コ ロ サ イ 書 靈 解
此書翰の中心點は『汝等の衷に在す奥義なるキリスト』又は二章二節にある『神の奥義なるキリスト』と云ふことであります。此すぐ前の三の書翰もその中心點は同じであります。
その結果たる聖潔
これは又神の奥義でありまして、私共が召された召に適ふ步みをなし、潔く玷なく步むことを得しめんがため、異邦人にまで默示せられたのであります(一・二十二)。
私共は一章二十九節にパウロは如何に步み盡したかを見ます。此節は新約聖書中、『衷に在すキリスト』を實際的に步み出すことに就て尤も助けになる聖言の一つであります。
我これがために大能をもて我が衷に働く者の運用に循ひ力を竭して勞する也。
之は恰も蒸氣機關のやうなものであります、機關の中に大なる能力を以て蒸氣が働きますから、その大なる能力の運用に循ひて押し出します。これは又信仰のある處に活動のあることを示します。而して之は信仰の生ずる所と活動の起る所を示すものであります。信仰は卿の中に在して大能の力を以て働き給ふキリストを信ずることに因って生じます。活動はその働きに循ひ力を盡して勞する所に起ります。
而してパウロは彼等が之(二・二)を知らんがため大なる戰ひを感じました。『彼は全き頴悟の富を』得んことを願ひました。
皆さんはヘブル書十章二十二節に疑いを懷かざる信仰とあり、同六章十一節には『疑ひを懷かざる望み』とあり、而してこのコロサイ書二章二節には疑ひを懷かざる全き頴悟とあります。私はこの三の事について反復お祈りなさるやう御勸め申します。神は私共に疑ひを懷かざる確信を求め給ひます。
ウィリヤム・カーバーソは或時日記の中に彼の所謂婚約を新にせられたことを記して居ります。彼は神が彼を受け入れ、新に神は彼と偕に居り、彼は神と偕に居るやうになった確信を得ました。即ち『オー此時より如何に主の衷に信賴を增し、我が行路を突き進むやう魂が强められたことでせう』と。
こゝにパウロがコロサイ信者のために祈って居るのも神の奥義なるキリストを知って、その確信を得させんがためであります。凡て私共の靈的生命は聖き奥義なるキリストを益々識ることに由てのみ得られます。
彼等は既に救ひを得たる者なり
パウロが此書翰を送りましたコロサイの信者は明かに新生して居たものであります。即ち、
神の恩を眞實に曉りし日……(一・六)
彼また云ふ
我等その子に由りて贖すなはち罪の赦を得るなり(一・十四)
而して
それ汝等はもと惡行を行ふに因て神に遠かり、心にて其敵となれる者なりしが、今……己と和がせ……(一・二十一)
更にまた
汝等すでに主キリスト・イエスを承けたれば……(二・六)
而して彼等は『彼と偕に生しめ』られたものであります(二・十三)。
私は今四つ五つの引照を引きましたが、これは此事を知る上に大切なことであるからであります。私共が更に深き恩惠に達し、明瞭なる心を有ち、聖靈に滿されることを求めますならば、神の救ひの明かなる經驗に基き主イエス・キリストに由て神と和いだ全き確信がなければなりません。
然ば彼は勝れるものを求むるやう諭せり
彼等は新に生れ、信仰を活かせ、キリストを承けました。それ故に彼等が既に受けたものより更に全く、更に深きものを求むるやうに勸めました。而して一章二十八節に彼は申しました。
我ら彼を傳へ諸人を勸め、諸般の智慧をもて諸人を敎へ諸人をしてキリストの中に完全を得て神の前に立しめんとす。
パウロは彼等を個人的に知りませんでしたが重荷を感じました。これは私共に大なる敎訓を與へますと思ひます。私共は未だ救はれて居らぬ者のために重荷を感じそのために禱告簿を以て祈りますが、クリスチャンのためにもそのやうに重荷を感じませうか。皆キリスト・イエスの前に完うせられるやう重荷を感じなさいますか。パウロはこの重荷を感じました。彼は主イエス・キリストに由て神と和ぎ、新に生れた彼等が恩惠の完全に進むやう願ひました。
