ピ リ ピ 書 靈 解
新約聖書の各書翰は聖潔に關する小さき冊子であります。それは皆更に深き眞理と更に勝れる經驗を得しむるため、各地の小さき敎會のクリスチャンを奬勵せんとて送ったものであります。
度々多くの人は聖潔に就て最も助けとなる書物はどれが良いでせうか、友達を全き救ひに導くために送る小冊子はありませんかとお尋ねになりますが、神の聖言殊にこれらの小さき書翰よりも明瞭な良いものはありません。全き恩寵に人々を導くにこれより善いものはありません。
本書の中心思想とその使命は
我が生けるはキリストなり(一・二十一)
であります。
キリストは全備、キリストは凡ての凡て、キリストは卿の入用を悉く充し給ひます。ゲルハード・テレステーゲンは靈魂をキリストに導き、リバイバルのために大變神に用ゐられた人でありますが、常に彼の使命を次の如き言葉に謂ひ縮めました。
キリストは全く抱きしめますならば全備の御方であると。
キリストは誰にも全備の御方でありますが、全く主を抱きしめなければなりません。『わが生けるはキリストなり』。パウロは愛するピリピの回心者に斯く步み出でよと勸めたのであります。
使徒行傳第十六章中にピリピに於る驚くべき働、即ちルデヤの心開かれしこと、惡鬼の能力より救ひ出された女のことゝ、獄吏の地震に因って回心した記事を見ます。これらはピリピに於る三人の改悔者でありますが更に多くの人々が救はれたことであります。パウロは如何に彼等を愛した事でありませう。此第一章三節から御覽なさい。
汝ら始の日より今に至るまで偕に福音に與るにより、われ汝等を思ふごとに我が神に謝す、また恒に汝ら衆のために祈求ふごとに欣びて求ふ、汝等の心の中に善き工を始めし者これを主イエス・キリストの日までに全うすべしと我ふかく信ず。
パウロは傳道者であると共に亦善き牧師でありました。本書に見るが如き驚くべき眞理を敎へて、全き恩寵に彼等を導きました。その敎は『わが生けるはキリストなり』、謂ひ代へますならキリストをわが生涯の能力とし、わが從ふべき模範たらしめよとの事であります。
メー・フラワー號(英國より米国へ宗敎の自由を得んがため移住した最初の船なり)にて大西洋を横切った人々の内にて或人の日記にこう書いてありました。『キリストの步み給ひし如く步まんとこそわれ祈るなれ、此新しき國にてキリストを永久に顯し奉らん』。これは亦私共の祈りでなくてはなりません。
各章の敎
全體として本書翰の各章を御覽なさい。第一章の敎は
キリストを步み出すこと(廿一)。
第二章は
キリストの意即ちキリストの意を以て意とすること(五)。
第三章は
キリストを獲ること(八)。
第四章は
凡てのことはキリストに因ること(十三)。
第 一 章 キリストを步み出せ
パウロは彼等の中に働きつゝ在すことを堅く信じましたから『汝等の心の中に善き工を始めし者これを主イエス・キリストの日までに全うすべし』と申しました(一・六)。それですから彼等の心の中に恩寵の更に深きみ行の必要を感じました。パウロは已にキリストが善き工を始め給ひましたから、又之を全きに至るまで御仕上げなさることも信じました。彼等はキリストを知りましたが更に尚々識る必要がありました。キリストは彼等を潔めんと願って居給ひますから、彼等が曾つて知って居りましたよりも尚々深い經驗に導き給ひます。
皆さんは庭にある薔薇を御覽になりませう。液汁が春の初めから押し上げて參ります。而して簇葉が出て、小さき蕾が至る所につき、やがて、之が開き完全な花となります。そのやうに凡てのクリスチャンもなる筈です、クリスチャンは皆その中にキリストの生命を所有して居ります、その生命は薔薇の液汁に於るが如く新創造の工を行ひます。各の中にあるキリストの生命は榮光より榮光いやまさり同じ像に變らしむる能力があります。薔薇の生命は完全なる花に至らしめます。卿の救ひの目的に就てもキリストは卿の中に生き、働き、同じ像に至るまで全うせしめ給ひます。善き工を始め給ひました主は必ず終りまで完うし給ひます。
