1 『主の手がわたしに臨み、主はわたしを主の霊に満たして出て行かせ、谷の中にわたしを置かれた。そこには骨が満ちていた。2 彼はわたしに谷の周囲を行きめぐらせた。見よ、谷の
7 わたしは命じられたように預言したが、わたしが預言した時、声があった。見よ、動く音があり、骨と骨とが集まって相つらなった。8 わたしが見ていると、その上に筋ができ、肉が生じ、皮がこれをおおったが、息はその中になかった。9 時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、息に預言せよ、息に預言して言え。主なる神はこう言われる、息よ、四方から吹いて来て、この殺された者たちの上に吹き、彼らを生かせ」。10 そこでわたしが命じられたように預言すると、息はこれにはいった。すると彼らは生き、その足で立ち、はなはだ大いなる群衆となった』。(エゼキエル書三十七・一〜十)
『そこでわたしが命じられたように預言すると、息はこれにはいった。すると彼らは生き、その足で立ち、はなはだ大いなる群衆となった』(三十七・十)。そうですから大リバイバルが起こり、神の甦りの能力を拝見することを得ました。私共はこのたび格別にリバイバルの必要を感じて、そのために心を合わせて神に祈り求めとうございます。しかし私共はどうしてリバイバルを求むべきでありますか。ただいま読みました聖書の言葉によって、リバイバルが何処から起こりますか、またどうして神の御働き、神の甦りの能力を頂戴することができるかがわかります。私共はこの章を研究する時に、どうぞ従い易き心、教えられやすい心をもって、神の聖言を尋ねとうございます。この三十七章の教えに従いますならば、必ず神は働きたまいまして、御自分の力によりてリバイバルを与えたまいます。そうですからこれは大切であります。私共は今朝ただ聖書を研究するばかりでなく、自分の心をかえりみて自分の欠乏を知り、また私共のなすべきことを悟りまして、身も魂も献げて決死隊となり、神の燃ゆる火を頂戴いたしとうございます。
今読みました聖書を見ますと、リバイバルの準備について三つのことが大切であります。第一は罪人の重荷を負うこと(それは一節から)。第二は福音を宣べ伝えること(それは四節から)。第三は禱告を献げることです(九節以下)。どうぞ格別にこのたび聖書によって教えられ、また聖霊に教えられまして、この三つの大切なる問題を悟ることを得たいものです。今朝は格別にその第一の問題について研究いたしとうございます。
罪人の重荷を負うためには、まず第一に必ず聖霊に満たされておらなければなりません。すなわちペンテコステの恩恵を受けなければ罪人の重荷を真正に負うことはできません。そうですからそのために特別に聖霊の火、聖霊の光、また聖霊の熱心を求めなければなりません。この一節をご覧なさい、エゼキエルはそういう人でした。『主の手がわたしに臨み、主はわたしを主の霊に満たして出て行かせ』。そうですからエゼキエルは聖霊に満たされておりました。また満たされたままでこの幻を見まして罪人の重荷を負いました。けれども聖霊のバプテスマを得ました者でも、真正に罪人の重荷を負わないことがあるかも知れません。これはたびたび事実であります。ペテロは聖霊に満たされた者でありまして、もはや火を受けておりましたが、異邦人の罪人の重荷を負うために天よりの幻をも見なければなりませんでした。ペテロは神が異邦人をも愛し、異邦人をも恵み、異邦人をも即座に救いたもうことを知りませんでした。けれども使徒行伝十章十一節の幻によって神は彼に異邦人の罪人の重荷を負わしめたまいました。どうぞ神が今朝、私共にも聖書によりてその思し召しを示して、罪人の重荷を負うことを得させたまわんことを願います。その重荷を負うために、格別にこの四つのことを知らなければなりません。
その第一は罪人に対する神の聖旨です。私共の周囲にある罪人に対して神は何を願いたまいますか。神のお苦しみは何でありますか。創世記六章五節六節をご覧なさい。『主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め』。主はただいまも同じ心を持っていたまいます。今でも神は天より見下ろして、人の心の思念を見たまいます。そして同じ苦しみを御心に持っていたまいます。心に憂いていたまいます。あなたはこの言葉について深く考えてお祈りなさいましたことがありますか。どうぞこの言葉を深く考えて、神の立場からこの世の有様をご覧なさい。神の立場から罪人の有様をご覧なさい。そうして神の御心に同情を表して、あなたの心の中にもそのような心をお持ちなさい。
