神 の 火
今晩の私共の思想と祈禱は神の火であります。ルカ伝十二章四十九、五十節をお読み致しましょう。
『我は火を地に投ぜんとて来れり。此の火すでに燃えたらんには、我また何をか望まん。されど我には受くべきバプテスマあり。その成し遂げらるるまでは思ひ逼ること如何許ぞや』
私共はここに神の火を見ることが出来ます。主イエスが天より降りたもうたのは、世の多くの友に神の火を与えんがためでありました。主イエスは確かにここに集っておるお互いの罪を取り除きたまいました。その貴い贖いを完成せんがために主はこの世に降りたもうたのに相違ありません。しかしながら、それは究極の目的ではありませんでした。つまり多くの人々に神の火を投じて下さるためには、まず第一にカルバリ山にて十字架の血潮の注ぎがなければならなかったのであります。かくてその貴い犠牲が完成された時に、遂に神の火はすべての人々に降ったのであります。あのバプテスマのヨハネは主イエスの先駆者として現れ、主イエスを指さして『視よ、これぞ世の罪を除く神の小羊』と証をしたのでありますが、そればかりでなく、彼は主イエスが私共お互いの罪を取り除きたもうと共に、更に御霊の火をもってバプテスマを施したもうとの証をも致しました。ですから主イエスは我らの腐敗を取り除き、そこに神の火を与えて下さるのであります。主は地上に、燃えている輝きのある教会を建てようと望みたまいました。そして我らの教会が御霊を与えられて、そのごとく燃えつつあるならば、多くの罪人が教会に来り、神の火を見出すに相違ありません。
満月の時に月を仰いでご覧なさい。仔細にこれを観察するならば、その月は全く冷たく死に切っている生命のないものであることが解りましょう。これは人間生来の実際の姿で、主イエスは天よりの火をお互い人間の心に投じてこれに生命を与えようと願っていたもうのであります。私共は昼間、赫々と照っている太陽を見ます。あれは熱と光とをもって輝いているのであります。主イエスは生命のない、冷たい私共の心の衷をご覧なさいますが、そこに神の火を投じて生命を与え、燃えて輝くものとしようとなさるのであります。
火 の 三 つ の 特 徴
士師記五章三十一節の終わりの方をお読み致しましょう。
『主を愛するものは日の真盛に昇るが如くなれよかし』
神様が私共の心の衷に成したもう聖業の如何ばかりなるかをこのお言葉の中に見ることが出来ます。すなわちお互いは、日のごとく、太陽のごとくなるように、今晩お祈り致しとうございます。これがためにこそ主イエスは私共一人一人にあの潔むる聖霊を与えたもうと約束しておられるのであります。この火は、私共一人一人を罪から潔むるばかりでなく、私共の思念をも潔めます。この神の火とは神の賜物ばかりではありません。神御自身であります。火とは神御自身が聖霊にて我らに降り、我らの身体を宮として、その中に住みたもうことを表している言葉であります。この火とは聖霊の象徴でありますが、神の臨在と御能力を顕す驚くべき象徴です。火は神秘的なもので、この火の中に生命があり、熱があります。そのごとく聖霊は私共の衷に宿りたもうて、私共一人一人に真の生命、真の光、真の愛をもたらすところのものであります。
一、 真 の 生 命
火は実に生命であります。しかも豊かなる生命、充分なる健康を意味致します。この神の造りたもうた宇宙、自然界を見るならば、生命のあるところに火のあることを見るでありましょう。私共の活動している肉体の中にも火のあることを見出すのであります。これは生きている証拠であります。私共の周囲にいる動物を見る時にも火の燃えておることを見ます。それで彼らは生きておるのです。あの草や樹木などの世界を見ましても、生命としての火の燃えているのを見るのであります。同様に聖霊の火はお互いにとってまた無くてならない豊かなる生命であることが示されておる次第であります。