彼等のための祈禱
パウロはこれらの弟子達の中に主が働きつゝ在し給ひますから、彼等のために四の祈禱を捧げました。
一、豐かなる愛
『汝等の愛益々大にならんことを祈る』(九)。更に深く更に豐かなる愛はクリスチャンの進步でなければなりません。
二、鮮明なる知識
『知識と諸の知慧の中に最も勝れたる所を辨へ知らんことを』(九)。これは勝れたることを闡明にすること、即ち神が卿を最善に導かんとし給ふ聖旨を悟ることであります。
三、至純なる淸けさ
『潔くして過なからんことを。』(十一)
此所に用ゐられた潔い(sincere)と云ふ原語は他のギリシヤ語の如く繪に用ふ言でありまして最も强い光に照されても淸いと云ふ字であります。クリスチャンは至純なる淸けさを要します。少しも隱しごとのない、僞りのないものでなければなりません。
四、豐饒なる果を結ぶこと
『義の果を滿せて』(十)。ヨハネ傳十五章にキリストに居る者は果を結び、多くの果を結び、更に多くの果を結ぶと記してあります。これは幸にも出來得る進步であります。若しも私共はこれを妨げませんならばこの祈禱は應へられて義の果を滿せ給ひます。
パウロはこれらの愛する回心者の心のうちに主の働き給ふ御工は甚だ力ある實際的のものでありまして、恩寵より恩寵に彼等を導き給ひますやうに祈りました。
福音の勝利
斯くキリストはその心のうちに勝利を得給ひます。又主は福音の働に於ても勝利を得給ひます。
斯て我が縲絏に罹しはキリストの爲なりしと既に王を護る所の陣營及び他の人々にも凡て明かに知られたり、わが縲絏に因て兄弟達おほくは主を信ずるの心を篤くし、益々勇みて懼るゝことなく道を傳ふ。(十三、四)
何たる勝利でせう! 主イエスは縲絏にあるパウロの證を用ゐて王を護る役人達の中に働き給ひました。惡魔はパウロの働を今や絕えしめんとしましたが、キリストは至る所に勝利を得給ふて、聖名の榮光を顯し、多くの人々に救を施し給ひました。
或傳道者達がその心に猜忌を起しましたけれどもキリストは益々勝利を得給ひました。斯くキリストが宣傳へられましたからパウロは喜び且つ常に喜ばんと申しました。
而して彼は主イエスの働が各方面に顯はれましたから、例へ死ぬるとも大なる益となると云ふことを知って居りました。『我が生けるはキリストなり、死ぬるとも我が益なり』。彼は主イエスが凡てを支配して居給ひますから生けるにも死ぬるにもキリストの崇められる事を喜びました。彼は凡てのこと悉く主の御計綸の中にあり、凡てのことを聖旨の儘に導き給ひますから、皆主イエスの榮光となり、福音の進み行く助けとなります事を知って居ましたから、キリストが崇められさへすれば可いと申しました。
それ故に之らの若い回心者に活けるキリストの活畫を示して彼等に申し付けました。
我たゞ汝等にキリストの福音に符ふ行をせんことを勸む、是わが往きて汝等を見るときも離れて汝等の事を聞くときも汝等が靈を一にして堅く立ち、福音の道の爲に心を同うして力を協せ……(二十七)
彼は彼等に傳へられました此驚くべき福音に符ひて行ひ、キリストを步み出せよと勸めました。
第 二 章 キ リ ス ト の 意
汝等キリスト・イエスの意を以て意(mind)とすべし。(二・五)
これは私共がキリストを步み出しつゝあるならば主の思想を以てその心意を統べ治められよとのことであります。凡て私共の境遇にも計畫にも將來の事についても主の心意を以て心意とすべきであります。
