主 は わ が 牧 者 な り



 神様はこのたび、驚くべき方法をもって御自身の栄光を顕したまいました。神様は忠実に私共の祈禱いのりに答えたもうたのであります。私共一人一人はこのような厳かな祝福に充ちた集会には初めて集うたかのごとくに感じました。実にこれは主の栄光を拝せしめて頂いた変貌すがたがわりの山でありました。しかして今や私共はこの厳かな変貌の山頂から降りて、悪魔に直面しなければなりません。そこで私は今朝けさ、皆様一人一人が今後進まれるべき信仰生涯について語りたいのであります。信仰の生涯とは

主 イ エ ス に 眼 を

注いで行く生涯であります。しかして私共は聖書を通して明らかに力なる主ご自身のお姿を見奉ることが出来るのであります。
 今朝、私は皆様方を導いて詩篇二十三篇に伴い行き、主イエスのお姿に接せしめたいと思います。詩篇二十三篇をお読みいたしましょう。

 『ヱホバはわが牧者なり、われともしきことあらじ。主は我をみどりの野にふさせ、いこひの水濱みぎはにともなひたまう。主はわが霊魂たましひをいかし、みなのゆゑをもて我をたゞしきみちにみちびき給ふ。たといわれ死のかげの谷をあゆむとも禍害わざわひをおそれじ、なんぢ我とともに在せばなり。なんぢのしもと、なんぢの杖われを慰む。なんぢわが仇のまへに我がためにえんをまうけ、わがかうべにあぶらをそゝぎたまふ。わが酒杯さかづきはあふるゝなり。わが世にあらん限りはかならず恩恵めぐみ憐憫あはれみわれにそひきたらん。我はとこしえに主の宮にすまん』。

 この中に主イエスのお写真があります。コリント後書を見ますと、聖書の中にある神の栄光を面帕かおおおいなく鏡に映すごとくに見奉ることが出来ると記されておりますが(三・十八)、今朝こんちょうは詩の二十三篇から、面帕なき有様に主のお姿を拝せしめて頂きたいと思うのであります。おお主イエスの栄えある御姿を目の当たりの拝しつつ御言を聴き得んことを!
 『主はわが牧者なり』と一節に言われております。主イエスは永遠の始の先から存在し、また現在我らの中にもいまして常に御眼を留めて下さる御方ですが、私共のためにカルバリにて己が生命を捨てて下された、

善 き 牧 者

にて在したまいます。
 私共は生まれながらの罪人で暗黒の中にさまよい、己が道に向かって行った者でございました。まことにおぐらき山にさまよっては傷つき、荒野あれのに出ては荒き獣にずたずたにされ、この上もない危険にさらされていた者であります。しかるにこの善き牧者なる主イエスは私共の跡を尋ねて、かかる中から救い出して下さいました。主は私共を両肩もろかたにかけて御自身の善き御住みすまいにまで連れて帰って下さったのであります。実に主は善き牧者であると申し上げるは当然なことであります。殊にこのたび、主は御自身の群を御膝元近く召し集めて下さいました。主イエスは本当に皆様をみどりの牧場に導き、憩いの水際みぎわに伴いたもうたのであります。私共の前には今テーブルが備えられてあります。この真ん中に善き牧者なる主イエスの臨在を拝することが出来るとは何たる祝福でありましょう。ですから私共は主イエスを『主はわが牧者なり』と心ゆくばかり歌い奉ることは当然なことであります。
 この詩篇は私共贖われた者の心の歌であります。いとも甘美なる美わしき天の讃美でございます。天上に在す父なる神は私共が御子みこなる主イエスを美わしく歌い出し讃美いたしますならば如何にお喜び下さることでありましょう。しかして主を真心より『主はわが牧者なり』と歌い出す時、この歌は聖前みまえに昇り行く芳しい香のごときものであるのであります。
 『主はわが牧者なり』、この『わが』という文字の中に、宗教の