時に、私共が病院へ参りますと、二十歳前後の逞しい青年がベッドの上に静かに横たわっているのを見ますが、その姿は生きているとは言え、その生命はか細くも弱々しいものであります。ところが、またスポーツ界に行ってみますと、そこには生命と力にはち切れそうな青年の集まっておるのを見るでしょう。クリスチャンの世界においてもそうです。病院におるクリスチャンがあります。また運動家のようなクリスチャンもあります。が、神様はクリスチャン各自が運動家のような者となることを願っていたもうのであります。実際に私たちが強く積極的に教会のために働かんがために主イエスは聖霊を与えんとしておいでになります。聖霊がひとたび皆様の衷に臨む時に、主に仕える熱心が燃やされて参ります。衷に神の火を保つところの者は、誰でも主の御用とあらば直ちにどこへなりとも行く用意が出来ているのであります。私共銘々に必要なることは、カルバリ指して真一文字に主イエスにお伴する用意でございます。私共の衷にこの主の願いが成就せられることをお互いが願うことは当然なことではありませんか。
二、 真 の 光
神の火はかく生命を意味するが、これはまた真の光であります。まことに神様の火が臨む時、神の聖言の上に新しい光がもたらされて、神のご性格が明らかに示されて来るのであります。聖霊を受ける第一の徴は神の栄光が明らかに見えて来るということであります。私共は神の聖きを見ることができ、神のご慈愛の深きを見ることができます。かくて私共の生涯はこんな風に神の驚くべき能力を見せしめて頂くこの幻示にまで導かれて行くのでありますが、神の火は神の御言の上に光を照らしたもうので、この聖言を通じて神の恵みを知り、力を見るのでございます。ルカ伝十二章の前の章を見ますると、光について主イエスは大いなる約束を与えていたまいます。
『汝の身の燈火は目なり。汝の目正しき時は、全身明からん。されど悪しき時は、身もまた暗からん。この故に汝の内の光、闇にはあらぬか、省みよ。もし汝の全身明くして暗き所なくば、輝ける燈火に照らさるる如く、その身全く明からん』(ルカ十一・三十四〜三十六)
私は皆様がこのところにしるしをお付けなさることをお勧めいたしたい。これは聖書の中でも肝心なところであります。主イエスは真の光であります。それで私共にもかくあるようにと望んでいたもうのであります。英訳を見ると、光に充ち満ちている、全く明るい(full of light)と三度繰り返されております。神様は私共お互いが、この光に満たされ、天来の光、永遠の光が私共の生涯の中にまばゆいほどに輝くことを願っていたまわれるのであります。
かく神の光が明るくある時に、神の栄光を見るばかりでなく、人間の欠乏をも見させて頂くことが出来ます。私共がその欠乏をも見させて頂く時に、罪人のみじめさが見えて来て、彼ら罪人のために重荷を負わざるを得なくなります。私共がこの神の火を頂く時に、かく銘々の眼が明らかにされるばかりでなく、永遠を見ることができ、また地獄を見させて頂くことが出来ます。しかもそれと同時に神の御救いの如何に偉大なるかをも知らしめて頂くことが出来ます。如何なる罪でも主イエスに赦されぬものは何処にもないことを思わしめて頂くことができます。実に神の愛を通して与えられる神の救いの経綸の法則を見させて頂くことが出来ます。実際に神の子の全能の能力をもって極端まで救い得る御方として主イエスを知らしめて頂くことが出来るのであります。神の火とはかくのごとく生命を与え、かく光をもたらすところのものであります。
三、 真 の 愛
第三に神の火は私共に愛を与えたまいます。『神は愛なり』、しかして天は愛に充ち満ちております。神様はほんの片鱗ながらその愛を神の民を通して顕したもうのでありますが、神はかくお互いの心を愛をもて盈たしたもうために御霊を与えるのであります。神様は全き愛を私共の衷にもたらすことが出来ると仰せになっております。ヨハネ一書四章十六節〜二十一節
『我らに対する神の愛を我ら既に知り、かつ信ず。神は愛なり、愛に居る者は神に居り、神も亦かれに居給ふ。斯く我らの愛、完全をえて審判の日に懼なからしむ。……』
