第二章 聖 霊 の 大 傾 注
── イザヤ書四十三章二十一節〜四十四章五節 ──
『われ渴けるものに水をそゝぎ』──イザヤ書四十四章三節
『渴けるもの』。これは真に恩恵を欲求めている者であります。大いなる欠乏を感じており、その欠乏が何であるか知っているものであります。『渴けるもの』。神は渇いた霊魂、即ち最上の賜物を熱心に切望する者を愛したまいます。神は神につける願望を持つ者を愛し、その願望を満足させることを好みたもうのであります。
渇きには段階があります。「私は渇いている」と言いましても、真の渇きが如何に激しい苦痛であるかを、少しも知らない人があります。ガリポリ地方に派遣されました兵士は、渇きのあの激しい苦痛を経験しています。彼らの飲料水は全部海を越えてもたらされるのである。故にあの暑い太陽の下で激しい労働をしながらも、毎日非常に制限された、少量の水しか供給されないのです。彼らはその時の渇きの怖ろしさは、口では言い尽くせないと言っております。
神に対し、またその恩恵に対し、私共は真の渇望を持っているでしょうか。神の恩恵とその御霊以外のものでは、少しも満足できないという渇望を持っているでしょうか。マリヤは、十字架に付けられたまいし主の御体に対する真の欲求を持っていた。それですから天の使いの同情に満ちた優しい声さえも、彼女を満足させることはできなかった。彼女は何かそれ以上のものを欲していたのでした。彼女の主を欲していたのです。故に主イエスが彼女に語り、『マリヤよ』と言いたもうた時に、彼女の全心は満足させられ、その渇きは醫されたのでありました。おお、この時にあたって渇ける者の渇きが実にこのように醫されんことを。『われ渴けるものに水をそゝがん』。
沙漠で水の欠乏した旅行者はしばしば遠くの方に蜃気楼を見ます。彼らはそれが蜃気楼なることを知らない。目に見えているのは実際の草木であり、湖水であると思っております。しかしそれは結局は蜃気楼であって、彼らが近づくにつれて消え失せ、跡形もなくなってしまいます。
このような基督者はいないでしょうか。彼らは時々祝福を見る。祝福とはこんなものであろう、聖霊の能力とはこんなものであろうと想像して見る。しかしすべてが幻のように思われ、結局彼らの渇きを満たさずに終ってしまうように考えられる。
しかし主はイザヤ書三十五章七節において『やけたる沙(蜃気楼との意味もあり)は池と……なるべし』と約束したもうのであります。即ち沙漠において単なる空想であったところのもの、非常に美しいけれども幻に過ぎず、驚くべき理想ではあるが現実ではないところのものが、私共に活ける水となり、現実となり、満足を与える祝福となるというのであります。『われ渴けるものに水をそゝがん』。おお、神を求めよ。皆様が真の満足を得るまで、蜃気楼が実際の池となるまで求めよ。皆様が聖霊を受けた事を心の中に知るに至るまで求められよ。
活 け る 水
皆様はこの御約束の意味をご存じと思います。それはヨハネ伝七章三十九節に解釈されてあります。活ける水は聖霊である。聖霊が水であるとは何と美しい表徴でありましょう。聖書の中には聖霊の驚くべき表徴が数々ある。生命を与える風であると言われています。また能力を与える火、潔めて満足を与える水であると言われています。しかして私共はこれらの表徴に就いて祈り、聖霊がこれらの表徴の示すすべてのお働きをもって我々に臨みたもうよう神に求むべきであります。私共は神の息である風としての聖霊については知っているかも知れない。しかしまだ、活ける水としての聖霊を知らないかも知れない。また活ける水たる御方と知っていても、火として存じ上げないかも知れない。そこで我々は、我々の心に福音を伝えるために、私共に与えられているすべての教えを受け容れ、それらが私共にすべて成就されんことを神に要求すべきであります。
水。純粋な水の入ったコップに太陽の光が当たった時の美しさよ。水は驚くべく美しい元素であります。真夏の太陽の下に輝く湖水の如何に美しいことぞ。
今年の標語カードの絵は、しばしば皆様に静寂と平穏、そして神の平和を感ぜしめたことと思います。それはダーウェントウォーター湖の絵であります。静かな湖水は我々に静穏と安息の印象を与えるものです。聖霊も同様であります。平安と満足とを与えたもうのであります。
聖霊は生命の水であります。故に皆様はこの御方によって、すべての事に驚くべき援助となっていただく事ができ、その与えたもう平安と能力とを受けることができます。『われ渴けるものに水をそゝがん』。