能 力 と 生 命 が 充 溢

しております。つまり私共は所属するところの者であることが示されておるのであります。牧者はその羊を己がものとしておいでになるのです。皆様、私共が誰かのものになっているということは幸いなことであります。これは安息することのできる状態です。もしも誰も愛してくれる者がないとするならばどうでしょう。皆様は自分で自分の一切の責任を負わなければなりません。しかし愛して下さる御方がある時、自らの責任は全部その御方が背負うて下さることを知ることが出来ます。『主はわが牧者なり』、このお言葉を心の中に堅く入れて山を下ることができたらどんなに幸いでありましょう。
 私はかつて、日本におった時、町々、村々に飼い主のない野良犬のかなり多くいたことを記憶しております。その野良犬の姿は実にみじめ極まるものでありました。汚れきったきたない姿で、おなかはペコペコであり、その大半は病気に罹っております。村の子どもたちはまたこれを見て石を投げつけて追い回すという、実に野良犬の生活はみじめであります。しかし私はまた一人の紳士が飼い犬を連れて歩いているのを見ました。この犬は紳士に飼われておりますので、嬉々として飛び回ったり、駆けめぐったりして遊んでおりました。これはまた本当に美わしい健康そのものの姿であります。
 私共が救われない以前の生活は、ちょうど飼い主のない野良犬のようなものでありました。けれども幸福なるかな、いま私共は主イエスに属している者だ、彼のものになっているのだと言うことの出来ることは何たる感謝でございましょう。主イエスは我らの善き牧者で在したもうのであります。
 おおどうかこの歌を常々の歌として主イエスに奉りたいものであります。
 多くの皆様の中には前には肉につけるクリスチャンであったというお方があるかも知れません。が、今や皆様は全部を主に任せ、主に献げて聖霊を受けました。かつて肉についていた時には心から『主はわが牧者なり』と歌うことができませんでした。かえって私共の心持ちは、主は私の羊で、私は主の牧者であります。私共は主の飼い主で、どこまでも主をお世話しなければならない。主はしっかりとつかまえて縛ってでもおかなければ、どこかへ行ってしまうかも知れないと思っているといったような生涯でありました。しかし今は主に属しています。我は主のもの、主は全責任を持ってくださると解りました。その時はじめて『主はわが牧者なり』と歌うことができます。これは安息の生涯であります。主イエスは全権を握っていたもう。私共の生涯の全責任を持っておいでになる。上より皆様方を見そなわして、自ら私共の牧者であると承知していたもうのであります。実に主は御自身の羊をよく知りたもう。そこで私共は

我 乏 し き こ と あ ら じ

と申し上げることが出来ます。
 世には富める人が多くあります。けれども彼らは『我乏しきことあらじ』と言うことはできません。大学者、教養のある人々、地につき、天につきすべてを体得している人々であっても『我乏しきことあらじ』とは言えません。そう言い切ることが出来ません。しかし感謝すべきかな、私共は心の内に主の満ち足れる恩恵めぐみを意識しながら『我乏しきことあらじ』と歌うことができます。何たる幸福でありましょう。
 かつて或る集会に、一人の方が自分の欠乏を痛切に示されて一人の指導者の許に行き、自分の欠乏の状態を告白し、悩んでいる者であると申し上げました。そこで指導者はこの方に向かって、あなたは詩の二十三篇一節を信じるかと尋ねました。彼は答えて『もちろん信じます。あれは私の大好きな聖句の一つです』と申しました。指導者は『けれどもあなたは欠乏しているではありませんか、罪のために苦しんでいるではありませんか、牧者なる主は私を顧みて下さらないとおっしゃっているように聞こえます』と申しました。求めて来たその人は、指導者の言うことの本当であることを認めて暫く悶えておりましたが、やがて事実『主はわが牧者なり、我乏しきことあらじ』であると悟りました。そこで二人はひざまずき、不信仰であったことを悔い改め、信仰をもって主イエスをわが牧者として受け入れることを申し上げました。また、主イエスは自分の心の腐敗を癒して下さったことを信ずると申し上げました。『汝わが仇の前にわがために筵をもうけ、わがこうべに油を注ぎたまう』と信じたのでありました。
 愛する皆様よ、私共は或る聖言みことばを互いに対照してみることによってしばしば大いなる助けを受けることがあります。エゼキエル書三十四章を見ますと