潔く玷なく咎なくして己の前に立しめんとす(一・二十二)
これは甚だ高い標準でありますが、パウロは潔く玷なからしむる救ひのあることを知って居りました。玷なきとはレビ記にある献げ物の如く傷のないものであります。而して咎なきとは一のあやまちも主に見付けられるものがないとの事であります。
エパフラスの祈禱
パウロのみでなく、エパフラスも祈りました。
汝等の中の一人にてキリスト・イエスの僕なるエパフラス汝等に安きを問ふ、彼は恒に汝等の爲に力を盡して祈禱をなし、汝等が完全をえ、心を堅くして立ち、凡てのこと神の旨に遵はんことを願へり(四・十二)
彼は愛する自分の回心者が淺い恩惠に止ることを以て滿足しませんでした。彼は神の恩惠の充ち足る深處に至らんことを願ひましたから、パウロと偕に牢屋に於て『力を盡して祈禱をなし、汝等が完全を得、心を堅くして立ち、すべての事神の旨に遵はんことを願ひ』ました。此力を盡すと云ふギリシヤ語は著しき言でありまして、苦悶するとの强い意味であります。此言は新約書中に尚一回丈け用ゐられてあります。それはルカ傳二十二章四十四節にゲツセマネの苦悶の塲合に使はれました。『痛く哀しみ』とあります。聖靈はゲツセマネの記事に用ゐられた言をエパフラスの祈りの塲合に用ゐしめ給ふたことは私共の心に此二つの事の間に深き關係のあることを示さんが爲であると云ふことを疑ひません。エパフラスはクリスチャンが全く潔められ、神の聖旨を成就するやうに深き重荷を感じ、切なる願ひを以てゲツセマネの祈りをなしたのであります。クリスチャンが潔められねばならぬことは罪人が悔改めることよりも實に大切であります。ムーデーは『十人の罪人が悔改めるよりも一人のクリスチャンが献身して潔められるのを見たい』と申しました。彼はその事が世のためにも神の國のためにも價高きものと信じたのであります。
クリスチャンの典型
さて第一章九節を御覽なさいますならば彼等のために祈ったパウロの祈りを見ます。此祈禱は全く献身し、キリストがその衷に住み給ふクリスチャンの肖像を示すものであります。
此祈禱中に七つの祈求があります。
(一)『諸の智慧と頴悟とを以て悉く神の旨を知り』(九下)
内に住み給ふキリストは光を與へ給ひますから、神の聖旨を知ることが出來ます。
(二)『凡のこと主を悅ばせんが爲その意に循ひて日を送り』(十上)
これは卿の生涯が主の愛と犧牲に適ひ、主の悅びとなることを示します。
(三)『凡の善き事に因りて果を結び』(十中)
卿は林檎の木を御覽なさいましたか。木に生命がありますから芽を出し、葉を繁らせます。春には澤山の花を咲かせ、誠に美しくあります。併し之はその木の目的ではありません、秋になると豐かに實を結びます。それが林檎の木の目的です。
そのやうに、クリスチャンの生涯にも三つの階段があると思ひます、或人々は生命を有って喜んで居ります、併しそれ丈けで善いと申されません。又或人々は神の麗はしさを以て飾られて居る者もあります。それでも尚充分でありません。或人々は凡ての善き行に果を結んで居ります。パウロがコロサイ人のために祈りましたのは實際に聖靈の果を結ばんことでありました。果實はその中に種子があります。而してその種子から木が生れます、林檎の木は活きて居ても他の木を生み出しません。花は美しく咲いて居ても他の花を造りません、併し木に結ぶ果は多くの木を生み出します。オー、どうぞ、私共も凡ての善き行に果を結びたう御座います。
(四)『且つ神を知るに因て漸に德を增し』(十下)
