第 五 章  主 の 場 合



 祈りの生活と霊の生活とのつながりは密接で永続的なものである。それは単に我々が祈りを通して聖霊を受けることができるというだけでなく、霊の生活は祈りの生活を不可欠のものとして必要とするのである。わたしは絶えず祈りに身を献げることによってのみ、絶えず聖霊によって導かれることができる。このことが最もよく分かるのは、我らの主の生涯においてである。主の生涯から学ぶことによって、我々は祈りの力と聖とについて驚くべき見方ができるようになる。

 主がバプテスマを受けられた時のことを考えてみよ。天がひらけて聖霊が彼の上にくだったのは彼がバプテスマを受けて祈っていた時であった。キリストがヨルダン川で罪人つみびとのための洗礼に自らを渡した時(それはまた罪人の死に自らを渡すことでもあった)、その明け渡しに対して神は報いて、キリストがなすべき働きのために聖霊の賜物を贈ることをよしとされたのである。しかし彼が祈らなかったならばこのことは起こりえなかったであろう。拝し祈る交わりの中で、聖霊は彼に授けられ、荒野で四十日にわたって祈りと断食のうちに過ごすようにと彼を導いたのである。

 マルコ1:32-35を読みなさい。『夕方になって日が沈むと、人々は病人や悪霊に取りつかれた者をみな、もとに連れて来た。町中の人が戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちを癒やし、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊がイエスを知っていたからである。朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、寂しい所に出て行き、そこで祈っておられた。』

 その日と夕方の働きはイエスを疲れ切らせた。病人を癒やし、悪霊を追い出すことで、力は彼から出て行ってしまっていた。まだ人々が眠っている頃、彼は祈って父とつながることでその力を新しくしていただくために出て行った。彼はこれを必要としていた。こうせずには彼は新しい一日に備えることができなかった。魂を救うという聖なる働きのために、神と交わって常に新しくされるということが必要だったのである。

 ルカ6:12-13で十二使徒を呼ばれた時のことを考えなさい。『その頃、イエスは祈るために山に行き、夜を徹して神に祈られた。朝になると弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた』。誰でも神の働きをなしたいと思うなら、神にお会いして神からその知恵と力をいただくために時間を費やさなければならないということは、明らかではなかろうか。この姿勢があらわす従属性と無力さとが、道を開いて、神にご自分の力をあらわす機会を用意するのである。使徒を選ぶということは、キリストの働きにとっても、初代教会にとっても、またいつにおいても、どれほど重要であったことであろうか。そこには神の祝福としるしがあり、その上に祈りの印章が押されていたのである。

 ルカ9:18,20をお読みなさい。『イエスが独りで祈っておられたとき、弟子たちが御もとに集まって来た。そこでイエスは、「群衆は、私のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。…… ペテロが答えた。「神のメシアです」』。主は父が彼らに主が誰であるかをあらわしてくださることを意図していた。そしてこの目的のために彼は十二使徒を選んだのである(ヨハネ17:6-8)。祈りの夜の後、彼は『十二人を選んで使徒と名付けられた』。『あなたはキリスト、生ける神の子です』と言ったのはその中の一人のペテロであった。すると主は言われた、『あなたにこのことを現したのは、肉と血ではなく、天におられる私の父である』(マタイ16:16-17)。このペテロの偉大な告白こそ祈りの実であった。

 またルカ9:28-29,35をもお読みなさい。『イエスは、ペテロ、ヨハネ、ヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり …… 雲の中から、「これは私の子、私の選んだ者。これに聞け」と言う声がした』。キリストは、彼らの信仰が強められるために、神が天から彼らにイエスが神の子であるという保証を与えられることをかねて願っておられた。祈りは彼のために、また弟子たちのために聞き届けられ、変貌山上での出来事となったのである。

 神が地上で成し遂げようと願っておられることは祈りを必要不可欠の条件としていることが、ますます明らかになってはこないだろうか。キリストと信者たちのためにはただ一つの道がある。天に向かって心と口を開く祈りは決して答えられないままになることはない。

