第三章 昇天の主とその大いなる賜物
『汝わが汝になすべきことを求めよ……なんぢの靈の二の分の我にをらんことを願ふ』──列王紀略下二章九節
エリヤは大胆な神の証人であり、神の民の指導者であった。しかしいま神は彼らよりエリヤを取り去らんとしていらっしゃいます。そこで、エリシャは神の証詞を続行するために後に残されてしまうのであります。彼は責任を感じ、彼自身に能力の必要を感じた。この章において私共は、如何にして彼が確信と能力とを獲得したかを読むのであります。
この物語において我々は、贖罪の御業を遂げて父なる神のもとに帰り往きたもうキリストの型と前兆(foretaste)とを見ます。主はなすべき大事業を後に残して行きたもうた。その責任は、社会的地位もこの世の勢力もない少数の弟子たちの上にかかっていた。しかし主は、弟子たちが『勝れる助主』を受けることに由り、充分な能力を受け得るよう計画なさっておいでになった。その助主は、彼らを導きてすべての真理を知らしめ、彼らと常に偕に在し、彼らを主の道に導く御方であったのである。
故に主が昇天したもうた時、弟子たちはエルサレムに帰って来た。彼らの心には大いなる約束があった。主は彼らに待てと命じたもうた。故に弟子たちは、主との最後の晩餐を共にした部屋に集まり、そこで祈った。彼らは、彼らの主イエス・キリストは御座に昇りたもうた、それ故に主の御名に由って祈ることができると知っていた。
彼らは主イエスと偕なる三年の間に驚くべき祝福を受けた。それは驚くべき光であり教訓であった。彼らは神の能力とその愛と仁慈とのあらわれた、驚くべき光景を見た。しかしいま彼らは新しく大きな必要に遭遇し、新しい約束を与えられた。故に彼らは助主を祈り求めたのでありました。
確かに彼らにとってその時は、祈ってなどいる事ができる時ではなかったであろう。むしろ、出掛けて行って彼らが見た事件を人々に知らせたい心で一杯であったろう。しかし主イエスは彼らに祈れと告げたもうた。今まで彼らが如何にたくさんの祝福を受けたであろうとも、彼らにとってもっともっと驚くべき程の事がある。主イエスは勝れる助主が来ると告げたもうた。
勝 れ る 助 主
『勝れる』ものが何かあり得ようか。
彼らの傍らに常に肉体を取りたまえる神の子を持ち、その御口より恩恵の言と旧約聖書の解釈を聞くこと以上に、勝るものとは何であろうか。愛に満ちて微笑みたもう主と共におること以上に勝ることがあるであろうか。
しかし主は勝れる助主を待つように彼らに命じたもうた。しかも主は彼らを去るのではない。主は彼らといつまでも偕にいたまいたいのであった。そこで弟子たちは次の事を学ばねばならなかった。即ち、主イエスが肉体にて彼らと共におり、外部より彼らに教えたもうた代わりに、今やキリストは聖霊に由って彼らの心の中に宿りたもうということである。
キリストは聖霊に由って彼らの心を潔め、教えたまいたい。そうすれば彼らは主に服従し、主の途を歩む事ができるからである。キリスト御自身が彼らの智慧と義とになり、彼らの聖と救贖とになりたもうのである。聖霊に由りて衷に宿りたもうキリストである。
それ故に彼ら弟子たちは跪いて祈った。彼らが今まで受けたより大きな祝福のために祈った。主が彼らに語りたもうた勝れる助主を祈り求めた。
皆様は今まで受けたものより勝った恩恵を、謙って祈り求める必要はないでしょうか。皆様が罪の重荷の取り除かれ、永遠の生命を確信するを得た事を喜び、またキリスト御自身を喜んでおられるのは、もちろん良い事であります。しかし、聖霊に由り皆様の心の中に『現されたる』キリストを持ち、聖霊に由って皆様の衷に『形づくられたる』キリストを持つ事は、より勝れることではないでしょうか。聖霊に由りキリストは『彼らの心の衷に住処を持ち』彼らの衷に『形づくられ』たもう事を欲したもうのである(ガラテア書四章十九節。何と驚くべき御言よ)。主は彼らの中に、まだかくのごときものとなっていたまわなかったのである。
如何にして受くべきか
