ビ・エフ・バックストン 講演
小  島   伊  助 通訳


雪 の 如 く 白 く



雪 の 如 く 白 く



 『ヱホバいひたまはく、いざわれらともにあげつらはん、なんぢらの罪はのごとくなるも雪のごとく白くなり、くれなゐのごとく赤くとも羊の毛のごとくにならん』(イザヤ一・十八)

 神様は、このたび、驚くべき方法をもって私共を一つ処にお集め下さいました。そして共に心を合わせて神とその全き救いとを切に求めるようにして下さいました。かく神様はその最美なるものをお与え下さいましたから、私共の心のうちにある切なる願いにもおこたえ下さることを信じます。
 神様は御言みことばの中にそのことを明確に示していたまいます。私共が如何に神を求め、また如何に神を見出し、ついには如何に彼にお会いすることができるかを懇ろに示し教えたもうのであります。神様は私共がここでただこれを読むために私共をお集めなさったのではない──『雪の如く白く』──この経験に入り、この奥義おくぎを得るため、かくて聖霊に満たされ、更に出で行くために、かく我らを召集なしたもうたのであります。神様はこの御言の中に私共が神を求め、彼にお会いすることのできるその方法、順序を明らかに正しく示していて下さるのであります。

ま ず 聖 潔きよめ

 お集まりの皆様方の中には、今晩救いの歓喜よろこびにもっともっと満たされたい、うちに成されある救いを更に確かめて頂きたい、或いは上よりの能力ちからたされたいなどと切に求めていなさる方があるかも知れません。神様は確かにそのような求めをよみしたもうて必ずや能力と恩恵めぐみとをもって満たして下さるに違いありません。しかし、神様の順序はまず聖潔きよめより始まります。次に彼はその生命いのちの霊をもって私達を満たして下さるのであります。でありますから、まず第一に神様は各自の心を純潔ならしめ、すなわち彼の清き心を与えて御聖霊をもって飽かしめ、彼自ら内住したもうて能力にて満たしたもうのであります。
 皆様は牛乳を求めなさる時、汚れた瓶を持って牛乳屋に行って、それに牛乳を入れて貰うようなことはなさらないでしょう。私共が神の御霊みたまを受け、衷に内住して頂くことに、もっと注意して頂きたい。私共はいま穢れた心で神の御前に来てはおらないか。器は汚れてはおりませんか、どうか省みて下さい。ですから神様は私共の心の中の罪を処分し、全部これを始末して後に、御聖霊の盈満えいまんを与えたもうことを憶えて頂きたいのであります。

雪 の ご と く 白 く

 さてイザヤ書第一章の十八節には驚くべき御言みことばが与えられております。『雪の如く白く』。それは神様が私共の心を清めたもう、こんなにまで美しく清めたもうと言うのであります。神様は私共がかかる御言を、ただうるわしい幻として見て喜んでいるためでなく、この聖言みことば通りの恵みを経験し、雪の如く白くなり得んために、この恵みある御言を与えていて下さるのであります。如何にもして私共が純潔になり、清き心の者となることは、神様の私達に対する願いであります。
 しかも、神様は私共が罪から全く離れ、純潔なる者となるために、またその力を賦与せられるために、既に私共のためにその道を成し遂げていたもうのであります。この目的のためにこそ父は御子を死の暗黒くらきより甦らせたまいました。これは我らを新しき生命のさまに歩ませんがためでありました。私共がかくきよめられ、かれの清きの内を歩み得んために、父は御子を天にまで引き上げ、しかも父の右に坐せしめたもうたのであります。ゆえに神様はそこまで私共を到達せしめようとの深い願いをもってお迫り下さるのであります。
 ここに(詩五十一・十)『わがために清き心をつくり』とあります。すなわち私共の心の内に清き心を造りたもう、創造したもうのであります。すなわちこれは彼ご自身の御手によるので、決して人間細工の手造りでできるものではありません。無から有を生ぜしめたもう神の創造力を必要とするのであります。