聖書を讀むことにより、その意味の深いことを悟ります。又日每、週每に神が私共を取扱ひ給ひますことによりて深く神を知ります。
(五)『また神の榮の權威に循ひて賜ふ諸の能力を得て强くなり』(十一上)
主の能力は榮光ある能力です、有ゆる種類の働のために能力を以て强め給ひます。
(六)次の事は忍耐です
『凡ての事よろこびて忍びかつ耐へ』(十一下)
神は恒忍と久耐ることを增さしめんとて多くの試練を與へ給ひます。内住のキリストは恒忍と久耐ることをなさしめ給ひます。その試みの最中に於てすらも喜びを與へ給ひます。それですから卿は烈しき試練の中にも笑顏を以て神を讃めたゝへることが出來ます。
(七)『……感謝せんことを』(十二)
御覽の通り、之は神の救ひと神の恩惠のために神に感謝することであります。こゝにクリスチャンの麗しき肖像を見ましたが、衷に在す主イエスは卿のうちにも同じやうに其姿を寫し給ひます。
キリストの御姿
こゝには亦驚くべきキリストの御肖像を見る次第であります(一・十五〜二十)。神の聖言の中にキリストの樣々なる御肖像が畫かれて居りますが、或意味に於て之は聖書全卷中恐らく最も驚くべき御肖像であると思ひます。之を仔細に御覽なさい。
(一)『彼は人の見ることを得ざる神の狀……なり』(十五上)
神は見えざる御方で、人は神を見ることが出來ません。恐らく天使達も神を見ることは出來ません。併し乍らキリストは神の眞の御像でありまして、神は如何なる御方であるかを見ることが出來るやうに福音書の中に顯はされて居ります。他の人アダムは見えざる神の像でありましたが、アダムは罪のために之を失ひました。それ故に神は他の人即ちキリストは見えざる神の御像を世に顯さんとて與へ給ひました。而して今や主は私共の中に働きつゝ在し給ひますから、卿も私も見えざる神の像となることが出來ます。
この新き人は愈新になり、人を造りし者の像に循ひて知識に至るなり(三・十)
聖靈は神の像を快復せんとて私を新になしつゝ在し給ひます。これは第一の事であります。
(二)『……萬の造れし物の先に生れし者なり』(十五下)
之は神の御子が造れた御方であるとの意ではありません、凡ての造られし物の主で在すとの意であります。主は大なる財產家の世嗣即ち父の家に住み、父を助けて、全財產を支配し、父と共に働いて居る成長した息子の如きものであります。それですから『初めに生れし者にして萬物の主』であります。
(三)第三には『萬物の創造主』であります
そは彼に由て萬物は造れたり、天に在るもの地の上に在るもの、人の見ることを得るもの、見ることを得ざるもの、或は位ある者、あるひは主たる者あるひは政を執るもの或は權威ある者、萬物かれに由て造られたり(十六)
之は驚くべき、榮ある救ひを詳細に示すものであります。私共は一般に創造主に就て語るときに此世界、全宇宙のことのみを考へますが、此聖言は更に深いもので即ち天使、セラビム、ケラビムの造られしことを示すものであります。天の大なる權威は主イエスに由て創造せられました。その次は
(四)『萬物かれに由て存つことを得るなり』(十七下)
これは現代の多くの科學者の解し得ぬ秘密であります。科學者は何萬年も年々歲々此世界が太陽の四圍を廻るかを說明することが出來ません。なぜ軌道を外したり、太陽の中に落ちたりせぬのでせうか、太陽はなぜ燃えつゝ在るのでせうか、誰も說明することは出來ません。太陽の燃料は實に莫大なもので、一週間の燃料は地球の百倍ほどのものを太陽に注ぎ込まねばなりません。これが如何なるのでせうか、こゝに秘密があります。即ち『萬物かれに由て存つことを得るなり』。
(五)『彼は敎會の首なり』(十八)