さてこれらの事は、この美しく驚くべき物語の中に、型(type)として私共に示されてあります。そしてこの物語から私共は、皆様も私も昇天したもうた主より如何にして『勝れる助主』の大いなる賜物を受けうるかを、非常に多く学ぶことができるのである。
最初の八節において我々はエリヤをして『汝わが汝になすべきことを求めよ』と言わしめた誘因を見る。エリヤは最初からそれを言わなかった。エリヤをしてかく言わしむるようにさせたものがあったのであります。神は、神を求むる者が全心より求めているか否かを試みたもうのである。
試 験
何が誘因となったでしょうか。何がエリシャに『なんぢの靈の勝れる分』を求むる事を可能ならしめたのでしょうか。
試験は各々滞留した場所でやって来た。エリシャは、とどまって彼の新しい地位につくように誘惑された。しかしエリシャは耐え忍び、それに打ち勝って、確固としてエリヤと共に歩み続けた(ヘブル書六章十二節)。彼はエリヤと共におる事を欲し、最後まで彼と共に歩み抜く事を欲した。幾度も彼は試みられた。幾度もエリヤ自身も『請ふ汝こゝに止れ、請ふ汝こゝに止れ』と言った(二、四、六節)。しかしエリシャはエリヤと共に進み行くことを堅く決心した。彼は耐え忍んだのであった。
しかしそればかりではなかった。預言者の徒の勧誘があった。預言者の徒は、エリヤが彼らと共にいた旧い時代は終ってしまったのであると、繰り返し繰り返し注意した。そしてエリシャ自身エリヤの代わりとなることを準備すべきで、彼らもエリシャが止まることを欲していると告げた。いずれの場所でもこれが言い出された。
しかしエリシャはその勧誘に抵抗して、確くエリヤと共に歩み続けた。彼は非常に厳粛に、あたかも献身の誓いのごとくに『ヱホバは活く なんぢの靈魂は活く』と言った。そして『我なんぢをはなれじ』と三度も繰り返した(二、四、六節)。約束を獲得し、御霊を受けている者は、信仰の試みや肉的煩慮にもかかわらず、真っ直ぐに前進して行く人である。彼は主と偕に歩む。主に伴うことは彼の欲望のすべてである。彼は何事に由っても主との交際を妨げられないように注意している。彼は如何なる時も主と偕に歩むのであります。
『二人進ゆく』(六)。これを皆様の聖書に記を付けなさい。そして終に『彼ら二人はヨルダンの濱に立けるが』(七)。ヨルダンを渡った後も『彼ら進みながら』(十一)とある。エリシャは彼と一歩一歩確く共に歩みつつ、主なる神と偕に前進したのでありました。
傍観者となるか、分担者となるか
この物語の中には、まだ他の人々がいる(七)。彼らは善良な忠実な人々ではあったが、共に進みゆかなかった。『預言者の徒五十人ゆきて遙に立て望めり』。彼らは何事が起るか見んと欲した。疑いもなく彼らは非常に興味を持っていたが、それに干与し自分も受けようとはしなかった。これと同様なものが他にもあった。『ヱリコにある預言者の徒對岸にありて彼を見て……』(十五)。
おお、友よ、傍観者となり、分担者とならないでいることは易い。もちろん傍観者も深い興味を持っている。彼らは神の御手のお働きを知りたいし、見もしたい。彼らは他人が祝福された話を聞くことが好きである。しかし彼らは、一歩進んでその恩恵に与ろうとはしない。彼らは主と偕に居ることを堅く続けないのである。
ピリピ書三章を見ましょう。これは主と偕なり継けた者の大いなる章である。彼が自己の回心と献身とを語っているのを見ます(七)。『曩に我が益たりし事はキリストのために損と思ふに至れり』と。
そして次に彼は『然り、我は……凡ての物を損なりと思ひ』と言っている。これは彼の回心より三十年後に書かれたのである。我は今なお同じ態度を保ち、同じ標準に従っている。我は三十年前と同様、今日も『凡ての物を損なりと』思っている。何となればいよいよ『キリストとその復活の力とを知り、又その死に效ひて彼の苦難にあづかる』(十)ことを欲する故である。パウロはかくして主と偕におる事を、継続してきたのであります。
