第四章 神の聖言の能力ある効果
『大なる貴き約束』──ペテロ後書一章四節
私共は去る三日間、我々の心の中に御約束のうちのあるものを成就していただくためにここに集まって来たのであります。さて我々はこの聖言を考えながら、貴き大いなる約束の能力と、それが何を我々になすことができるかを見ようではありませんか。
それは何と力強い期待を我々の心の中に起すではありませんか。皆様や私のために天より来った約束なのであります。
ここに学校へ通っている子供がいて、非常に自転車を欲しがっていたとします。ついにその父親は彼の誕生日の贈り物として買ってやると言いました。おお、この少年の心の中に起された喜悦は如何ばかりでしょう。その期待、その歓喜はどれほどでしょう。この少年は父親がこの約束を成就してくれることを疑わない。しかも惜しげもなく見事なもので約束をかなえてくれ、その日には立派な自転車がいただけるという事を少しも疑いません。
さて、神の約束は皆様に来ている。それは皆様の心の中に熱心を起したでしょうか。それは歓喜と、喜悦に満ちた期待とを起したでしょうか。それは皆様の心の中にかかる効果をもたらすはずであります。我らの神は我らが願ったり思ったりするにまさって御忠実であり、その約束を成就なさる方であります。
神の約束は天みずからによって署名された、天からの銀行切手のようなものであります。我々の日常使用している銀行切手はちょうど約束のようなものである。その上に「支払の約束」が記されている。それは英蘭銀行によって与えられた約束のごときものであり、皆様は英蘭銀行を信用なさる故に、その紙片をあたかも金貨のごとく受け取りなさる。それは使用され、要求されるまでは、それ自身に何等価値のないものである。金貨はそれ自身に一定の価値を持っている。しかし銀行切手はそれを使用しない限りは価値を生じないものであります。しかしもし皆様が用いなさるならば、それは恰かも金貨と同様に全額の価値を生ずるものであります。
神の約束もちょうどこのようなものであります。もし我々がそれを要求し、使用しさえすれば、私共にとって全額の価値を有つようになるのであります。
約束による祝福
さて神のこれらの約束は、我々の霊的生命に非常に密接に、致命的に関係しているのであります。ゆえに私共が生命のパンなる約束を食うならば、私共は強い基督者の生命を持つようになるのであります。
ヨハネ伝十四章を開いてみましょう。我々はこの章において主は御自身の御言ということを非常に強調していらっしゃるのを見ます。二十一節と二十三節において我々は驚くべき約束を与えられている。これはたぶん聖書の中で最も驚くべき約束でありましょう。『わが誡命を保ちて之を守るものは(私はこの誡命なる言葉の中に主の全部の御言を含めたい)即ち我を愛する者なり。我を愛する者は我が父に愛せられん、我も之を愛し之に己を顯すべし』。かくして我々は主と交際をもち、主を我々の友とし、伴侶として知る事ができるのであります。
二十三節。──『人もし我を愛せばわが言を守らん、わが父これを愛しかつ我等その許に來りて住處を之とともに爲ん』。ゆえに我々はキリストの御言に由って、父と子なる神の内住の臨在を有つことができるのであります。
十五章七節を見てごらんなさい。『汝等もし我に居りわが言なんぢらに居らば何にても望に隨ひて求めよ、然らば成らん』。ゆえに主の御言が我々の中におることが絶対的に必要であります。その時にのみ我々は祈禱において能力あるものとなるのであります。我らは『キリストの言をして豐に汝らの衷に住ましめよ』と命ぜられています(コロサイ三章十六節)。『豐に』とは何と幸福なる言でありましょう。キリストの言をして皆様の心の中に全能力を発揮せしめよ。御言を、それが皆様に与えんと言いたもう喜悦と平安と慰藉と共に皆様の心の中に住まわしめよ。
増し加わる恩恵
ペテロはこれらの貴き大いなる約束を語らんとするに際し、彼の心の中に一つの目的を持っていた。彼はこの書翰を受け取る基督者のことを考えていた。彼は彼らが「増し加わる恩恵」を持たんことを願った。『恩惠と平安と汝らに增さんことを』(二)。これがペテロの心の中にあった。これが彼をしてこの書翰を記さしめたのである。彼は恩恵と平安とが彼らに増加されんことを願っていた。彼は恰も「汝らは既に恩恵と平安とを受けている。しかし私は汝らが今既に持っているところの二倍も、否、五倍をも受けんことを願っている」と言うがごとくである。ただ増すのではなくて、倍加されんことこそ願わしいのである。
ペテロは既に我らの神の驚くべき能力を経験していた。彼はこれが誇張した祈禱でないことを知っていた。神は『生命と敬虔とに係る凡てのもの』(三)を我々に与えたもうた故に、このことは必ず経験できると知っていたのである。
それは恰も富める父親が、その子の必要の一切を銀行に預金したかのごとくであります。一切はそこにある。ゆえにその子はそれを信じ、それを引き出せばよいのであります。神は恰も天の銀行に生命と敬虔とに係わる一切を皆様のために預金したもうたかのごとくであります。