パウロは此章の始めに『若しキリストにある勸め』又確に『愛によれる慰め』があるならばと申して居ります。何と美しき發言ではありますまいか。神の愛の慰めがありますならば亦友達の愛の慰めもあります。『靈の交際』、私共は彼と共に歩むことをするならば、その愛を知ります。又その敎訓と御導きも受けます。それ故に彼は各々謙れよと勸めました。
何事を思ふにも黨を結び、或は虛榮を求むる心を懷くべからず、各々謙りたる心を以て互に人を己に愈れりとせよ。(三)
私共がキリストを步み出しつゝありますならばそれは私共の中にあるキリストの意であります。柔和、謙遜にして己よりも他人を勝れりとし、人の事を顧みる意がある筈であります。さて是からキリストの意の四つの大なる實例を示して居ります。
一、キリスト御自身
誰よりも大なる實例は先づキリスト御自身であります。彼はキリストが如何に最高の天より十字架にまで降り給ふたかを告げて居ります。彼はこの驚くべき七階段を示して居ります。
一、彼は神の體にて居りしかども自ら其神と匹く在るところの事を棄て難きことゝ意はず(六)
主は第二の位置を取るやうに備へられました。
二、反つて己を虛うし(七上)
主は凡ての榮光を棄て給ひました。
三、僕の貎をとりて(七中)
之は尚々卑き位置であります。僕なるにしても天使の長であっても然るべきでありますが、尚々卑き所に降り給ひました。
四、人の如くなれり(七下)
これは一番卑い位置であります。
五、既に人の如き形狀にて現れ己を卑くし(八上)
尚更に降り給ひました。
六、死に至るまで順ひ(八中)
主は地上に在して完全なる人でありましてもそのまゝ死に行き給はずして死に至るまで順ひ最も愚かな最も苦しい死を受け給ひました。
七、十字架の死をさへ受くるに至れり(八下)
これらは榮光の御位から十字架に至る、キリストの七つの階段であります。これは何處までも下に行く道であります。私共も主に服ひて神の前には何處までも謙らなければなりません。献身は一思ひの大きな一時の事ばかりではありません。尤もそれは大變大事ではありますが、モット確實な死に至るまで尚々深き謙りにまで至る不斷の道であります。
二、パウロ自身
汝等の信仰を供物として献げんには假ひ我が血を流して灌ぐとも我これを喜ばん、汝ら衆の人と共に喜ばん。(十七)
若し文字通りキリストの御足跡に從ひ、汝らの幸にならんため、死に至るまで自己を棄てることは唯一の私の喜びであります。凡ての人々と共に喜ぶと申しました。第二の模範として己の感情を棄てました。
三、テモテ
我なんぢらが事情を知り、心を慰めんがため速かにテモテを汝等に遣さんことを主イエスに賴りて望む、そは彼の外に我と同じ心を以て汝等の事を眞實に慮る者なければなり、多くの人は皆おのが事のみを求めてイエス・キリストの事を求めず、然どテモテの鍛鍊なることは汝等の知るところなり、彼は子の父に於るが如く我と共に福音の爲に勤めたり。(十九〜二十二)
斯の如くテモテは主イエス・キリストの御足跡に從ひました。彼はキリストの意を有ちました。彼は他の人の事を顧み、自己の事を求めませんでした。彼は若いクリスチャンの狀態を心に留め、イエス・キリストの事を思ひました。
四、エパフロデト
我と同に勞き我と同に戰ひをなせる我が兄弟エパフロデトを汝等に遣さゞる可らずと意へり、そは彼おのがさきに病みたる事の汝等に聞えしを以て深く汝ら衆ての人を戀ひ慕ひかつ憂悶ぎをれば也。(二十五、二十六)