『二人進ゆくに』。彼は『既に全うせられたりと言ふにあらず、唯これを捉へんとて追求む』と告白している(十二)。彼は一歩一歩主と偕に歩み続けた。『唯この一事を務む、即ち後のものを忘れ、前のものに向ひて勵み、標準を指して進み、神のキリスト・イエスに由りて上に召したまふ召にかかはる褒美を得んとて之を追求む』。彼は主と一つになっているのであります。
我が主と一つ。主の十字架にも恥辱にも、
侮蔑にも、槍にも、茨にも。
主の愛に捉へられ、われ主の名を取れり、
世の嘲笑の故にわれ主を去るべきかは。
おお、これこそ、我々一人びとりの精神であり、心であらんことを。励みて前進せよ。我ら心の中において『主の活き給ふごとく、我も主を去らじ』と、献身の誓いをせよ。
わが救主よ、われ汝に從はん、
汝はわがために寳血を流し給へり
されば全世界われを見棄つとも、
汝の恩惠により我は汝に從はん。
かくして彼ら二人進みゆけり。
四 つ の 段 階
さて彼ら二人が立ち寄った場所が非常に詳細に記されている。私は確かに聖霊がこれらの場所より教訓を学べと言いたもうがごとく感じます。何故ならばそれはかつて大事件が起った場所であるからです。
例えば皆様がワーテルローへ行ったとなさい。皆様は決してこれはブリュッセルや他の場所に比べて少しも興味のないベルギーの一寒村であるなどとは思わないでしょう。皆様はここでかつて大会戦がなされ、ここで英軍が抵抗してナポレオンの軍勢を打ち破ったのであると言うでしょう。かくその場所は皆様に感銘を与えるのです。
もし諸君が今日インドのラクナウに行くならば、千八百五十六、七年のあのセポイの反乱の恐怖すべき当時を思い出すでしょう。そのところが皆様の心に訴えるのであります。
それですから彼らがこれらの場所に行った時、そこで起った事件の記憶が彼らの心に語ったに違いないのであります。
罪を切り捨てること
一、ギルガル。これはイスラエルの民が約束の地に入った時、割礼を行った場所であります。『時にヱホバ、ヨシュアにむかひて我今日エジプトの羞辱を汝らの上より轉ばし去りと宣まへり。是をもてその處の名を今日までギルガル(轉)と稱ふ』(ヨシュア記五章九節)。神がエジプトの羞辱を転ばし去りたもうたのである。しかして皆様も私も『手をもて爲ざる割禮を受く』ることを命ぜられております。『キリストの割禮によりて肉の體を脫ぎ去る』ところの割礼である(コロサイ二章十一節)。即ちキリストの割礼によって全部のものを脱ぎ捨て、我々自らを肉と霊とのすべての汚穢より潔むるものであります。
これは神が我々のために準備して下さったことであります。パウロがここで用いた『脫ぎ去る』というギリシャ語は非常に深い意味をしている。肉の罪を完全に除き去るという意味をあらわすところの一語のギリシャ語を知らなかったパウロは、自分でそれを工夫したのではないかと思われます。アペクドゥーセイ(ap-ek-dusei)という語であります。この語を組み立てるために二つの前置詞が用いられている。apoは汚穢を皆様の中より全く取り出すという意味である。ekはそれを遠ざけてしまうという意味である。これが心の汚穢を徹底的に除去するところのキリストの割礼の能力であります。
同じ語が十五節に『政事と權威とを褫ぎて』(改訳)と訳されてあります。また三章九節にも用いられている。すなわち『脫て』とは徹底的に完全にの意味を含んでいる。
おお、このことがなされた時に来る幸福なる平安よ。おお、回心せざる生涯の最後の羞辱が転ばし去られる時の幸福なる自由よ。
そのギルガルでエリヤはエリシャを試験した。もし皆様が主を求めているならば、主は皆様を試験なさいます。神は全き心をもって神を求むる者を望みたもう。故に神はギデオンがその軍隊を試験したように、彼らを試験したもうのである。しかしてその試験に堪え得ない者を送り帰してしまいたもうのである。
『こゝに止まれ』(列王紀略下二章二節)とは甘んぜよ、満足せよという意味である。皆様は非常にたくさんの祝福を今までに受けられた。皆様は肉の罪の体より救われた。それで充分ではないだろうか。しかし主は皆様がそこに止まることを望みたまわない。主は皆様が全く明け渡しているか、祈禱が真剣であるか否かを試験したまいたい。
