神 を 求 む る 饑 渇
あゝ神よ汝は我が神なり、われ切に汝を尋ね求む、水なき燥きおとろへたる地にある如くわが靈魂は渴きて汝を望み、わが肉體は汝を戀ひ慕ふ 二曩にも我かくの如く大權と榮光とを見んことを願ひ聖所にありて目を汝より離れしめざりき 三汝の仁慈は生命にも勝れる故にわが口唇は汝を讚め奉らん 四かく我はわが生るあひだ汝を祝ひみ名によりてわが手をあげん 五六われ床にありて汝を思ひいで夜の更るまゝに汝を深く思はん時わが靈魂は髓と脂とにて饗さるゝ如く飽くことを得、わが口は喜びの口唇をもて汝を讚めたゝへん 七そは汝が助けとなりたまひたれば我なんぢの翼の蔭に入りて喜び樂まん 八わが靈魂は汝を慕ひ追ふ、右のみ手は我を支ふるなり 九然どわが靈魂を滅さんとて尋ね求むるものは地の深き所に行き 十又劍の刃に渡され野犬の獲る所となるべし 十一然ども王は神を喜ばん、神によりて誓をたつるものはみな誇ることをえん、虛僞を謂ふものゝ口はふさがるべければ也。
此詩篇の記者の叫びは神の大權と榮光とを見んがためであります(二)、これは饑ゑ渴いた靈魂即ち靈的荒野にある靈魂の叫びであります。『大權と榮光とを見させ給へ』。
出埃及記廿四章を讀みますならば山の麓に於て血を注いだ事があります。之は七十人の長老達とモーセとアロンが山に登りてイスラエルの神を見んが爲でありました。
御銘々樣と私も此度この山に登って參りました。此詩篇の示すが如き惠みを求むる饑ゑ渇きを以て貴き血潮に信賴致しますならばイスラエルの神に御目にかゝることが出來ます。主イエスは『世われを見ることなし 然ど汝らは我を見る』と仰せ給ひました(約十四・十九)。聖靈に由って私共は主を見ることが出來ます、主は最一度私共の心に顯はれ給ひます。私共は帕子なくして主の榮光を見、榮光に榮光いやまさりて同じ像に變ります。これ即ち聖靈の能力によるのであります。
さて此詩篇中にその願ひを達するために進んだ階段を學びませう。
彼は先『あゝ神よ汝は我が神なり』と申して居ります、之は福なる出立であります。私共は神の靈に由って再び生れ、永生の望を與へられましたから『汝は我が神なり』と申すことが出來ます。
汝は我が神なりと云ふことが出來ますならばそれで充分ではありますまいか。そうです、理論上充分です、天の處にて凡ての靈の恩惠を以て已に惠れて居るのであります。然ども尚キリストに在る我らの富を更に經驗する必要があります。尚從ふべき餘地があります、ですから私共は尚々熱心に求めます。その階段が三つあります。
一、我が靈魂は渴く(一)
二、わが靈魂は飽くことを得(六)(=英譯では五節)
三、わが靈魂は汝を慕ひ追ふ(八)
一、わが靈魂は渴きて汝を望む。
私は皆さんの内或人々は靈的に渴き聖潔の必要を感じて居られると思ひます。卿は過去の生涯と神のために働きました働を顧みて不滿足を感じ、尚深き恩惠の御行を求めなさるでせう。これは幸なことです、饑ゑ渴いて聖潔を求めなさるならば神は必ず卿に應へ豐かに惠み給ひます。
『我が靈魂は渴きて汝を望む』。私共は主御自身を要します。主御自身こそ私共の願ひの凡て、必要の凡てゞあります。主は私共の渴きに應へ給ひます。その仁慈は『生命にも勝れる』(三)ものであります。その恩惠を得ますことは生命そのものを有つよりも勝れることであります。これは最高の願望であります。それですから私共は主御自身を求めます。私はこのことを高調いたしたくあります、或人々は渴いて居りながら或敎理か或經驗を求めて神御自身を求めて居ない人があるかも知れません。それですから私共の渴いて求めますのは主であります。どうぞ主を御求めなさい。
『われ切に汝を尋ね求む』(一)。主の聖言に由って御自身を求めませう。私は如何に大なる救ひをわがものとすべきか、私は眞實に潔められるでせうか、現實に聖靈に滿されるでせうか、キリストが我が衷に顯れ給ふて私は主の衷に居り、主は亦わが衷に住み給ふでせうか、と求むべきであります。私は卿の願望を聖言に導き、神の聖言をして卿に語らしめるやう待望ましめ給はんことを祈ります。キリストは卿を愛し、卿のために御身を棄て給ふて聖言により、水の洗ひを以て卿を潔め給ふことを御信じなさい。祈禱のため時を御費しなさい、卿の祈禱が單に乞ひ求むることのみでなく、神と交はり、神の聖顏を拜するやうになさい。
又讃美を以て主を御求めなさい。『わが口唇は汝を讃め奉らん』(三)、『わが口は喜びの口唇をもて汝を讃めたゝへん』(六)とあります。その讃美は私共の四圍に神の美しき創造の御行を見、或は心の衷にはキリストの聖言が豐かに宿ってをりますから靜けき沈默の讃美かも知れません。どうぞ聖言に由り、祈禱に由り、讃美を以て主を御求めなさい。『われ切に汝を尋ね求む』、主を求むるために凡てのものを投げ棄てなければなりません。私共は饑ゑ渴いて主を求めますが故に此點に就て注意せなければなりません。主を求めますために時を費して主に近き、全く主のみを御求めなさい。
二、わが靈魂は飽くことを得べし(六)
彼は祈りました、神を求めました、それですから今は信賴致します。凡て私共の饑ゑ渇きは飽くことを得ませうか、凡て私共の願ひに應へられませうか。そんなに滿足し、安息することが出來ませうか。さうです、飽くことを得るとは再三舊新約聖書に記される大なる言であります。
眞に卿の靈魂が飽き足るやうに神に御求めなさい、僅かばかりの恩惠の雫や、小さい勵げましや、少しの喜び位の事ではありません。髓と脂とにて饗さるゝこと即ち神が與へんとて備へて在す公然なる恩賜めぐみの最も善きものを以て滿たされるのであります。主は已に天の恩惠、全き恩惠を與へんとて備へて居給ひます。『わが靈魂は髓と脂とにて饗なさるゝ如く飽くことを得』。
信仰を以て神に近づきなさる皆さんは此山から來た時のまゝで下りなさらぬやうに神が應へ給ひますから別の人の如く變り髓と脂とにて飽き足って御下りなさる事と信じます。然ども求めませんなら受けません。求めますなら必ず飽く事を得ます。これは主イエスが信仰と期待を以て御自身を求めます者に喜んで與へ給ふのであります。
三、その結果『我が靈魂は汝を追ひ慕ふ』(八)
これは卿が以前にあったよりも更に神に近く步む、生命の新樣になった結果であります。
ペテロは判きの官廳にまで主に從って行きましたが彼ははるかに從ひました。それですから困難に出會ひ、罪に陷り、不幸を見ました。
私共各この願ひを前に置きて主を追ひ慕ひ、右や左に曲がる事を心配せないで進みたう御座います。主の踏み給ふた御足跡に從ひ、主の步み給ふた如く步みませう。
第一節の『わが靈魂は渴きて汝を望む』から始めますならば、六節のわが靈魂は、『飽くことを得る』に至ります。その結果は八節の『わが靈魂は汝を追ひ慕ふ』生涯になると信じます。
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