山上の垂訓と山麓の癩病人らいびょうにん

 神の御子イエスが地上に御奉仕の生涯をお始めになった時、あの山上での説教においてマタイ伝五章八節にもありますように『清き者』とお教えになりました。有名な主イエスの山上の垂訓の主題、その眼目となるべき中心点は『清き心』でありました。かように主イエスは、この地上の御奉仕の第一歩からこのことを示し下さいました。これは男も女も、大人も子供も、すべての人が得なければならぬ最も肝要なものなのであります。
 さて、もう少し進んでマタイ伝八章の初めを見ますと、主イエスが山を下られた時、一人の癩病人が主イエスにお会いしたと記されております。すなわち主イエスは清き心を示したもうのみならず、これを与えたまいます。私共はあの山上の垂訓をよく読みますならば、真に自分は癩病人だとわかります。或いはあまりにも主イエスの御標準の高いために、失望し、また悲しむ方があるかも知れません。強烈な神の御言の光に照らされれば、私共の如何にも汚れ果てた醜い心のありのままの姿が示し出されるのであります。しかしよし如何に光の前にその真相を暴露されても、主の足許に来りますならば、全く潔められ、清き心となされることを教えられます。すなわち私共が主イエスのおそば近く参ります時、主は実にご慈愛と憐れみに満ちたやさしい愛の言葉をお発し下さいます、『わがこころなり、潔くなれ』と。すなわち全き聖潔にあずかることが出来るのであります。かくてお互いは、あのヘブル書七章二十五節の聖言みことばを教えて頂くことが出来ます。
 『この故に彼は己にりて神にきたる者のために執成とりなしをなさんとて常に生くれば、これを全く救ふことを得給ふなり』。

極端までの救いと罪の真相

 かつて笹尾兄弟が御存命中、兄弟はこの『全く救う』というところを読み替えて、彼は常に生くれば『極端まで救うことを得給うなり』と申されたことを記憶いたします。この『極端』という言葉は、私共に非常な励ましを与えると思います。如何なる者をも励ます幸いな恩恵めぐみだと思います。主イエスは私共にただに清き心を求めなさるのみならず、また必ず極端まで救い得る、全く潔め得るお方にておわしたもうことを教えんとしたまいます。
 さて私共は御聖霊の助けにより、私共の心は果たして清くあるか、それとも罪のためにすっかり汚れきっているかどうかを示されんことを望みます。御聖霊は憐憫あわれみ仁慈なさけ恩恵めぐみとをもって私共の心の状態を示したまいます。御聖霊は私共に心の罪をお示し下さり、自覚を与えて下さいます。ですが、私共はしばしばこれを自覚することを好まないのであります。私は祈ります、いま御聖霊が静かにお語りなさるその声に耳を傾けなさることを。主が与えたもう罪の自覚をへりくだって受け入れ、そのお取り扱いを受けられんことを願ってやみません。
 イザヤ書一章五節の聖言みことばですが、その中頃を見ると、

 『そのかしらはやまざる所なく、その心はつかれはてたり』

いま読み上げました御言の通り、如何に多くの心がみ疲れ果て、衰え切っていることでありましょう。祈ることもできず、御言を味わい神の滋養を吸収することもできません。もちろん、他の多くの霊魂たましいを導くためにあかしをなすことも全く出来なくなっております。この聖言は、そうした状態はなぜであるか、その原因をよく示して教えていてくれるのであります。すなわち私共の心が罪のために病んでいるのであります。この罪こそは私共を病ませ、疲れ果てしめ、衰え切らせてしまうのであります。『病まざるところなく』とありますが、これは外の病よりも、むしろ内なる病であって、この内心の病こそは癩病のそれであるのであります。六節のところにはその状態が如実に示されております。

 『足のうらより頭にいたるまで全きところなく、ただ創痍きず打傷うちきず腫物しゅもつとのみなり』

 これは罪の病を持つ私共の心の霊的状態であります。つまり、罪が我らの心に与えた創痍と打ち傷があり、それは腫物となってただれ切っているのです。私共の心を傷め、弱めてしまっている罪が潜伏しているのです。この罪が私共に打ち傷を与え、腫物を与えて、他の一人がちょっとさわっても飛び上がるほどに痛みを感ぜしめる。だから人々がこの傷のところに触れることを嫌います。少し触れても鋭敏に感じます。腫物──これはもう爛れてうみが出ており、見る影もない姿です。これは突然起こってくる癇癪かんしゃくのようなものです。少しでも触れるとすぐに感じ、少しでも気に障ることを言われると直ちにふくれ上がってしまうものです。人に対する怒り、憤怒、こうしたものが腫物となっているのであります。またそこには傲慢もありましょう。数え上げれば切りがありません。御聖霊は既に皆さんにそうした腫物の憐れな状態をお示しになっております。そのとき皆さんが決してそれを好まないことのないように祈ります。私たちは内に潜んでいる怒りの心を取り除かれんために祈り求めました。或いはまた良き決心を抱いて、心からこうした汚穢けがれより逃れさせて頂きたいと、全く自分を投げ出してしまったかも知れません。しかしながら私は恐れます。私たちの決心は幾たびとなく失敗して参りました。そして歯噛はがみ、悲しみの中にもだえることはないでしょうか。パウロはそのことをしみじみと経験いたしました。自分の内心の悶えが何であるかを十分承知しておったのです。ですから遂にあのように叫んで訴えたのであります。