私は皆様にもう一度お勧め致したい、全き愛というところにしるしを付けなさるように。神はこれをも御霊をも私共に与えんとしておいでになります。これは決して生まれつき持っている愛を強めるというのではありません。全然持ち合わせのない天より来るところの愛であります。神は私共お互いが御霊の火によって頂く純潔な愛を心の内に保つことを望んでいたまわれます。神様が御自身の火を私共に与えて下さるために、生命、光、愛というこの三つのことが衷になされるのであります。かく神の火が私共に与えられる時、その第一の結果は
純 潔
であります。神様が御自身の火を提供するのはこの純潔をいつまでも続けるためであります。そのために神様は火を授けたいと願っておられます。マラキ三章二、三節を見ますと、神様が、自らをかかる潔める御方として顕されております。
『されど其来る日には誰か堪えんや、その顕著る時には誰か立えんや。彼は金をふきわくるものの火の如く、布晒の灰汁のごとくならん。かれは銀をふきわけてこれを潔むる者のごとく坐せん。彼はレビの裔を潔め、金銀の如くかれらをきよめん。しかして彼らは義をもて献物を主にささげん』
まことに神は吹き分くる者のごとく坐して私共お互いをも吹き分け、潔めて下さるのであります。金を山より掘ってきますが、まだ金粕やその他の様々のものと混合しております。それをどうして潔めるかというと、外から洗うのではありません。それは決して役に立ちません。人々は鉱石を持ってきて、不純なものを吹き分けるために熱い溶鉱炉の中に入れ、火にかけて金をきよめるのであります。火は鉱石の中に入り込み、入り混じっている不純なものと、純なものとを見事に吹き分けてしまうのであります。神は不純なものをことごとく純なものとして下さることをこの表現をもってこのところに示していたもうのであります。
神様は私共の衷に潜む物事や、内部の秘密の内部にまでも、この吹き分ける火のごとく入ることが出来ます。火は実際に私共の底の底まで入ることができる。皆様の性格から、自らでも判らぬところまでも潔めることが出来るのであります。御霊は私共の心の奥底に入り、衷にある様々の怪しいものをも吹き分けて、汚れているところのものを悉く取り除きたもう。かくてマラキ書三章にありますように私共は義をもって主に献げ物をすることができ、全霊、全生、全身、すべてが神に受け入れられて喜ぶものとなり、常に犠牲を主イエスに奉ることが出来るようになるのであります。しかもこれは皆様の義務決心としてなさねばならぬというのではなく、実に真の愛より来るところの献げ物であり、喜んでするところの献身であります。花嫁が花婿に全部を捧げるように、これは愛より来るところの献身です。これこそは、唯一、神様をお喜ばせ申し上げるところのものであり、神の嘉納するところのものであります。第一の結果はかくこの純潔であります。
第二の結果は何処までもやり通すところの
熱
であります。御霊の火は霊的の経験を燃やす熱を我らの衷に与えたもう。我らの衷に喜びを与え平安を賜わるその中において、神の火は私共に熱を与えて下さるのであります。実に主イエスは私共のごとき罪人に何故神の火を与えたもうのでありましょうか。それは御自身の民が周囲の人々を滅亡より助け救うために燃ゆる者、熱心なる者たることを願いたもうからであります。
私は一人の友人をもっております。彼は多くの人々を主イエスに導くために大いに用いられた器でしたが、或る時、私はこの友人に『あなたが人々を導くところの能力の秘密は何ですか』と尋ねますと、友人は私に答えて『私は罪人を主イエスのところまで、愛をもって追いやります』と申されました。
ああ愛する兄弟姉妹よ、実に私共もそのごとく愛に燃えている暖かさを与えて頂きとうございます。
第三の結果は
能 力
であります。現在、教会の中には分裂が行われております。皆様よ、教会の中に分裂が行われていることはまことに悲しむべき現象であります。もしクリスチャンの心の衷に神の愛の暖かさがありますならば、一緒に一つ所に集うことが出来ます。おお、私も皆様もこの暖かい愛の引力を持つところの者となるように、この愛がクリスチャンを一つにするところの力あるものとなることを祈る者であります。ですから神の火の結果は第一に潔き、第二に愛、第三に能力でございます。