悪 し き 牧 者

のことが記されております。その四節、五節をお読みいたしましょう。

 『汝らその弱き者を強くせず、そのやめる者をいやさず、そのきずつける者をつゝまず、散らされたる者をひきかへらず、うせたる者を尋ねず、手荒に厳刻きびしこれを治む。これは牧者なきによりて散り失せ、野のもろもろの獣のゑばとなりて散失ちりうするなり』。

 この四、五両節を詩篇二十三篇と比較して見るならば興味深いものがあります。実にこの両節は悪しき牧者の手許にある羊の有様であります。どうかこのところを注意して頂きたい。不信仰は主イエスをちょうどかくのごとき悪しき牧者にしてしまいます。つまり不信仰はかく言うのです、『主は心の傷を癒したまわず、よい糧を与えて養って下さることをしたまわない』と。皆様、如何に不信仰が恐ろしい罪であるかを注意して頂きとうございます。しかし、実際において、主イエスのなしたもうことを見たいと思います。
 第一に、主イエスは失せたる者を尋ねて下さいます。主はこのために世に来りたまいました。エゼキエル書三十四章十一、十二節に約束しております。

 『主ヱホバかく言たまふ、我みづからわが群をさがして之を守らん。牧者がその散たる羊の中にある日にその群を守るごとく、我わが群を守り、之がその雲深き暗き日にちりたるすべての処よりこれを救ひとるべし』。

 第二に主イエスは病める者を癒して下さいます。我らの牧者は偉大なる医者です。我らの牧者は他の人々では治すことのできない病をも癒すお方であります。私共の心の奥底の汚穢けがれをさえ癒し得る癒し主であります。悪しき牧者は己の群の病に罹っているのをもそのまま見過ごします。が、我らの善き牧者は己が群の病を癒したもうのであります。
 第三に、我らの牧者は疲れたる者を強めて下さる御方であります。そして御霊をもって満たして下さり、我らのうちなるすべてのものを強く健やかにして下さいます。エゼキエル書三十四章十六節に

 『……きずつけられたる者はこれをつゝみ、やめる者はこれを強くせん……』

また詩篇二十三篇五節に

 『彼は我らのかうべに油をそそぎ給ふ、わが杯は溢るるなり』

とあります。私共が主を我らの栄えとして誇ることは当然であります。
 悪しき牧者は羊の草を探さずして放っておきますが、善き牧者は自ら青々と茂っている緑の牧場まで伴いたまいます。善き牧者は決して枯れ果てた、しぼんだ草を与えたもうお方ではありません。その与えて下さる草は最も良い栄養に富んでいるところのものであります。また我らを憩いの水際みぎわに伴い、水をも与えたまいます。その水は私共を爽やかに新鮮に致します。ですから私共の酒杯さかずきは満ち溢れるのであります。
 サタンは私共の酒杯には僅かしか入っておらないと囁きます。しかしこれはサタンの噓言いつわりであります。主イエスは必要なだけ、私共が要するだけを充分に与えたもうお方であります。が、ただに満たすばかりでなく、他の人々にも分かつことのできるほどに溢れ流れしめて下さるのであります。『わが杯は溢るるなり』。悪しき牧者は荒き獣が襲って来ると自ら逃げてしまいます。善き牧者は身を投じて我らを救いたまいます。皆様、この善き牧者が私共とともに在す時、『我恐るることあらじ』と申し上げることが出来ます。
 兄弟姉妹みなさまよ、危険に直面する時、『我恐るることあらじ』と歌うことのできるは実に大したことであります。どうぞかかる場合、危険から目を離して主イエスに眼をつけて下さい。敵前にて私共が恐れ震えているのでなく、この危険は私には及ばぬものと確信して、敵の前にも宴会が開かれていることを自覚して感謝と勝利の凱歌を挙げてください。
 ここにお集まりの皆様方の多くは、ここより降って反対する者の中に入り行かねばなりません。が、私共の衷にこの二十三篇の歌がありますならば恐れる必要はありません。皆、困難の中に行くに違いありませんが、あなたの牧者なる主が近くに在したもうので主があなたを導いてくださいます。
 『御名の故をもて我をただしき路に導き給う』であります。前途を思って不安に襲われようとする時にも、この善き牧者なる主は私共を正しく聖潔きよめの大路に導きたもうのであります。主はこの山にて恵みと憐れみとをもって臨みたまいました。が、この同じ恵みと憐れみとはまた私共の世にあらん限り添い来るところのものであります。
 兄弟姉妹、かくのごとく主を信じ進む貴下の生涯こそは

