第二章  聖潔の性質



 (列王記上第二十章全体)

 今朝我等は神の御言のうちに潔めとして録されたる大いなる経験すなわち心の聖潔の状態に入ることの性質について共に考察したいと思う。我等は称義とは帰せられたる義と呼び得る如くこれを分与されたる義と定義することができる。昨日我等はこの経験の必要なる所以を学んだが、今日はこの経験は何であるかを正確に学びたいと思うのである。
 『もし潔からずば、主を見ること能はず』(ヘブル十二・十四)
 私は今如何にしてこの恵まれたる状態に入り得るかに関する種々なる理論を語ろうとするものではない。そこにはこのことに関して六つ七つの理論があるけれども、それらは皆ここに言わんとするところに関係がないのみならずこれにつきて論ずるもあまり益はない。なおまた私はここにこれに関する心理学上の研究に立ち入りて問題を難しくならしめるつもりでもない。けれども今少しく人間性質の成り立つ要素を一瞥しておくことは考察の助けとなることと思う。人の霊魂の活動或いは機能とも言うべきものは次の如きもの、すなわち、良心、意志、思念、記憶、想像、愛情、願望である。尤もこれらの能力の何れにおいても知力の活動のあることは明らかである。知力の活動なくしてこれらの機能の何れも働くことはできぬ。されども今は実際上の目的のために我等の性質を上の如くに分かつことができる。
 我等は皆これらの機能とその活動を自覚している、しかしてまた少しく考えてみればこれらの機能の何れも人類の大敵サタンの働きによって皆枉げられ、顚倒され、毒せられ、無効のものとなされているということを自覚するのである。されども神の子は悪魔の業を毀ち、霊魂を潔めこれをして神に対する全くかつ幸福なる信仰に立ち帰らしめるために現れたもうたのである。されば我等人間の性質の諸機能の一つ一つに何がなされているかを考察し、終わりに全ての困難の原因であり根であるところのものを研究することは有益であると思う。されどもまず私は、神は全てこれらの諸機能を皆潔めて、我等の衷なるすべてのものが神の聖き御名を頌め得るようならしめ、その恩恵深き御旨に対してアーメン、ハレルヤを言い能わぬ何物も残らぬほどに至らしめることを欲したもうということを我等が皆確信せんことを望む。我等は果たしてかかることの可能を信じおるであろうか。或いはあまり善すぎて信じ難いことと思うであろうか。我等の神の如きかかる神において、また主イエス・キリストの如きかかる救い主においては必ず、これがあまり善すぎると言うべきではない。さればまず良心について考えよう。

第一  良  心

 まして……キリストの血は、我らの良心を死にたる行為(おこなひ)より潔めて活ける神に事へしめざらんや(ヘブル九・十四)

 我等罪人が罪の赦しを求めてこれを得る時に、覚醒したる良心の喧しき声は永遠に鎮まる。イエスの血汐は良心の烈しい執拗なる訴えを鎮める。かくその刺は抜き去られ、その声は黙せしめられるのである。しかしながらそこにはなお一層大いなる変化がある。すなわち良心が新たにせられることである。最も済度し難き人々のうちにも良心の最も鋭い人々があった。多くの血を流したメリー女王や固執して動かぬサウロの如き人もかくあった。されども神の恵みが我等の心に達する時に我等の良心は光を受けると共に新たにせられるのである。
 しかしながら前に掲げた聖語はなお一層深い経験について語っている。活ける神すなわち業をなしたもう者を俟ち望ましめるために『死にたる行為より潔むる』というのは、ただ過去の罪から赦されるばかりでなく、誤謬や間違った熱心から離れるばかりでなく、我等自身の力をもって事を為すことから釈放し、我等を促して我等のために事をなしたもう御方を待ち望むようにならしめることである。かくまでに良心が清く潔められるのである。しかしてこの工をなすものはイエスの血汐である。この聖語は聖所にありて祈禱讃美礼拝において神を待ち望むべき祭司等が疫病によりて殺されたる死人の体を葬ることにたずさわった場合、赤き牝牛の灰を加えた水を灑いでその身を潔めたことに関している。我等はイエスの御血の幸いなる潔めを充分に受ける時に我等の良心がまた恰もその通りに浄められるのである。我等は我等のために工をなさんとて俟ちたもう神を俟ち望むに至るのである。