『聖霊なんぢらの上に臨むとき、汝ら能力をうけん』
と、実に私共は神の火より来る能力を知りとうございます。
私はここに来るのに二つの大洋を渡って参りました。ちょうど二つの大きな船に乗ったわけであります。その航海中、時には強い風が吹いて船の進路を阻み、浪が逆巻いて船の速力を妨げることもありました。けれども船はそんな風や浪に頓着せず、ずんずん進んで参りました。風や浪がどこに押し寄せているのか判らぬほどに船はどんどんと前進したのであります。どういうわけですか。それはその船の心臓部と申しましょうか、その機関部の中に火が赫々と燃えていたからでありました。
主イエスは私共お互い、一人一人がそのごとくに強き者とならんことを願いたまい、如何なるものにも負けぬ勝利者たらんことを求めていたもうのであります。そのために私共の衷に聖霊の火を投じたまいたいと願っておられます。かくのごとくに神の火は私共に大いなる三つの結果をもたらして下さるのであります。
しかしてこの火は非常な力をもって燃え拡がる性質があります。私は皆様が日本にリバイバルの起こることを祈っておられることを承知いたします。また日本の国ばかりでなく他の国々にもそのリバイバルの起こることを望んでおられるでありましょう。この度のこの大きな集会は、そのリバイバルのための祈りの答でもありましょう。祈って備えして待っておった集いでありましょうし、神の火がこの集会に投ぜられることを願い求めつつおられることでもありましょう。愛する皆様、この神の火は散り拡がるところのものでございます。
ときに僅かな、ささやかなマッチ一本の火が森に落とされます。その小さい火が枯れ柴に燃え移り、棒切れに移ります。かくて初めに細いマッチ一本の火でありますが、間もなく人をも恐れ逃げ走らしめるほどの大きな火事となってしまいます。
天より降るところの神の火はさながらかくのごときものでございます。使徒行伝を見ますると、その二章において百二十人ほどの貧しい者たちの上に与えられた僅かな火は、間もなく燃え拡がってついには二大洋に跨っていることを見るでありましょう。
そのように神様はどなたかを一本のマッチのようにここより取り上げて、御自身の聖業のために用いようとなさいます。
この火は自然に燃え拡がるのでありますが、また
容易にこれを消す
ことができます。おお愛する皆様、このことを注意して厳粛にお聴きしたい。
『汝ら御霊を熄すなかれ』(テサロニケ前書五・十九)
主イエスは驚くべき恵みを私共のために備えていたまいます。主はルカ伝十二章五十節でお読みいたしましたように、この火をすべての人々に投じて下さるために死のバプテスマを受けねばならなかった。そのために主はカルバリの山を指して真一文字に進みたもうたのであります。皆様、このことがなければ現在のような資格は私共にはございませんでした。が、主イエスのカルバリにより私共は罪、自己中心、高慢より救われました。その問題を全く始末して値を払われてしまいましたればこそ、私共は現在
信仰をもってこの恵みを
受け取ることが出来るのでございます。ガラテヤ三章十三節、十四節に
『キリストは我等のために詛はるる者となりて律法の詛より我らを贖ひ出し給へり。録して「木に懸けらるる者は凡て詛はるべし」と云えばなり。これアブラハムの受けたる祝福のイエス・キリストによりて異邦人におよび、且われらが信仰に由りて約束の御霊を受けん為なり』
今この説明をすることは出来ませんが、『キリストは詛はるる者となりて律法の詛より我らを贖ひ出し給へり』とは皆様が十字架によりて罪より贖われ、神と和らぐ道を見出すところのものであります。しかしこのところを見ますと、十字架の中にもっともっと深い恩恵が充分にあることを知らしめて頂くことが出来ます。すなわち十字架のゆえにお互いが聖霊を受けることが出来るというのでございます。皆様がひとたび十字架のところに来り罪を取り除いて頂く時に、またその時、信仰に由り聖霊を受けることが出来るのであります。おお皆様、十字架の上に罪の身代わりを果たしたもうた主イエスでございますから、一切の罪を赦し潔めたもうことが出来るのでありますが、そのごとくにまたこの節は、単純なる