我々のために蓄えておいて下さるとは、神の仁慈の何たることであろう(詩篇三十一篇十九節)。生命に係わるすべてのものとは、皆様が存在するところのことを言うのであり、敬虔に係わるすべてのものとは、皆様がなすところのことを指すのであります。基督者生涯の二大要素たる、皆様の存在と行為に係わる一切のものは、キリストに在りて皆様のものなのであります。
激 励
ペテロはたぶん大部分は、彼に由って救われた愛するこれらの信者たちがこのことを理解し、かくして神に適わしく歩む者となるために必要なものとして、彼らのために蓄えられてあるこの恩恵を要求せんことを願ったのである。故に彼は十三節において彼らを激励せんと欲していると言っている。『我は尚この幕屋に居るあひだ、汝らに思ひ出させて勵すを正當なりと思ふ』。そして三章一節には、『愛する者よ、われ今この第二の書を汝らに書き贈り、第一なると之とをもて汝らに思ひ出させ、その潔よき心を勵し』と言っております。
ペテロは彼らが鈍れて行くのではないか、これらのことを彼らの心から忘れていってしまうのではないかと思った。そこで彼は『汝らを勵す』或いは『汝らを覺ます』と言ったのである。これは、弟子たちが舟にて眠りたもう主を覚ましたというところに用いられていると同じギリシャ語であります。「汝らは眠ってしまったのではなかろうか。ゆえに我は汝らを神の約束に対して、またあなたがたの周囲の状態について覚ましたいと願う」と言えるがごとくである。
彼は彼らが神の約束を正当に使用していないことを恐れていた様子が見える。彼は八節にて『此等のもの汝らの衷にありて彌增すときは……實を結ばぬこと無きに至らん』と言っております。彼は彼らが実を結ばないものとなることを恐れた。これが彼の書翰を彼らに書いた理由である。彼は彼らが『盲人』(九)であり、遠くを見ることができず、正しい視界を持っていないことを恐れた。また彼らが忘れやすいこと(九)を恐れた。即ち『己が舊き罪を潔められしことを忘れ』、かつてのごとく今もなお赦されしことを喜ぶのを、忘れてしまった事を恐れた。
彼は彼らが『世の汚穢をのがれしのち復これに纏はれ』ることを恐れていたのではないかと思う(二章二十節)。纏われるとは何たる意味深い言葉でありましょう。これは束縛され、様々の些事により活動を妨害されるという意味である。ペテロはこれらの基督者が『復これに纏はれ』ることを心配した。それゆえに彼はこれらの『貴き大なる約束』を彼らに思い出させたのであります。
第一の結果──滅亡をのがれること
彼は彼らがこの約束を豊かに彼らの心に受け容れることを願った。彼は彼らがこれらの約束によって『世に在る慾の滅亡をのがれ、神の性質に與る者と』なるように告げている(四)。これらの活ける約束はその中に潔める能力を持っていて、この世の運命である滅亡よりのがれしむるものである。
『のがれ』──ペテロはこの言を愛していたかのようである。二章十八節では『迷の中にある者等より辛うじて遁れたる者』と言い、二十節にては『彼等もし……世の汚穢をのがれしのち』と言っている。我らが当然受くべき滅亡と汚穢より解放される幸福よ。『のがれる』という言は、たとい如何に滅亡や誘惑が私共の周囲にあろうとも、私は神の約束に由り衣を潔く保ちて歩む事ができるという福音を、私に告げてくれるのであります。
私の日本における親しき友の一人がまだ少年時代のことでありました。或る日、街の伝道所に何気なく入って説教を聞いた時、『活ける神』という言を聞いた。これが彼を救った福音の言となった。彼は主イエスのために輝かしく立ち上がった。そして彼の学校で証した。しかるに校長はこれを聞いて、「お前は祖国に対する裏切り者である」と言って学校を放逐してしまった。武士にとって、裏切り者と呼ばれ、また学校を放逐されることは非常に辛いことであった。そしれそれは今後の彼の前途を破壊することであった。しかしこの少年は主のために大胆な勇気を持っていた。彼は真理を見て、それに従ったのであった。
しかるに暫くすると、彼は罪がなお彼を支配していることを発見した。彼はこのために非常に熱心に主に祈り求めた。彼は彼の心の腐敗から救われんことを求めた。
ある日、彼は私もよく知っている小さな部屋で、神の言を読みつつ祈っていた。そのとき神は『その名をイエスと名づくべし。己が民をその罪より救ひ給ふ故なり』(マタイ一章二十一節)という御言によって彼に語りたもうた。それとちょうど同様に、腐敗よりも救いたもうと教えられた。そこでその少年は主イエスは彼を衷なる腐敗より救いたもう御方なることを発見した。そして彼はその完全なる救いに喜ぶ新しい生涯を始めた。
第二の結果──『神の性質』
しかし我々の御言の中にはこれ以上のことが含まれています。今までのは消極的な恩恵でありました。積極的な恩恵はより以上に驚くべきものであります。『神の性質に與る者』(四)であります。主イエスは、樹の善悪はその果によって知られると言いたまいました。しかして私共は新たに生まれかわり、性質は変化されると教えられている。そして貴き大いなる約束によって神の性質が与えられるのであります。
