか。神の御意を行なうは地上において最も安全なる、最も快き、しかして堅実なることである。諸君はキリストがかつて仰せられた
 『誰にても天にいます我が父の御意をおこなふ者は、即ち我が兄弟、わが姉妹、わが母なり』(マタイ十二・五十)
との驚くべき御言に注意を払ったであろうか。さても神の御子の母とは! よしされどこれは主の御言である。我等のうち誰にても敢えてかかることを言いうる者はないが、主ご自身の御唇より出たのである。私はこれらの驚くべき言葉をば諸君自身の深い黙想に任せておく。いま私はこれを述べ尽くす時を持たぬ。しかしともかく神の御旨を行なう者はキリストの兄弟であり、我等の天の父の完全なる御意に順って生涯を送る者は世の救い主の母であり姉妹である。されば神の旨を行なうことは実に善にして全くかつ喜ぶべき事でなければならぬ。
 これを我等の目標たらしめよ。このスウォニック修養会の目的であり標的であらしめよ。されども間違えてならぬことは我等の一切を献げることは聖霊を受ける条件の一つでないということである。もしもそれが条件の一つであるならば行為に依りて受けることになる、何となれば献身とは『善き行為』の別名であるから。献身は恩寵を受ける原因或いは条件と言うよりもむしろこれを受けた結果である。我等が喜びと愛と従順をもって天父に一切をお渡しすることをなし得ないから、かくなり得るために恩寵を要するのである。
 我等の全人格の贖われたる諸能力をばすべて主に献げることを可能ならしめる、それがすなわち全き潔めである。(ロマ書十二章は六−八章の後に来る。)我等はこれを目標として進まねばならぬ。もしも我等が受ける恩恵がこの献身に到達せしめるのでなければ、我等が恩恵を求めるはただ鬼火を追うの類に過ぎぬ。神は我等の生涯の幾分でも自己のために過ごすことの罪であり無道理であることを自覚せしめたまわねばならぬ。
 『飢え渇き』すなわち霊魂の深い願望に続いてか、或いはこれに伴って一つの痛わしき認罪が来る。すなわち我等の衷には、神の全き献身の生涯を要したもうそのすべての正当なるご要求に対して、御名を頌めまた喜び勇んで受諾し奉らざるところの多くのものがあるという悲しむべき自覚である。されども我等をしてこのことをまともに眺め、不信仰のすべての耳語に耳を閉じ、神の聖き御要求の当然なることをば断然と信ずることをなさしめよ。

第三 光に照らされること

 願くはなんぢの光となんぢの真理(まこと)とをはなち我をみちびき……たまへ(詩篇四十三・三)