 ルカ11:1-13を見なさい。次のように始まる。『イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、私たちにも祈りを教えてください」と言った』。そこでイエスはかの無尽蔵の祈りを彼らに与えられた。『天にましますわれらの父よ ……』。彼が次のように続けるとき、彼はその心の中に現れてくることをそのまま示していたのである。『御名みなを崇めさせたまえ、御国みくにを来らせたまえ、御心みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ』。このことはいったいどのようにして現実になるのか。祈りを通してである。この祈りは長い年月の間に数え切れない人々によって唱えられて、彼らの慰めとなってきた。けれども忘れてはならないことは、これは我らの主イエスの祈りの中から生まれてきたものであるということだ。彼はその時まで祈っておられた。それゆえにこのような輝かしい答えを与えることができたのである。

 ヨハネ14:16を読みなさい。『私は父にお願いしよう。父はもうひとりの弁護者*を遣わしてくださる』。新約の方法と計画の全体、特に聖霊の傾注という奇跡は、主イエスの祈りがもたらしたものである。このことばはあたかも聖霊の賜物に、神が主イエスの祈りに答えて、また後には弟子たちの祈りに答えて、聖霊ご自身が必ず来られるという印を捺されたようなものである。しかしそれは主のように祈る祈り、すなわち独りで神と共に過ごす時間を取り、自分自身を神に完全に捧げるような祈りに対して答えられるのである。

 ヨハネ17章の大祭司の至聖の祈りをお読みなさい。ここで御子は初めて自分のために祈る。父が彼に十字架に向かう力を与え、死者の中からよみがえらせ、そして神の右に彼を置くことによって、彼に栄光を与えてくださることを祈るのである。これらのことは祈りなしには起こりえない。祈りはこれらのものを獲得する力を有するのだ。

 それから彼は弟子たちのために祈る。父が彼らを悪から守り、世から守り、彼らをきよめてくださるようにと祈る。それからさらに彼は、弟子たちのことばを通して彼を信じるようになるすべての人々のために祈る。その人々が愛によって、父と子が一つでああるように一つになることができるようにと。この祈りは、父と御子の驚くべき関係についてそのあらましを示してくれる。また天国のあらゆる祝福が、神の右にいていつも我々のために祈っておられる御子の祈りによってたえずもたらされることを教える。そしてまた、我々も同じようにしてこのすべての祝福を願い求めなければならないことを教える。神の祝福の全体の性質と栄光は、次のことの内にある。すなわちこの祝福は、神に心を完全に明け渡した人々の祈り、祈りの力を信じる心による祈りに対する答えとしてしか獲得されないということである。

 このあと我々はすべてのうちで最も注目すべき実例に到達する。我々が目にするのは、ゲツセマネにおいて我々の主が、いつもそうされていたように、これから彼が地上でなすべきことを父に相談して計画を確認されたことである。初めに彼は苦悶の中で血の汗を流しながら、この杯を過ぎ去らせてくださいと父に願った。それができないことがわかると、彼はその杯を飲む力が与えられるように祈り、『私の願いではなく、御心のままに行なってください』(ルカ22:42)という言葉で自分自身を父にゆだねた。イエスは勇気に満ちて敵に対面し、神の力によって十字架上の死に自分をわたすことができた。彼が祈ったからである。

 祈りは神の意志に我々自身の意志を従わせる偉大な力であり、我々を覆う弱さにもかかわらず神のわざを大胆に行なわせる力であるのに、神の子たちがその祈りの栄光を信じることがあまりに少ないのはなぜであろうか。霊的生活と力との永遠の生ける泉であるキリストとの親しい不変の交わりなくしては、神と共に歩むことも、神から祝福と導きを受けることも、喜びをもって実りある神の働きをなすことも不可能であることを、我々は主イエスから学ぶべきであろう。

 我らの主イエスの祈りの生活についてのこの簡単な研究を、クリスチャンは誰でも熟考しなさい。クリスチャンは誰でも、聖霊による導きを祈りつつ、主イエス・キリストが自分に与え自分の内に保ってくださる生活とは何であるのかを、聖書から学ぶように努めなさい。それは毎日の祈りの生活にほかならない。特に牧師は、主の働きを主がなされたのとは異なる方法でなそうと試みてもそれは完全な徒労に終わることを、一人ひとりが認識しなければならない。クリスチャンの働き人としての我々は、このことを信じようではないか、すなわち我々は世の通常の働きからは解放されていることを、そして何よりも、世のために祝福を、救い主の名によって、彼の霊とともに、彼との一致のうちに、願い求め、獲得するために時を使うべきことをである。



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