『心を痛め』、これはどういう意味でありますか。例えば大学生が悪いことをして失敗しましたために退学させられたとしてご覧なさい。その大学生はそのために大いなる恥を得ましたが、他の学生たちもそれをたいそう残念に思います。あの人は交際するとなかなか面白い人であった、前途有望の人であったが、ああ残念なことをしたと申します。けれども自分たちは一生懸命に勉強しなければなりませんから、すぐその人のことを忘れてしまいます。また大学教授も、あの人は智慧もあり、学問もよくできたのに残念なことをしたと申します。けれども力を尽くして他の学生を教えねばなりませんから、すぐその人のことを忘れてしまいます。けれどもその学生の家に二人、お父さんとお母さん二人がそれを聞きまして、表面にはあまりそれを表さぬかも知れませんが、心の中にそれを憂え憂えて日を暮らします。だんだんそのために頭は白髪となります。そのために心配が絶えませんから平常笑うこともせず、ただ心の中に憂いをもって日を送ります。兄弟姉妹よ、神は心の中にそのような憂いを持っていたまいます。私共も霊によりて同じ心をもっているはずです。霊によって同じ憂いを感ずるはずです。
ルカ十九章四十二節をご覧なさい。これは同じことです。ここで目で見るように神の憂いと悲しみとを見ることができます。
『いよいよ都の近くにきて、それが見えたとき、そのために泣いて言われた、「もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら……しかし、それは今おまえの目に隠されている」』。主は涙を流して心に憂い悲しみたまいます。この主は今日でも同じ心を持っていたまいます。いま罪人を見てこのような心を抱きたまいます。このルカ十九章はどういう時のことであるかと申しますと、人々はみなイエス・キリストを崇め尊びました。けれどもその崇めの中に主はこの憂いと悲しみを抱きたまいました。いま主は天において神の宝座に坐して崇めを受けていたまいますけれども、その心の中に憂いと悲しみを抱いていたまいます。その憂いはこの十九章の四十二節でわかります。すなわち罪人は恵みの折を知らぬからです。恩恵を受け救いを受けることのできる折を逸しますから、それを悲しみたまいます。また主は未来のことを見たまいまして、今の不信仰の結果を見て悲しみたまいます。『いつかは、敵が周囲に塁を築き、おまえを取りかこんで、四方から押し迫り、おまえとその内にいる子らとを地に打ち倒し、城内の一つの石も他の石の上に残して置かない日が来るであろう。それは、おまえが神のおとずれの時を知らないでいたからである』(ルカ十九・四十三、四十四)。未来のこと、罪の刑罰。罪人の行くべき突き当たりは何処であるかを知りたまいますから憂い悲しみたまいます。どうぞ神の御心を知り、そのような言葉を考えてお祈りなさい。そして神と同じ心をお受けなさるように願います。
またヨハネ三章十六節をもご覧なさい。『神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである』。神はかように罪と不義に沈んでいる罪人をも愛したまいます。反逆人をも愛したまいます。その心、その感情をもって罪人をご覧なさい。神の憂い、悲しみと一緒に神のご慈愛をも見なければなりません。それによって私共は心の中に、頑固な心の中にも、幾分か神に同情することができます。神の御心をご覧なさい。これは第一です。
第二は、十字架をご覧なさい。コリント後書五章十四節。『なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい』(十四〜十六節始)。その時から、すなわち十字架を真正に見たその時から、肉体によって人を知ることを致しません。人の表面だけに目をつけることができません。人の真心の有様を見、またその上に来る未来の刑罰を思うて深く罪人の重荷を負います。十字架を見ますれば、それによりて犠牲の愛がわかります。それによりて神が罪人の価値を如何に量りたもうかがわかります。また十字架によりて全き勝利を得たまいましたことがわかります。また罪人を救わんがためにすべての妨害を取り除きたまいましたことがわかります。そうですからいま罪人は救われます。いま怒りの子なる罪人が神の子となることを得ます。十字架でそれがわかります。そうですから十字架を見ますと、望みをもって罪人のもとに行きて彼らに福音を証することができます。おお十字架を深くお考えなさい。十字架のもとで罪人の重荷を負うことは大切です。
第三に罪人の現在の有様を深くお考えなさい。それについて聖書を調べなければなりません。罪人の今の状態は如何ですか。そのために祈禱をもって、聖霊の光を得て聖書の教えを求めねばなりません。例えば詩篇五十三篇、または五十一篇のようなところ、或いはイザヤ書一章、またはロマ書一章、或いはペテロ後書やユダの書、こういうところを深く考えて、それによってお祈りなさるようにお勧めいたします。それによって人間の状態を真正に知ることを得ます。
