附 録 聖 潔きよめ と 再 臨

── 使徒行伝一章一〜十一節ヨハネ一書二章二十七〜二十九節三章一〜三節 ──



 ヨハネ第一書二章二十七節の初めの方に、『爾曹なんぢらしゅよりそゝがれたるあぶらそのうちとゞまれる』とあります。主は十字架の上において大いなる勝利を得てのちよみがえり、昇天して今なお御座みくらに坐し、その御手みてうちに万権を握っていたまいます。そしてその主よりこの貴きあぶらそそがれています。この聖霊のそそあぶらは皆様のうちとどまります。旧約時代には聖霊は或る人の上にそそがれましたが、それはただ暫時ざんじあいだのみでありました。一時的のことでありました。けれども神は私共わたくしどもにはさらにまされるものを備えたまいます。すなわちこの慰むる者は一時的でなく、永久に宿りとどまりたもうというのが神の御計画であります。

 出エジプト記三十章に聖灌膏きよきそゝぎあぶらを特別にたくわえる事を読みますが、このきよそそあぶらは王や祭司を聖別するためにそそがれたものであります。そしてこれらのそそあぶらを受けました者は聖別せられた者として数えられ、神との交わりに入れられたのであります。すなわち彼は神の友とせられ、神の豊かなる恵みを受けたのであります。

あぶらは神の愛また恩恵めぐみを表徴

する物として用いられてあります。お互い単純なる信仰によりてこの貴いそそを神より受けることのできるとは何と幸いな事ではありませんか。かように私共は高き御宝座みくらの主より貴きみたまを受けるのでありますが、御言みことばによりて私共の承知せしめられる事は、かように貴きそそあぶらを受ける事は地上にりながら天の経験の始めであります。地におりながら天の経験をし始めるのですが、同時にまたそれによりて驚くべき栄えを望ましめられるのであります。愛する主とかおかおとを合わせてあい見る時を慕い待ち望むようになるのであります。ですから心のうちにこの聖霊を保つことは天の生活の始めであります。今朝けさ、この聖霊がお互いの心のうちにいかに臨みたもうか、それについていくつかのことを教えられとうございます。

 旧約を見れば、王たちがこのそそあぶらを受けたことを見ます。新約においては、私共はきよそそあぶらによりて私共が王となる事を見ます。王は大いなる富をもっています。また大いなる権利をっています。実にこの霊、そそあぶらは、私共のうちに大いなる神の富を与え、神のために力を持つ者としたもうのであります。私共はこの聖霊のそそあぶらによりて神のすべての霊の恵みを与えられると記してあります。それですから聖霊を受ける事は、

霊的に百万長者となる

ことであります。彼らは神よりの豊かなる愛、また恵みの豊かさを心のうちに貯え、またすべての人の思うところにいたくまされる神の平安を心のうちに受けます。ですから私は皆様が霊的に金満家であることをお祝いしたいと思います。しかしそれのみならず、天来の能力ちからを受けています。『聖靈なんぢらに臨むによりのち爾曹なんぢら能力ちからを受け……』(使徒行伝一章八節)。私共が力を得るのは私共のうちきよきあこがれによりてこれを得るのであります。私共は勝利者たらん事を願いますが、それは力を得る事によりてできます。主は聖霊によりて私共に力を与え、あらゆる敵の力に勝つことを得しめたまいます。すべての火矢を消すことのできる神の力を与えられます。また証人あかしびととして魂を導く救霊者たらしめたまいます。

 この霊のそそあぶらは、神のたみを王として一切を支配せしむるのみならず、また祭司たらしめます。聖霊をもってあぶらそそがれた者は神のための祭司であります。すなわちその人は特別に神との接近をもっています。そして神のための祭司としてのつとめを全うします。

