五、如何にしてキリストは一人の罪人を導きたまいしや



 なぜ日本の軍人は日露戦争の時、旅順という大いなる堅固なる城を陥れることができましたか。これはただ力があっただけでなく、智慧もあったから取ることができたのです。たびたびアフリカ人の一万人或いは二万人が百人くらいの英国人と戦いましたが、英国人は常に勝ちました。これは土人はただ力だけに頼りますが、英国人はさまざまの知恵をもって戦うからであります。私共が罪人を導くにあたりましても、ただ力ばかりでなく智慧もなければなりません。その智慧は聖書から与えられます。
 ヨハネ四章において、この町の一番賤しい者が救われました。そしてその婦人によりてその町に大リバイバルが起こりました(四十、四十一節)。このリバイバルの導火線は、道徳と勢力のない一人の婦人であったのであります。私共も罪人を導きますれば、その罪人はリバイバルの源となるかも知れません。しかしここに注意せねばなりませんことは、私共の導く信者は、私共すなわち導く者の熱心と信仰とに応ずる者であります。それを思いますれば、私共自身の有様が最も大切であります。冷淡な人に導かれました者は冷淡で、熱心な者に導かれました者はやはり熱心であります。
 この章において主イエスがどうしてひとりの罪人を導きたまいましたかを学びます。私共は同じ心をもって同じ方法によりますれば、罪人を救いに導くことができます。
 第一、主はこの婦人に同情を表したまいました。七節を見ますと主はこの婦人に向かって一杯の水を飲ませて下さいとお頼みなさいました。これは同情を表したいためでありました。私共も例えば汽車の中などにおいて会いました人に伝道しようとする時に、さっそく救いのことを話すよりも、まず初めにその人の心の中に思っているような事柄について話す方がようございます。そうしますればだんだん心が近づきますから、容易にその人に救いのことを話すことができるようになります。先日、或る西洋人で無神論者のような人が私の宅に参りましたが、その人は私に、二十年来誰にも話したことがないという秘密を話しました。初めにはいろいろの話をしていましたが、だんだんその秘密を話しましたから、ついには自然、救いのことを話さねばならぬようになり、またその人も喜んでそれを聞きました。
 しかしこれは第二の集会に残った人に話をする場合のことではありません。第二の集会に残りました者は、もはや救いについて説教を聴き、またもう少し詳しく救いのことを聞くために残った者ですから、さっそく救いのことを話さなければなりません。その人々は救いを求めているはずの人々ですから、躊躇せずすぐさま救いのことを話さなければなりません。
 第二、主はこの婦人の心に願いを起こしたまいとうございました。九節を見ますれば、この婦人は主イエスに或ることを尋ねました。けれども十節を見ますと、主はそれに答えたまいませなんだが、しかしその人の心の要求について答えたまいました。すなわちその人の言葉に答えたまいませなんだが、その人の心に答えたまいました。主はここでその人の心の中を見透し、今あなたはこの生命の水、すなわち円満なる恵みを受けることができると言いたまいました。罪人は熱心に救いを求めなければなりません。そうですから主は第一にその人に救いの美わしいことを説いて、その人が熱心にそれを求める心を起すようにしとうございました。主はただそれを説明するだけでなく、罪人はただいまそれを受けることができると示したまいます。
 しかしその恩恵を受けるに二つの妨害があります。すなわち知らねばならぬものを知らぬことと、願わねばならぬものを願わぬことです。『イエスは答えて言われた、「もしあなたが神の賜物のことを知り、また『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」』(十節)。今まで罪を犯したことや、或いは無学であることがこの恩恵を受ける妨害とはなりません。私は思いますに、聖書中にこの十節ほど明白に罪人に救いの道を教えるところは他にないでしょう。罪人はこの二つのことを知って、そして祈りますれば、恩恵を頂戴することができます。
 すなわちその一つは、救いは神の賜物であるということです。これは人間の宗教、人間の理屈とは反対であります。人間はこちらから何か致しますれば救われると思っています。或いは難行苦行を、或いは善事善行を致しますれば、或いはまた知識を得ますれば、または研究しますれば、それによりて救われると思っています。これは間違いであります。ヨハネ三章十六節を見ますれば、罪人はただ神の賜物によりて救われることを見ます。この四章十節においても同じことを見ます。また六章二十八、九節においても、神の遣わしし者を信ずることによりて恩恵を得られることを見ます。この三つの章に、罪人はどうして神の救いを得るかについて明瞭に記してあります。すなわちこの三つの章において、救いは神の賜物ですから罪人はただ手をのばして受けなければならぬことがわかります。神の賜物ですから、それを頂くために何かなさねばならぬことはありません。ただ信仰の手を伸ばしてそれを頂くことです。ピリピの獄守がパウロの足下に倒れて救いを願いましたが、普通の人ならばこういう時に、聖書を与えて研究なさいとか、集会に熱心に出席なさいと申したかも知れませんが、パウロはこれに今イエス・キリストを信ぜよと申しました。救いは神の賜物ですから即座にも与えられる恩恵であります。