 『わが欲する所の善はこれをなさず、かへつて欲せぬ所の悪は之をなすなり。あゝわれ悩める人なるかな、の死の体より我を救はん者は誰ぞ』(ロマ書七・十九、二十四)

 しかし愛する兄弟姉妹みなさま方よ、今晩お集まりの皆様の願い得る最も善きことは『ああわれ悩める人なるかな』と本当に自分の赤裸々な真状を示され、真に自らのために悩むことではないでしょうか。しかしてここに幸いな音信おとずれがあります。過去において如何に失敗を重ねて来たにせよ、あなたがたのために清き心が提供されております。神はここに治療の方法を備えていたもうのであります。
 かつて家内が上等の衣装を与えられました。彼女はたいそうそれを喜んでおりましたが、ふとした不注意から一杯のコーヒーをこぼしてしまいました。早速によく洗って拭ってみましたが、どうしても汚点しみが抜き切れず、困惑しておりました。するとちょうどその時、私の友人が参りまして、「奥さん、一度、その汚れたのを私に貸してごらんなさい。ひとつ私がそれを綺麗にするように何とかしてみましょう」と申します。まあこんなわけで、妻はそれを友人にお渡ししたのですが、どうでしょう、翌朝になると、全くきれいな、元通りに真っさらの衣装にして持参して下さったのであります。

聖 潔 の 三 階 段

 皆様方よ、私共は清き心をわが所有ものとなすことにしくじっておりはしませんか。神様は美しく全く元通りの全き心とする秘密をご存じであります。そして私たちに治療を施して、けが れた心を全くきよくなしたまいます。神様が与えたもう治療法に三つの段階があります。
   一、悔い改め
   二、主イエスの御宝血
   三、御聖霊のお働き
 まず第一に悔い改めということに対し、コリント後書七章一節をお読み致したい──

 『されば愛する者よ、われら斯る約束を得たれば、肉と霊との汚穢けがれより全く己を潔め、神を畏れてその清潔きよきを成就すべし』

 すなわち、まず自らを全く神の御光みひかりの前に投げ出し、神をしてあなたを十二分に、ずたずたに探らしめ奉ることであります。そして次に神をお受け申すことであります。すなわち御聖霊の細き御声みこえに自分を託し、彼の光の中に全部を陥らしめ奉り、彼の思う存分なるお取り扱いを蒙ることであります。これは御聖霊がお示し下さる罪を適確に棄て、また彼が示したもうところから全く離れることを意味いたします。

罪 の 荒 療 治あらりょうじ

 或る一人の医者である宣教師が中部アフリカの奥地に伝道に行ったことがあります。彼は白人界から全く離れた未開地に単身踏み入ったのでありますが、不幸にも一蕃人ばんじんの毒矢に片足を射抜かれました。毒はたちまち全身に及びます。何とか処置を執らなければならないと考えた。彼は遂に自分が伴にしていた下僕であるアフリカ土人の手を借りて、自分で自分の足を切断してしまったのであります。
 皆さんよ、彼の受けた傷は毒のために全く致命的でありました。そうですから、この際何としても彼はぐずぐずしてはおれませんでした。で、彼は断乎だんことして早速その足を自ら切断してしまったのであります。
 愛する兄弟姉妹よ、主イエスは私共が何かこれと同じ精神こころをもって、心の罪を断乎として処分し、全く始末を付けてしまうことを、言い難き御思みおもいをもって教えていたまいます。すなわち──

 『もし汝の手、または足、なんぢを躓かせば、切りて棄てよ、不具かたわまたは蹇跛あしなえにて生命いのちに入るは、両手・両足ありて永遠とこしえの火に投げ入れらるるよりもまさるなり。もし汝の眼、なんぢを躓かせば抜きて棄てよ。片目にて生命に入るは、両眼ありて火のゲヘナに投げ入れらるるよりも勝るなり』(マタイ十八・八、九)