エリシャは試験に堪えた。『我なんぢをはなれじ』と言った。そこで『彼ら二人は進みゆけり』。
神 の 契 約
二、ベテルは次に止まった場所である。ベテルはイスラエルの歴史の上で非常に重要な場所であります。そこでヤコブは神と契約を結びました(創世記二十八章二十節)。そして神は彼にそれを思い出させておいでになります(同三十一章十三節)。『我はベテルの神なり 汝彼處にて柱に膏を沃ぎ彼處にて我に誓を立たり』。ベテルは神との契約の地である。
皆様は主とご一緒にそこに行ったことがありますか。主は皆様をそこまで導きたまいましたか。そこで皆様は霊も心も肉体も主にお委ねなさいましたか。そうすれば主の側として、主は皆様に満ち足れる祝福を与えんと契約なさいます。もし皆様が神との契約に入っているならば、皆様は『代々限りなく神は我がもの、我は神のもの』であることを知っていらっしゃる筈です。
おお、ベテルに来り、皆様が神のもの、神は皆様のものである事を見出すことの幸福よ(雅歌二章十六節)。
そしてここでも再びエリヤは『請ふ、汝こゝに止れ』(四節)と言った。皆様はいま満足なさっているのではないでしょう。いま欲していらっしゃるすべてを得ているのではないでしょう。或る人は「これで充分である」と言いがちであります。
しかしエリシャは言った。『ヱホバは活く、なんぢの靈魂は活く、我なんぢを離じ』と。そして彼ら二人は進み行きました。
信 仰 の 勝 利
三、彼らはエリコに来た。栄光ある勝利の地である。イスラエルの民が神の能力によって、城壁を繞らした敵を撃破した場所である。民らは敵と戦った。そして信仰に由って敵を滅ぼしたのであった。
皆様が主と偕に前進して行く時に、神は皆様にちょうどエリコにおけるごとく、信仰に由る栄光ある勝利を示したもうことがあるでしょう。皆様の性質の中に城砦を構え、とても逐い出す事ができないように見える或る敵が、神の軍勢の君を信頼して、幾度も幾度も信仰に由って周囲を進軍する時に、神の能力によって征服され、逐い出されてしまったことがあるでしょう。
皆様はエリコにおいて勝利を得た経験があるでしょう。そしてもう一度『こゝに止れ』との誘惑が来ます(六節)。しかし二人は進み行きました。
死 と 復 活
四、彼らはヨルダンに来た。──『エリヤその外套をとりて之を卷き水をうちけるに此旁と彼旁にわかれたれば二人は乾ける土の上をわたれり』(八節)。
ヨルダンは聖書にては死と復活とを現しています。イスラエルの子輩がヨルダンに下った時、死に下った。しかし彼らは新しき生命に上り来り、その地を彼らのものとして要求した。
死と復活。皆様は主とご一緒にここまでおいでになりましたか。
ロマ書六章は死と復活の章であります。『斯のごとく汝らも己を罪につきては死にたるもの、神につきては活きたる者と思ふべし』(十一)。死と復活とを通過したのは、主イエスばかりではなく、皆様もまた主と偕に進むべきであり、皆様も主のごとく甦りたるもの、即ち罪より自由となり、新しき生命のうちを歩むべく、神につきて活きたるものとなり得ることを知ったでしょう。かくしてガラテア書二章二十節におけるパウロのごとく『我キリストと偕に十字架につけられたり。最早われ活くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり。今われ肉體に在りて生くるは、我を愛して我がために己が身を捨て給ひし神の子を信ずるに由りて生くるなり』と、我々は信仰に由って証することができるのであります。
おお、死と復活とを味わいし者の幸福よ。
祈 禱
かくしてエリヤはエリシャに語ることができたのである。エリヤは『汝わが汝になすべきことを求めよ』と言い得たのであります。しかしてエリシャは恩恵と能力との盈満を欲し、またその責任の重きことを痛感しつつ、『なんぢの靈の二の分の我にをらんことを願ふ』と叫んだのであった(九節)。