厳 粛 に 呼 び か け た も う
この約束の序言とも言うべき四十四章一節二節は何と厳粛な御言でありましょう。主イエスは御約束を私共の心に銘記せんと欲したもうた時は、常に『まことに誠に汝らに告ぐ』という御言をもって始めたまいました。この一節二節もちょうど同様であります。我々の心を感動させ、何事か非常に重要なことが語られるのであるということを了解させるところの序言であります。
『されどわが僕ヤコブよ、わが撰みたるイスラエルよ、今きけ』(一節)
前章(四十三章二十二〜二十四節)に語られてある失敗にもかかわらず、即ちイスラエルの民は祈禱を怠り、愛と献身を欠き、常に不義を行なっていたにもかかわらず、神は彼らに語りたく望んでいたもう。故に『されど……今きけ』と呼びかけたもう。神は一人びとりに対して個人的に語りたもう。神は『おのが羊の名をよび給ふ』からであります(ヨハネ伝十章三節)。
『なんぢを創造し、なんぢを胎内につくり又なんぢを助くるヱホバ如此いひたまふ、わがしもべヤコブよ、わが撰みたるヱシュルンよ、おそるゝなかれ』(二節)
我は汝らを造ったヱホバである。それ故に汝らを知り抜いている。霊と心と肉体より成り立つ驚くべき人性を創造し、また誰も測り知ることのできないような、人間の性情の深奧な所までも創造したヱホバであると言いたもうのであります。創造者なる神はよくご存じでありまして、その御方が『われ汝を助けん』と言いたもうのであります。過去の一切の失敗と、繰り返し繰り返し行なった不義とにもかかわらず、神は私共を助けて下さるのである。神は私共を隅から隅までご存じで、我々の必要とする助けを正確に知っていらっしゃる有力な助け人でありたもう。
そして神はかかるものに対して『わが撰みたる僕よ』と語りたまいます。至高者の僕となり、その御意を行い、その讃美と栄光とのために選ばれたと言うのであります。神がその愛を注ぎ、大なる栄誉のために選びたもうた神の僕である。
この暗黒にして無知な世に在って、神の証人たるべく、神は私共を選びたもうた。我々の周囲にはびこる悪の勢力に反抗する神の戦士として選びたもうたのであります。神は我々が愛において神の前に潔く責むべきところなき者たるべく、即ち我々が御自身のごとくあらんために、私共を選びたもうたのであります。これは驚くべき事ではないでしょうか。我々が御子の姿に似せられ、栄光の御座に共に坐せしめられるということは何たることでしょう。
『お そ る ゝ な か れ』
神は己が選びて贖いたまいしたものに『おそるゝなかれ』、『疑うなかれ』と言いたまいます。如何なる疑惑も懼れも、如何なる失望も不安も、汝の心の中に起すなかれ。『おそるゝなかれ』。神が我々に幾度も幾度も繰り返したもう御言は『おそるゝなかれ』であります。人間の心はとかくおそれやすく、懼は信仰の最大の敵であるからであります。懼のあるところに信仰はありません。信仰あるところに懼は消え失せてしまいます。故にヱホバは我々にこの最も驚くべき約束を与えんとしたもう時に、『おそるゝなかれ』と言いたもうのであります。我はわが約束せしことを成し遂げることができないなどと懼るるな。わが言いし事に忠実ではなかろうなどと懼るるな、疑うな。
我々はかかる祝福を受けることはできるであろうかと、そのような約束を見て懼れるかも知れない。我々が四十三章二十二〜二十四節を読む時に懼を感ずるかも知れません。しかしそれにもかかわらず、神は我々に『以前の失敗を思い出づるなかれ、われ新しき事をなさん』と言いたもう。それ故に『おそるゝなかれ』。
過 去 の 失 敗
私共は失敗をしている。第四十三章を見るならば、そこには神が悲しげに語っていたもう失敗が記されている。その失敗は神の御心を痛めているのであります。神の譴責を深く考えよ。
(イ) 祈禱が中止された(二十二節)。私共は他のところに喜悦と健康と歓楽を求めた。即ち『汝われを呼たのまざりき』。
(ロ) 『汝われを厭ひたり』。道中に倦み疲れ、神を厭うて、私共の心は時々再びエジプトに後戻りする事があります。おお、これは何たる罪でありましょう。
(ハ) 二十三節。神を崇め、神を愛する徴が何もない。義務的礼拝や儀式的礼拝はあるかも知れないが、神に対する愛と献身から真に出ずる心の礼拝がない。私共しばしばかくのごとく礼拝を怠り、献物が貧弱なことはないでありましょうか。
(ニ) 二十四節。『なんぢの罪の荷をわれに負せ……たり』。同じ罪を幾度も繰り返すことであります。
完 全 な る 赦 罪
