HEAVENLY PLACES

BY
BARCLAY F. BUXTON, M. A.


天 の 處

ビー・エフ・バックストン述
御  牧  守  一  訳


第一章 神との断えざる交際



はゞからずして至聖所にること』── ヘブル書十章十九節

 祈禱いのりのための短い時間そこに来るだけでなく、そこにはいきたって、そこで生活すべきこと、常に神の聖前みまえにおりて神との交際を楽しむべきこと。

 これはヨハネ伝十五章の経験、即ちキリストにおる生涯の実行であります。またエペソ書二章六節に語られている『キリストとともに天のところに坐す』生涯であります。これはすべての基督キリスト者が味わわなくてはならない、正当な基督キリスト者生涯であります。しかしてこれを経験していない人々は、心を尽してこれを欲求なさるべきであります。

 『至聖所』とは如何なる意でありましょうか。幕屋には三つの部分がありました。第一は幕屋の庭で、大きなあかがね燔祭はんさいの壇と祭司が己を洗い清める洗盤たらいとがあります。次に入口の幕を通ると聖所に入ります。そこには供前そなえのパンのつくえと燈台と純金の香壇があります。次に幕を経て至聖所に至るのでありますが、そこへは大祭司のみが入ることを許されています。

いよいよ深まりゆくキリスト者の経験

 幕屋のこの三つの部分は基督キリスト者に三種類の区別ある事を教えています。すなわ

(一)幕屋の庭の基督キリスト者。──彼らは祭壇のもとに来た。そして罪のためにほふられたまいし羔羊こひつじを見た。彼らは羔羊こひつじが彼らのために犠牲となり、彼らの罪のゆえに死にたもうた事を知っています。ゆえに彼らの罪は赦され、神と和解した事を知っています。そして彼らは洗盤たらいもとに来た。すなわまこと悔改くいあらためって肉と霊との汚穢けがれより全くおのれきよめたのである(コリント後書七章一節、イザヤ書一章十六節)。彼らは恩恵めぐみって与えられたすくいを喜ぶまこと基督キリスト者であります。しかし、より満ち足れる恩恵めぐみに進む必要があります。

(二)聖所の基督キリスト者。──これらの者は信仰にり主イエスの死と復活よみがえりとにあずかることにって、幕を通って入って来たのであります(ロマ書六章四節)。彼らはきよめられ(テモテ後書二章二十一節)、新しき生命いのちうちを歩んでおります。

 これを聖所のうつわの教訓にれば、
 〔イ〕供前そなえのパンのつくえ。──これらの基督キリスト者は生命いのちのパンをくらい、それにより成長している。彼らは『その心にたくはへ』たる聖書の御言みことばよりこれを受けている。それは彼らの霊的生命せいめいを養いて彼らに能力ちからを与え満足を与えている。そして常にその愛と歓喜よろこびと平和とを、新鮮にするのであります。
 〔ロ〕七つの光を持てる純金の燈台。──これらの基督キリスト者は御霊みたまってわかち与えられたる真理の明らかなる光を持っている。この光にって彼らは十字架と復活よみがえりを見、その罪はすべて除かれ、新しき生命いのちうちを歩みうる事を理解するのであります。
 〔ハ〕純金の香壇。──彼らは祈禱いのりと讃美の霊を持っていて、神とその恩恵めぐみ御座みざに近づくのであります。

 かくのごとく聖所に霊的に入って来た基督キリスト者は、三つの大いなる祝福を発見したのであります。すなわち霊的のかてと霊的の光と祈禱いのりの霊とであります。

(三)至聖所の基督キリスト者。──しかし我々はより深い経験をすることができる。それは『至聖所にる』という型で表現されています。聖所と至聖所の間にはへだての幕がある。しかしてこの御言みことばは我々に至聖所の中にはいる事を薦めています。かかる者が至聖所に住む基督キリスト者であります。

 そこで彼らは神とそのシェキナ(shekinah)の栄光とを見、ヱホバのうるわしきを仰ぐのであります(詩二十七篇四節、イザヤ書三十三章十七節)。そこにて神の御声みこえを聴き、その教訓おしえと権威ある導きとを受けます。そこで彼らは御前みまえなるひそかなる所にかくれ(詩三十一篇二十節)、全き安全のうちにいることができます(申命記三十三章十二節)。至高者いとたかきものつばさかげに住むのであります。

 わたくしはかつてシベリヤの不毛の地に行ったことがあります。そのとき気温は零下十五度で、吹雪が荒れ狂っていた。しかし私は完全な安楽と平安のうちにった。なぜならば私は快いまでに暖かい、シベリヤ急行列車のなかにいたからであります。同様に至聖所に住まう基督キリスト者は、たとい迫害や憎悪の嵐が周囲に起るような時でも、平安やすき喜悦よろこびを保つ事ができます。彼は信仰にり神の能力ちからに守られているからであります。

確 信 の 基 礎

 この十九節の『是故このゆゑに』ということばは、非常に大切であり意義深いものであります。我々は前の一節から十八節までに述べられている真理のゆえに、至聖所にはいる事ができるのであります。その真理とは

(一)父なる神の御意みこころ七節)。聖潔きよきは我々各自に関わる神の御意みこころであります。罪や失敗や弱さは神の御意みこころに反するものである。ゆえに我々はすべてかかる事どもより、たちどころに救われん事を要求することができます。かくして我々は必要なる恩恵めぐみ盈満えいまんあずかるのであります。