第二  意  志

 我キリストと偕に十字架につけられたり。(ガラテヤ二・二十)

 意志というものは霊魂の城砦である。我等はこれを自我と称してもよい。人が『我』と言うところのそのものである。さればこの城砦が略取され、この所が降伏させられるまでは何事も起こらぬ。我等が聖霊によりて再生する時に(神の自由の御恩寵に依りてこの意志が転化するのはその時である)この自我がキリストと共に十字架につけられる。叛逆と不従順そのものであるところの自己意志がその時に除かれる。他の言葉で言えばそこに神のご要求に対する実際の降伏がある。しかしてこのことはおそらく我等に決して了解されざる方法にてカルバリの犠牲を通して成し遂げられるものである。パウロは『我キリストと偕に十字架につけられたり』と言っている。キリストの甦りと苦しみに依りて我等の自己意志と叛逆に死の打撃が加えられるのである。かくこの城砦が陥落するその時、潔めの工が始まる。これは栄光ある始めである。このことは聖霊によりて我等の中に成されるのであるということは私も承知している、されど罪を知りたまわざりし御方が我等の代わりに罪となりたもうたが故にのみこのことが可能になったのである。
 さてかく霊魂の城砦が陥落しても潔めは完成されたのではない。多くの人は意志の降伏は一切であると想う、されど哀しいかな我等は間もなくそうではないということを発見する。悪魔はその工を徹底的になしている。すなわち彼の蛇毒によりて我等の性質の各部分みな歪められ、顛倒され、毒せられ、毀損されている。されども神を頌めよ、神は全き癒しをなし得たもう、しかして悪魔が衷に為したる一切の工を全然破棄しおわりたもうことができる。
 厳密に言えば我等の良心と意志は我等の性質のうちにて新生せしめる神の御工の働く範囲である。『我等の良心潔められ』(ヘブル九・十四)『我等の意志』が『十字架につけらるる』(ガラテヤ二・二十)、されど全き潔めはこれらのことよりも更に広い、更に深い地盤を掩う工である。

第三  願  望

 キリスト・イエスに属する者は肉とともに其の情と慾(=願望)とを十字架につけたり。(ガラテヤ五・二十四)

 私はさきに良心と意志よりも一層深い地盤について語ったがこれは心の願望に関して言ったのである。聖語のヘブルとギリシャの原語を見ればこの願望という名詞を言い顕すに凡そ十六の語があり、同じ願望という動詞には凡そ二十六の語がある。潔めは霊魂のこれらの深い所に達する。ウェスレーの詩に言った、
   『我が意志は定まって見ゆれども
     慾情はなお広くさまよう』
ということの真なるを我等のうちに自覚しないものは少なかろう。すなわち我等の意志よりなお一層下のなお一層深い所に恋々たる欲望があって、既に自由になった意志をも再び奴隷にするほど強いということを自覚するのである。自分の心をよく顧みたい。我等の実際の願望は何であるか。ジョン・ウェスレーは『神のほか何の願望も有つな』と言ったが我等は如何。その所にこの世につけるものや安逸、安慰、快楽などに対する恋々たる願望はないであろうか。ここで修養会で主が近づいて『汝のために何をなすべきや』と問いたまえば我等は『主よ汝の霊を豊かに与えたまえ』と言う、されど我等が家に帰る時に我等の唇の願いよりも遙かに強い他のことを願う願望のあることを発見せぬであろうか。使徒ペテロは『汝らの望み(願望)を全くイエス・キリストの現れ給うとき与えられんとする恩恵に置け』(ペテロ前書一・十三英訳)と言った。我等の願望はかく定まっているであろうか。神の言葉はかく永久不変に定まることについて多く語っている。詩篇の作者は『我が心(すなわち我が愛情)は定まれり』と叫んでいる。イザヤは我等の思念或いは想像の神に定まることについて語っている。されどもこの定まることすなわち我等の願望が神の方に確定することの前に、聖霊は一層強い『十字架に釘ける』という言葉を用いたもう。『キリストに属する者はその慾(願望)を十字架につけたり。』
 ここに真の潔めの性質がある。そこに清浄にすること、精錬すること、我等の願望から不純物を除去することが行なわれるべきである。『我らの良心を死にたる行為より潔めらるる事が出来』(ヘブル九・十四)、『我等の意志がキリストと偕に十字架に釘けらるる事が出来』(ガラテヤ二・二十)、『我等のこの世に属けるまた肉に属ける願望が十字架に釘けらるる事が出来る』(ガラテヤ五・二十四)。