神の御前みまえ咫尺しせき

めんめんとを合わせて神にまみえ、また自由に神と語る特権を有しています。実にこの聖霊のそそあぶらを受ければ祈りの力を得ます。祈禱いのりはずんずん答えられる。しかして神の祭司としてほかの人を神の前に連れきたる力ある者とせられます。古昔むかし祭司たる人のつとめは、ほかの人を神の前に連れきたりて神とやわらがしむる事でありました。イザヤ書六十一章一節『しゅヱホバのみたまわれに臨めり、こはヱホバわれにあぶらをそゝぎてまづしきものに福音をのべつたふることをゆだねわれをつかはして心のいためる者をいやし俘囚とらはれびとにゆるしをつげいましめられたるものに解放ときはなちをつげ』。皆様はあぶらそそがれし神の祭司として、ほかの人を神に近づかしめ、恵みを受けさせ、かくして悪魔の手より救い出す事ができるのです。そのようにして彼らを悲哀かなしみから、またいためる心から救い出す事ができます。ですから、聖霊を受けるという事は、私共を驚くべき地位に引き上げる事、王また祭司として神の前にはべらしめる事であります。

 またヨハネ一書の方に帰って、この二十七節になお一つの驚くべき事が記してあります。『そのあぶらすべての事を爾曹なんぢらに敎ふ』。ですから、聖霊は霊的理解力を与え、霊にける様々の事を教えたまいます。聖書の上に新しい光を与えたまいます。私は思うに、静かに聖書を開いて神とただ二人になった時、聖霊が光を与えて教えたもうその時こそ、

地上における天的生涯

でありましょう。深い神の愛を教えられ、また神が与えんとしていたもうすべての恵みを解せしめられるその時こそ、我等に対して持ちたもう神のみむねが何であるかを知らしめらるる時であります。神のみむねはいつも恵みならざるはありません。かように聖言みことばの上に光を受ける時、私共の祈りは霊感を受けて燃え上がります。また喜びの霊はかき立てられ、神を讃美せずにはおられぬようにせられます。

 この二十七節の終わりになお一つの結果を見ます。『爾曹なんぢらあぶらをしふる如くつねしゅをるべし』。主にらしめたまいます。ヨハネ伝十五章を見ますと、主は弟子たちを離れて天に帰ると仰せられる。しかしなお主は弟子たちのうちにおり、弟子たちは主のうちるとのたまいます。ちょっと考えれば矛盾のようであります。主はいま天に帰りたまいましたが、なお彼らのうちにいたまいます。霊によりて私共お互いにそれは何であるかを経験することができます。このキリストが私共のなかとどまりおらしめられるとは如何いかなることでしょうか。主にるとは、取りも直さず、私共が時々刻々断えず恵みを受けていることであります。ちょうど葡萄ぶどうの枝が幹から液汁を受けているような事であります。皆様はかつて一切を主に献げて主より恵みを受けなされたことでしょう。これは一時に受けた恵みでありました。しかし皆様はその経験を始めとして、その時からたびたび聖霊を受けることができるのです。ですから私共は信仰をもって断えずこの主より

新しき喜び、新しき愛を

心のうちに満たしていただかねばなりません。かくして私共は、地上にいながらも主のうちにおる事によりて、を結ぶことができるのです。

 かように私共は聖霊を受けて地上に生活することによりて、キリストをあらわすことができます。旧約を見れば、癩病らいびょう人がえいなかにまで迎え入れられ、そこで恵みを受け、きよあぶらそそがるることを見ます。ふつうは癩病人はえいなかに受け入れられなかったものですが、その癩病人が王や祭司が受けると同じきよあぶらを受ける事ができたのです。癩病は、恐ろしい罪に悩まさるる型であります。この旧約の癩病人の物語によりて貴い教訓を受けます。神に遠ざけられた罪人つみびとが血潮によってきよめを受け、神に近づく事ができるのであります。誰でもそうせられます。神からあまり遠すぎる、きよめられるにはあまりけがれ過ぎているなどと感ずる必要はありません。神は実に愛をもって如何いかなる物をも備え、最もまされる物をもって待遇したまいます。実に聖霊によりてあぶらそそがるることは私共をして神の子らしくし、地上において神の子の生涯を送らしむるものであります。

 ヨハネ一書三章一節『なんぢらよ、我儕われらとなへられて神の子たることを。これ父の我儕われらに賜ふ何等いかばかりの愛ぞ』。ここに神の子とあるのは嬰児おさなごではありません、成長した神の子であります。すなわち父なる神と交わり、キリストに入れられ、神様の片腕となるそだった者を指します。神の驚くべき愛によりて私共はそのような地位にまで置かれているのです。これは聖霊によりて神の生命いのちそのものが与えられているからであります。実に神はかかる人を