世 に 光 を 放 つ

生涯であります。貴下の生涯を主の栄光を顕すことのできるものとして頂きたい。かくするならば貴下を通して他の人々が、主は何たる驚くべき牧者であろうかと驚くでありましょう。そして貴下を通して他の羊も同じ恩恵めぐみと信仰に入れて頂けるでありましょう。
 田舎に参りますと、よく羊の群に会います。見ると羊はまるまると太って栄養は充分です。その毛はふさふさとして美しく、みんな楽しげに草を食べております。またその周囲には小羊共が楽しげに走り戯れております。実に健康そのものであります。そこに美があります。その時、もし人あって、この健康そうな羊たちにその幸福の原因を尋ねたとしたら羊は何と答えるでしょう。『ご覧下さい。私共は何という賢い羊たちでしょうか、こんなに素晴らしくも健全に育っております。何と私共は賢いものでしょう』とは言わないでしょう。彼らはきっと答えて『私共の牧者は懇ろな善い牧者で、こんなに行き届いて私共を世話してかくも幸福に保ってくださるのです』というに相違ありません。彼らの健康状態はすなわち彼らの牧者の信頼に足るお方であることのあかしであります。
 さて、私はそこを去って、一つの川を渡ってもう一つの羊の群に行ったと致します。そこには汚れた、病に罹っているチンバなみすぼらしい羊の群がおります。周囲の子羊たちもやはり元気がなく項垂うなだれて、しょんぼりとしております。かかる羊の群を見るならば、この羊の牧者は何という悪しき牧者であろうかとお考えになりますでしょう。どうぞ皆様がこの山を降って行く時に、皆様の状態は牧者の名誉にかかわるのであることを記憶してください。皆様が真に喜んでいないならば、周囲の罪人の救いの妨げをしているのです。また皆様が常に主にあって幸福でなければ、皆様は主の聖名みなを汚すものであることを憶えて頂きたい。主を信ずると言いながら、やはり時々怒ったり、醜い性格を現したりしたとしたら、彼らは言うでしょう、別に我々と変わったことはない、同じようにみじめで、同じように乏しい。彼らの牧者も彼らにとって大した牧者でもないと言うでありましょう。
 ここに一匹の飼い主のない羊が、山の蔭に養われている羊の群に近づいて行ったと致します。その羊の群れたるや、みすぼらしい、惨めな集団であります。ところがそのみじめな羊の群の中の一匹がその羊を見て申したと致します、『この群の中に入らないか』と。そのとき野良の羊はニヤッと笑って、『君たちの中に入っても別に大したこともないようだ』と答えはしないでしょうか。また他の羊の群に参りました。その群は楽しげに草を食べております。それを見て飼い主のない野良の羊は、前のみすぼらしい羊の群や自分の姿やを振り返って、この美しい羊の群と比較することでありましょう。ところがこの楽しげに草を食べている群の一匹がその野良の羊を見つけて近づいて来て、『私たちの群の中に入ってもいいですよ、私共はあなたの友となりますよ、私共の善き牧者は君の善き牧者となってくれますよ』と言います。この野良の羊は今度は喜んでその言葉を受け入れて、その仲間に入れて貰うことでありましょう。あなたの生涯如何は神様の働きを妨げもし、また助けもするのであることを覚えて頂きとうございます。
 『主はわが牧者なり』、あなたはこれを