第四  愛  情

 汝の神ヱホバ汝の心……に割礼を施こし汝をして心を尽し精神をつくして汝の神エホバを愛せしめ……たまふべし。(申命記三十・六)

 聖言のうちに一つの最大の命令、しかして他のすべてに勝りて美しき命令がある。すなわち『なんぢ心を尽し、精神を尽し、力を尽し、思ひを尽くして主なる汝の神を愛すべし』というそれである。その処にまたそれに勝りて慰めとなる貴き約束がある、それは今ここに引いた処の『汝の神ヱホバ汝の心に割礼を施して汝をして愛せしめたまふべし』という約束である。何故その命令はかく美しいのであるか。それは第一に汝事えよと言わず、拝せよと言わず、或いはまた従えよと言わずしてただ愛せよと言う。我等はかかる命令を出す御方は、御自身まずこの命令を受けるところの者を愛したもう御方であるとしか考えることができぬ。たとえば男子にして或る婦人の愛を求める者あれば、必ずまず彼女を愛するからである。かくのごとくもし神がまず我等を愛したもうでないならば、心を尽くして御自身を愛することを命じたもうことはできなかったであろう。
 我等のうち或る者にとりて神に対する献身奉仕がたいそう困難事であるというは何故であろうか。それは確かに神と相愛関係におらないからである。ここにもし一青年があって毎夜十里もしくは十二里の遠距離にて働きに就かねばならぬとせよ、しかも晴雨寒暑、如何なる暴風雨でも行かねばならぬとせよ、彼は烈しい暴風や吹雪を冒して行かねばならぬときにいかに呟いたであろうか。けれどももしこの青年が恋に落ちてその愛する婦人がその道の彼方に待っているとせばいかにその道を容易に思うことであろうか。彼の愛するその人に会わしめるその日ごとの旅路はいかに楽しきことよ。もはや何の呟きもなく困難も決して困難とは思わぬであろう。
 我等の心が力を尽くして主を愛し奉るべく割礼を施されるときにはちょうどその通りになることができる。割礼という語に注意を願う、パウロがそれを我等の聖潔に適用するとき(コロサイ二・十一)には別の言葉『脱ぎ去る(アペクドゥシス)』を用いている。これは新約聖書の外には何処にも見出されぬ甚だ強い語で、『肉の全体』を『我々から我々の外に、脱却し去る』という意味である。『肉の体』と言ったのは肉体の割礼においてはその肉体の一部分を切り去ることに対照してこの割礼においては全体を除き去ることを示さんがためである。
 しかり我等の愛をして偏らしめ、主に対する全身の献身を害なうところの凡てのものを我等から全く取り去ることは幸いなる割礼である。かくしてこそ我等は愛しまた喜んで従い奉るのである。

第五  想  像

 其心の思念(おもひ)の都て図維る(想像する)所の恒に惟(ただ)悪きのみなるを見たまへり。(創世記六・五)

 聖語中において想像という題目を研究するは甚だ広汎にしてまた興味深いことである。預言者エレミヤは『我等の心の想像に循いて歩まん』こと(邦語訳には心の剛愎とあり)につきて多く語っている(七・二十四、十一・八、十三・十ほか)。しかして彼がこの語を用いるときにはいつも神の『律法』、神の『声』、および神の『言』に背いたものとしてこれを用いている。たとえば神の言葉よりも勝りて自己の想像に循い、信頼しまた順うなどの如きである。旧約聖書にてみな想像と訳せられている三つの語がある。その第一は『形作ること』、第二は『考案すること』、第三は『剛愎』である。しかしてエレミヤのいつも用いているのは第三の言葉である。
 想像すなわち常に現存せざるものを形成しそれに形状を与えるところの機能は不信仰の城砦であると言うことができる。我等は神は過酷な峻厳な御方であると想像し、その道は困難で、その御旨は耐え難きものであると想像する。しかして我等は決して来らざる苦労や決して顕れざる困難を想像する、これはすべて不信仰の工である。不信仰は言う『それはできない』『真実なるにはあまり善すぎる』。不信仰はまた、罪はあまりに強い、巨人はあまりに偉い、事情はあまりに困難である、代償はあまりに高いと囁く。不信仰は我等の想像の上に失敗や失望や種々なる困難の恐ろしき影像を描く。おおこの不信仰の毒の浸潤したる病的想像よりこれが癒され潔められ能うか。それが神を頌め、信じ、愛し喜ぶところの思いをもって充たされることができようか?
 ダビデがその民の喜んでその一切を神に献げるを見し時に言えるところを聞けよ。『神ヱホバよ、汝の民をして此精神を何時までもその心の思念に(英訳には「心の思念の想像に」とあり)保たしめ、その心を固く汝に帰せしめたまへ』(歴代誌上二十九・十八)。しかり想像が潔められ、しかしてイザヤが『なんぢは平康(やすき)にやすきをもて心志(こころざし:原語は想像)かたき者を守りたまふ、彼はなんぢに依頼めばなり』(二十六・三)と宣言せる如くその想像が神に堅く依り頼むまでは人間の心は決して堅く安定することはできない。
 おお諸君自らの神を『形成すること』を慎めよ。これは不信仰の毒をもって浸潤されたる病的想像の結果にて己が心の幻影である。しかり神は我等自身の悪しき心の想像に随わず神の律法とその御声、御言に随って歩むように我等の想像を潔め、すべての不信仰を追い出し得たもうのである。