また格別に伝道の書四章一節をご覧なさい。『わたしはまた、日の下に行われるすべてのしえたげを見た。見よ、しえたげられる者の涙を。彼らを慰める者はない。しえたげる者の手には権力がある。しかし彼らを慰める者はいない』──私共はこれによってこの世の涙、この世の苦しみ、この世の悲しみを見ることができます。これによりて私共の周囲にある家の奥に入り、その家の秘密を知ることを得ます。人々は静かに涙を流しています。心の中に憂いと悲しみと苦しみとをもっております。人々は、ああ禍なるかな、我亡びなんと叫んでいることがわかります。人々の心に恐れがあります。未来のための恐れ、審判のための恐れをもっていることがわかります。この一節によりて聖霊に教えられて幻を見ることができます。かように苦しんでいる罪人は、慰め主なく、またキリストなく、神なく、聖霊なくして日を暮らしています。どうぞこんな聖書の句を取りて深く考えとうございます。
またエペソ書をご覧なさい。二章二節から読みます。『かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い』、ちょうど死んだ魚のように川の流れにしたがって参ります。『空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである』。罪人は欺されているものです。そのために地獄に行きます。『また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い』、汚れたるもの、神に対して反逆をしている者です。『生まれながらの怒りの子であった』、そうですからだんだん神の怒りの審判に向かって参ります。もはや神の宣告を受けた者です。また二章十二節をご覧なさい。『またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく』、そうですから少しも恩恵に与らぬ者、未来についても少しも望みなく、却って大いなる恐ればかりあります。『この世の中で希望もなく神もない者であった』、苦しみの時に避け所がありません。試みられるとき助ける者がありません。私共の周囲にある罪人はこういう有様です。また四章十七、八、九節をもご覧なさい。『そこで、わたしは主にあっておごそかに勧める。あなたがたは今後、異邦人がむなしい心で歩いているように歩いてはならない。彼らの知力は暗くなり、その内なる無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れ』。暗黒の中に彷徨い、最も暗黒な中に生涯を暮らしています。また自分の道を踏んで、頑固な心をもって神の生命を得ません。そしてだんだんその心が頑固になり、そのためにだんだん恐ろしい結果を得て恥を知らぬようになります。その本心も頑固になりまして真正に善悪を弁えることができません。『自ら無感覚になって、ほしいままにあらゆる不潔な行いをして、放縦に身をゆだねている』。恐ろしい絵ではありませんか。これによって恐ろしい幻を見ます。この二箇所だけでもよく読んで祈りますれば、必ずそういう人を走って行って救いたい心が起こるに相違ありません。また五章三節をもご覧なさい。『また、不品行といろいろな汚れや貪欲などを、聖徒にふさわしく、あなたがたの間では、口にすることさえしてはならない。また、卑しい言葉と愚かな話やみだらな冗談を避けなさい。これらは、よろしくない事である。それよりは、むしろ感謝を献げなさい。あなたがたは、よく知っておかねばならない。すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない』(三〜五節)。これによりて罪人の汚れたる有様を見ることができます。言うことのできない罪と不義の中に沈んでいることがわかります。ただ聖書の上にこれを見るばかりでなく、どうぞ実際においてこういう罪が行われていることをご覧なさい。聖霊に教えられ、聖霊の光によって周囲にある人々のことをご覧なさい。その人の家に入り、その人の話を聞き、またその人の行いをご覧なさい。その恐ろしい有様をご覧なさい。私共は自分については救われたことを感じて、溢れるほどの喜悦をもって神の聖前にあることを楽しんでおりますが、周囲にある罪に沈んでいる人々のことを考えて見とうございます。どうぞ静かにこの苦しみと悲しみの大海を心を留めてお認めなさい。罪人は己を汚し、苦しみまた相互に争うて、みな滅亡に導かれています。またそればかりでなく未来において彼らはどうなりますか。夏と秋になればどうなりますか。その罪の果を結ぶ時、滅亡と暗黒はどんなでしょうか。どうぞ罪人の真正の有様を見とうございます。