 私は自己に失望しきった霊魂が、時としては霊的理解に多くの明確な光なきままに、神の恩寵の最も幸いなる経験に入るということをよくよく承知している。神は我等の憫れな無知な鈍い心に対してかくも恵み深くいますのである。
 さりながらもし我等が光を受けているならば、その道をして更に容易ならしめ、信仰をして一層の確実をもって働かしめることができる。多くの熱心なる人々がもがきまわっているのは、悪魔の手段と自己の欺かれたる心と性質のおのが途の如何を知らぬによるばかりでなく、また神の救い出しの途を知らぬ故である。
 この集会にはその発達の程度を異にしている霊魂がある故に各真理異なった表し方を要するは無論であるが、私は格別に熱心な全く献身した霊魂で、しかも神にその身を委ねておりながら、その心と生涯においてなお絶えず失敗と失望を経験しつつある人々に対して一種の同情を感ずる。されば私はかかる人々にちょうどこの点について語りたいと思う。
 私は行くところ何処にてもかかる人に出会う次第である。私は少しく光明を得れば信仰の効果ある活動を大いに進めるものであるということを信ずる。
 回心と新生は生まれ変わらない人の良心と意志とを十分に取り扱う。しかして『自我』すなわち我というものがキリストと偕に十字架につけられ、意志は変わりてキリストのそれと一つにせられるのである。
 しかして潔めは『我にあらず我が衷に宿る罪』を取り扱うのである。これはすなわち我等の願望、愛情、記憶、思念、想像の中に潜在してしばしば我等の新生し姿変わった意志をも再び奴隷となさんとするところの毒である。これは『我に非ず、罪』なり、あたかもわが身体にごく密接に所持する時計が身体の一部分でない如く、癩病患者の血液中にある細菌が彼の一部分でない如く、この罪も我ではないのである。癩病の黴菌が病者の組織中に闖入している不自然な外物である如く、『我が衷に宿る罪』もその通りである。
 『我は欲せぬ』『我は能わぬ』『我は信ぜぬ』というこの恐るべき悪の三位一体は我等の性質を毒するところの癩病菌の如きものである。もしも私が真に神に降伏したる霊魂であり、キリストの実際の従者であるならば、困難はわが意志の方にはないのである。それゆえ献身やわが意志の決心は矯正浄化に何の役にも立たぬのである。我等は外からの力を要する、すなわち我等以外よりの或る物を要するのである。その力とはキリストの血である。しかして信仰、然りただ信仰のみがよくこの血を捉え、これを領有し我等の闘い破れた霊魂に当て嵌めることができる機能である。
 ああ然り、もし困難の原因が我等自身にあるならば如何にして我等はそれより自由になることができるであろうか。されど神に謝す、神の言葉はそれが我にあらず、堅く我に付着しおれど我自身より離れたる一物であるということを啓示する。それは我等自らのにあらざる他の手をもって接枝されたのである。悪魔がそこにこれを入れたのである。しかして『神の子の現れ給ひしは悪魔の業を毀たん為である。』おお我等をして自ら奮闘努力して自己の意志の力をもってなさんとすることを止めしめよ。しかしてもし我等がただ光に歩み、神の大能の御手の下に自己を卑しくするならば、イエス・キリストの血はすべての罪より我等を潔めるということをただ信ぜよ。