第六  思  念

 心の霊を更えて新たにせよ。(ロマ書十二・二英訳)

 私は今思念につきて語るに当たりこの語を心より出ずる『おもい』という意味においてのみ用いる。さて或る人は神も我等の『おもい』を取り扱いたもうことができないと思うように見える。けれども『その心に思うごとくその人となりもまたしかある』のである。また『思いを蒔けば行為を刈り取り、行為を蒔けば習慣を刈り取り、習慣を蒔けば品性を刈り取り、品性を蒔けば運命を刈り取る』ものである。真に我等の心の思念というものは何よりも最も大切なものである。
 私は願望、想像、意志がすべて我等の思いを構成する要素であることはよく承知している。けれども一般の人々のために『聖霊の感動によりて我等の心の思いの潔めらるる』ということを別個の題目として考察することができる。
 そこには我等の心に悪しき思いの突如として入り来りまた速やかに過ぎ去りあとに何らの汚点も有罪の感も残さず、苦痛の何の刺も名残もとどめぬところのものがある。これらの瞬間的の思いについては私はここに何も言うのではない。されどもかしこに我等の心より起こるところの悪念がある。これは傷つけまたその痕を残す。これは発泡し熱発する。しかしてまたこれは我等を奴隷として引き廻しまた抑留するところのものである。これらのものは我等の性格を作りまたこれを定めるところのものである。
 かかる創痍に対して『ギレアデに薬あらざるや』、何の癒しも施す術もあらざるや、何の救いも施すすべなきや。かくの如き悪念の発生するその源をば浄める内部の潔めはあらざるや。批評的なる思い、苦い思い、呟く思い、その他ここに挙げざるも種々なる思い、しかも更に汚れたる思いは恒に心中に起こらねばならぬものなるや。否々決してしからず、イエス・キリストの血は赦罪のためのみならず悪を浄めまた除去したもう、すなわち我等をばその存在の源頭において潔くならしめたもうのである。すなわち聖語の宣言する如くに我等の心の霊を新たにするのである。確かにこれはすべての困難の原因また本源、ただ心だけでなく心の最深奥なる霊に触れるのである。彼はすべての思いを虜にしてキリストに従わしめることを得たもうのである。

第七  記  憶

 汝らに思ひ出させ、その潔よき心を励まし(ペテロ後書三・一)