生 涯 の 確 信

とし、その土台の上に信仰を築いて行くことができるのであります。
 かつて一人の医者がロンドンにおりました。その方が私にこういう話をして下さった。これはビクトリア女王の治世のもとにあったことであります。
 若い時に看護婦として働いていた一老婦人が、今は全く窮乏して哀れにも気の毒な状態に落ち込んでいることをこのクリスチャンの医師が聞き込み、急ぎこの老看護婦の家を探しました。この老婦人は病にさえ罹っており、誰一人世話をする者もいないという気の毒な境遇におりました。そこで医師はその老婦人の家を見出すや、あらゆる手を尽くして世話をし、将来の心配もしてあげたのでありますが、その家を去る時に『誰かお友達はありませんか、かつてのあなたの知り合いの方々の中で生きている人がありますか』と尋ねました。すると老婦人は『前にはたくさんありましたが、今は一人もおりません。知り合いの方々は前には親切にして下さったのですが、みんな亡くなって今は一人も残っておりません』と答えました。医者は『しかし探すならば一人ぐらいはありましょう。よく考えてご覧なさい、誰かあるものです。三、四日経ったらまた参りますから、その時まで考えておいて下さい』と申して去りました。医者は、三日後にもう一度参りました。そして尋ねました。老婦人は暫く黙しておりましたが、やがて口を開いて『一人あると思います』と言いました。そこで医者はその一人は誰かと尋ねますと、驚いたことにはあのビクトリア女王様でございますという答でありました。
 その老婦人の語ることを聞くと、かなり以前に、女王は不慮の事故に遭った一青年に会い、その看護をするためにこの婦人が呼ばれたのであった。ビクトリア女王はその青年の経過を案じてしばしばこの看護婦を召されてその容体を尋ねられたのでありますが、また彼女の親切な看護ぶりを見て非常に満足せられたのであります。親切な看護の甲斐あって、間もなく青年は回復いたしました。女王も、青年の病の治ったことはこの若い看護婦の親切な愛深い看護の功績であることを認められて、お下賜品もあり、その後、幾許かのものを頂戴したのでありますが、今は久しい間、何の関係もなくなっておるというような次第でありました。
 これを聞いたかのクリスチャンの医者は、早速家に帰り、一通の手紙を女王に認めました。すぐに女王から御返事が参りまして、その看護婦はよく記憶しているという優しい手紙に添えて、老婦人を助けるためにとて莫大なお金を送って下さいました。そしてもっと入り用の節はいくらでもあげると書き添えてありました。老婦人の境遇は一変してしまいました。実にビクトリア女王は私の友人ですと言った一言は、かくも彼女の環境を一変せしめたのであります。
 愛する皆様よ、『主はわが牧者なり』と歌うことのできるのは何たる幸いなことでありましょう。これはあなたに対し、また私にとって充分ではありませんか。あなたの要するものは私がやるぞと主イエスは仰せになっております。
 私共は今朝けさ、この大いなる恩恵めぐみを受けることが出来ました。私はこの恩恵が皆様に続けられるようにお祈りしたいと存じます。
 おお皆様よ、この聖言みことばを皆様の心の中にお保ちなさることをお願いいたします。『主はわが牧者なり』!
 祈りましょう。

 どうぞ黙禱して静かに心の中に信ぜよ。どうぞ主ご自身を仰いで感謝せよ。遜って主に近づいて感謝せよ。これは真のあなたの富なることを感謝せよ。二、三分間、どうぞ黙って感謝してお祈りなさい。
 『主はわが牧者なり』、どうぞ今、祈りの状態で静かに心の中に歌えよ。またこのところでそれを繰り返して考えよ。この聖言の一つひとつを強めて考えてご覧なさい。
 『主、主、主はわが牧者なり』、
 『主はわが、わが、わが牧者なり』、
 『主はわが牧者、牧者、牧者なり』、
 『主はわが牧者なり、なり、なり』。
 お祈りいたします。

 主よ、感謝いたします。今朝こんちょう貴下あなたの写真を見まして今までの不信仰を言い表します。今まで私はあなたのお力とご慈愛の判らなかった者であることを懺悔いたします。
 おお主よ、今朝けさ聖顔みかおを仰ぎまして砕かれたる霊魂たましいをもって貴下に感謝いたします。今まで私共に恩恵めぐみを溢れしめて下さいましたことを感謝いたします。これから聖なる集まりを去り、自分の家に参りましても、あなたは続いて恩恵を与えて下さいますことを信じて感謝いたします。必ず私共を導き、必ず私共を養い、必ず私共に全き健康を与えたもうことを信じて感謝いたします。『主はわが牧者なり』、おお、ハレルヤ!
 おお神よ、これを解りませんけれども信じます。あなたは愛なる神であります。この祈禱いのりと感謝とを主イエスの聖名みなによりて献げ奉ります。アーメン、アーメン。


 雪の如く白く 終
 


| 目次 || 1 | 2 | 3 | 4 |