 もしそれが『我にあらず』ば何処に我等の責任があるかと言う者がある。しかり、神は我等の悪しき性質を持つことにつき我等の責任を負わせたまわぬ。かかる悪しき性質のそこにあるのは我等自身の選択によるわけではない。しかし神はすでにそのものの死と葬りのために完全なる道を備えたもうたにも拘わらず、なおそれを留め置くことにつき責任を負わせたもうのである。ただ我等の傲慢、怠惰および不信仰のみがこの死刑宣告の執行を妨げるのである。願わくは神我等をして全き救いを求めまた信ずることに熱心ならしめたまわんことを。何となれば信ぜぬというこの一事のため、ただそのためにのみ我等に罪の定まる所以があるからである。

第四 悔 い 改 め

 悔改に相応しき果を結べ。(マタイ三・八)

 私はこれまで語り来ったことどもが、或る人のためにはほとんど理解されぬということもよく知っている。真理はかかる人の目には隠されている、或いは彼等は未だ真理を悟る準備をしておらぬとも言える。神が人の内心の悪を取り扱いたもうことのできる前、すなわち彼等がイエスの御血汐の潔める働きを信仰をもって要求し、そのために主を信ずることを得る前に、まず実際的の悔い改めがあるべきである。簡単に言えば実の困難は降服しきらない意志にあるのである。我等が真の悔い改めをもって外部のものを取り扱うまでは神は内部の悪を取り扱いたもうことはできぬ。
 この修養会のような集会でかかる方面のことはあまり多く言う必要がないように見えるかも知れぬ。けれども私は内心の潔めと聖霊のバプテスマを求めている人々のうちにも、未だ悔い改めない罪あるために、この恩寵を受けるところの信仰を働かし得ない人の少なくないことを信ずる。しかり、明白な単純な実際的な悔い改めこそ神の求めたもうところのものである。その手紙が書かれる筈である、その支払いが消されねばならぬ、自分を害したその人を赦さねばならぬ、或いは隠れた罪をば関係者に告白せねばならぬ。ここにいる或る人々にはこのことを聖霊が如何に自覚せしめまた導きいたもうことであろうか。諸君は或いは潔めの理論や高等生涯の教理を理解せんとしておられるかも知れぬが、主はただいま一層低い実際的のことに注意するように求めたもう。諸君が主の恩寵に依りて御声に順うまでは諸君は決して生来の罪とそれがキリストの十字架に依りて破壊されることについて明白なる光を得ることはないであろう。私は主の恩寵に依りてと言う、何となればもしも諸君がただ主を求めるならば主は叛く者にも賜物を与えたもうからである。もし諸君が御顔を求めるならば主は悔い改める恩寵と能力を与え、その兄弟と和らぐことを得しめたもうであろう。
 されども我等が服従した後で、もはや我等が語りつつある恩恵を得たと思わぬように気を付けねばならぬ。悔い改めと服従の後にいつでも一種の安息の感がある。けれどもこれで万事済んだと思うのは大いなる危険である。否、暫く我等の信仰の試みを受けた後にすべての恩寵を与える神の我等の衷に働かんと約束したもうたところの完全に向かって進ましめよ。
 私は自己の生涯を顧みるときに悔い改めのその時のことが如何にありありと私の心に思い出されることよ。もし神が叛ける者にも賜物を与え、わが生涯においてなしたる悪を正し、これを改善するように恩寵を与えたまわなかったならば、私が今日諸君の前にかくあることもなかったであろう。

