六、罪 人 を 導 く 真 理



 『16 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。17 それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。』(テモテ後書三章十六、十七節)

 この聖書によりて私共は全き人となることを得ます。これは自分の品性のことです。第二にこの書物によりてすべての善行を行うために知識を受けることができます。これは働きに関することであります。今朝、如何にして罪人を導くべきかをこの聖書より学びとうございます。
 罪人を導く時に常に聖書を用いなければなりません。私共の教え、また証によりて罪人は生まれ変わりません。けれども聖書にある神の言の力により生まれ変わります。『あなたがたが新たに生れたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生ける御言によったのである』(ペテロ前書一章二十三節)。ただ私共の言葉のみを用いますれば、先方の人の頼るべき言葉がありません。けれども聖書の言葉に依り頼んで信じますれば、堅き岩の上に信仰を建てることを得ます。サタンが試誘に参りました時、その人は永遠変わらぬ神の聖言を繰り返して用いますから、サタンに打ち勝つことを得ます。
 第二の集会に残りました未信者に話をする時には、その集会の説教より話し始めなさい。例えばその説教が神の愛でありましたならば、神の愛のことより話し始め、或いは罪の刑罰、審判に就けるものでありましたならば、第一にその話をその人に当て嵌めなさい。そう致しますればそれによりてその人は心の立場を知ることを得ましょう。第二の集会においてはただこちらからその人に話をするばかりではいけません。その人の話を聞かなければなりません。その時は説教すべき時ではありません。互いに交わってその人の心の状態を知り、その人の心を癒す格別な薬を与うべき時であります。そうですからその人の言うことを聞いて、その人の心の状態を知ることは肝要であります。
 第一、或る人は罪につき救いについて未だ何とも感じていません。そんな人にはどういう風に話すべきかと申しますに、何も長たらしく論ずる必要はありません。そんな人のために格別に説いてある神の言を与えることが必要であります。それに適当なのは、確かに来るべき審判、すなわち例えばロマ書十四章十二節のような句をお示しなさい。或いは黙示録二十章十一、二節、或いはロマ書二章十六節などもよろしいでしょう。聖言を示す時には聖書を開いてその人に見せた方がよろしうございます。また第二に罪の結果をお示しなさい。今まで罪を犯しましたから、必ずその罪が恐ろしい結果を生ずるはずであります。恐ろしい果を結びます。『イエスは彼らに答えられた、『よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯すものは罪の奴隷である」』(ヨハネ八・三十四)。この悪魔の奴隷たることがわかりましたならば、三十六節をお示しなさい。『だから、もし子があなたがたに自由を得させるならば、あなたがたは、ほんとうに自由な者となるのである』。或いは同じことにつきロマ書六章二十三節をお示しなさい。『罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである』。この始めの句に同意しますれば終わりの句を示すようにしなさい。また第三に、現在において不信仰の有様の恐ろしいことをお示しなさい。例えば天皇陛下を信ぜぬ人、或いは国の法律に従わぬ人がありますならば、どうなりますか。または軍隊の中に大将の命令に従わぬ兵卒がありますならば如何ですか。恐ろしいことではありませんか。そのように、王の王たる神を信じませんならば、これは恐ろしいことでありまして、反逆人であります。『神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている』(ヨハネ三・十七、十八)。不信仰なる人は現在において神の審判の宣告を受けている者です。これは恐ろしいことです。もはや死刑の宣告を受けましたならば牢屋におることは恐ろしいことです。『そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである』(同十九節)。また或いはロマ書二章四、五節、これはたびたび集会に出て来る罪人の有様です。どうぞ聖霊の能力をもってこういう言葉を説明しなさい。或いはヘブル書二章三節『わたしたちは、こんなにたっとい救いをなおざりにしては、どうして報いをのがれることができようか』。病人が医者の助けを等閑に致しますれば、また破船に遭いました者が救助船を等閑に致しますれば助かる道はありません。
 私共の聖書にこういう句に赤い線または他の印を付けておきますれば、それを示す時にその人の注意を惹きます。またできますなら個人伝道用に別の聖書を用いますれば更にようございます。また或いは聖書を紙に写してその人に与え、或いは福音書の分冊に線を引いて与えるのも面白うございます。
