四、死人を生き返らす働き



 私共もはや救われました者は他の人にその救いを宣べ伝えなければなりません。神はその大いなる特権を私共に与えたまいました。キリスト信者でありますれば、是非ほかの人にその喜びの音信を宣べ伝えなければなりません。ただ証しするばかりでなく、罪人を救いに導き、生まれ変わるまで導かなければなりません。
 罪人が生まれ変わりますのは、死より甦りましたように神の奇蹟であります。そうですから罪人を導くことは死人を甦らせることと同じことです。私共はどうしてそんな働きができますか。この列王紀略下四章にエリシャが子供を甦らせたことが記してありますが、それによりて私共はどうして神の力に頼りて罪人を救うことができるかがわかります。そうですから深くこれを研究しとうございます。皆様はよくこの面白い話をご存じでしょう。十八節からご覧なさい。

 『18 その子が成長して、ある日、刈入れびとの所へ出ていって、父のもとへ行ったが、19 父にむかって「頭が、頭が」と言ったので、父はしもべに「彼を母のもとへ背負っていきなさい」と言った。20 彼を背負って母のもとへ行くと、昼まで母のひざの上にすわっていたが、ついに死んだ。21 母は上がっていって、これを神の人の寝台の上に置き、戸を閉じて出てきた』(王下四・十八〜二十一)。

 そして母はエリシャのもとに行きました。エリシャはこれに何と申しましたか。続いて二十九節からご覧なさい。

 『29 エリシャはゲハジに言った、「腰をひきからげ、わたしのつえを手に持って行きなさい。だれに会っても、あいさつしてはならない。またあなたにあいさつする者があっても、それに答えてはならない。わたしのつえを子供の顔の上に置きなさい」。30 子供の母は言った、「主は生きておられます。あなたも生きておられます。わたしはあなたを離れません」。そこでエリシャはついに立ち上がって彼女のあとについて行った。31 ゲハジは彼らの先に行って、つえを子供の顔の上に置いたが、なんの声もなく、生きかえったしるしもなかったので、帰ってきてエリシャに会い、彼に告げて「子供はまだ目をさましません」と言った。
 32 エリシャが家にはいって見ると、子供は死んで、寝台の上に横たわっていたので、33 彼ははいって戸を閉じ、彼らふたりだけ内にいて主に祈った。34 そしてエリシャが上がって子供の上に伏し、自分の口を子供の口の上に、自分の目を子供の目の上に、自分の両手を子供の両手の上にあて、その身を子供の上に伸ばしたとき、子供のからだは暖かになった。35 こうしてエリシャは再び起きあがって、家の中をあちらこちらと歩み、また上がって、その身を子供の上に伸ばすと、子供は七たびくしゃみをして目を開いた。36 エリシャはただちにゲハジを呼んで、「あのシュネムの女を呼べ」と言ったので、彼女を呼んだ。彼女がはいってくるとエリシャは言った、「あなたの子供をつれて行きなさい」。37 彼女ははいってきて、エリシャの足もとに伏し、地に身をかがめた。そしてその子供を取りあげて出ていった』(王下四・二十九〜三十七)。

 ここに二人の人がこの子を甦らせとうございました。第一にその子を甦らせようと思ってゲハジを遣りましたが、何の利益もありませなんだ。後にエリシャがこれを行って子供は甦りました。この二人の働きによりて、私共はなぜ或る時は罪人を導くことができぬか、またいかにして罪人を救うことができるか、その秘密を学ぶことができます。ともかく死んだ者を甦らすことは自分の力ではできません。神の力でなければなりません。私共は自分の力に依り頼みてこの事業を致しますれば必ず失敗します。この事業は実に大切な働きですが、自分の力では決してできぬことを深く心の中に感じとうございます。
 第一にゲハジは何もできませんでした。ゲハジは預言者の杖をもってその子の顔の上に置きました。けれども子供はこのために甦りませなんだ。或る伝道者はこのような伝道を致します。例えば聖書の教えを得ましたから、また救いの道を知りましたから、預言者の杖のようにこれをもって罪人の前に宣べます。けれども聖霊の力に依り頼みませずして、ただ真理のみを宣べ伝えますれば何の力もありません。ゲハジが子供の顔の上に預言者の杖を置きましたと同じように、必ず死んだ者を甦らすことはできません。もちろん罪人に救いの真理を教え示すことは大切なことであります。けれどもそれのみでありますれば、罪人は饑え渇いて神を求めることを致しません。