主は罪と死に打勝って死人の中より初めに甦り給ひまして、その體たる敎會の首であります。パウロは二章の終りに此點を再び語って居ります、こゝには主イエスの榮光の一點のみを示して居ります。
(六)『そは父すべての德を以て彼に滿しめ……』(十九上)
これは神たる凡ての完全きことは神の御子の衷に滿ちて居るとの事であります。主は神御自身よりも少しも以下の御方ではありません、『彼に凡ての德は滿てり』。
(七)『主は十字架の血に由て平和をなし十字架に由て凡てのものを和がしむる』御方であります。
其十字架の血に由て平和をなし萬物すなはち地の上に在るもの天に在る者をして彼に由り己と和がしむる事は是その聖旨に適ふ事なればなり。(十九下、二十)
これは主の最高の榮光であります。主は十字架にまで降り給ふて、その十字架に由て凡てのものを神に和がしめ給ひました。
天に在すキリストと心に在すキリスト
此書翰に私共は『神の右に坐し給ふ』(三・一)キリストと記されたるを見ました。又『汝等の衷に在すキリスト』(一・二十七)とも記されてあります。その天に在して榮え輝き、凡ての能力はその御手に在る御方も、心の衷に住み給ふてその能力と恩惠を授け給ふ御方も少しの相違はありません、同じ御方であります。
それ神の充ち足れる德は悉く形體をなしてキリストに住めり(二・九)
なんぢら彼に在りて全備する事を得る也(二・十)
主は凡ての德と恩惠を私共に與へんと待ち給ひます。パウロがその若き回心者にキリストを知らしめたくありましたのも、その爲に祈禱の苦闘をなしたのも怪しむに足らぬことであります。
神の奥義なるキリストを知りて安慰を得んことを(二・二=意譯)。
私共各々の衷にも此事の成就せんことを。
キリストを明かに見ること
皆さんが汽車に乗って旅行をなさるとき、時には窓に霧がかゝって物を明かに見ることの出來ぬことがありませう。今此汽車は原野を通って居るか、町の中を通って居るかよく見えぬことがありませう。併しその窓を覆へるものが過ぎ去る時に景色の麗しさを見ることが出來ます。今過ぎつゝ在る町の形も建物をも見ることが出來ます。
パウロは之らのクリスチャンにキリストを明かに見せたく祈りました。一章九節より十二節までに私共はクリスチャンの典型を見、又衷に住み給ふキリストがその人に如何になし給ふかを見ました。今やキリスト御自身の御姿を拜し(十五〜二十)ます。これは如何に榮ある救主を私共も亦有てるかを知らしめ給はんためであります。
更に深く高く
今又キリストを知らしめんためにパウロは祈って居ります。
汝等すでに主キリスト・イエスを承けたれば彼に在りて步むべし、汝等根を彼におき、彼に在て德を建て……(二・六、七)
之は卿の根をキリストに下し、キリストより養分を受けよとの事であります。私共の或根は此世のものに下りて居るかも知れません。それですから半肉半靈になります。
パウロは彼等の根を最も善き土壤に下し、キリストに在て德を建てんことを祈りました。根を下すとは更に卑く降りてキリストから養分を受くることを暗示したのであります。又建てるとは勵み勤めて更に高く擧ることを暗示したのであります。日々聖書を讀むことにも、日々祈ることにも、凡て靈的の事を勉めることに於ても此事の成らんことを願ひました。
而して主が私共の首であることを知ります(十九)ならば『相助け、相聯なり、神に育てられて長』ちます。卿は恩惠に於ても、喜びに於ても、平安に於ても、熱心に於ても、能力に於ても成長します。即ち神に就て富むやうになります。
我等の首なるキリスト(二・十九)
我等の首としてのキリストは初めに申しました『汝等の衷に在すキリスト』と異語同意でありまして、そのキリストから凡ての恩惠も、凡ての養分も、凡ての能力も受けますことを教へるのであります。而して全く主に結び着くならば我らの必要は悉く賜はるのであります。