神が我々を見棄てたもうであろうと考えた事はないであろうか。然るにもかかわらず、神はすべてこれらの怠りと、愛と献身の欠乏とを、完全に赦して下さるのです。『われこそ我みづからの故によりてなんぢの咎をけし汝のつみを心にとめざるなれ』(二十五節)。何と驚くべき約束ではありませんか、しかもこのような場合に与えられるとは。私共がこれらの罪と失敗とを考えている時に、神は「我は全部を帳消しにした。もはや心に留めない。その罪を思い出さない」と言いたもうのであります。
何と栄光ある赦罪が私共に提供されていることでありましょう。おお、私共の心に赦罪を受け容れて獲得した時の歓喜よ。それは我々の眼に喜びの涙を溢れしむる真の赦罪であります。何故ならば「汝の罪は赦されたり。われこそ我みづからの故によりてなんぢの咎をけさん」と神が私に言いたもうたからである。
汝の故によりてではない。または汝の服従とか献身とかそのようなことの故でもない。『我みづからの故によりて』である。何たる確信を我々に与えることでしょう。もしそれが我々が行い或いは感ずるがごとき、私共の側の事のためであったならば、我々は標準に達しているであろうかどうかと常に心配していなければならない。しかし神は『我みづからの故によりてなんぢの咎をけさん』と言いたもうのであります。これは代償なくして与えたもう恩恵である。神は王であるが故に、愛の王でありたもうが故に、御自身の御名の故に我らのすべての咎を消し去りたもうのであります。
神はカルバリの宝血に由り如何にそれをなさんとしていたもうかは告げていらっしゃらない。神は我々に栄光ある約束を与えたもうだけである。しかしこれが全部ではない。これは謂わば救の半面に過ぎない。赦罪の約束は我々のすべての過去に及んで下さる。しかして今神は我々に将来に関する約束を与えたもう。『われ水をそゝがん』(四十四章三節)。我々が将来も引き続き神を喜ばんがために、神は我々に聖霊を与えたもうのであります。
これはあのペンテコステの初めの日、エルサレムの屋外集会において、人々が『我儕は何を爲べき乎』と言いつつ集まって参りました時に、ペテロが説教したところのことであります。『爾曹おのおの悔改めて罪の赦を得んが爲にイエス・キリストの名に託てバプテスマを受よ 然ば聖靈の賜を受べし』とペテロは申しました(使徒行伝二章三十八節)。ここに二つの賜物が語られている。罪を消し去る事と、聖靈の賜物とである。これが神の完全な救であります。即ち十字架において我々のために贖われたる、神の祝福の充ち満てる贖罪であります。
放蕩息子は家に帰って来た時、その父の赦を受けたのでした。しかしそれは全部ではなかった。彼はまた高価な賜物を与えられました。彼は衣を着せられ、尊ばれ、富まされ、その父の右に置かれたのでありました。一時間前までは軽蔑され侮られていた放蕩息子は、今やあの驚くべき歓待を受け、過去は忘れられ、祝福に満ちあふれしめられたのです。
これはそのままここで、私共に約束されている事であります。過去の罪を消し去られ、我々の心は聖霊に満たされるのであります。
しかしその罪を赦された事を知り、それを喜んでいる基督者はたくさんあります。然るに彼らは決して聖霊を受けていない。それ故にその生涯は弱く、彼らは正常な果実を結んでいないのであります。
聖 霊 与 え ら る
御約束は『われ水をそゝがん』と言うのであります。これは皆様方一人びとりの必要が満たされ、しかも完全に満たされるという意味であります。神の恩恵の盈満が与えられるのである。『われ水をそゝがん』。これは真の浄めを意味している。何故ならば、それは聖霊のバプテスマであるからである。即ち肉と霊とのすべての汚穢より真に浄められる事であります。
これはちょうど天路歴程の中で、基督女とその友人らが、通訳者の家を訪れた箇所に似ている。その時、皆のものたちが出発する前に、通訳者は彼らに浄めの浴場に行く事を勧めた。彼らがそこから出て来た時、「麗しく潔くなったばかりか、いかにも元気づいて、関節も力強くなっていた。そして以前よりも更に美わしくなっていた」。それから彼らは「白い衣」を着せられた。それは「白くして潔い立派な麻布の衣」でありました。
かくのごとく聖霊なる神は、我々がこの地上で馳場を走るために霊的健康と能力と元気とを与えたもうのであります。
リ バ イ バ ル の 祝 福
しかしこればかりではありません。御約束を読んで行くと、神は『乾たる地に洪水をそゝぎ』(三節英訳)と言いたまいます。乾たる地、そこには長い間雨が降らず、荒廃不毛の地であった所に、豊富なる祝福が来るというのである。これはリバイバルの祝福と恩恵の事を言うのであります。