何ものも、その性質によりその容貌と行為とが規定されるのであります。周囲がどんなであろうとも常に純白であるのが百合の花の性質であります。天空に高く舞い上がるのが鷲の性質であります。燦然と輝くのが金剛石の性質であります。さらば神の性質を持つとは如何なる意味でしょうか。それは皆様が生来の欲望や性癖の代わりに、愛なる性質、聖なる性質、罪を憎む性質を持つようになることを意味します。罪を行ってはいけないからそれを避けるのではなく、罪を憎む性質なのである。また自己を犠牲にする性質であります。何故なれば、神の御性質は御自身を犠牲にして我々に御自身の最も善きものを与えたもうからである。
皆様も私も聖霊に由って神の性質を有つことができます。我々は聖霊を受けることができる。主の弟子たちは聖霊を受けた時、聖霊は彼らの衷において能力となりたもうた。それは聖潔と勝利のための能力、彼らの心と生活とにおける喜悦のための能力である。
ペテロは『この故に勵み勉めよ』(五)と言い続けます(十節及び三章十四節をも御覧なさい)。
励 み 勉 め よ
悲しむべきことは怠惰な基督者がいるということであります。霊的に怠惰なのである。彼らは自らを奮い起こして神の御言を読み、神を祈り求めない。ペテロはこの傾向のあることを知って、御約束とその驚くべき充実せる内容との故に『勵み勉めよ』と言っているのであります。恩恵と主イエス・キリストを知る事において成長せんがために勉励せよ。
私共は同様な勧告をヘブル書六章十一、十二節に見る。『我らは汝等がおのおの終まで前と同じ勵をあらはして全き望を保ち、怠ることなく、信仰と忍耐とをもて約束を嗣ぐ人々に效はんことを求む』。
このようにペテロは我々に勉励なれと告げ、恩恵に恩恵を増し加えて行けと命ずるのであります。『汝らの信仰に德(或いは勇気)を加へ、德に知識を、知識に節制(或いは克己)を、節制に忍耐を……加へよ』(五、六)。皆様の中のある御方は周囲の状態により、特に信仰に忍耐を加える必要があるでしょう。そして『忍耐に敬虔を、敬虔に兄弟の愛を、兄弟の愛に博愛を』(六、七)、即ち皆様が行き会う人々に対する聖き愛を加えよ。すべてこれらのことを加えよ。しかして神の言が『此等のもの』を加えよと命じたもう以上は、これは幸福にも私共にできうる事なのであります。
聖霊は我々にこれらの段階を登らしめ、いよいよ高きへと引き上げたまいます。基督者生涯とはかくのごとく恩恵に成長する生涯を指すのであります。それは我々が訓練されつつあり、また自身を訓練しつつあるという意味であります。何故なれば、教育とは大部分、少年少女をして彼等自身を訓練することができるように、訓練する事を言うからであります。しかしてここにあるごとく、我々は敬虔において訓練され、また我々自身を訓練することができ、しかして一歩一歩と前進する事ができるのであります。
『躓くことなからん』
これには驚くべき結果があります。『汝ら躓くことなからん』と十節に記されています。汝ら墮落することなからん。汝らの足は堅き基のある岩の上にあらん。
あまりにも多くの人々が後戻りして、喜悦と平安と祈禱を失っているのは悲しむべきことであります。しかしここに墮落しない秘訣があるのです。
堂 々 た る 入 国
ペテロは十一節においてもう一つのことを語っている。『斯て汝らは我らの主なる救主イエス・キリストの永遠の國に入る恩惠を豐に與へられん』。これは堂々たる入国であります。これはパウロが望んでいたところである。『如何もして死人の中より甦へることを得んが爲なり』と(ピリピ三章十一節)。
我々は宜しくこの堂々たる入国のために祈るべきであります。これは港に入って来る船の比喩であります。或る船は港に入って来たが、暴風雨のために壊れている。帆檣の大半は折れ、帆は裂けている。その船はようようのことで港に這うようにして入って来たのである。その船は安全たることを得た。しかしそれだけに過ぎない。他の一つの船が入港して来た。全部の帆は張られ、索具は整頓され、全船、船首より船尾に至るまでよく艤装されている。楽隊は奏楽し、波止場では友人らが歓迎すべく待っている。その船は港に堂々と入って来たと言えるのです。
これがここの比喩であります。私共はこのように神の国に堂々と入国したいものであります。私は、勝利ある臨終ほど未信者に明確な証詞をなすものはないと思います。私は日本でこれを発見した。基督者の臨終を見て、それに由ってキリストは真の救主である事を悟った人々の物語をたくさん知っています。
さて私共はこれらの十二の節によって貴き大いなる約束の能力の幾分を学びました。
私共この銀行切手を使用いたそうではありませんか。私共、この銀行切手を受け取り、愛と喜悦と善き業、または周囲の人々に対する親切と助力などに換えようではありませんか。
かくしてキリストは崇められたもう。皆様は謙らされるでしょう。しかしキリストは崇められ、皆様の霊魂は信仰による喜悦と平安とに満たされるのであります。
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