第 一 章



 ルツ記の始めに堕落の話が記してあります。

 一節士師さばきづかさの世ををさむる時にあたりて國に饑饉ありければ一箇ひとりの人その妻と二人の男子むすこをひきつれてベテレヘムユダを去りてモアブの地にゆきて寄寓とゞまる』

 これは堕落の話であります。この人は神に遠ざかってのろわれし国にきました。神が恵みを与える方法に遠ざかって、神の殿みやもなく、祭壇もなく、神が定めたもう仕方をもって神に近づくことのできないモアブの国に参りました。この人はそんなところに喜んで行きました。これは神のたみの堕落であります。またただ彼処かしこに行ったばかりでなく、そのモアブの地に『寄寓とゞま』りました。また、

 二節の終わりに『彼等モアブの地にいたりて其處そこにをりしが』

 既に神に遠ざかりましたから、彼処かしことゞまりました。これは悲しむべき堕落であります。一度神に遠ざかれば、神に帰ることが困難になって参ります。されば、どうぞ私共はこの事を覚えて恐れとうございます。

 この人は堕落しましたから、だんだんすべての恵みを失いました。神に遠ざかったために種々の損失そんをいたしました。死もありました。苦しみもありました。また失望もありました。

 三節に『ナオミのをっとエリメレクしにてナオミとその二人の男子むすこのこさる』。また、
 五節に『マロンとキリオンの二人もまたしねり』

 そうですからナオミはだんだん苦痛くるしみと失望に陥りました。この一章の終わりを見ると、彼女は自分のことを何と言ったかというなら、『ナオミかれらにいひけるは われをナオミ(たのし)とよぶなかれ マラ(くるし)とよぶべし 全能者痛くわれくるしめたまひたればなり』(二十節)と申しました。この人が神の国におった時の名は「楽し」でありましたが、堕落しましたからその名は変わって「苦し」となりました。いつでもこの通りです。サタンに誘われ、いろいろの利益を得ようと思って、神に遠ざかりますれば、必ず楽しみを失って、苦しみのみを経験するようになって参ります。けれども神に立ち帰れば、ちょうどその反対に、苦しみという名を取り去って楽しみという名を与えたまいます。イザヤ書六十一章三節を見れば、それを見ます。『悲哀かなしみにかへて歡喜よろこびのあぶらをあたへ』。

 このナオミは堕落によりて、かようにだんだん苦しみを受けて、失望と悲哀かなしみに陥りました。けれども神はその人に恩恵めぐみを表したまいました。この六節を見ますと、喜びの音信おとずれがあります。

 六節『モアブの地にてかれヱホバそのたみかへりみて食物しょくもつこれにたまふときゝければ』

 これは実に喜びの音信おとずれであります。神がもう一度そのたみを恵み、そのたみに豊かなる恵みを与えたもうということを聞きました。そうですからナオミはそれを信じて、立ち帰りました。神の国におるたみが恵みを得ましたから、堕落せる者がそれを聞いて立ち帰りました。 今日こんにちもその通り、基督キリスト信者が神の恵みを得まするならば、それによりて堕落しておる者が恵みを求めて神に立ち帰ります。私共はこのたび聖霊のバプテスマを求めてここに集まりました。しかしこれは私共自身のためばかりでなく、私共がここで恵みを受けますならば、モアブの地に苦しんでおる信者がそれを聞いて、恩恵めぐみを求めて神に立ち帰るようになります。されば、どうぞ堕落せる信者のために、このたび豊かに神の恩恵めぐみを受けとうございます。