 合衆国におけるすべての奴隷は、千八百六十四年リンカーン大統領の命令によって解放された。しかしその後でも辺鄙へんぴな地方には、たくさんの奴隷が使用されていた。そして彼らは既に解放されたもので、法律上自由な身の上であることを知らなかったのであります。もしかかる奴隷がついに大統領の命令を聞き及んだなら、彼は必ず主人の許へ行って、「私が自由になることは大統領の意志である。もし必要ならば北部政府はその全権力を使行しこうしてでも私を解放してくれます」と言うでしょう。このように自由を要求されれば、如何いかなる主人も文句を言ったり、或いはその奴隷に自由を与えまいとはしないでしょう。

 同様に『神のむね爾曹なんぢらきよきこと』(テサロニケ前書四章三節)であって、私共わたくしどもはここに確信を置いて、我々の自由を要求することができるのであります。

(二)御子みこ犠牲いけにえ十節)。カルバリでなされた贖罪あがないは完全な贖罪あがないであります。それは『一次ひとたび……さゝげ』られたのであって、二度と繰り返す必要もなければ、繰り返すこともできないものである。それは完全に罪を取り除いたのであります。それゆえに私共の過去の罪は、我々が現在恩恵めぐみ聖潔きよめとを受けるための妨害とはならない。キリストはその犠牲いけにえによって私共を神に近づかせたもうたのであります(ペテロ前書三章十八節)。十字架を仰ぎさえすれば、罪の能力ちからは我々を捉えたり妨害したりすることはできません。私共には全き贖罪あがないがあるのです(ヘブル書十章十四節)。

(三)御霊みたまの啓示。──『聖靈また我儕われらこれあかしす』(十五節)。

 聖霊は聖書の御言みことばを通して私共にあかししたまいます。聖霊は聖書の約束を我々に照らし示し、我々がころもを白く保ち、そしてこの世を歩み神を喜ばすことができるということを示したまいます。

 聖霊は旧新約全書を通じてのメッセージが『聖なるべし』であり、『もしきよからずばしゅまみゆる事を得ざる』(ヘブル書十二章十四節)ことを我々に示したまいます。

 ゆえに私共は神の御言みことばって教えられ、我々が「罪より救われ、生涯、聖と義とをもって歩む」事ができるのを知るのです。そして確かにこれは我々の心の最も深い欲求に適するのであります。なぜならばすべての信者の霊魂たましいなかにある新しい性質は、そのうち聖潔きよめに対する欲望を起さずにはいないからであります。

 私の知っている一人の日本の青年は、彼が回心するや、非常に熱心に、きよめられて聖霊を受けんことを求めていました。彼は毎日のように聖書を持って、山の静かな場所に行った。そしてそこで祈り、御約束おんやくそくに訴えた。或る日、町に帰って来る途中で、彼は教会の牧師に会った。その牧師は彼がどこに行って来たのかたずねた。そしてその返事を聞いて、何か祈らなければならない、特別な重荷があるのですかと尋ねた。その青年は「私は罪を犯す事なく、私を愛したもう神との愛の交際まじわりを、常に保ちつつ生活することを欲しているのです」と答えました。これはすべてのまことの心の欲望ではないでしょうか。これは詩二十七篇四〜六節に記されています。『われ一事ひとつのことをエホバにこへり、われこれをもとむ、われエホバのうるはしきをあふぎ、その宮をみんがために、わが世にあらん限りはエホバの家にすまんとこそ願ふなれ』。すなわち全生涯キリストにりたいという願望ねがいであります。しかしてそこで『エホバのうるはしきをあふぐ』ということは、キリストの愛の広さ・長さ・高さ・深さを知ることであります。そしてまた『エホバの家にすむ』とはすなわ祈禱いのりにおいて主に近づきまつるということであります。

 みちは既に完成されてあります(十九節)。それは新しきみちであり、けるみちであります。新しく、しかして私共が自分自身できよくならんと試みたふるみちとは非常に異なったみちであります。アフリカの奥地ウガンダにおける伝道の初期には、すべての宣教師はそこに行くために、牛車うしぐるまで苦しい旅行たびをしなければならなかった。六、七ヶ月を要したほどでした。しかるに今は『新しきみち』ができた。すなわち鉄道であって、誰でもそこに五日間で安楽に行くことができます。聖潔きよめの新しきみちは、キリストの血にって私共のために開かれました。私共はいま信仰にって聖霊を受けることができます(ガラテア書三章十四節)。それはけるみちであります。それ自身のうち能力ちからを持っています。地下鉄道から市街に出るために、皆様は階段を苦しんで登る必要がありません。エスカレーターがあります。これは『生路いけるみち』であって、皆様を静かに安全に運んでくれるのです。同様にキリストの復活よみがえり能力ちからは皆様を引き挙げて、このけるみちによって至聖所まで、神との断えざる交際こうさいの生涯にまで導かんとしていたもうのであります。

 しかしてみちが開かれてあるばかりでなく、そこには大祭司がいまし、皆様の手を取り、神のもとに連れゆかんと常に待ち構えていらっしゃるのです。ける友が皆様を連れて行って下さるのです。そうでなかったら皆様はそこに行くみちを間違えてしまうでしょう。聖潔きよめとはただ聖書の真理を理解することだけではない。皆様を愛し、至聖所に導き入れ御方おかたを信頼し確信することであります。

 ゆえに私共祈禱いのりにてしゅに近づきたてまつりましょう。主をち望まれよ。御約束おんやくそくに信頼せよ。約束したまいし御方おかたの忠実なる事を確信されよ。『うたがひいだかざる信仰』をもって近づけよ。さらば『至聖所に入事いること』、弱き失敗の生涯からすべて神の全き盈満えいまんうちへ進み入ることを得ます。



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