御自身と近き交わりのうち

入れたまいます。或る時に慈悲深い御方おかたが苦しんでいる貧しい少年を憐れんで、これを自分の家に迎え入れるようなこともありましょう。そしてこれを教育し、一切の必要を供給しましょう。けれどもこれは自分の家庭の一人いちにんとしてではありません。自分との親しい関係、交わりのうちに入れることとは違います。しかるに神の与えたもうこの恵み、この地位たるや、私共をば御自分の子として家族のうちに入れたもうのです。

 しかしそれのみではありません。かく神の子とせられましたから、神の嗣子よつぎであります。ですから未来のために栄えある望みがあります。三章二節を見れば『愛する者よ、我儕われらいま神の子たり。のちいかん、未だあらはれず。その現れん時には必ず神にんことをしる。そは我儕われらその眞狀まことのありさまみるべければなり』とあります。私共にとって更にまされることが与えられんとしています。それは神の御子おんこ、御自身がきたりたもうことであります。使徒行伝一章で見ましたごとく、主が弟子たちを地上に残して天に行きたもう時、二つの希望を与えたまいました。一つは別の助け主の与えられること、第二の事は天使てんのつかいの語った『爾曹なんぢらが天に昇るを見たるその如くまたきたらん』(十一節)ということです。あなたも私もこの二つの栄えある望みを残されています。私共はこの聖霊、すなわち別の助主たすけぬしをわがものとして頂戴しました。そして栄えの主を待ち望ましめられています。彼らが主の昇るを見たるごとく、またくだりたもうのです。かの時、主は弟子たちに兄弟たる関係を残したまいました。すなわちわが兄弟たちと言いたまいましたが、主が昇天したもうたのちも私共の長兄としてかしこにいますことを覚えさせられる次第であります。そして主イエスは再び御自身が贖いたまいしたみのためにきたりたもう時に、その

長兄としてきたりたもう

のです。主は愛に溢れて私共に会うことをどんなに喜びたもうことでしょうか。ですから私共も主がきたりたもう事を大いに喜ぶはずです。

 テサロニケ前書四章十六、十七節、『それしゅ號令と使長つかひのをさの聲と神のらっぱみづから天よりくだらん。其時そのときキリストにありしにし者先によみがへり、のちいきのこれる我儕われらかれらとともに雲にたづさへられ空中においしゅあふべし。かく我儕われらいつまでも主とともをらん』。これこそは未来のために我等のもつ栄えの望みであります。私共がしゅまみえ、主とともに永遠おらしめられるのです。ですから黙示録を見れば、十九章こひつじの婚姻のふるまいが開かれるとあります。主は私共のためにこの上なき大いなる喜びのふるまいを設けたまいます。この上なき満足、この上なき親交まじわりであります。その主の新婦はなよめたるべき者は如何いかなる者かと申しますと、私共救われし罪人つみびとから成り立っているのです。私共が主を愛しており、また主とともにおることを喜んで、主を待っていますならば、この望みこそは如何いかなる患難にも耐えしむる力で、これこそける望みであります。私共の心のうちに力となり、激励する力となります。私は、誰であっても、主きたりたもうとのこの再臨の望みを心のうちに抱かずして、神の前にきよき生涯を送る者があるか否かを疑います。この主の再臨の望みがあればこそ罪を憎むこともでき、そして私共はそのためにこそ一切の腐敗とけがれとよりきよめられることもできるのです。ヨハネ第一書三章三節おほよそ神によれこののぞみを懷く者はそのきよきが如く自己みづからきよくす』。これはお互いのためにこの地上においてできることなのです。私共の神が聖にしていますごとく、神の聖なる霊によりて私共にも神のきよき性質を与えられ、この地上において