 さてこのナオミとオルパ及びルツの三人は、『たちてモアブの地より』イスラエルの国に帰らんと出立いたしました。けれどもこの三人は互いによほど違います。ナオミは立ち帰りましたが、その心のうちには少しも自分の罪を感ずる心がありません。今まで永い間、神に遠ざかって堕落していましたから、砕けたる心をもって悔いて帰るはずでありましたが、彼女のうちにかかる感情がありません。また彼女は神の恵みを感じて、喜んで帰るはずでありましたが、かえって怨言つぶやきながら、神をとがめて帰りました。二十節、二十一節をご覧なさい。ただ神をとがめております。神は恩恵めぐみをもってこの人を導き、また恩恵めぐみを与える目的をもっていたまいましたのに、この人は神の愛の聖旨みこころと、恵まんとしたもう御目的おんもくてきを知らず、その御慈愛おんいつくしみに感ぜずして怨言つぶやきました。この人の苦しみはただ自分の罪のためでありましたから、自分の罪を懺悔ざんげして神に帰るはずでありました。しかるにかように怨言つぶやきて帰りました。神に信頼する心が少しもなく、また少しも祈らず、ただ怨言つぶやきながら帰りました。或る人はそのように神に帰ります。けれどもとにかく神に立ち帰ることは善いことで、神はその人に必ず恩恵めぐみを与えたまいます。神はこの婦人おんなを豊かに恵みて、幸福さいわいに導きたまいました。神はその怨言つぶやきを忘れて、豊かに報いたまいました。神はかように憐憫あわれみ深き御方おかたであります。この神に立ち帰ることは幸福さいわいであります。しかし私共は、怨言つぶやきて神をとがめながら帰ってはなりません。どうぞ砕けたる心をもって帰りとうございます。今までの苦しみは自分の罪のである事を知って、今までの堕落は自分の汚穢けがれの結果である事を感じて、神のご慈愛を感謝して帰りとうございます。私共が神に帰りますならば、ホセア書六章の一〜三節の如く、必ず神の豊かなる恩恵めぐみを受けます。

 きたれ われらヱホバにかへるべし ヱホバわれらを抓劈かきさきたまひたれどもまたいやすことをなし 我儕われらをうち給ひたれどもまたその傷をつゝむことをなしたまふべければなり ヱホバは二日ののちわれらをいきかへし三日にわれらをたゝせたまはん 我らそのみまへにていきん このゆゑにわれらヱホバをしるべし せつにヱホバを知ることを求むべし ヱホバは晨光あしたのひかりのごとく必ずあらはれいで 雨のごとくわれらにのぞみ のちの雨のごとく地をうるほし給ふ

 砕けたる心をもって立ち帰る者に、神は晨光あしたのひかりが現れて来るように、必ずご自身をあらわしたまいます。

 第二に、オルパもその時に一緒に立ち帰りました。

 七節『二人のよめこれとともにあり 彼等ユダの地にかへらんとみちにすゝむ』

 けれども真正ほんとうに帰るように心のうちに決めたのではありません。正直なる心がありませなんだ。ナオミとルツが帰りますから、自分も一緒に帰ろうとしましたが、心のうちに堅い決心があったのでありませんから、ついに神の国にかずに、またおのが国のモアブに帰ってしまいました。もう一度偶像を撰んだのであります。十五節にナオミはルツに向かって、『なんぢ妯娌あひよめはそのたみとその神にかへりく』と申しました。すなわちオルパは自分の神、すなわち偶像を捨てることができず、またこの世を全く捨てることができず、のろわれたる国にとどまりて幸いなる神の国に参りませなんだ。兄弟姉妹よ、私共はオルパの記事によりて警戒しとうございます。私共は全く心の偶像を離れませんならば、必ずしゅものとなることができません。また必ず主の恵みを受けることができません。どうぞ断然身も魂も献げるように、心をおめなさい。心のうちに幾分にても偶像を愛する心、またこの世を愛する心が残っておりますならば、決してペンテコステの恵みを受けることはできません。

 ロトの妻もソドムの町を離れました。けれども心のうちにソドムを愛する愛が残っておりましたから、ソドムを慕うて後ろを顧みました。そのために彼女の上に刑罰が臨みました。どうぞ全く心をめて、断然世と罪とをお捨てなさい。詩篇七十八篇の八節に『そのこゝろをさまらず そのたましひ神にまめならざるたぐひとなさざらんためなり』とありますが、そこにあるエフライムは、そのようにその心おさまらず、その霊魂たましい神に忠ならざる者でありましたから、そのために失敗しました。或いは同じ篇の三十七節には『かれらのこゝろは神にむかひて堅からず その契約をまもるに忠信ならざりき』とあります。不忠の分子が心のうちに残っておりますれば、必ず神の豊かなる恩恵めぐみを受けることができません。

 第三に、ルツも帰りました。ルツは心をさだめて、正直なる決心をもって帰りました。

 十六、十七節『ルツいひけるは なんぢを棄てなんぢをはなれて歸ることをわれうながすなかれ われなんぢのゆくところになんぢの宿るところにやどらん なんぢたみはわがたみ なんぢの神はわが神なり なんぢしねるところにわれしに其處そこに葬らるべし もし死別しにわかれにあらずしてわれなんぢとわかれなばヱホバわれにかくなし又かさねてかくなしたまへ』