第三十節に『そは彼己が命を顧みず、死んとするばかり、キリストのために働きたり』と申して居ります。『生命を賭けて』と云ふギリシヤ語の意味であります。彼はパウロを助けるために必要あらば何時でも生命を投げ棄てる積りでキリストのために勤めました。彼は他人の幸福のために己が利益と己が慰めとを提供しました。
私は今一人他の實例を御話申上げたく存じます。それは牢屋の中で苦みと痛みに勞れ果て三十五才で死んだエクセターのヨセフ・アリエンの事であります。その若き妻は彼が福音を宣傳へるために受くるあらゆる苦みのために深く心を痛めて居りましたときに、彼は手紙を書いて斯う申しました。『主は私共に對して小さき外部的の不利益をも償ふために内外に數千の方法を講じ給ふ』と。而して彼は『イエス・キリストは決して私共に負債をして返さないやうな御方ではない』と申しました。それですからヨセフ・アリエンはキリストの心を以て毎日毎日福音を宣傳へに行きました。彼は早朝に起きて主の聖言を味ひ、早朝に得ました新鮮なるマナの能力によって生涯を送りました。ほんとに天國のやうな心を以て生涯を送り、福音を宣傳へました。その傳記を書いた人は彼は『靈魂の救ひのために足るを知らず、止めどもなく勞した』と申して居ります。彼は福音を傳へんがために健康も生命をも犧牲にして仕舞ひました。『イエス・キリストの意を以て意とすべし』。キリストの生命はたしかにその意を卿の心に植ゑ付け給ひます。
第 三 章 キ リ ス ト を 獲 る こ と
然のみならず我わが主キリスト・イエスを識るを以て最も益れる事とするが故に凡のものを損となす、我かれの爲に既に此等の凡てのものを損せしかど之を糞土の如く意へり。(八)
パウロは已に必要な凡ての恩寵を得たのではありませんか。彼は全き救ひを得たのではありませんか。又主は彼の凡ての凡てとなったのではありませんか、との疑問が起りませうが、キリストに向って尚々深き饑ゑと渴きを覺えたのであります。彼は主が彼に取って貴き御方であることを味ひましたから尚々益りて饑ゑ渴きが起ったのであります。オー、どうぞ、私共もそんな饑ゑ渇きを有ちたう御座います。
皆さんがヨシヤ記十三章一節を御覽なさいますならば型として同じ事を見ます。
『ヨシヤすでに年邁みて老いたりしがヱホバ彼に言ひ給ひけらく 汝は年邁みて老いたるが尚取るべき地の殘れるもの甚だ多し』
彼等はヨルダン川を渡ったではありませんか。彼等はエリコ城を占領したではありませんか。彼等はその地の中央に祭壇を設け、全地は我がものなりと要求したではありませんか。彼等は三十一王を倒したではありませんか。彼等の期待したものを悉く得たではありませんか。然るに神は『尚取るべき地の殘れるもの甚だ多し』と仰せ給ひました。それですからクリスチャンも豐かな恩惠を受け嗣ぐものとせられました、なれども尚取らせたい多くの地があります。パウロは自ら之を實現致しました。又眞に潔められた人も同じ樣にそれを實現する筈であります。パウロは神を慕ひて饑ゑ、更に恩惠を求めて渴き、尚々生命の泉に降りて充分に自由に飮まんことを願ひました。それですからこゝに『キリストを獲る』事を話しました。彼は三十年前に大なる決心を致しましたけれども尚々目標に向って突進して居ります。
我さきに我が益となりし所の事はキリストに由て損ありと意へり。(七)
その決心は彼が回心の時にしたのであります、彼はその決心を後悔したのでせうか。或は退却したのでせうか。彼は語って居ります。
然のみならず、我わが主キリスト・イエスを識るを以て最も益れる事とするが故に凡てのものを損となす、我かれのため既に此等の凡てのものを損せしかども之を糞土の如く意へり。(八)