神の教会に今まで起ったほとんどすべてのリバイバルは、乾たる地の上になされたと私は信ずる。三十年前、南部ウェールズに起った大リバイバルも、その教会は冷ややかで大部分死んでいたような乾いた地であった。二百年前のウェスレーに由るリバイバルは、英国が不信仰となり、罪が満ちていたような時に与えられた。神は私共が期待してもいなかったようなところにリバイバルの祝福を注ぐ事を喜びたもうのである。しかも神は雄大に注ぎたもう。少しばかりの小雨ではなく、洪水を与えたもう。小雨では乾きたる地には用をなさないのです。私共は乾きたる死せる場所に祝福の洪水を要求しようではありませんか。『乾たる地に洪水をそゝぐ』とは神ご自身の御言であり、御目的である。
二百二十年前、ヘルンフートにおけるモラビア派の小なる教会は、乾きたる地に流れを受けた。そして伝道界の歴史のおいて、その教会のごとき伝道的教会は他にないのであります。その教会は伝道の野において最も大胆で最も顕著な仕事をなしたのであります。その時、その教会の状態は非常に悪かったので、指導者なるディンゼンドルフ伯はそれを非常に悩んでいた。そこで彼は数日間祈禱を共にするために教会員を集めた。聖日に聖餐を行った。彼らが主イエスの生命と死の表徴に与りつつあった時に、聖霊は彼らの上に降った。彼らは信仰に由り、キリストの十字架と、彼らのためになされた主の愛の犠牲とを見た。彼らの心は砕かれ、溶かされた。彼らの上に神は祝福の洪水を注ぎたもうたのであります。これがモラビア教会におけるあの驚くべき御業の最初でありました。おお、神は私共にもこの事を行いたまわんことを──乾きたる地に洪水の注がれんことを。
しかして御約束はまだ続きます。『わが靈をなんぢの子輩にそゝぎ、わが恩惠をなんぢの裔にあたふべければなり』(三節)。若い人々、即ち青年男女の上に注ぎたもう。子供らの上にも注ぎたもうと言うのであります。神の聖霊は彼らの上に来るのである。しかり、過去においてもしばしばこの事は起ったのである。不信仰は「これらの祝福は成就せる聖徒の上にのみ来るのである」と言います。しかし信仰は子供たちもまた満たされうる事を見るのであります。
私は大阪市外の小さな一教会を知っている。そこでは子供らの上に神の聖霊が注がれているのを見る事ができます。しばしば私共の信仰はそこまで達しないことがある。子供たちは理解する事ができるでしょうかと我々は疑います。しかし神は『わが恩惠をなんぢの裔にあたふ』と約束したもうのであります。
栄 光 あ る 結 果
最後に次のような栄光ある結果が来るのであります。
(イ)四節。──草の中の花のごとく(英訳)。私はかつてパレスチナの花を見たことがあります。その時、或る丘は一つの花で青色となり、他の丘はアネモネで紅となり、もう一つの丘は黄色になっているのを見ました。神はこれを比喩に取って、基督者は『草の中の花』のごとくこの世を美しくするものであると言いたもうのであります。
(ロ)五節。──キリストに対する明確な証詞と大胆な告白が起るのであります。
暫くの間ナイジェリア地方に滞留していた私の一人の友人は、長い旱魃後の降雨の影響の非常に驚くべきものである事を私に語ってくれました。彼が言うには、土地は乾燥し切って、一切のものが乾き、死んでしまい、樹木も土地も褐色の一色となってしまう。そして何も生えて来ない。
そこへ雨が来る。その結果は驚異的である。その日の午後には草は緑色になり始める。何処にも緑色が萌え始める。降雨の後四十八時間以内に、土地の全貌が全く変化してしまう。草花は芽を出し、種子は萌え出ずる。到る処に生命の躍動を見るのであります、と。
『乾たる地に洪水をそゝぎ』、しかしてこの驚くべき結果が生ずるのであります。
私共単純に神の御言そのままを受け容れようではありませんか。神の御約束が成就されるのを期待しようではありませんか。我々すべての障礙と不信仰の悪しき心とを取り除き、真剣になって聖霊を受けることを求めようではありませんか。不信仰に由って約束に躓くことなく、神に栄光を帰しつつ信仰に強く立とうではありませんか。かくして我々も聖霊を受け、主イエスのために輝く光となろうではありませんか。そうすれば、そればかりでなく、乾たる地に洪水は注がれ、我々は周囲の何処にも神の恩恵の栄光ある徵を見、神の聖霊の御活動を拝するに至るのであります。
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