附 録 聖 潔 と 再 臨
ヨハネ第一書二章二十七節の初めの方に、『爾曹は主より沃がれたる膏その衷に存れる』とあります。主は十字架の上において大いなる勝利を得てのち甦り、昇天して今なお御座に坐し、その御手の中に万権を握っていたまいます。そしてその主よりこの貴き膏が沃がれています。この聖霊の沃ぎ膏は皆様の衷に留まります。旧約時代には聖霊は或る人の上に沃がれましたが、それはただ暫時の間のみでありました。一時的のことでありました。けれども神は私共にはさらに愈れるものを備えたまいます。即ちこの慰むる者は一時的でなく、永久に宿り存まりたもうというのが神の御計画であります。
出エジプト記三十章に聖灌膏を特別に貯える事を読みますが、この聖き沃ぎ膏は王や祭司を聖別するために沃がれたものであります。そしてこれらの沃ぎ膏を受けました者は聖別せられた者として数えられ、神との交わりに入れられたのであります。即ち彼は神の友とせられ、神の豊かなる恵みを受けたのであります。
膏は神の愛また恩恵を表徴
する物として用いられてあります。お互い単純なる信仰によりてこの貴い沃ぎ膏を神より受けることのできるとは何と幸いな事ではありませんか。かように私共は高き御宝座の主より貴き霊を受けるのでありますが、御言によりて私共の承知せしめられる事は、かように貴き沃ぎ膏を受ける事は地上に在りながら天の経験の始めであります。地におりながら天の経験をし始めるのですが、同時にまたそれによりて驚くべき栄えを望ましめられるのであります。愛する主と面と面とを合わせて相見る時を慕い待ち望むようになるのであります。ですから心の中にこの聖霊を保つことは天の生活の始めであります。今朝、この聖霊がお互いの心の中にいかに臨みたもうか、それについていくつかのことを教えられとうございます。
旧約を見れば、王たちがこの沃ぎ膏を受けたことを見ます。新約においては、私共は聖き沃ぎ膏によりて私共が王となる事を見ます。王は大いなる富をもっています。また大いなる権利を有っています。実にこの霊、沃ぎ膏は、私共の中に大いなる神の富を与え、神のために力を持つ者としたもうのであります。私共はこの聖霊の沃ぎ膏によりて神のすべての霊の恵みを与えられると記してあります。それですから聖霊を受ける事は、
霊的に百万長者となる
ことであります。彼らは神よりの豊かなる愛、また恵みの豊かさを心の中に貯え、またすべての人の思うところにいたく愈れる神の平安を心の中に受けます。ですから私は皆様が霊的に金満家であることをお祝いしたいと思います。しかしそれのみならず、天来の能力を受けています。『聖靈なんぢらに臨むに因て後爾曹能力を受け……』(使徒行伝一章八節)。私共が力を得るのは私共の衷の聖きあこがれによりてこれを得るのであります。私共は勝利者たらん事を願いますが、それは力を得る事によりてできます。主は聖霊によりて私共に力を与え、あらゆる敵の力に勝つことを得しめたまいます。すべての火矢を消すことのできる神の力を与えられます。また証人として魂を導く救霊者たらしめたまいます。
この霊の沃ぎ膏は、神の民を王として一切を支配せしむるのみならず、また祭司たらしめます。聖霊をもって膏を沃がれた者は神のための祭司であります。即ちその人は特別に神との接近をもっています。そして神のための祭司としての職を全うします。
神の御前に咫尺し
面と面とを合わせて神に見え、また自由に神と語る特権を有しています。実にこの聖霊の沃ぎ膏を受ければ祈りの力を得ます。祈禱はずんずん答えられる。しかして神の祭司として他の人を神の前に連れ来る力ある者とせられます。古昔祭司たる人の職は、他の人を神の前に連れ来りて神と和がしむる事でありました。イザヤ書六十一章一節『主ヱホバの靈われに臨めり、こはヱホバわれに膏をそゝぎて貧きものに福音をのべ傳ふることをゆだね我をつかはして心の傷める者をいやし俘囚にゆるしをつげ縛められたるものに解放をつげ』。皆様は膏を沃がれし神の祭司として、他の人を神に近づかしめ、恵みを受けさせ、かくして悪魔の手より救い出す事ができるのです。そのようにして彼らを悲哀から、また傷める心から救い出す事ができます。ですから、聖霊を受けるという事は、私共を驚くべき地位に引き上げる事、王また祭司として神の前に侍らしめる事であります。