エゼキエルはその時の罪人の有様を見て、枯れた骨を見ました。けれどもエゼキエルの周囲にある人々の中には優しい人もあり、学者もあり、金満家もあり、またいろいろ貴ぶべき人々もおりました。けれどもエゼキエルはそんな表面のことに目をつけず、その真正の有様を見、真正の有様に目をつけて、みな枯れたりと申しました。どうぞ聖書に教えられてそのように罪人の重荷を負いとうございます。
第四に、罪人の上に臨むべき運命についてお考えなさい。来るべき恐るべき刑罰、永遠限りなき地獄の刑罰についてお考えなさい。天より降りたまいました主イエスはこのことについてなんと言いたまいましたか。主は天の有様、また地獄の有様をよく知っていたまいます。この主が何のために天より降りたまいましたかならば、人々に真理を教えるためでした。そうですから地獄のこと、罪の刑罰のことをも明白に教えたまいました。マタイ二十五章をご覧なさい。四十一節『それから、左にいる人々にも言うであろう、「のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ」』。これは恐ろしい言葉です。今まではいつでもそのような罪人に我に来れと言いたまいました。けれどもただいまは我を離れよと言いたまいます。これは仕方がありません。神がさきに神たる力をもって罪人を招きたまいましたけれども、罪人はそれをことわりましたから、今はもはや仕方がありません。やさしい声をもって招き、御自分の子とならしめたまいとうございましたけれども、それを拒みましたからもはや仕方がありません。ただいまこの恐ろしい声を聞かねばなりません。『そして彼らは永遠の刑罰を受け』(四十六節)。この言葉を深くご存じですか。マルコ九章をご覧なさい。四十四節に『地獄では、うじがつきず、火も消えることがない』。四十六節にも『地獄では、うじがつきず、火も消えることがない』。四十八節にも『地獄では、うじがつきず、火も消えることがない』。三度繰り返してこの厳かな恐ろしい言葉を言いたまいました。私共の心の中にこういう言葉を打ち付け打ち付けて教えたまいとうございましたから、三度繰り返して言いたまいました。主イエスがその聖言を言いたもう時に、その御顔の色は如何でしたろうか。必ず心配も表れ、苦しみも表れ、残念の心も表れまして、涙を流してその言葉を言いたまいましたと思います。どうぞルカ十六章二十四節をご覧なさい。『そこで声をあげて言った、「父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています」』。この十九節からの話は譬話ではありません。主は譬えであると言いたまいません。これは主が御自分で見たまいましたこと、また聞きたまいましたことです。どうぞこの事実的の話を深くお考えなさい。
今まで申しました四つの点について聖書をお調べなさい。すなわち第一、罪人に対する神の御心。第二、十字架を見上げて。第三、罪人の現在の真正の有様。第四、罪人の未来の運命。こういうことを考えますれば、祈って断食して考えますれば、必ずあなたの心の中に、罪人の重荷が起こってまいります。必ずあなたの心の中に感情が出て来ます。私共は伝道に行くときに感情がなければ何の成功もありません。学理的に福音を宣べ伝えましても何の役にも立ちません。けれどもあなたが罪人の有様を感じて、その重荷を負うて福音の証をなさいますれば、必ず罪人は感じます。或る所に一人の熱心な信者がありましたが、その近所に鍛冶屋の無神論者がありまして、たびたびその信者を嘲りました。信者はその鍛冶屋のためにたびたび祈りました。ある時特別に重荷を負うて祈りましたが、そのために眠ることもできず、終夜熱心に祈りました。翌朝早くその鍛冶屋の家を訪ねますと、ちょうど起きたところです。信者はただ涙を流して鍛冶屋の手を握りましたが、感情のため何事も言うことができません。暫くしてついに、私はあなたのために案じて日を暮らしていますとだけ申しまして家に帰りました。ところがそれから三時間の後、その鍛冶屋が信者の家を訪ねて参りまして、いま私は自分の魂のために案じますがどうしたらよいでしょうかと尋ねました。