第五 謙  遜

 神の能力(ちから)ある御手の下に己を卑(ひく)うせよ(ペテロ前書五・六)

 甦り高められたもうたキリストの御手より、心の潔めを受ける条件をば、最も単純な形に述べよとならば、私は言う、第一に神の力ある御手の下に己を卑うすること、第二にただ信ずることである、すなわち謙遜と信仰とこの二つであると。
 これは約束の賜物を獲得するために献身と降服をば主なる要素とする現時の教えに反対することを私は知っている。我等の総理は昨夜その説教中に神の驚くべき約束は熱心なる者、信心深き者、また献身したる霊魂に対してなされずして却って憫れな惨めな堕落者に対して与えられていると言われた。主イエスはサマリヤの婦人に対して『汝もし神の賜物を知りたらんには』と仰せられた、『汝もし自らの如何に悪しきかを知るならば、如何に恐ろしき地獄の汝を待ちおるかを知るならば、罪は如何に力強きものなるかを知らば』とは仰せにならなかった。なおまた『汝もし我に対して献身するならば、その賜物を与えしものを』とは仰せにならなかった。否そのようなことは何も仰せられなかった。主はまた潔められんことを求める憫れな癩病者に『汝もしその身も心も霊も我に献ぐるならばその癩病より潔むるであろう』とは決して仰せにならなかった。
 主は復活の後に戸を閉じたる室内にて恐れ戦いている怯懦なる弟子等に『もし汝らが充分にまた全く服従するならば聖霊を与えん』とは仰せられなかった。否、実にそうではなかった。何となればそれはみな恩寵によるのであり、自由の賜物であり、一切が主より来ることであるからである。献身というものは主が為したもうた事のため、与えたもうた賜物のために感恩の心より出ずるものである。
 私は国を経めぐりて方々にて絶対の降服、全心をこめての献身によって恩恵を嗣がんと長い間もがきおる非常に多くの人に出会った。彼等は全く失望して精神も疲れ切って私の許に来り、かくして何もよくはならず却ってますます悪くなったと告げた。
 かかる人々に向かって信仰の道を宣べ、献身の代わりに主は彼等の謙遜なる罪の告白を求めたもうという答え、しかして主は彼等がその心中に見出したる『望まぬ』『能わぬ』『信ぜぬ』をばそのまま彼に告げ奉ることを命じたもうということを彼らに告げるは何たる喜びであったことぞ。彼等が涙と謙った精神をもって最下底まで降り、その善きところや熱心なる願いの何でもなく、ただ罪と恐れと不信仰と、不従順や反逆や、内心のすべての悪をキリストに持ち来りてこれをみな告白し、しかして彼等がその分を果たせば、主はすでにその分を果たしておいでなさると、喜び勇んで約束に立つときに私は如何にしばしば彼等の霊魂に確信と喜びの盈満が湧き出で快美と光明をもって周囲に溢れるを実見したことよ。
 されど他の場合にては、かくして謙れる砕けた告白を以て主に来ることは献身を以て来るよりも遙かに困難なることに気付いた。彼等は彼等のすべてをば神に提供しまた献げることを好む、されど悲しいかな、傲慢なる砕けない精神は彼等をして憫れなる癩病者、盲目の乞食或いは助けなき中風の者の如くに恩恵を求めることをなさしめぬ。かくして彼等は得るところなく空しく去り行くのである。しかり、ジョン・ウェスレーが久しき以前に名付けた『信者の悔い改め』は活ける信仰の効力ある働きのために必須の条件である。
 一切を渡し奉ることができないから、献身を失敗したからとてキリストに行くことをやめてはならぬ。あなたの現状のそのままにて来れ、偶像崇拝、無能力、不信仰の何にても一切主に告げまつれ、しかしてただ信ぜよ。然らばエブス人のこの三重の砦は主イエスによりて略取され破壊されるのである。
 私はかくのごとくにして安息に入りたる聖徒より受けたるところの書翰を持つが、今その一つを読まん。
 『私はあなたに対して何とお礼を申してよいかわからぬほどに幸福であります。私がお願いいたしてより一週間は神が私の心を潔めてくださったと信じ続けて参りましたが、何の変化も感じませんでした。しかるに月曜日に家へ帰る途中で、突然と私は潔められたということを知りました。で、声高く歌いつつ道を走り出しました、それからというものはいつも歌い続けております。そしてそれはそのために充分に神を頌め奉ることのできぬほどに驚くべきことであり、何故以前にかくなしてくださるように神に願わなかったかを怪しむほどに単純なことでありました。過ぐる二日の間に二つのことが私の身に起こりました、暫く以前であったならば、そのために怒らずにはおかなかったのでありましょうが、今は怒りたくありませぬ。また腹立たしい感情と戦わねばならぬようなこともありませぬ。そしてまたこの世を愛する心も去りました。私の下の室で舞踊がありましたが、二週間以前ならば(たとえ私はそれを自分で致しませんでも)踊りたくて足をもじもじさせたでありましょうが、今はあの人々を羨む代わりに気の毒に感ずるようになりました。
 『しかし何よりも一番よいことは衷にある驚くべき喜びと平和であります。私はちょうどわが手が主の御手のうちに握られていると感ずるように主が私と共においでなさることを確かに覚えます。この数日は私にとっては地上の天国であります、充分に主を頌めることができませぬ。主イエスの御為に死ぬるに当たりイエスの愛を驚嘆して「私が天国に達したときに讃美感謝は尽きぬであろう」と言ったその老人のように感じます。
 『しかして聖書がまるで新しい書物となり、今までかつてなきほどに祈禱が喜悦となり、しかしてすべて神が私のためになしたもうたこの驚くべきことを人々に語ることができるようにされたというは実に驚くべきことであります。(ただ主イエスが驚くべき御方であるばかりでなく驚くべきことを主はなしたもうた。そこには救い主の在すと共に救いがある)』
 この次の言葉に耳を傾けよ。『しかして讃美をばかつ叫びかつ歌うか、しからざれば彼の愛の偉大さと、その救いの盈満に吃驚して黙するか、これを代わる代わるになさしめよ』と。
 私は百ポンドの小切手を送られるよりもかかる手紙を送られることを望ましく思う。

第六 信  仰

 信仰によりて彼らの心をきよめ(使徒十五・九)
 信仰に由りて約束の御霊を受けん為なり(ガラテヤ三・十四)