またヨハネ一書の方に帰って、この二十七節になお一つの驚くべき事が記してあります。『其膏すべての事を爾曹に敎ふ』。ですから、聖霊は霊的理解力を与え、霊に属ける様々の事を教えたまいます。聖書の上に新しい光を与えたまいます。私は思うに、静かに聖書を開いて神とただ二人になった時、聖霊が光を与えて教えたもうその時こそ、
地上における天的生涯
でありましょう。深い神の愛を教えられ、また神が与えんとしていたもうすべての恵みを解せしめられるその時こそ、我等に対して持ちたもう神の旨が何であるかを知らしめらるる時であります。神の旨はいつも恵みならざるはありません。かように聖言の上に光を受ける時、私共の祈りは霊感を受けて燃え上がります。また喜びの霊はかき立てられ、神を讃美せずにはおられぬようにせられます。
この二十七節の終わりになお一つの結果を見ます。『爾曹膏の敎る如く恒に主に居べし』。主に居らしめたまいます。ヨハネ伝十五章を見ますと、主は弟子たちを離れて天に帰ると仰せられる。しかしなお主は弟子たちの中におり、弟子たちは主の中に居ると宣います。ちょっと考えれば矛盾のようであります。主はいま天に帰りたまいましたが、なお彼らの衷にいたまいます。霊によりて私共お互いにそれは何であるかを経験することができます。このキリストが私共の中に留まりおらしめられるとは如何なることでしょうか。主に居るとは、取りも直さず、私共が時々刻々断えず恵みを受けていることであります。ちょうど葡萄の枝が幹から液汁を受けているような事であります。皆様はかつて一切を主に献げて主より恵みを受けなされたことでしょう。これは一時に受けた恵みでありました。しかし皆様はその経験を始めとして、その時からたびたび聖霊を受けることができるのです。ですから私共は信仰をもって断えずこの主より
新しき喜び、新しき愛を
心の中に満たしていただかねばなりません。かくして私共は、地上にいながらも主の中におる事によりて、果を結ぶことができるのです。
かように私共は聖霊を受けて地上に生活することによりて、キリストを顕すことができます。旧約を見れば、癩病人が営の中にまで迎え入れられ、そこで恵みを受け、聖き膏を沃がるることを見ます。ふつうは癩病人は営の中に受け入れられなかったものですが、その癩病人が王や祭司が受けると同じ聖き膏を受ける事ができたのです。癩病は、恐ろしい罪に悩まさるる型であります。この旧約の癩病人の物語によりて貴い教訓を受けます。神に遠ざけられた罪人が血潮によって潔めを受け、神に近づく事ができるのであります。誰でもそうせられます。神からあまり遠すぎる、潔められるにはあまり汚れ過ぎているなどと感ずる必要はありません。神は実に愛をもって如何なる物をも備え、最も愈れる物をもって待遇したまいます。実に聖霊によりて膏を沃がるることは私共をして神の子らしくし、地上において神の子の生涯を送らしむるものであります。
ヨハネ一書三章一節『なんぢら視よ、我儕稱られて神の子たることを得。これ父の我儕に賜ふ何等の愛ぞ』。ここに神の子とあるのは嬰児ではありません、成長した神の子であります。即ち父なる神と交わり、キリストに入れられ、神様の片腕となる長った者を指します。神の驚くべき愛によりて私共はそのような地位にまで置かれているのです。これは聖霊によりて神の生命そのものが与えられているからであります。実に神はかかる人を
御自身と近き交わりの中に
入れたまいます。或る時に慈悲深い御方が苦しんでいる貧しい少年を憐れんで、これを自分の家に迎え入れるようなこともありましょう。そしてこれを教育し、一切の必要を供給しましょう。けれどもこれは自分の家庭の一人としてではありません。自分との親しい関係、交わりの中に入れることとは違います。しかるに神の与えたもうこの恵み、この地位たるや、私共をば御自分の子として家族の中に入れたもうのです。