キリストと偕に共有すべきもの
さて私共は主に全く結合いたしますならば次の大なる事を主と偕に共有するに至ります。
(一)割 禮
汝ら彼に在りて手をもて爲ざる割禮を受く、即ち肉の體を脫ぎ去るところのキリストの割禮なり(二・十一)
之はキリストの割禮です、なぜかなれば靈的の割禮の特權を得るからであります。キリストは罪と肉の體を脫ぎ去らしめ給ひますから信仰に由て受ける事が出來ます。主に結び着きますならばキリストの割禮に由って罪と肉の體を脫ぎ去ったと云ふ事實に立て我がものとすることが出來ます。
(二)復 活
私共は割禮を受けて罪の衣を脫ぎ去りますが、之は消極的の方面であります、更にその復活に與りて(十二)神の生命を與へられます。之は積極的のことです。
汝らバプテスマを受て彼と偕に葬られ、亦死より彼を甦らしゝ神の大能を信ずるに因て彼と偕に甦らされたり(十二)
斯く單純に『神の大能を信ずる』に由て死より生命の新しき樣に甦らされました。それですからキリストは私共の能力となり、それによりて罪と肉の全部を脫ぎ去ります。而して主から甦りの生命を受けて神と偕に天の處にあって步む能力を得ます。
その二十三節にパウロは不可能の救治法に就て語って居ります。所謂『智慧ある者の如く見ゆれども』罪と肉より救ひ出すことの出來ぬ方法が色々あります。『捫る勿れ、甞ふ勿れ、觸る勿れ』と云ふ多くの規條があります、これらは人間の悟りに循って出來たものでありました。皆さんはよく御存じの事です。私共は之らのものに由て罪と肉から救ひ出す能力のないものであることを知ります。唯一の救ひの道は首なるキリストを信保することであります。而して主の恩惠に養はれ、罪と肉の體を脫ぎ去り、甦りの生命を得ましたことを知ります。
勉め勵みて全心を傾けること
而してパウロは第三章の極く實際的な要點に話を進めて居ります。
『汝ら既にキリストと偕に甦りたれば』(一上)
こゝに卿のなすべきこと、勵みて勉むべきことがあります。即ち
『天に在るものを求むべし』(一中)
之は何の意味でせうか、もし卿が心を勵まして勉めませんなら、例ひ甦りの生命を内に有して居ても天に在るものを求めませんならば、即ち全身を傾けて服ひませんならば必要欠くべからざる罪に就て死ぬる經驗をすることが出來ません。
罪を廢めよ (Make an end of sin)
『是故に汝等の地に在る肢體……を殺すべし』(五)
彼等は申したかも知れません、『何ぜですか、私共は既に死んだと思って居りますのに』(三)と。そうです、なすべきことは最早ありません。ですからパウロは『地にある肢體を殺すべし、絕えず死の位置に置くべし』と申したのであります。
斯の如く卿はキリストと偕に割禮されて居ても、キリストと偕に甦って居ても、絕えず目醒めて祈り、靈的生活に心を留めなければなりません。
此等の事に由て神の怒は從はざる者に臨るなり(六)
これらは無頓着になる所からクリスチャンの能力を失はすものであります。
考へて御覽なさい、今大建築物に電氣が輝いて居ます、其電氣は一つの幹線によって送電されて居ます、處がその線が何か他の金屬に觸れて居りますなら、電流は漏れて光は薄暗くなります。今その建物は光があっても當然光るほどの能力がありません。そのやうに、光るべき當然の程度まで光って居らぬクリスチャンが澤山あります。之は彼等の生涯の或隱れた部分にその能力を盜みつゝあるものがあるのであります。主イエスの汝の『全身も亦明かなるべし』(太六・二十二)と仰せ給ふた如く神のために輝く光を以て照すべき能力が備へられてあります。併し若し卿の心の中に隱れた罪がありますならばその能力を運び去り、その結果卿の光は主の仰せ給ふごとく輝きません。それですから私共の地にある肢體を殺さなければなりません。