もし主が今朝皆様を顧みて問いたもうとしたら、皆様は躊躇なく「霊の二つの分」と答えることができるでしょうか。これが皆様の最も深い欲求であり、心の願う唯一のものでありましょうか。もし我々にそのような精神があり、何かより高いものに対する切なる欲求を持っているということは幸福なことであります。それが我々を真の能力にまで導くのであります。『汝わが汝になすべきことを求めよ』。主が御霊に由って今朝皆様の霊魂にこの問いをなさいましたら、皆様は何とお答えなさいますでしょうか。
しかし我々はしばしば宮の美麗の門に置かれていた跛者のような行為をする事が多いのです。私共はただ一時的な恩恵を求めます。彼は食物を買うため僅かの銅貨を期待していた。しかし神は彼のためにそれ以上の驚くべき恩恵を備えていたもうたのであります。それは彼の生涯を変革し、終わりまで続く能力を賦与したもう恩恵であった。おお、私共神の恩恵の富に随いて求めんことを。神の御旨に随いて我々の生涯を変革する祝福を求められよ。『なんぢの靈の二の分の我にをらんことを願ふ』。
主イエスがヨハネ伝十四章十四節において、これらのことを語りつつありたもうた時に、『若なんぢら何事にても我名に託て求はゞ我これを行ん』と言いたもうた。何たる、王の如き御宣言ではないか。もし汝が何事でも願うならば、たといそれがすべての賜物のうちで最大なものなる聖霊の賜物であろうとも、これを成さんと言いたもうのであります。
条 件
エリシャがこれを受けるために一つの条件があった。『汝もしわが取れてなんぢを離るゝを見ばこの事なんぢにならん』。『汝もしわれを見ば』という条件であります。エリシャがこれを見るということは驚異であります。然るにエリシャは実際それを見たのでありました。たとい預言者の徒がそこにいたとしても、彼らは何事も見る事はできなかったでしょう。同様に、見るべきことを見ていない基督者がたくさんいるのであります。しかしエリシャはそれを見た。ゆえに条件は満たされ、彼は霊の二つの分を受けた。そこで彼は「旧き「我」は今死ねり」と言うがごとくに自分の衣を二つに裂いた。そしてあたかも「今われはキリストを着たり」と言うがごとくにエリヤの外套を着たのであった。
エリシャは彼の師の昇天を見たのであった。これは聖霊を受ける大きな条件である。昇天したもうた主を見る事、即ちいま主は御座に在し、万物の王なる支配者、我らのための大祭司となっていたもうのを見る事が必要であります。『汝もしわれを見ば』である。ヨハネ伝十四章十二節。
皆様はかつて十字架の上の神の羔羊を仰ぎ見た事があるでしょう。その時、皆様の重荷が取り除かれた。そしてそれは「如何に多くとも汝の罪は赦されたり」と皆様の耳にささやいたでしょう。皆様は十字架に付けられたまいし主を見たのです。
そして多分また甦りたまいしキリストを見た事もあるでしょう。ちょうどペテロとマリヤとになしたもうたごとく、主は御自身を皆様に啓示したもうたでしょう。その時、皆様はキリストが甦りたもうたことを知った。主は勝利を得たもうた。そして皆様もその勝利に与り、新しき生命の中を歩むようになったのでした。そして再び神は皆様に昇天したもうたキリストを見ることを得させたまいます。即ち主はいま御座に在し、全く救うことを得たもう栄光ある王なる事を見させたもうのであります。
エリシャはそれを見た。皆様はそれを御覧になりましたか。即ち主は御座に在し、皆様は地上に在りてなお闘いつつあるゆえに、主は皆様の上に聖霊を注ぎ、皆様をして主のために証し、この世の中を主と偕に歩む主の忠実なる助け人また僕たらしめたもうのであります。それは皆様の周囲の人々をして『エリヤの靈エリシャの上にとゞまる』、即ち「キリストの霊かの人の上にとどまる」と言わしめんがためであります。
おお、今日の聖霊降臨節において聖霊に由る栄光ある変革がなされ、ここにおられる一人びとりが互いに「キリストの霊かの人の上にとどまり、我々は彼の中にキリストを見る」という事ができますように。
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