しかしそれのみではありません。かく神の子とせられましたから、神の嗣子であります。ですから未来のために栄えある望みがあります。三章二節を見れば『愛する者よ、我儕いま神の子たり。後いかん、未だ露れず。其現れん時には必ず神に肖んことを知。そは我儕その眞狀を見べければ也』とあります。私共にとって更に愈れることが与えられんとしています。それは神の御子、御自身が来りたもうことであります。使徒行伝一章で見ましたごとく、主が弟子たちを地上に残して天に行きたもう時、二つの希望を与えたまいました。一つは別の助け主の与えられること、第二の事は天使の語った『爾曹が天に昇るを見たる其如く亦きたらん』(十一節)ということです。あなたも私もこの二つの栄えある望みを残されています。私共はこの聖霊、即ち別の助主をわがものとして頂戴しました。そして栄えの主を待ち望ましめられています。彼らが主の昇るを見たるごとく、また降りたもうのです。かの時、主は弟子たちに兄弟たる関係を残したまいました。即ちわが兄弟たちと言いたまいましたが、主が昇天したもうた後も私共の長兄としてかしこに在すことを覚えさせられる次第であります。そして主イエスは再び御自身が贖いたまいし民のために来りたもう時に、その
長兄として来りたもう
のです。主は愛に溢れて私共に会うことをどんなに喜びたもうことでしょうか。ですから私共も主が来りたもう事を大いに喜ぶはずです。
テサロニケ前書四章十六、十七節、『それ主號令と使長の聲と神の箛を以て自ら天より降らん。其時キリストに在て死し者先に甦へり、後に活て存れる我儕かれらと偕に雲に携へられ空中に於て主に遇べし。斯て我儕いつまでも主と偕に居ん』。これこそは未来のために我等のもつ栄えの望みであります。私共が主に見え、主と偕に永遠おらしめられるのです。ですから黙示録を見れば、十九章に羔の婚姻の筵が開かれるとあります。主は私共のためにこの上なき大いなる喜びの筵を設けたまいます。この上なき満足、この上なき親交であります。その主の新婦たるべき者は如何なる者かと申しますと、私共救われし罪人から成り立っているのです。私共が主を愛しており、また主と偕におることを喜んで、主を待っていますならば、この望みこそは如何なる患難にも耐えしむる力で、これこそ活ける望みであります。私共の心の中に力となり、激励する力となります。私は、誰であっても、主来りたもうとのこの再臨の望みを心の中に抱かずして、神の前に聖き生涯を送る者があるか否かを疑います。この主の再臨の望みがあればこそ罪を憎むこともでき、そして私共はそのためにこそ一切の腐敗と汚れとより潔められることもできるのです。ヨハネ第一書三章三節『凡そ神に由る此望を懷く者は其潔が如く自己を潔す』。これはお互いのためにこの地上においてできることなのです。私共の神が聖にして在すごとく、神の聖なる霊によりて私共にも神の聖き性質を与えられ、この地上において
神の聖潔にあずからしめて
いただくのであります。また主来りたもうてやがて面の当たりに相まみえる時、瞬間に化せられて主の姿のごとく成るのであります。『其現れん時には必ず神に肖んことを知』(二節)。私共が面と面とを合わせて面の当たりに主に見ゆる時はいかに嬉しい事でありましょう。一家の主人が愛する妻と遠く離れていて、やがてまた会う時はいかに喜ばしい事でありましょう。私共も、私共を愛して下さり、またその御身体の中に愛の傷を持ちたもう主に会う時の喜びはどんなでしょう。彼はその時には、高御座に在す主、また大いなる権威を持つ者としてでなく、彼はかかる方ではあるが、その時には我等に対して我等の兄弟として会って下さるのです。私共はよろしく『アメン、主イエスよ、來り給へ』と祈るべきであります。私共はこのたび幸福な集会をもちました。そして恵まれましたが、その結果として当然『アメン、主イエスよ、來り給へ』との祈禱を心の中より献げるはずであります。しかし更に驚くべき事は、私共は確信をもって主に会う事ができるということであります。私共の過去を顧みれば恥じねばならぬ多くの事がありますが、しかしそれはかえって、主イエスの貴き血潮はすべての罪より我等を潔むることを証拠立てるものとなります。私共はさきには主に反逆申していたのですが、この主を今は