 ルツは心よりこの決心をしました。どうぞ私共もこのように、心より主に従い、主に伴い行くことを決心して、主のものとなりとうございます。今より死に至るまでその決心をっておらねばなりません。今より十字架を負い、主と共に恥を受け、主と共に死する心を定めて、主に離れぬように決心いたしとうございます。これはまことの決心です。全く今までの偶像を捨て、全くこの世を捨て、忠信に主に従い、死に至るまでその決心をっていとうございます。

 これはピリピ書三章七節の如き決心であります。『されどさきえきたりし事はキリストのために損と思ふに至れり』。ルツの決心はこれでありました。また同じ章の十四節をご覧なさい。『神のキリスト・イエスにりて上に召したまふめしにかかはる褒美はうびを得んとてこれ追求おひもとむ』。ルツもちょうどこの通りでありました。おお、どうぞこのパウロの如く、またこのルツの如く、心をさだめてこの世よりお離れなさい。主イエスにお従いなさい。

 このルツ記一章を見れば、ルツは三度試験を受けました。ナオミは彼女に三度自分の国モアブに帰るように命じました。第一は、

 八節こゝにナオミその二人のよめにいひけるは なんぢらはゆきておのおの母の家にかへれ なんぢらがかのしにたる者とわれとをあつかひしごとくにねがはくはヱホバまたなんぢらをくあつかひたまへ』

 第二は、

 十一節『ナオミいひけるは 女子むすめよ 返れ なんぢらなんぞわれとともにゆくべけんや なんぢらの夫となるべき子なほわがはらにあらんや』

 また、第三は、

 十五節これによりてナオミまたいひけるは なんぢ妯娌あひよめはそのたみとその神にかへりなんぢ妯娌あひよめにしたがひてかへるべし』

 そのように三度試みられました。兄弟姉妹よ、あなたが心を定めて主に従いとうございますならば、必ずその決心を試験せられます。主はその決心がまことのものであるや否やを試したまいます。けれどもどうぞこのルツのように、帰れよと言われても、どこまでも主に従って、主に伴い行くと堅くご決心をなさい。そう致しますればこのルツの如く、溢れる恩恵めぐみを頂戴することを得ます。主イエスと一つになることを得ます。

 二十二節かくナオミそのモアブの地より歸れる よめモアブのをんなルツとともに歸りきたれり すなはち彼ら大麥刈おほむぎかりはじめにベテレヘムにいたる』

 ナオミがモアブの地にきました時は、国に飢饉があった時でありましたが、今帰った時は豊かなる収穫かりいれの時でありました。神に立ち帰れば、誰でも豊かなる恵みを経験することを得ます。またそれのみならず、この『大麥刈おほむぎかりはじめ』の時は踰越節すぎこしのいわいの時でありました。そうですから踰越節すぎこしのいわいを守りて、皆一緒に喜びました。堕落した者が立ち帰りますれば、神はいつでもその人に必ず救いの喜びを与えたまいます。以前に最初の悔改くいあらためをした時と同じ救いの喜びを与えたまいます。

 愛する兄弟姉妹よ、どうぞこの一章に教えられて、断然世を離れ、断然偶像を捨て、断然今までの願望ねがいなげうって、主イエスに身も魂も献げてお従いなさい。主はあなたに豊かなる恩恵めぐみを与えたまいとうございます。ルツのように正直に身も魂も献げて主を求めますれば、主は早速溢るる恩恵めぐみを与えたまいます。しかしそればかりでなく、それよりだんだん進んでなおなお全き歓喜よろこび、全き平安、全き霊の宝を与えたまいます。おお、今日きょう主イエスはあなたを呼びたまいます。主イエスはあなたをご自分のものとならしめたまいとうございます。どうぞルツの如く、主に従うように心のうちにおめなさい。

  (一)主の召し聞くわれ いまおのれを捨て
     十字架をとりつゝ 主に従ひゆかなん
     (コーラス)
       みちびかるゝまゝ すゝみゆくわが身
       いづくの果てへも 主に従ひゆかなん

  (二)血のあせしたゝる ゲツセマネの憂ひ
     いとはでなめたまふ 主に従ひゆかなん

  (三)照る日もかくるゝ カルバリのなやみ
     忍びて死にたまふ 主に従ひゆかなん

  (四)すゝみゆくわれと あめつちのあるじ
     世の終はりまでも つねにともなりたまふ
     (コーラス)
       ゆくわれをたす みたまにたよりて
       いのちのみかむり 望みつわれ進まん



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