信仰により御霊の盈満を
頂くことができることを示しているのであります。主イエスはこの神の火を投ぜんためにこの世に降りたまいました。主はこの火を示し、これを携えて来りたもうたのであります。主イエスは今も昔と変わりなく火をもってバプタイズなしたもう。
皆様、田舎を旅行しまする時に、あちらこちらに建っている高い櫓を見るでしょう。それは電線塔であって、町々に電流を通ずるためのものであります。ですからそれによってあちこちの町や村に参りましてもその電流を利用することができ、皆様のご家庭にも光を与え、熱を供給し、力を現しているところのものでありましょう。私共の家庭に電流をもたらすために驚くべき智慧、また様々の工夫や莫大の費用の掛けられていることを承知いたすことが出来るのであります。
主イエスは十字架の上に一切のことを成し遂げたまい、かくてこの聖霊の電流を齎したもうことができたのであります。そのために主イエスは完全な設備をなしていたまいます。そのごとく今晩主イエスはこのところに御霊を携え来っていたまいます。単純な信仰をもって今晩主イエスよりその御霊を頂くように私共銘々が備えられとうございます。
主イエスは火をもってバプタイズなしたまいます。皆様は水のバプテスマを志願して、自らの罪人であることを、そして主イエスの救い主なることを告白致したでありましょう。しかして皆様は水のバプテスマを施す資格のある方にそれを申し出たでありましょう。おお皆様、ここに聖霊の火をもってバプテスマを施すところの権威をもっておられる御方、その資格のあるお一方がおられます。私は今晩厳粛におたずね致したい、あなたは火のバプテスマの志願者でありますか。この集会にいわば火のバプテスマを受ける資格ある者として志願している多くの人々のおられることを信じます。
先程お話しいたしましたように、歌います、また火のバプテスマを志願してお祈りもいたします。が、真のバプテスマの志願者としての資格のない者がおります。けれども神様の愛に引かれて神の聖許にある人々、神御自身をお喜ばせ申し上げたいと願っておられる人々、神様のために生涯をもってお仕えしたいと願う御方々こそ、この火のバプテスマを受けるために備えられた人々でございます。今晩、このところに神の御霊の火を受ける志願者の多くあることを私は信ずるのでございます。
おおキリストは既に価を払って下さいましたことを厳粛にお聞き致しました。これは私共に提供されおる一切のものでございます。祈ります。
どうぞ黙禱をもって神様にお応えなさい。厳粛に神を礼拝なさって、どうぞ静かな心をもって神様にお応えなさい。
甦りたまいました神の聖子はここにおいでになります。ここに立っていたまいます。すべての権威と力とを持っていたもう神の聖子はここで立っていたまいます。どうぞ信仰をもって神に近づけよ。主はあなたに今晩、約束を成就したもうことを信ぜよ。疑いなく、心を開いてどうぞ神の火をお受け入れなさい。活ける御霊御自身が入りたまいます。どうぞ黙禱をもって神を仰いで受け入れよ。
愛する主よ、どうかあなたの約束を成就したまいまして、各々の祈りに答えてただいま御霊御自身を与えたまえ。私共はそれを判りません。頭では判りません。けれどもあなたの約束を信用いたしまして、あなたはそれが必ずお出来なさると信じまして、どうぞただいま、あなたの約束の御霊を与えたまわんことを乞い願い奉ります。
私共は心を開きます。おお神よ、静かに心の中にその活ける火を与えたまわんことを乞い願い奉ります。
どうぞただいまこのところでその賜物を頂くことができるように恩恵を与えたまわんことを、聖名によって乞い願い奉る。アーメン。
続いて黙禱して神を受け入れよ。その大いなる神の火の火事はどこかに起こります。小さい熱、静かな火が段々と大きくなりますように。
おお、神の聖子はあなたの心の中に小さい火をつけたまいます。信じて信仰を熱くするならば必ずなります。
どうぞ今黙して感謝せよ。
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