 使徒行伝十九章十三節からご覧なさい。『そこで、ユダヤ人のまじない師で、遍歴している者たちが、悪霊につかれている者にむかって、主イエスの名をとなえ、「パウロの宣べ伝えているイエスによって命じる。出て行け」と、ためしに言ってみた。ユダヤの祭司長スケワという者の七人のむすこたちも、そんなことをしていた。すると悪霊がこれに対して言った、「イエスなら自分は知っている。パウロもわかっている。だが、おまえたちは、いったい何者だ」。そして、悪霊につかれている人が、彼らに飛びかかり、みんなを押さえつけて負かしたので、彼らは傷を負ったまま裸になって、その家を逃げ出した』(十三〜十六節)。或る人はその通りに主イエスの名を使います。この人々は、主イエスの名によりて人々が救われ、悪霊が逐い出されることを見ましたから、自分も軽々しくまじないをするように主イエスの名を用いました。もちろん主イエスの名のために罪人は救われ、悪霊は逐い出されます。けれどもこのように祈りませずして主イエスの名を用いますれば、何の益なく、かえって自分が傷つけられて逃げ去らなければなりません。ゲハジの働きはその通りでありました。
 たびたび子供が花を摘んで庭に挿し、小さい花壇を作ります。けれどもその花はすぐに枯れてしまいます。大人がその花の種を庭に播きますれば、そこから芽を出しましてだんだん成長し、美しい花が咲きます。私共ももし聖書の句だけを挿しますればすぐさま枯れます。けれども神の言なる種を祈禱をもって植え付けますれば、そのため罪人は救われ悪霊は逐い出されます。種は実に何でもないつまらないもののように見えます。子供の挿すところの花のように立派ではありません。またその種を播きましても、その時すぐさま子供の作った真似事の花壇のように立派な結果はありません。けれどもだんだんその結果が表れて、やがてその結果がとどまります。そうですから私共は神の言を、祈禱をもって、聖霊の力によりて人の心に植え付けねばなりません。私共はそのように神の力、神の活ける力に依り頼まなければなりません。他の人の説教を聞いてできるだけその説教を真似し、またその伝道法を真似して伝道しますなれば、ちょうど花を挿すのと同じことであります。けれども私共は神に祈り、神の聖顔を求めてそれを植え付けますなれば、必ずそのために罪人は甦ります。
 第二、ゲハジはその子の死んだことを知りませなんだ。『子供はまだ目をさましません』(三十一節)。そうですから真正に死んだことを知りません。目を覚ますことができると思いました。私共は心の中に罪人はもはや死んだ者であることを感じなければなりません。罪人はもしただ眠っている子供のような者でありますれば、自分の力や熱心で目を覚まさせることもできましょうし、信じさせることもできましょうが、その人が全く死んだ者でありますれば、どんなに熱心に伝道しても、どんなに上手に説教しましても、自分の力でそれを生き返らせることはできません。全く望みないものであります。その人の中に生命がありませんから、あなたの職務は生命を与えることです。しかしこれは全く神の働きであります。
 第三、ゲハジはこの子供の有様に適するに足るように自分を低くしませなんだ。ゲハジはこの子供に近づき、預言者の杖をその顔に置きましたが、上から何か降ったもののようにそれを置きました。私共はもし真正に罪人を救いとうございますならば、実際において私共が下ってその人の地位に自分を置き、同情をもってその人に接しなければなりません。決して上から彼らを教え込むような態度があってはなりません。主イエスは天の上より私共を救いたまいませず、私共の所まで降り、私共に同情ある者となりたまいました。それにより私共を生き返らせ、私共を救うことができました。私共もそのように主の足下に坐って、己を低くして罪人を助けなければなりません。
 スペインの海岸で破船があったことがあります。その海岸に水難救済所がありましたが、船に乗っていた人が船と共に悉く沈没して溺死しました後、本部にそのことを報告しました。その報告書にはこういう風に書きました。私共はかくかくの船がこの海岸において沈没し、船員すべてが船と共に沈んで溺死したことを報告しなければならぬことを、非常に遺憾に思います。私共は拡声器をもってできるだけ彼らを助けんと努めましたが、無益でありましたと、そう書きました。沈没する人を拡声器をもって救うことはできません。そんな報告は可笑しいことであります。救助船を出してその溺れかかっている人々の所に行ってその人々を救うはずです。自分たちは陸におって拡声器をもってそれを救うことはできません。兄弟姉妹よ、私共の伝道にたびたびそんな伝道はありますまいか。上からただ言葉のみをもって伝道しますから、沈みかかっている人々を救うことができません。その失敗の原因は私共にあります。これはゲハジの働きであります。そんな伝道はやめる方がようございます。どうぞ深く自ら顧みて、そんな過失がありますならば悔い改めて真の伝道を致しとうございます。