クリスチャンの甦りの生涯
さて私共はいよいよ進んでキリストの甦りの生涯を送ります。こゝに又キリストと偕に甦ったクリスチャン(三・一)の他の肖像を見ます。どうぞその特徴を御覽なさい。
(一)『汝等キリストの賜ふ平安をして其心を主らしめよ』(十五)
之は平安をして汝等の心の凡ての疑問を裁決せしめよとの意味で、ギリシヤ語の意味はアンパイヤーたらしめよとの意味であります。クリケット試合(一種の球遊び)に於て、三枉門守り手(wicket keeper)が『さあ、あれはどうですか、アンパイヤ!』と叫びましても若もアンパイヤーが『駄目(out)』と云ひますなら、それに服從いたします。神の平安をして汝等の心のアンパイヤーたらしめよ。神の平安の語る如く御從ひなさい。
(二)『キリストの道をして汝等の心に存て充ち足しめよ』(十六)
私はその充足るとの言を愛します。キリストの道を心に存てその豐かさに於てもその榮ある能力に於ても充ち足らしめよ。
(三)『汝等のなす所の諸の事あるひは言あるひは行みな主イエスの名の爲に之をなせ』(十七)
主の御名のために之をなす。なぜなれば卿は主のものとなったからであります。主の御性質に由て事を致します筈です、何ぜなれば主は衷に住み給ひますから。
而してパウロは之を家庭に於て又樣々な事柄に就て實際に步み出せよと申すのであります。何ぜなれば聖潔は先づ第一に家庭の步みに顯はれねばなりません。
祈禱を恒にせよ
パウロは最後の命令を與へました。
恒に祈禱をなし怠らずして感謝と共に之を爲すべし(四・二)
『怠らずして祈れ』。彼等はこの驚くべき眞理を學び、此驚くべき救主を知り、キリストは衷に住んで居給ひましたけれども尚最後の勵めは『怠らずして祈れ』でありました。之は常に必要があるからです。熱心に、氣を落さないやうに、祈禱を御續けなさい。而して彼は『醒めて之をなせ』(怠らずは醒めての意)と申しました。目を配りつゝ、その應を待望みつゝ活目して祈禱をせよ。
パウロは彼等のために祈りました。今彼は特別に彼自身のため御祈りを求めます。
また神われらに道を傳ふるの門を開き我らをしてキリストの奥義を語らしめ、わが言ふべき所の如く此奥義を顯さしめ給はんことを我らのために祈るべし(三、四)
彼はその四圍の人々に救ひの門戸のを開けるやうに願ひました。私共も門戸の開けるやうに祈り度う御座います。
私共は祈禱に就て本書で多く學びました。第一章にはパウロのクリスチャンのために祈った祈禱を見ました。第四章にはエパフラスの祈りを學びました。今亦終りにパウロが信者に自分のため祈りを願って居ることを學びました。彼が如き大なる器であっても祈りの必要を深く感じて居ります。その點に就てキリストとその僕との相違があります。主は決して祈りを賴み給ひませんでしたが、パウロは願って居ります。彼は自らの弱きを知り、その必要を感じて居りました。
『我らの爲に祈るべし』(四)
之は我がために祈るべしとの意味です。
それで此書翰を閉ぢます。オー如何に榮光ある救主を有てることか、又信仰によりて主を受け入れ心に住しめ奉るべきかを示し給はんことを。而して凡ての能力を受けしめ、又絕えず怠らずして祈ることを得しめ給はんことを。
活 け る 基 督 (終り)
昭和七年七月十五日 印 刷
昭和七年七月二十日 發 行 定價金二十錢
不許復製
京都市上京區室町通中長者町五六一
翻訳者・發行者 西 條 彌 市 郎
名古屋市中區流川町十八番地
印刷者 横 井 憲 太 郎
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