 されば皆さまの心から一切の罪、汚穢けがれを全く取り除き、全く洗い去るためには、絶体絶命的の断乎たる処置、裁断を要します。私は皆さまが主イエスの命じたもう所は何にても従って、内に潜む一切の罪の処分をせられることを願うものであります。
 以上、かくの如くに『悔い改め』は全き聖潔きよめに至る最初の段階、最初の必要条件であります。けれどもそれだけではまだ十分ではありません。第二に必要なことは、すなわち悔い改めた心に必要なるものは、主イエスの聖き御血潮であります。

主 イ エ ス の 御 宝 血

 『もし神の光のうちに在すごとく光のうちを歩まば、我ら互いに交際まじわりを得、またの子イエスの血、すべての罪より我らを潔む』(ヨハネ一書一・七)

 私共の心がかくのごとき聖潔に至りまするためには、更に悔い改め以上のものを要します。
 例えば一軒の家で、誰かがチブスにかかって死んだと致します。その場合、その家を清くするのに、普段の通りの拭き掃除くらいでは不十分であります。のみなら、まことに危険極まる伝染性の病菌を撲滅し、これを駆除し尽くすことは出来ません。必ずや警察は完全な消毒を命ずるでしょう。衛生係の人は来て、何か消毒剤を用いて家の内外をくまなく清め、恐ろしい伝染性の病菌を全く除くことをするでありましょう。またそのようにして、その部屋から、家から、一切の黴菌ばいきんを消毒し尽くすまでは、決して安心してその家に生活し得ないのであります。
 ちょうどそのように、私共にとって悔い改めということは必ずやらねばならぬ中心点でありますが、しかし更にそれに加えて必要なることは、私共を全く潔むるところの主イエスの御宝血であります。今この潔むるところの御血は私共のために注がれているのであります。

 『その日、罪と汚穢けがれを清むる一つの泉、ダビデの家とエルサレムの居民のために開くべし』(ゼカリヤ十三・一)

 しかも感謝すべきかな、今晩そのことが私たちに為されるというのであります。いま私共はかかる聖潔きよきにおいて衷心より神を崇め、また心一杯に感謝の出来ることを記憶いたしましょう。私は自分の娘のことを思い出します。まだ小さい七歳くらいの頃、この娘は自分の手をよごしたり、着物をきたなくしたりするのを好まなかったのですが、或る時のことでした、娘は汚れたままの手を指さしながら私のところへやって参りました。そこで私は早速に娘の手を取って清水せいすいで綺麗に洗ってやり、すっかり清くしてやると、娘は非常に喜んで、またも嬉々として遊びに出て行くのでありました。
 皆さまとても、同様に心の内に少しの罪、汚穢をもっていたり、或いはこれらを包み隠していることを決してお好みにはならないと思います。子供がその父の許に参りましたそのように、私共も主イエスの御許みもとに近づくことが出来ます。彼の恵みと憐れみの故をもてそのことを許されておるのであります。否、彼ご自身、お近づき下さっております。
 以上、神様は私共を如何にお取り扱い下さるか、その光栄さかえある方法、順序を述べて参りました。すなわち──
 一、悔い改めについて
 二、主イエスの御宝血について
しかしなお、もう一つ必要条件のあることを申し上げとうございます。それは御聖霊の恵み深き御働きであります。

御 聖 霊 の 御 働 き

 『人の心を知りたまふ神は、我らと同じく、彼等にも聖霊を与へてあかしをなし、かつ信仰によりて彼らの心をきよめ、我らと彼らとの間にへだてを置き給はざりき』(使徒十五・八、九)