 何時我等は潔くなされるであろうか、何時それが一度に潔くなるであろうかと言うならば、まず深い願望を起し、我等の欠乏と無能力を自覚し、この悪の原因と所とに関して光を与えられ、真実に悔い改め、真正の自貶をもって『ただ信じ』得るや否や、その時その処にてこの恵みは我等の有となるのである。
 主イエスは自ら義とする儀式的なるそのままのパリサイ人に決してただ信ぜよと仰せたまわず、偏理的で所謂智慧に誇っているままのサドカイ人等にもかく仰せられなかった。彼はただ欠乏を感じ御足の下に悔い頽れて求める者にかく仰せられた。今もなおかかる者にこそかく仰せたもうのである。
 マドレーのフレッチャーの言葉に『私が不信仰の中に立っているときに、私は誘惑の太陽に乾き上がる泥水の一滴の如くであり、私が信じてキリストをもって取り囲まれるときには、その同じ水の一滴が光と生命と自由と能力と愛の無限の大洋にあるが如くである』と。
 しかり、されど誰を信ずるかということはわかっているが、何を如何にして信ずるかということが、私の困難な点であると言われるであろう。さればまず信仰の『如何にして』から述べよう。我等は神の約束と神の言葉を通して神を信ずるのである。他の方法を試みてはならぬ。録されたる御言に依り頼め。何か確実明瞭なる主の御陳述をば捉えよ。かかる言葉はこの貴重なる聖書を通してたくさんにある。『かく主言い給ふ』主がかく語りたもう、その御陳述をば或いはパウロ、ペテロ或いはヨハネの言葉であるとして引き下げることをなして御霊を憂えしめてはならぬ。使徒等はこれらの貴い大いなる約束の作者ではない。これらはみな神御自身の御言である。これが如何にして神を信ずるかの途である。されど諸君はまたこの潔めの如き大いなる経験に関してわが信仰をばちょうど何に置くべきであるかと問われるであろう。
 信仰の手は何か明瞭なるものを握りこれを捉えておらねばならぬことであるが、神に感謝す、それは羔羊の血、──カルバリーの十字架──イエスの打たれたまいしその傷──のほかないのである。
 『かれらは……羔羊の血に己が衣を洗ひて白くしたる者なり』(黙示録七・十四)とある、さらば諸君は何故しからざるや。『われらの旧き人、キリストと共に十字架につけられたるは、罪の体ほろびて』(ローマ六・六)、さらば何故諸君の罪の体滅びざるや。『そのうたれし痍によりてわれらは癒されたり』(イザヤ五十三・五)、さらば諸君を妨げるものは何なりや。
 聖霊が諸君の心に内住のキリストを携え来りたもう唯一の理由は羔羊の血である故に、諸君がキリストの入り来りたもうことを求められるときに、かくその御血汐を見上げよ。イエスの御血は『神の賜物』のために払われたる価である。しかしてこの価は豊富に払われた。しかり、充分より以上である。されば何故にキリストの血によって買われたものをば信仰によって大胆に我がものと要求せぬであろうか。涙も献身も誓いも断食も熱心なる骨折りも、さては奮闘努力もよき志も、諸君の懐に慰め主を連れ来らぬであろう。御霊は一つのこと、しかもただこの一事に対してのみ応えたもう。それはカルバリーの犠牲における確固不動にして決して辟易せぬ大胆なる信仰である。諸君が前に告白したところのすべては十字架に釘けられていると敢えて信ぜよ。或いは(諸君がこの言葉を好むならば)血汐は今諸君の心を潔くなすと信ぜよ。或いは(聖霊がかく導きたもうならば)イエスの打たれたもうたこととその御傷の効力はこの瞬間に諸君をば安全になすとともに健全になすと信ずることを敢えてせよ。さらば昔の血漏を患いし婦人の如く諸君もまたその心の病より全く癒され健やかにされるであろう。
 信仰は何処かに依り頼むところがなければならぬが、悪魔の攻撃、不信仰の暴風雨が諸君の霊魂を越えて吹き荒むときにこれに堪え得る唯一の基礎がある。神の真理に対する信仰、すなわち神の愛と約束に対して一般的に信ずることも役立たぬ、我等が献身して熱心に働いている故に主の恒に臨在したもうことを信じようとすることも感ずることも哲理をもって推論してみても、これらの何物も悪魔の攻撃に抵抗することを得せしめぬであろう。
 我はキリストと偕に十字架に釘けられた、それ故に彼は我が衷に生きたもう。我と彼の一致は彼の死に由るのである。彼はその御血をもって我を潔めたもうた。それ故に彼は我が衷に宿りたもう。ここに信仰の堅き、力強き安息所がある。
 されば諸君は神の御顔を見上げかく言わぬであろうか。『主よ我ここにあり、我は我が無能、我が偶像崇拝、主に対し奉りて不忠信なることを告白した。我が主に従い奉ること能わぬことを告げ奉った。我は種々の困難の勃発しつつあるを見る。また嘲笑と批評の我を待ちおるを知る。しかして我は全く無力である。我は何をもなし能わぬ。ただこれを主よ汝に告白し奉る。汝はもし彼等が飢え渇く如く汝を求めるならば叛ける者にも聖霊を与えんと約したもうた。主よ我が唯一の訴えはイエスの御血である』と。
 主は或いは暫く諸君を待たしめたもうこともあろう。されど彼は来りたもう。彼は決して謙る霊魂を斥けたもうたことはない。決してない。もしもまだ主があなたに来りたまわぬならば、次の二つの理由の一つがあるのみである。すなわちあなたがまだ神の能力ある手の下に自己を卑うせぬか、或いは信じつつあらぬか、どちらかである。