彼は『私は之を實行して來ました、その決心を成就しました、私はキリストのため凡てのものを棄てる決心をし、之を實行して來ました。私は凡てのものを損しましたが、その決心は今も變りません。私はそのためにいと小さきものまで献げました』と申しました。此決心の如く終始步んで來たのでありますが、尚その意を有ちつゞけて居ります。
それでキリストのため此決心をし、そのやう步みつゞけて來た者は皆なほなほキリストのため凡てのものを棄てることを望みます。
それは彼がキリストと一つにならんことを願ひましたからであります。
『彼と其復活の能力を知り、その死の狀に循ひて彼の苦みに與らん』ためであります(十)。彼は主の御苦みとその御勝利とに於て主と全く一つにならんことを願ひました。そうです、キリストは私の心のうちに活き働きつゝ在し給ひましてその御苦みとその御勝利に與らしめ給ひます。
今から百年前に、チャーレス・シメオンはケンブリッヂ大學に於ける大なる權威でありました。彼は敎會の牧師にして又同大學の特待校友(fellow)でありました。今私共がケンブリッヂの基督敎大學教會員(CICCU mem)と呼ぶ人々のことを其後永い間シムス(シメオン黨)と稱へました。これは彼の足跡と敎への著しき證であります。チャーレス・シメオンは福音を宣傳へましたので大變苦められました。他の要路の連中は之を好みませんでした。出來る限り彼を默らせんとして苦々しい迫害を加へました。或日迫害の最中に大變壓迫せられました時に彼は神に何か慰めの聖言の與へられんことを求めました。彼はギリシヤ語の聖書を取り書翰の部分を開けんとしたのでありますが却って向を變へて倒に開き、
その出し時クレネ人のシモンといふ者に遇ひければ强ひて之に其十字架を負せたり(太二十七・三十二)
との聖言を見ました。シモンはシメオンと同じ言であります。この言は大なる慰めとなってチャーレス・シメオンに來りました。而して彼は『私は正しく步んだ時にキリストに從って十字架を負ふ特權を知り、その驚くべき榮譽を私の上に置かれたのでありましたから、私は心を擧げて主を仰ぎ「主よ我が上に置かせ給へ」と祈りました』と申しました。彼はパウロと偕にキリストの御苦みに與るやう祈ったのであります。
さてパウロはその心に大なる望みがありましたからこの事を願ひました。
如何にしても死人の中より甦へることを得んが爲なり(十一・改譯)
彼は第一復活に與り、空中に携へ上げられて主イエスに遇ひ、羔の婚姻の筵に侍らんことを願ひました。彼はそこに至ることが確かだとは申しません。彼はその救ひを疑って居たのではありません、彼はその榮光に進みつゝあることは確かでありました。
我等これを知る、我等が地にある幕屋もし壞れなば神の賜ふ所の屋天にあり、手にて造らざる窮なく有つところの屋なり(哥後五・一)
併し乍ら彼は第一復活に與るや否やは確かでなかったのであります。この第一復活が彼の大なる渴望であったのであります。オゝ、これは亦私共の渴望であります、私共はこれを願ひますから滿ち足るまでキリストを獲なければなりません。私共も後にあるものを忘れ、前にあるものを望み、目標に向って進まなければなりません。『羔の婚姻に招かるゝ者は福なり』とは凡ての救はれたものゝ願ひではありますまいか。
皆さんは多分マラソン競爭を御覽になったと思ひます。ケンブリッヂでは三マイルの競爭をするために競技者は三マイルになるやう、あのフェンナースの大グラウンドを九回廻ります。今卿はその競爭の發足を見て居ると假定して御覽なさい。卿の大学の一人か、友人の一人に目が着くと思ひます。はらはらし乍ら、第一回、第二回と眺めて居ませう。而して或人は遲れ、或人は進みませう、けれどもそれが決定ではありません。何回も何回も彼等は廻ります。其競爭は多分十五分ほどかゝります。多分卿は心を留めぬやうになり、友人に話をしかけますかも知れません。然れども競爭者は尚々一生懸命、走って居ます。遂に天幕からベルが鳴ります、それは今や最後の塲面であるとの警報であります。さうすると誰一人、無頓着な者はありません。