 我等の性質のうちに病的なる記憶よりも甚だしく人類堕落の影響を受けたることをあらわす部分はないであろう。何故に我等はかく容易に善きことを忘れ悪しきことをよく記憶するであろうか。これにはそこに何かの理由がなければならぬ。預言者エレミヤによって言いあらわされたる神の歎きは『我民の我を忘れたる日は数へがたし』(二・三十二)であった。モーセのイスラエルの民に対する最後の命令は繰り返し繰り返して『汝誌ゆべし』『汝誌ゆべし』でありまた『忘るるに至らざるやうに慎めよ』はその不断の警告であった。『汝誌ゆべし、汝はエジプトの国に奴隷たりしなり』(申命記二十四・二十二)、『汝曠野に於て汝の神ヱホバを怒(いから)せし事を憶えて忘るゝ勿れ』(申命記九・七)、『汝の神ヱホバがパロとエジプトに為たまひしところの事を善く憶えよ』(申命記七・十八)、神の主にて在す事を憶えよ(申命記八・十八)、エジプトより出で来れる日を憶えよ(申命記十六・三)、ミリアムに為し給いし審判を憶えよ(申命記二十四・九)、アマレクが妨げし事を憶えよ(申命記二十五・十七)、また安息日を憶えよ(申命記五・十五)。使徒ペテロもまたその書翰においてこの記憶のことを一度ならず繰り返している。彼はその読者に彼らが既に知りまた真理に堅うせられたれど、つねに思い出でしめんとすると言っている。聖徒たる者でさえも記憶というものは如何に裏切り易く変わり易く、愚かしくあることよ!
 しかしてこの記憶をば変え、癒し、新鮮に保つところの三つのものがある。
【第一】それは神の言葉である。『我これらの事を語りたるは、時いたりて我が斯く言ひしことを汝らの思ひいでん為なり。』(ヨハネ十六・四)
【第二】それは聖霊である。『聖霊は汝らに……すべて我が汝らに言ひしことを思ひ出さしむべし。』(ヨハネ十四・二十六)
【第三】それはまたイエスの宝血である。『我が記念として之を行へ。』(ルカ二十二・十九)
 まず我等もし彼の言葉を読みまたこれを思いめぐらすことをなさねば如何にしてこれを思い出すことができようか。次に頌むべき聖霊が『神聖なる記憶者』でありたまわねば我等は如何にして思い出し得べきや、実に
   『永遠の霊よ、来りませ、
    救い主の死の御いさおし
    人のために受けたまいし御苦痛を、
    感謝に溢るる人みなにもたらせたまえ。
    主の臨終の見証者よ、来りませ、
    神たる記憶者よ、来りませ、
    キリストを当て嵌め給う御力を、
    人にも我にも感ぜしめたまえ。』
 しかしてまた御血汐がまず潔め癒すべく当て嵌められるにあらざれば、如何にして御霊は我等をして記憶を保たしめたもうことができようか。
 我等のうちに証をなし、記憶を潔く、新鮮に、真実に保つものは、御言の水と霊と御血汐とこの三つのものである。
 
     ×     ×     ×
       ×     ×     ×
       
 愛する友よ、以上は潔めの七重の工である。すなわち

  1. 我等の良心が死にたる行為より潔められ新たにせられ、
  2. 我等の意志が姿変わらせられる、すなわち『自我』がキリストと共に十字架に釘けられ、
  3. 我等の愛情が割礼を受け、
  4. 我等の願望が十字架につけられ、
  5. 我等の思念がその霊において新たにされ、
  6. 我等の想像が神に依り頼みて定まり、
  7. 我等の記憶が癒されるのである。

 さて、いま私はここに本論を終わる前に今少しく深くすべての困難の原因を探知したいと思う。全体、霊魂のこれらの諸機能の顛倒、偏枉、汚穢、疾病は何れより来れるや。
 人類堕落の物語は我等の心を人間の張本的大敵サタンに導く、ここに第一原因がある──されども今我等が取り扱うことのできる第二原因はないであろうかと言うに、それがあるのである。我等が聖書を読むときに我等の災難の理由として聖書の頁の上に屡々現れる或る一物に注意せざるを得ぬ。この一物は多くの名、否、称呼を有っている。今ここにその称呼の七つを挙げよう(なお多くあるけれども)。
 一、『旧き人』(ロマ書六・六) 
 二、『旧きパン種』(コリント前書五・八) 
 三、『肉の念』(ロマ書八・七) 
 四、『中に宿る罪』(ロマ書七・二十) 
 五、『婢女』(奴隷たる子を産む母)(ガラテヤ四・三十) 
 六、『不信仰の悪しき心』(ヘブル三・十二) 
 七、『罪の体』(ロマ書六・六)。
 もし時が許すならば私はこれらの称呼すなわち聖霊が注意深く撰び用いて我等の始祖アダム、エバより遺伝し来りたる悪しき性質の七つの方面をば表しているこれらの称呼の一々を諸君に示すことができるけれども、原因はただ一つ、サタンに依って人類に分与されたる人間性質の堕落──これである。今これより『肉の念』『中に宿る罪』『不信仰の悪しき心』の三つにつきて少しく学ぼう。