第七 信仰の試み

 汝らの信仰の験は、忍耐を生ず(ヤコブ一・三)

 幾たび繰り返して言っても多すぎることのないのは、我等が今語りつつある恵みは信仰によって受けられるものである、ただ信仰によってのみ受けられるのであるということである。それはすべての栄光が神のものであり得るためである。
 しかして研究を終える前に、今一つの語るべきことがある。それは信仰の試みである。
 諸君が御独りの時にペテロ前書五・六〜十一を開いてよくよく気を付けて読まれんことを願う。
 『神の能力(ちから)ある御手の下に己を卑うせよ』
 『もろもろの心労(こゝろづかひ)を神に委ねよ』
 『信仰を堅うして彼(悪魔)を禦げ』
 これらは我等の方にてなすべき三つの条件である、しかして我等は
 『もろもろの恩恵の神……は、汝らが暫く苦難をうくる後、なんぢらを全うし、堅うし、強くして、その基を定め給はん』
とあるを見る。
 この『暫く苦難をうくる後』とある詞に注意せよ、もし新しく蒔かれた小さい種が物言うことができるならば、冷たい暗い土塊の下で『暫く苦難をうく』と言うであろう。信仰の種も同じことである。あなたが明確に信じた、しかして全く暗く見ゆる時に『暫く』しかして『彼来たらん』と言え。信仰に依りて讃美すべく始めよ。祈ることを止めよ。祈禱が積極的の罪である場合がある。なぜなればそれがその時不信仰の言い顕しの外何でもないのである。その場合讃美は祈禱に代わらねばならぬ。神があなたの霊魂になしたもうたと信ずる、そのことについては神に讃美を献げ、人には証しせよ。信仰の験しがその工を為し終わった時に聖霊はあなたがそのために信頼したるすべてのことを現実になしたもうであろう。
 主は今朝今一度『ただ信ぜよ』と仰せたもう。もしあなたが彼に順い、その命じたもう所をなすならばあなたは速やかに周囲の人々に『勝利の信仰、勝利の信仰、失敗も恐れも知らざる勝利の信仰』と言うであろう。しかしてあなた自身の霊魂の中に『平和の神、みづから汝らを全く潔くし、汝らの霊と心と体とを全く守りて、我らの主イエス・キリストの来り給ふとき責むべき所なからしめ給はん』(テサロニケ前書五・二十三)と言うであろう。
 しかしてあなたはあなたを招きたもうた彼は真実に在して、それをあなたのためになしたもうた! あなたにでさえもなしたもうたと永遠を通じて讃美し奉ることであろう。アァメン アァメン


パゼット・ウィルクス 講演
大江 邦治 訳

聖  潔

バックストン記念霊交会


頒布価 60円

昭和六年五月二十日 初版発行
昭和廿八年十二月一日 再版発行

編纂者  大 江 邦 治

  東京都武蔵野市境一四一六
発行人  落 田 健 二

  東京都千代田区神田鎌倉町一
印刷人  西 村 徳 次


  東京都武蔵野市境一四一六
発行所  バックストン記念霊交会
     振替東京六六六四九番


|| 1 | 2 | 3 | 4 | A | 目次 |