神の聖潔きよきにあずからしめて

いただくのであります。また主きたりたもうてやがての当たりにあいまみえる時、瞬間にせられて主の姿のごとく成るのであります。『その現れん時には必ず神にんことをしる』(二節)。私共がかおかおとを合わせての当たりに主にまみゆる時はいかに嬉しい事でありましょう。一家の主人が愛する妻と遠く離れていて、やがてまた会う時はいかに喜ばしい事でありましょう。私共も、私共を愛して下さり、またその御身体おんからだうちに愛の傷を持ちたもうしゅに会う時の喜びはどんなでしょう。彼はその時には、高御座たかみくらいます主、また大いなる権威を持つ者としてでなく、彼はかかる方ではあるが、その時には我等に対して我等の兄弟として会って下さるのです。私共はよろしく『アメン、主イエスよ、きたたまへ』と祈るべきであります。私共はこのたび幸福さいわいな集会をもちました。そして恵まれましたが、その結果として当然『アメン、主イエスよ、きたたまへ』との祈禱いのりを心のうちより献げるはずであります。しかし更に驚くべき事は、私共は確信をもって主に会う事ができるということであります。私共の過去を顧みれば恥じねばならぬ多くの事がありますが、しかしそれはかえって、主イエスの貴き血潮はすべての罪より我等をきよむることを証拠立てるものとなります。私共はさきには主に反逆申していたのですが、この主を今は

愛しまつ御方おかたとして待つ

ことのできるほどにきよめられたとは、何たることでありましょう。私共は今は、私共の一切の罪を始末して下さった主の十字架を思わしめられています。そして今や私共の心はきよめられ、主の御前みまえに恥ずることなく、確信をもって主に会うことができることのために感謝すべきであります。

 ける望みが私共のうちに燃えています。私共の周囲を見れば望みなく失望のために落胆している人々を見ますが、しかし私共にはこの望みがあります。彼きたりたまわん、速やかにきたりたまわんとの望みを持たされています。ですから私共のうちに恐れもなく、思い煩いもなく、平安をもって満たされています。患難は永く続きません。やがてしゅまみえます。その時に私共は主のごとくにせられ、彼のごとくに全き者とせられます。そしてこの驚くべき変化が何故なにゆえに与えられるかといえば、主がカルバリにおいて御自身の御血潮おんちしおを注ぎ出したもうたからであります。ですから私共はかのカルバリを振り返る時に、また再臨を望む時に、ますます主を愛しまつるようになります。そしてこの愛のゆえに、また主の愛に引かれて、私共は身におりても身を離れても一切のこと主を喜ばせんとの心に駆られ、全霊全生全身をことごとく主の御手みてに明け渡してしまうようになります。祈ります。(以下、先生の日本語の祈り)

 「愛する主よ、あなたは私共を愛し、私共のために生命いのちてたまいましたことを感謝いたします。おお主よ、あなたを崇めたてまつります。あなたのあがないのためにあなたは私共の心と性質をきよめたもうことができます。御血潮おんちしおは私共をきよめました。感謝いたします。ハレルヤ。おお主よ、どうぞいま私共各自めいめいを罪とけがれよりきよめたまわんことをこいねがたてまつる。また主よ、私共にこの大いなる望みを与えたもう御事おんことを感謝します。愛のゆえにあなたがもう一度このけがれたる世にくだりたもうことを待ち望みます。あなたがその時に罪とけがれをこの世より全く追い出して、御国みくにを建てたもうことを待ち望みます。主よきたりたまえ。主よきたりたまえ。おお主よ、私共はあなたにまみえんことを熱心に願います。熱心に待ち望みます。どうぞかおかおとを合わせてあなたと面会する時を早からしめたまえ。どうぞ早くきたりたまえ。おお主よ、あなたは私共の心のうちにこの堅き望みを与えたまいましたから、いつでも喜んで、いつでも感謝して生涯を暮らすことができます。試練こころみの時にもあなたを崇めます。おお、ハレルヤ。どうぞ主よ、私共の心のうちにこのける望みを燃えしめたまえ。もはやみたまを得させたまいましたから、どうぞいつでも心のうちにこの力ある望みを与えたまわんことをこいねがたてまつる。どうぞ断えずあなたと交わりて聖霊の感化を得、あなたを待ち望む心を与えたまわんことを主イエス・キリストの聖名みなによりてこいねがたてまつる。アメン。」  (米田生筆記)


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昭和十二年十二月二十日  印刷
昭和十二年十二月二十三日 発行
昭和十三年一月十五日   再版
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                        送料 金 三銭
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著作権所有
       翻訳者   御牧 守一
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