その時には或人は落伍したものがあるかも知れませんが、一同はヘビーをかけて走ります。今こそ最後と奮進します。皆見物人は興奮します、身方のものに聲援しませう。無頓着な者は一人もない。第一着、第二着と、群衆の激昂は頂上に達し、遂に勝敗は決定し、競爭は終ります。
私共の競爭も今や、主イエスの來り給ふて競爭は終らんとして居る最後の塲面であると思ひます。天に於ては最後のベルが鳴って居るかも知れません、今はクリスチャンに取って無頓着で居るべき時ではありません。今は全力をあげて進むべき時であります。激勵、感激のときであります。最後の塲面です、軈て競爭は終り勝敗は決します。
パウロはそんな感じをしました、而して申しました。『如何にもして死にたる者のうちより甦ることを得んが爲なり』と。オー、私も羔の婚姻に招かれたる福なる者の中の一人でありたう御座います。
キリストを獲よ、卿は風下に立って『私は回心のとき已にこれを得ました』などと申してはなりません。決してさうでない。尚々卿のために備へられたものがあります。卿は滿ち足るまでにキリストを獲ることを勵みなさい。
第 四 章 凡ての事はキリストに由る
『我は我に力を與ふるキリストに因て凡ての事を爲し得るなり』(十三)
此章に於てキリストが力を與へ給ひますことにより得られます、七の恩惠に就て記されてあります。
一、絕えざる喜び(四)
なんぢら常に主にありて喜べ、我また言ふ、なんぢら喜ぶべし。
これは力を與へ給ふキリストに因てなすことが出來ます。
二、全く思ひ煩はぬ自由(六)
何事をも思ひ煩ふ勿れ、唯每事に祈禱をし、懇求をし、且つ感謝して己が求むる所を神に告げよ。
三、不斷の豐かなる平安(七)
神より出て人の凡て思ふ所に過る平安は汝等の心と意をキリスト・イエスに因て守らん。
これは全く『キリストに因って』であります。これらの驚くべき恩惠は主イエスの御力と御働に因って與へられます。
四、麗しき事にのみ愛着する意(八)
兄弟よ終に我これを言はん、凡そ眞實なること、凡そ敬ぶべきこと、凡そ公義こと、凡そ清潔こと、凡そ愛すべきこと、凡そ善稱あること、凡て如何なる德、いかなる譽にても汝等これを念ふべし。
これらはみなキリストに因て出來ます。
五、再び失なはぬ滿足(十一)
われ乏きに因て之を言ふに非ず、そは我如何なる狀に居るもそれを以て足れりとする事を學べばなり。
六、凡ての事に勝つ能力(十三)
我は我に力を與ふるキリストに因て諸の事を爲し得るなり。
クリスチャンは誰も弱くあらねばならぬ筈はない。私共に能力を與へ給ふキリストに因て凡てのことを爲し得る特權が與へられて居ります。
七、凡ての必要に對する無盡の供給(十九)
それ我が神は己の富に從ひてキリスト・イエスにより榮光を以て汝等の乏しきところを補ひ給はん。
神は此書翰を開き、衷に在すキリストの使命を各々に示し給はんことを。此書翰をして更に深き恩惠と更に高き恩惠を求むる心を激勵し給はんことを。
兄弟姉妹よ、こゝに純粹なる聖潔があります。こゝにキリストが愛する者の一人一人に與へんとして在すもの、各々の中に働かんとして在すことを知ることが出來ます。
『汝等の心の中に善き工を始めし者これを主イエス・キリストの日までに全うすべし』(一・六)
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