 もう一つは、『「水を飲ませてくれ」と言った者が、だれであるか知っていたならば』、すなわちキリストを知らなければなりません。救いが神の賜物であることを知ると共に、キリストがその恩恵を与える救い主であると信じなければなりません。
 次に、救いを得るにはこれを願わなければなりません。『あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう』。これは必ず間違いのないことです。あなたでも、今まで長く神に叛いていましたあなたでも、神に求めさえすれば、神はその恩恵を与えたまいますと、主はこの婦人に言いたまいます。どんな罪深い者でも、だれでも求めさえすれば救いの恩恵を受けることができます。これは間違いのないことであります。
 十一節を見れば、この婦人はそれは常識に反対のことであると思いました。『女はイエスに言った、「主よ、あなたは、くむ物をお持ちにならず、その上、井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れるのですか」』。また十二節を見ますと、これは先祖よりの言い伝えに反対のことであると思いました。『あなたは、この井戸を下さったわたしたちの父ヤコブよりも、偉いかたなのですか。ヤコブ自身も飲み、その子らも、その家畜も、この井戸から飲んだのですが』。常識に反対のこと、この国の言い伝えに反対のことであると申しましたが、主イエスはそれに答えたまわず、またそれについて説きたまいませず、もう一度同じことを繰り返して言いたまいました。『イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」』(十三、十四節)。主はなおこの婦人の心の中に熱心なる願いを起こしたまいとうございます。そうですからこの大いなる幸福、すなわちただその時だけの幸福でなく、それから続いていく幸福について教えたまいました。この生命の水は湧き出てだんだん深く、だんだん広く、だんだん高くなります。これはペンテコステの恩恵であります、聖霊のバプテスマとはこの恩恵にほかなりません。
 主イエスは、何もわからぬ者にその貴い恩恵を与えたまいとうございました。この婦人は何も知りませんでしたが、主イエスは忍耐をもってこの婦人に貴い話を聞かせたまいました。どうぞあなたがたも、向こうの人が悟りませんでも、忍耐してそれを説明しなさい。罪人は枯れたる骨のような者であります。枯れたる骨に説教することは理に合うことでありません。けれどもこれは信仰に適うことであります。何も聞くことのできない枯れたる骨に生命の言葉を宣べ伝えますれば、その枯れたる骨がそれによりて生命を得ます。私共の目的は道徳を植え付けることではありません。理屈を知らしめることでもありません。生命を与えることであります。私共は生命の言葉を宣べ伝えますれば、先方の人は何も知ることができませんでもそのために生命を得ます。十五節を見ますれば、この婦人は『その水をわたしに下さい』と申しました。幾分か心の中にその願いを起しました。けれどもその時にも未だ罪を感じません。ただ苦労のみを感じます。『女はイエスに言った、「主よ、わたしがかわくことがなく、また、ここにくみにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい」』。主は、この人の願いはただ肉に属ける願いですから仕方がないとは思いたまいませず、かえってますます懇切に忍耐をもってこの憐れなる婦人を導きたまいました。使徒行伝三章の跛者は、最初にただ僅かばかりの施済を願いましたが、主はそれによりて彼の信仰を呼び起こし、ペテロを通して全き救いを与えたまいました。私共も、肉に属ける考えから求める者にも忍耐をもって導き、これに霊的の大いなる恩恵を与えとうございます。
 第三、主はこの婦人の心に悔改を起こしたまいとうございました。そのためにその人の有様を探りたまいます。私共も先方の人の有様を探ってその人を悔い改めに導かねばなりません。罪人は心から罪を捨てませんならば、必ず神の救いの正しい経験を得ません。医者は病人の肉から悪い所を切り落とさねばならぬとおりに、私共は罪人に断然罪を離れるように命じなければなりません。神は聖霊によりて私共にそんな権威と能力とを与えたまいます。使徒行伝を見ますれば、伝道者はいつでも悔い改めよと命じました。十六節を見ますれば、主は『あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい』と言いたまいまして今までのことを明かしたまいました。私共は主のように先方の人の今までの生涯を知りませんけれども、聖言をもってその人の心を刺すことができます。『その心の秘密があばかれ、その結果、ひれ伏して神を拝み、「まことに、神があなたがたのうちにいます」と告白するに至るであろう』(コリント前書十四章二十五節)。格別にあなたが向こうの人の秘密を知らねばならぬわけがありません。けれどもその人に、神がそれを知りたもうことを悟らせなければなりません。十九節を見ますれば、この主の言葉は権威をもってこの婦人の心の中に入りましたから、この婦人は主を預言者であろうと思いました。