 第二、罪を感じている者に対してはどうしたらようございますか。大切なことはその人の意志の向かうところを察することで、それを察して福音に従わせるように試みなければなりません。マルコ十章の若きつかさは熱心に永遠の生命の道を求めました。けれども真正に主イエスに従いたくはありませなんだ。イエスに譲ることを厭いました。今でも、私共の集会ではたびたびこういうことを見ます。熱心に救いを求め、熱心に平安を願いますが、砕けたる意志をもって主に身も魂も献げません。そういう人はかえって何も得ずして帰る方がようございます。そういう人に対してはいかなる慰めの言葉を与えるよりも、まず神に従うや否やをお尋ねなさい。格別にこういう人に自分の力で救われるという考えがありますれば、それは駄目であると示さなければなりません。或る人は集会に参りまして主イエスを信じますが、未だ心の中に己を信ずる心が残っております。自分の力、自分の熱心で罪を離れて潔き生涯を送ることを望みます。そんな人は必ず失望します。ただ主イエスの働きのみで救われることをお示しなさい。イザヤ書五十三章五、六節、或いはガラテア書三章十三節。こういう聖書の句によりて静かに心の中に信ずることを得るようにお導きなさい。砕けたる心をもって祈ることは第一に必要であります。その人が自分の力で救われることができぬことがわかりましたならば、一緒に跪いてお祈りなさい。まずあなたがその人のためにお祈りなさい。次にその人が自分の口を開いて祈るようにお勧めなさい。砕けたる心をもって主イエスを信じて祈ることは必要なことであります。その人がどうしても祈りの言葉が出ませんならば、どうか讃美歌の句を繰り返して祈らせなさい。例えば『功なき我を血をもて贖い、イエス招きたもう、みもとにわれ行く』、或いは『主よわれは今ぞ行く、十字架の血にてきよめたまえ』。こんな歌の句をもって祈禱を教えなさい。また祈りましたならば、主イエスを信仰することについてなお深く教えなさい。主は必ずその祈禱を聞き、必ず救いを与えたもうたと聖書によりお示しなさい。
 次に必要なことは子供らしい信仰です。信仰を起こすためにヨハネ六章三十七節のような句をお示しなさい。『父がわたしに与えて下さる者は皆、わたしに来るであろう。そして、わたしに来る者を決して拒みはしない』。いまあなたは正直に神に参りましたから主イエスは必ずあなたを受け入れたまいました。それを信ぜよとお勧めなさい。かように信仰をお助けなさい。またヨハネ三章三十六節、或いはヨハネ五章二十四節、または同じく一章の十二節のような句をお引きなさい。
 しかしどうぞ人を導く時にただ一箇所をお引きなさい。諸方より引照を引きますとかえって惑わせます。格別に一つか二つの聖句だけを与え、その言葉を堅く握らせなさい。繰り返し繰り返し、また種々の例をもってその句を説明して教えなさい。
 第三、もはや主イエスを受け入れましたならば、別れるときにその人に対してひとつの聖句を与えなさい。そしてこの救いは全き救いであることをお説きなさい。ヘブル書七章二十五節のような聖句を引いて、この救いが浅い救いでなく、深い救いであり、全き救いであることを説き、また主イエスは全霊全生全身を守りて全く救いたもうことを示して、その人の心の中に望みを起させなさい。キリストは能力ある守り主です。或る人は格別に未来のことを恐れて信じかねます。或いは誘惑に敗北するかも知れぬと恐れ、また明日働き場に出れば迫害せられるだろうなどと恐れて信じかねます。そんな人に対してユダ書二十四節は適当の句です。すなわち主はただ罪に陥らぬように守りたもうばかりでなく、小さいことにも躓かしめぬように守りたまいます。またはイザヤ書四十一章十節、十三節のような句もよい句です。
 また別れる時にその人に、大胆にあかしすることをお勧めなさい。多くの人は証しないために堕落します。証することは救いのためにはなはだ必要であります。ロマ書十章九、十節をご覧なさい。すなわち口と心を用いなければなりません。この両方を用いて救いを得るのです。マタイ十章三十二節をもご覧なさい。或る時、伝道の集会で青年が後に残り、熱心に救いの道を求め、跪いて砕けたる心をもって主イエスを受け入れました。そうですから安心を得て喜んで帰ることを得ました。けれども三日後に、同じ集会に出てもう一度残りました。そして伝道師に向かって、あの晩私は救われたと思いましたが未だ救われておりません、私は少しも変わったことがありません、あの晩あまり早く決心しましたと申しました。伝道師が申しますのに、否、そうではありません、早く決心したことは良いことです、けれどもそれより後、あなたは主イエスを証しなかったでしょう、そのためにいま疑いに陥ったのですと申しました。青年はびっくりして、「さよう、私は主イエスを証することを恐れました。家に帰りました時にぜひ母にキリストを証するように決心しましたが、証しませんでした。その翌日も同じことでした。まただんだん私の心の中に疑問が起こりまして、もし私が五十円の紙幣を見出したならば必ず母にそのことを告げるに相違ない、いま母に救いを証することを憚るのは未だ真の救いを得ないためであろう、もし真正にそれを得たならば、その紙幣を見出したとおりに自然に証するはずだと思いました」と申しました。伝道師が言うには、あなたはだんだん悪魔の誘惑を得て、だんだん疑いに陥りました、主イエスを信じました時あなたは確実に救いを得たのです、どうぞ大胆に主イエスを証しなさいと勧めました。その青年はその勧めに従って主イエスを証しましたが、その時から明瞭に救いの確信を得ました。
 聖書は聖霊の剣です。私共はどうしてこの剣を用いることができるかと熱心に知識を求めねばなりません。絶えず適当な聖書の言葉を頭に覚えて集会に出なければなりません。聖言を覚えるためには、或いはその言葉を紙に書いて、それを繰り返し繰り返し読んで覚えるようにするのもようございます。とにかく人を導く時に躊躇なく適当の聖句を引かなければなりません。剣をもって敵と戦う時に、さてこの剣をどうして用いようかなどと呑気なことを考えてはおられません。抜く手も見せずすぐに敵に撃ってかからねばなりません。そうですからどうぞ平常聖書の言葉をよく覚え、それを用いる知識を得ておらなければなりません。


 リバイバルの要件 終



リバイバルの要件
     © 頒布価 ¥180


大正3年10月25日 初版発行

講述者  ビ・エフ・バックストン

発行所  バックストン記念霊交会
     武蔵野市境南町4丁目7−5
     振替口座 東京66649番
     郵便番号     180


| 目次 | はしがき | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 |