 エリシャはどんな方法をもってこの子供を甦らせましたか。第一に、エリシャはこの子供の死んだことを知りました。『エリシャが家にはいって見ると、子供は死んで、寝台の上に横たわっていたので』(三十二節)。真正の伝道者はそれを知る心の目が開かれていますから、必ず罪人の有様を知り、罪人のために重荷を負うことを得ます。私共は第一にそれを感じなければなりません。聖書によりて罪の恐ろしい運動を知りまして、罪人の死んでいることが解らなければなりません。エペソ書をご覧なさい。二章一節より、『さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順な子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった』(三節まで)。私共は深くこういうことを感じなければなりません。この三節により、心を静めて祈禱をもって罪の真の状態を知るように神に求めなければなりません。サタンの奴隷であること、この世の汚れに循い、肉欲に循って日を暮らしていること、また真正に死んでいることを示さなければなりません。エルサレムの町は実に綺麗でありまして、そのまわりの景色は実に美しうございました。けれども主イエスはそのエルサレムを見たまいました時、泣きたまいました。何故ですかならば、主イエスはその表面の有様に目を付けたまわず、その真の有様を感じたまいましたからです。そうですから涙を流して嘆き悲しみたまいました。私共は人間の表面のことに目をつけず、聖書に教えられてその真の有様を見なければなりません。エリシャはそのようにこの子の死んだことがわかりました。
 またそれのみならず、この子供を甦らすことは自分の責任であると感じました。三十二節に『寝台の上に横たわっていたので』とあります。自分の寝床に置かれましたものですから、自分がそれをせねばならぬと感じました。肉に属ける伝道者はあまり責任を負いませんが、聖霊に満たされました者は責任を感じ、責任を負うて働きます。そのために或る時には涙を流して熱心に祈ります。神の摂理によりてその人は自分に近づき、自分に交際しましたから、すなわち自分の寝床に伏していますから、その人を甦らすことは自分の責任であります。そうですから涙を流して祈り、力を尽くして働きます。聖霊に満たされた伝道者はその伝道地のために重荷を負うて祈ります。周囲にある人々のために責任を感じ、力を尽くして働きます。聖霊に満たされますれば個人個人のためにも、その場所全体のためにも責任を負うて祈りまた働きます。
 また第三に三十三節をご覧なさい。戸を閉じました。『彼ははいって戸を閉じ、彼らふたりだけ内にいて主に祈った』。戸を閉じますれば必ずそのために神は働きたまいます。戸を閉じます。すなわちその死んだ人と一緒におりまして、顔と顔と合わせて話します。また戸を閉じることは神と静かに交わることを示します。私共はただ公開の集会で説教することだけで、すなわち人間の眼の前に伝道することだけでは、そのために罪人を生き返らすことはできません。罪人はどこで生命を得ますかならば、静かなところで心を合わせて親密に交わっているところで悔い改めて生命を得ます。また静かなところに入り戸を閉じて祈ることにより、そのために罪人は甦ります。
 この四章の四節に戸を閉じる他の例があります。『「そして内にはいって、あなたの子供たちと一緒に戸の内に閉じこもり、そのすべての器に油をついで、いっぱいになったとき、一つずつそれを取りのけておきなさい」。彼女は彼を離れて去り、子供たちと一緒に戸の内に閉じこもり』(四、五節)。そこで油をつぎて豊かなる油を頂戴することを得ました。すなわち私共は第一に、戸を閉じて豊かなる聖霊の油を頂戴することができます。また第二に戸を閉じて罪人を甦らすことを得ます。
 戸を閉じるということはどういう意味でありますかならば、他のことを全く追い出して、他のことを全く捨ててただこの一事を務めることであります。エリシャが戸を閉じてその死んだ子供と一緒におりましたように、私共も他のことを全く捨てましてその人の救いのために力を専らにすることが肝要であります。他の考え、他の願いを全く捨てて、ただその人のために力を尽くして祈り、また働き、ただいまその人が救われるように求めとうございます。
 また第四に、三十三節の終わりに『主に祈った』とあります。これは苦しんで祈禱を献げることです。私共は死んだ者を甦らせとうございますならば、軽々しく祈っても利益がありません。苦しんで祈らなければなりません。これは生命を賭ける事業でありますから、力をくして苦しんで祈禱を献げねばなりません。コロサイ書四章十二節『彼は常に汝らの為に力を尽くして祈をなし』(文語訳)。この人は信者のために力を尽くして祈りました。この祈禱は同じことであります。罪人のためにもそのように祈らなければなりません。この言葉は弱くございます。ギリシャ語では祈禱の中に言いがたき歎きをもって祈るという意味で、ゲツセマネの時と同じ文字が使ってあります。