 第四に、主はこの婦人を礼拝に導きたまいとうございました。罪人を悔い改めさせるばかりでなく、礼拝に導くことは必要であります。言葉を換えて申しますれば、罪を捨てるのみならず、目を挙げて神の聖意と神の聖栄を見て神を崇めねばなりません。この婦人はもはや心を探られまして、神に見られまた神に知られていることがわかりました。神はかようにその心を見透したまいましたから、神の聖前に跪いて礼拝することは当然であります。真正の悔改がありましたならば礼拝は当然であります。婦人は表面の礼拝について論じましたが、主は彼女を心の礼拝に導きたまいとうございました。二十一節から二十四節を見ますと、主は懇切に礼拝と祈禱についてこの婦人に教えたまいました。私共も礼拝するようになるまで罪人を導かねばなりません。救いの道は一方から見ますれば祈禱の道であります。祈って神と交わることは信者の特権であります。救いを得るためにも祈禱は必要でありますが、救いを得ましたならば、必ずたびたび祈りとうございます。私共は道を求める者にただ真理のみを教えて祈禱のことを教えませんならば不完全であります。けれども人に祈禱の精神を起しとうございますならば、自分の心の中にその精神が盛んでなければなりません。
 第五、主はこの婦人に信仰を教えたまいました。二十五節を見ますれば、この婦人の心の中にも曖昧な望みがあったことがわかります。罪人の誰でも、曖昧ではありますが救いの望みを持っています。この婦人はいつか未来において幸福が来ると望んでいました。けれども主は、今あなたと語っている我こそ救い主であると示したまいました(二十六節)。罪人を導く時にこの今という言葉は大切であります。今全き救い主があなたに近づきたまいましたと示さなければなりません。あなたの漠然たる望みを成就する救い主が来りたまいました。ただ二千年前ばかりでなく、今ここで甦りたもうた救い主があなたに近づいてご自分を表したまいとうございますとお教えなさい。この婦人は主イエスの聖言によりてその心の中に真の信仰が起こりました。
 私共はかように主イエスに罪人を導かねばなりません。罪人にただ救いの道を教えるばかりでなく、或いは祈禱の道、または聖書のことを教えるばかりでなく、真に主イエス御自身に導かねばなりません。罪人が主イエスを受け入れますればいつまでも堅固に立つことを得ます。またそのために心も変わり、生涯も変わって真正に新しい人間となります。
 第六、救われましたこの婦人はキリストを証しました。この婦人は神に遠ざかりし罪人としてその町を出ましたが、いま心の中に聖霊の泉を持ち、神の潔き使者となって帰りました。そのような人は自然に証します。この人の証は格別に大胆なためではありません。その心が喜悦に溢れましたから自然に証いたします。そのような証は一番力ある証であります。この婦人はそのためにたいがい町中の人々を主イエスに導きました。パウロはエペソの町を転倒しましたが、そのようにこの婦人もスカルの町を転倒しました。主の弟子たちがその日にその町に参りましたからたぶん証しましたでしょうが、それよりもこの無学無力のひとりの婦人の証のために町中の人々の心が動かされました。この婦人がリバイバルの源でありました。またたぶん使徒行伝八章のサマリアのリバイバルの源であったかも知れません。そうですから私共は罪人を救いに導きましたらその人に熱心に証させなければなりません。
 英国の海軍の司令官が言ったことがあります。この頃は海戦は二十年前よりもよほど難しくなって参りまして、今では水平線下に隠れている敵がありますから、この見えない敵と戦わねばならぬ、そうですからいろいろのことを謀って、今は格別に謀略をもって戦わねばならぬ時である、前にはただ大胆と力をもって戦いましたが、今は智慧を要すると申しました。私共もそうであります。敵を打ち破り罪人を導くには智慧を要します。そのために格別に聖書を調べ、神と交わりてその巧を求めなければなりません。ブース大将の言葉に、私共は身体の汗と共に頭脳の汗をも出さなければならぬということがあります。あなたがたも罪人を救うために身体の汗と頭脳の汗とをもって働かなければなりません。私共は聖書を通して神よりその巧を求めなければなりません。詩篇百四十四篇一節に『いくさすることをわが手に教え』とあります。またそればかりでなく『戦うことをわが指に教えられます』とあります。すなわち詳しく細かに戦うことを教えたまいます。私共はこの難しい事業を務めるのでありますから、自分の力のないこと、また智慧のないことを感じなければなりません。そして謙って聖霊の智慧と能力を神に求めなければなりません。そうしますれば神は私共に罪人を導く喜悦を与えたまいます。



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