肉 の 思 念

 この呼称の特に示すところは偶像崇拝である、我等はこれを神に対する敵対、怨恨と言うことができる。神の命令に対して『否』と言うところの堕落のその方面すなわち神が命令したもう時に『我は順いたくない』と言うところの一物である。信者としてもちろん我等は決してかかる言葉を口に挙げることをせぬ、けれども我等の心の中にはしばしばかかる気持ちが流行するのである。しかり我等はその道の十分の九までは行く、けれども一の点だけ神に順うことを欲せぬ。悲しいかな、我等みなその力すなわちこの叛逆的精神を感じている。これが神の敵なる肉の念というものである。神に謝し奉る、神は御自身の敵を取り扱いたもう。彼は『叛ける者にも賜物を有ち給う』、神はこの偶像崇拝の精神をさえも取り去りたもうことができる。この執拗なる敵を滅ぼすことは我等の仕事ではない。我等はかかる恐るべき一物のあることを認めて、神の前に謙って言認すべきのみである。しかして神は御自身にこれを我等の懐より取り去りたもうのである。

中 に 宿 れ る 罪

 この称呼の特に示すところの点は無能力である。『我欲する所は之をなさず、却って我が憎むところは之を為すなり。』(ロマ書七・十九)この処にはそれは『我は為したくない』というのではなく『我はできない』である。私は温和にしていることができぬ、私は私の癇癪や私の情欲や乱れた欲望を制することができぬ、我は愛することも忍ぶことも、順うこともできぬ、私はこの批評し易い精神を棄てることができぬ、我が心の呟き訴えるこの思いを止めることができぬ、私は幾十度これをなさんと試みたができない。しかり『中に宿るところの罪』この生来の腐敗性は麻痺せしめるもので、つねに我をして『我が欲する所の善はこれをなさず、却って欲せぬ所の悪は之を為すなり』と叫ばしめるものである。