愛し奉る御方として待つ
ことのできるほどに潔められたとは、何たることでありましょう。私共は今は、私共の一切の罪を始末して下さった主の十字架を思わしめられています。そして今や私共の心は潔められ、主の御前に恥ずることなく、確信をもって主に会うことができることのために感謝すべきであります。
活ける望みが私共の中に燃えています。私共の周囲を見れば望みなく失望のために落胆している人々を見ますが、しかし私共にはこの望みがあります。彼来りたまわん、速やかに来りたまわんとの望みを持たされています。ですから私共の中に恐れもなく、思い煩いもなく、平安をもって満たされています。患難は永く続きません。やがて主に見えます。その時に私共は主のごとくにせられ、彼のごとくに全き者とせられます。そしてこの驚くべき変化が何故に与えられるかといえば、主がカルバリにおいて御自身の御血潮を注ぎ出したもうたからであります。ですから私共はかのカルバリを振り返る時に、また再臨を望む時に、ますます主を愛しまつるようになります。そしてこの愛のゆえに、また主の愛に引かれて、私共は身におりても身を離れても一切のこと主を喜ばせんとの心に駆られ、全霊全生全身を悉く主の御手に明け渡してしまうようになります。祈ります。(以下、先生の日本語の祈り)
「愛する主よ、あなたは私共を愛し、私共のために生命を捐てたまいましたことを感謝いたします。おお主よ、あなたを崇め奉ります。あなたの贖いのためにあなたは私共の心と性質を潔めたもうことができます。御血潮は私共を潔めました。感謝いたします。ハレルヤ。おお主よ、どうぞいま私共各自を罪と汚れより潔めたまわんことを冀い奉る。また主よ、私共にこの大いなる望みを与えたもう御事を感謝します。愛のゆえにあなたがもう一度この汚れたる世に下りたもうことを待ち望みます。あなたがその時に罪と汚れをこの世より全く追い出して、御国を建てたもうことを待ち望みます。主よ来りたまえ。主よ来りたまえ。おお主よ、私共はあなたに見えんことを熱心に願います。熱心に待ち望みます。どうぞ面と面とを合わせてあなたと面会する時を早からしめたまえ。どうぞ早く来りたまえ。おお主よ、あなたは私共の心の中にこの堅き望みを与えたまいましたから、いつでも喜んで、いつでも感謝して生涯を暮らすことができます。試練の時にもあなたを崇めます。おお、ハレルヤ。どうぞ主よ、私共の心の中にこの活ける望みを燃えしめたまえ。もはや霊を得させたまいましたから、どうぞいつでも心の中にこの力ある望みを与えたまわんことを冀い奉る。どうぞ断えずあなたと交わりて聖霊の感化を得、あなたを待ち望む心を与えたまわんことを主イエス・キリストの聖名によりて冀い奉る。アメン。」 (米田生筆記)
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昭和十二年十二月二十日 印刷
昭和十二年十二月二十三日 発行
昭和十三年一月十五日 再版
定価 金三十銭
送料 金 三銭
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著作権所有
翻訳者 御牧 守一
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発行者 ジョージ・バーナム・ブレースウェート
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印刷者 折坂 友之
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印刷所 英光印刷株式会社
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発 行 所 基 督 教 書 類 会 社
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