 英国に一人の熱心な教役者がありました。どうかして霊魂が救われるように神に頻りに祈りまして、時々救われる霊魂のあることを見ました。けれどもなお一層多くの者が救われるようにと思って注意して説教を準備し、熱心に祈りました。或る時そのために涙を流して祈りましたが、ついに自分には未だ一つ、この言いがたき歎きをもって祈るということの欠けていることを発見しました。これがために十分に霊魂の救われないことを知りました。その時から多数の人がその人によりて救われまして、その人の死んだ時には十万人がその人によりて救われましたことが解りました。おお、言いがたき歎きをもってお祈りなさい。
 第五に、エリシャはこの死人と一つになりました。『そしてエリシャが上がって子供の上に伏し、自分の口を子供の口の上に、自分の目を子供の目の上に、自分の両手を子供の両手の上にあて、その身を子供の上に伸ばしたとき』(三十四節)。私共はそのように罪人と一つにならなければなりません。同情を表し、愛を表し、望みをもってその人に近づかなければなりません。私共は罪人を救いとうございますならば、一方において神に近づき、一方においては罪人の心に近づかなければなりません。テサロニケ前書二章八節をご覧なさい。『このように、あなたがたを慕わしく思っていたので、ただ神の福音ばかりではなく、自分のいのちまでもあなたがたに与えたいと願ったほどに、あなたがたを愛したのである』。これは真の伝道者の精神であります。そのように罪人を愛し、罪人に同情を表し、このように自分の生命をも与えたい心をもって罪人に近づかねばなりません。そうでなければ罪人を救うことができません。どうぞ未だ心の中に冷淡がありますならば、また罪人に対する愛がありませんならば、神に祈ってこういう愛と同情をお求めなさい。
 エリシャはそのような愛と同情をもってこの死人に接しましたから『子供のからだは暖かになった』(三十四節)。すなわち生命の始めの兆しがありました。しかしエリシャはそれで満足しません。もしその時エリシャが去りましたならば、その体温はまた消え去ってしまうかも知れません。そうですからエリシャはなおなお熱心に祈り、この子供に生命を願いました。ガラテヤ書四章十九節に『ああ、わたしの幼な子たちよ。あなたがたの内にキリストの形ができるまでは、わたしは、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする』とあります。パウロはこのガラテヤ人の救われました時、そのために産みの苦しみをしましたが、いま彼らが堕落しましたから、再び産みの苦しみをすると申しました。私共も罪人の生命を得ることを見とうございますならば、そのような精神、そのような心をもって祈らなければなりません。疲れず、倦まず、やめずにその人が生命を得るまで祈りまた働かねばなりません。
 エリシャはその人が生命を得るまで働きました。『こうしてエリシャは再び起きあがって、家の中をあちらこちらと歩み』。どうも休むことができません。他のことをすることができません。ただ心の中にこの子のことばかりを思い煩って、家の中を彼方此方歩いていました。『また上がって、その身を子供の上に伸ばすと、子供は七たびくしゃみをして目を開いた』。ようやく生命が参りました。神は働きたまいました。神はその大いなる働きをなしたまいました。生命を与えたもう神はその死人に生命を与えたまいました。この時エリシャの心の中に静かな喜悦があったでありましょう。皆様もたぶんそんな経験をなさいましたでしょう。ついに罪人が生命を得ますならば伝道者の大いなる喜悦であります。その罪人は救われて喜びますが、伝道者はそれによりてその本人よりもなおなお大いなる喜悦を経験します。
 愛する兄弟姉妹よ、罪人を救うことはあなたの力ではできません。あなたはそのことをなすに足らぬ者であります。どんなに聖書の知識がありましても、どんなに技倆がありましても、それはできません。そうですから罪人のために苦しんで祈らなければなりません。他のことを全く捨て、ただこの一事を務めて、その人の救われることを求めなければなりません。罪人が生命を得て救われることはただ神の働きです。神は人を救いたまいとうございます。神はあなたを生命の管となしたまいとうございます。神はあなたの手をもって他の人に生命を与えたまいとうございます。そうですからどうぞ罪人に近づき、また神に近づいてその伝道を成し遂げなさるようにお勧めいたします。



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