不 信 仰 の 悪 し き 心

 されどもそこに『能わぬ』『欲せぬ』よりもなお遙かに悪しき或るものがある。それの主たる能力は『それが決して変化されようと我は信ぜぬ』とでも定義され得るところのものである。この処に私が既に指示した如き困難全体の根がある。ほかのすべての罪はよくよく内省することによって看露わされることができる。けれども聖霊がこれを顕したもうまでは我等は決して不信仰をば罪、すなわち『世の罪』(The Sin of The World)で最も恐るべき憎むべき罪そのものであると感ずることはできぬ。
 この不信仰は禍とすべての悪しき業の原因である。何故に今日露国に地獄を現出しているか、ただ人々が互いに信ずることができぬからである。これは甚だしき苦痛を起こす。夫に対しても妻に対しても両親に対しても信用ができぬということは地上においての最も残酷なことである。
 これはまた我等を助けんと欲する人の手を縛して助けしめないのである。我等がもし我等を恵まんとする人の真実なる無私なる動機を信ぜぬならば、たとえその人がその欲する如く多く我等を助けんとするとも、彼はかくすることができぬ、──彼が欲せぬではない。彼は能わぬのである。我等が彼をしてなさしめぬのである。
 今これらのことをすべて神と我等の関係に当て嵌めしめよ。日の下においてすべての悪よりも勝りて悪しきものは愛の神に対する不信仰のこの悪しき心であるということを悟り始め得ぬか。けれども私はこの不信仰なるものが、もし我等が信者であるならば、必ずしも我等の意志にあるのではないということを注意したい。これは我等の意志の範囲よりも一段低いところに潜んでいる。これは我等の性質全体、我等の思念記憶想像を毀損している、しかしてただ神の能力によりてのみこれを除去することのできるものである。
 この処に神より授けられたる我等の機能に来したる不秩序と偏枉との原因がある、不従順、無能力、不信仰は悪の三位一体で、悪魔の植え付けたる内敵偏頗の名、或いは称呼である、これこそ我等の始祖より遺伝した内的の腐敗したる性質である。
 さて神の潔めの恩寵はかくも重大なる問題、かくも偉大なる力をば根本的に取り扱うことができるであろうか。神はよく我等を『自由』になし『清潔』になし『健全』になし得たもうであろうか。神は我等の性質のすべての部分を潔めたもうことができるであろうか。この問の答えとして私がこの集会の始めに読んだ所、列王記上二十章において我等に語られる驚くべき旧約の物語を学びたいと思う。
 この処に録されてあるベネハダデ王は神の民の歴代の敵であるということは今特に指摘するまでもないことである。彼は確かに我等の遺伝的の悪性の著しき型である。この章の始めの方に記載される如く無慈悲にも残忍にも何もかも要求して余さず一切をその権力の下に掴まんとする、バラバそのままである。肉の思いもちょうどその如くこれを満足させ宥め和らげることはヴェスヴィアスの噴火を消すよりも困難である。
 諸君はこの物語で読む如く戦と勝利、しかも二度のそれを気づくであろう。されども神の御目的は勝利以上のことであった、神はキリストによりて『勝ちを得て余り』あらしめたもうのである。さてベネハダデは第二回の敗北の後アペクに逃げて邑に入り、奥の間、すなわち英訳欄外にある如く『室の中の一室にその身を匿した』と書いてある。これは内住の罪の巧みに遁げ隠れる力をあらわす何たる絵画ぞ! しかして少しく安全なることを感ずるや、彼は出で来り、その生命のために弁疏するのである、その時彼はいかにも謙りてまた一切を献げているように見える。彼は言う、『我が父の爾の父より取りたる諸邑は我返すべし、また我が父のサマリヤに造りたる如く、爾ダマスコに於いて爾のために街区を作るべし』と。しかり旧き人も同じくもしその生命さえ助かるならばどんなにでも『謙遜』と『献身』的であり得るのである。我等はこの物語のその後如何になったかを知っている、アハブは彼の命を助け、彼と契約を結んで彼を送り帰した。アハブは次の章にて読む如くその忠臣の一人なるナボテを殺すことを躊躇しなかったが、その最も恐るべき敵の命をば助けたのである。しかるにその次の章を見ればベネハダデは再び馬に鞍を置き戦に出ている。しかもその戦車の長等に向かって汝ら誰とも戦うな、ただイスラエルの王──自己の生命を助けたその当人と戦えと言っているのを見る。人間の肉の思いというものもつねにちょうどその通りである。肉の思いは神に対するその怨恨を決して変えるものではない、ベネハダデが変わらぬ如く肉の念も改めることのできないものである。その後我等はエリシャがスリヤの大将ナアマンの癩病を癒したことを見、更に進んでは彼を捕らえんとて来たれるスリヤの軍勢をば懇ろに取り扱い大いなる饗筵にて飲食せしめて帰したことを見る。しかるにベネハダデはなお神とその民に対しては少しも変わらざる同じ恩を知らざる残忍至極の敵として存している。肉の思いもちょうどその通りである。さて何たる厳かなる仕方をもって神の霊は我等を警戒なしたもうことぞ。ヱホバの預言者の一人が、自らの血をもって掩われて王に至り警戒を与えた、何となれば如何に厳かに言っても言葉のみでは不十分であるが、その身の傷は更に有力に語り、その血と苦痛は覚罪を起こすからである。かくこの預言者は王に言った『ヱホバ斯言たまふ、爾は我が殲滅(ほろぼさ)んと定めたる人を爾の手より放ちたれば、爾の命は彼の生命に代るべし』と。しかしてその通りになった。我等はこの型においてカルバリのキリストを見ないであろうか。神は我等の心の『衷なる罪の人』を全く滅ぼさんと定めたもうた。されば恐れ、或いは不信仰によって彼を助命すべきか。否、我等をして一斉に『彼を十字架につけよ』『彼を十字架につけよ』『彼を除き去れ』と叫ばしめよ。アハブの精神の何物も我等の胸中に潜伏せしめてはならぬ。ただ信ぜよ、詛いを承認せよ、されば我等は我等のために詛われし者となり蛇の如く挙げられたまえるイエスを見るであろう。かくて我等の衷よりすべての悪は逐い出され我等の心は潔められ、衷なる凡てのものが主の聖なる御名を頌め奉ることを幸いなる経験として発見するまで、主を頌めつつ、信仰と礼拝とをもって伏し拝ましめよ。アーメン
 明朝は如何にしてこの御工がなされるかを一層詳細に考えたい。それまで我等のこの憫れな、病み煩う心の根本的の治療を成し遂げたもうべく、すべての我等の衷なる悪を表し示しまた神の恵み深き御目的と御約束とを表したもうように神を待ち望ましめよ。



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