 この所に誠に記念すべき集会のさまが記されております。ペテロは彼らと共に一つ所に集まり、神のなしたもうたことを語っているのであります。更にペテロは、あのペンテコステの火に、神が如何なることをなしたもうたか、また地方伝道の時において神は如何なる御業をなしたまいましたかを物語っているのであります。ペテロは明らかに申しております。御聖霊が心のうちに臨み、御聖霊が心の内外全部をきよめ別ちたもうたと。疑いもなく、御聖霊は私共に喜悦よろこびを満たし、上よりの能力ちからを与えたまいます。が、同時に内なる者を全く潔めて証をなしたもうのであります。
 ですから、御聖霊は私共に歓喜よろこびと能力とを満たすためには、まず第一に悔い改めをお迫りになります。次にその心に主イエス様の御血を当て嵌めたまいます。しかもそれだけの御業みわざに止まりたもうことなく、さらに、私共の品性、全性格を美しくし、それに神の善美と、全き平安とを増し加えたもうのであります。
 これはさきほど申し上げましたとおり、部屋に例えますならば、その部屋を全く掃き清め、すっかり消毒したというにとどまらず、更にこれを種々装飾することであります。また私共はさっぱりした夏服を着ます。暫くして汚れますと、洗濯屋に持って参りましょう。洗濯屋はこれを洗って少しのみも汚れもないまでにいたします。しかしそれのみにとどまりません。ちゃんと仕上げのアイロンを掛け、一つの皺もないまでに美しく、さながら雪の如くに純白なるものとして、真新しくして私共の手許に帰してくれると思います。
 ちょうどそのように主イエスは、私共のあらゆる罪をただに洗い清めたもうのみならず、更に私共の衷に御聖霊を注ぎ、彼の盈満みたしを与えて完美なる、しかも雪よりも白き衣を纏わしめ、実に歓喜と感謝と讃美とに満ち充たしめたもうのであります。

ク リ ス チ ャ ナ の 経 験

 あの天路歴程を見ますると、ご存じのように、クリスチャナ一行が注釈者のところへ行く場面があります。クリスチャナとその子どもたちの一行は注釈者の家に導かれ、そこで様々な部屋へ案内されていろいろとお話を聞かされ、数々の恵みを蒙ったのであります。しかし彼らはただそれだけではありませんでした。彼らは無垢子むくこという少女に案内されて家の庭を通り、一つの浴場に連れて行かれるのであります。かくて女たちも子どもたちもみな湯浴ゆあみして、浴場から出て来る時には、旅で汚れた垢だらけの身体も美わしく潔まったばかりでなく、いかにも元気づいて、節々も強くなり、すがすがしい気持ちで出て来るのでありました。
 神様は、ここに集まっているお一人びとりに、これと同じ恵みを与えようとしていたもうのであります。皆、雪の如く美わしい姿とならんことを望んでいらっしゃるのであります。さらに彼は私たちがこの汚穢けがれと罪悪と貪欲とに満ちた世に在りながらも、天よりの光に輝かんことを願っていたまいます。かくて皆さまが、啻に言葉のみならず、皆様の日常の御生涯において、人々の面前に主イエスの優美うるわしきをお示しなさることを望み、またかくなさんことを教え示していたもうのであります。

汝 潔 く な れ

 更に主は、

 『いざわれらともにあげつらはん、なんぢらの罪はの如くなるも雪のごとく白くなり、くれなゐのごとくあかくとも羊の毛のごとくにならん』。

と仰せたまいます。すなわち──友よ来たれ、いざ我ら論おう──一緒に語ろうではないか、そして罪の一つひとつを聞かんことを──と教えていたまいます。そうでありますから皆様は今晩、このところにおいて、ただお話を聞きに来たと言うのみならず、彼と共に親しく語らんことを、心打ち解けて話し合わんことを求めて止みません。いま皆さんは神様のお取り扱いを蒙るだけのご準備がありますことを信じます。神様の御前みまえにお近づき申すことは実に厳粛なことであります。しかしこれはまた一面まことに恵み深いことであります。
 いま私共は彼より清き心を頂戴するために、神様の聖前みまえに近づき奉る時、さながらあの癩病人が自らの汚穢けがれと見る影なき有様とを意識いたしましたように、私共も自らの内状を本当に、赤裸々に意識いたしとうございます。かくのごとき心で神に近づき申します時、主イエスは親しく我らに近づき、皆様に優しくお語り下さいましょう──『わがこころなり、汝きよくなれ』と。どうぞ今しばらく黙禱の中に彼にお近づき申し、お祈りいたしとうございます。神様をして皆さまに語らしめなさい、いま彼の語りたもう御声に静かに耳をお傾けなさい。彼のお取り扱いを喜んでお受けなさい。なお皆様の内にある罪に対し、彼に指さして頂きなさい。そして悔い改め、血潮を蒙り、一切の罪、汚穢を取り除いて頂きなさることをお勧め致します。

 誠心まごころをもって、神の御前に罪を悔い改めよ。大胆に、どうぞ罪を捨てよ、主イエスはあなたの祈禱いのりの声を聞き入れて、あなたに近づきたまいます。どうぞ身もたまも捧げて、主にすべてのことをお任せなさい。主は今晩あなたの心を潔めたまいます。どうぞこの聖言みことば、このお約束に依り頼んでその恩恵めぐみを受けなさい。



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