罪人のために重荷を負いなさい。詩篇百十九篇百三十九節『わたしのあだが、あなたのみ言葉を忘れるので、わが熱心はわたしを滅ぼすのです』。身体を滅ぼしました。そのように罪人の重荷を覚えなければなりません。またその百三十六節をご覧なさい。『人々があなたのおきてを守らないので、わが目の涙は川のように流れます』。主イエスは私共に生命の水の河が私共の中から流れることを約束したまいましたが、この河は別の河です。けれども私共が目からこの河を流しますれば、心の中からも活ける水が河のごとくに流れ出ます。エレミヤ九章一節をご覧なさい。『ああ、わたしの頭が水となり、わたしの目が涙の泉となればよいのに。そうすれば、わたしは民の娘の殺された者のために夜も昼も嘆くことができる』。この叫びを心から叫んでお祈りなさい。これはエレミヤが罪人のために苦しんで叫んだ叫びです。彼は罪人のために重荷を負うて、自然にこの叫びを叫びました。心の中に強い感情がありましたからそのような叫びを出しました。神はあなたの心の中にもそのような感情を与えたまいとうございます。或る伝道者が格別に罪人を導く能力がありまして、大飲酒家や囚人等をよく導きました。その伝道者はいつでも強い感情をもって涙を流して伝道しましたから、罪人がそれを聞いて悔い改めました。ところがその一人の友達がそれを諫めまして、そんなに涙を流して説教することは大人らしいことではない、よいことではないと諫めましたから、それからその伝道者はできるだけ感情を制して学理的に福音を宣べ伝えました。人々はみなよく話を聞いてくれますが、それからは救われる者がありません。その伝道者はそれがわかりましたから、砕けて砕けて、O God, Give me back my tears(おお神よ、わが涙を返したまえ)と祈りました。神はその祈禱に答えたまいまして、もう一度罪人を導くことを得ました。兄弟姉妹よ、私共も涙をもって伝道しなければなりません。そのように、罪人の重荷を負いますれば必ずその罪人のために祈ります。『夜、初更に起きて叫べ。主の前にあなたの心を水のように注ぎ出せ。町のかどで、飢えて息も絶えようとする幼な子の命のために、主にむかって両手をあげよ』(哀歌二章十九節)。
ロマ書九章一節をご覧なさい。『わたしはキリストにあって真実を語る。偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって、わたしにこうあかしをしている』。パウロは厳かにこのことを申します。あなたはそんな経験をもっていなさいますか。『すなわち、わたしには大きな悲しみがあり、わたしの心に絶えざる痛みがある。実際、わたしの兄弟、肉による同胞のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない』。これはキリストの精神、十字架の精神、己を犠牲とする精神であります。どうぞ聖霊をお求めなさる時、そのような精神をお願いなさい。使徒行伝二十章三十一節にパウロは実際にどうして伝道したかと申しますと、『わたしが三年の間、夜も昼も涙をもって、あなたがたひとりびとりに絶えずさとしてきたことを、忘れないでほしい』。すなわち夜も昼も倦まず、疲労を厭わずに、涙を流してぜひぜひその人々を救いとうございました。これが神の使者の事業です。私共はそのように人のために力を尽くしましたか。そのように決死隊となって働きましたでしょうか。
ブース大将が或る時幻を見ました。その幻は、黒い風に打たれている大海を見たのであります。風が烈しくて、浪は高く、大暴風雨で、真暗闇の夜のような有様でした。ところがその大海の中に大勢の人々のいるのを見ました。その人々は浮いては沈み、浮いては沈み、だんだん溺れて死にまして、誠に恐ろしい有様であります。けれども幸いにその大海の中に大いなる岩があります。そしてその岩に、或る人々は海から上って来ることを得ました。また救われました者の中に、どうかして他の人々を助けようと思って力を尽くしている者があります。或いは縄をもって、或いは梯子をもって、その人々を助けとうございました。けれども或る人々はただ自分の救われましたことを喜んで、或いは用事をしたり、或いは遊んでいる者もあります。その周囲に流れて来る溺れつつある人を少しも構わず、ただ自分のことばかり考えております。そうしますとその幻の中に、天の神はその大海に溺れつつある人を見るに忍びませんから、そのために御子を降したまいました。その御子は、その沈みかかっている人々を救わんがために力を尽くし、岩の上に何もせずにいる人々に向かって、どうかこの沈みつつある人を助け、わが働きを助けよと言いたまいました。しかし恐るべきことには、彼らはみなその声に耳を傾けず、やはりただ自分のことばかり考えていました。けれどもその中の十二人がその大海に下り、生命を差し出して、主イエスと共に人々の生命を救うために働きました。どうぞ兄弟姉妹よ、この幻を見とうございます。どうぞこのように身も魂も差し出して罪人を救いとうございます。また主イエスの聖声を聞き、主イエスに従いまして、どうかして沈んでいる人々を助けて救い上げとうございます。