第 四 章
ルツは自分の受けられる特権を要求して、ボアズにその前途を委ねました。ルツはそのためにボアズに依り頼むよりほかに仕方がありません。ルツはただそのことだけができました。それをしたならば、三章十八節のように『坐して待つ』よりほかに途がありません。これからはボアズが働かなければなりません。ボアズは万事を取り扱い、ルツの願いに従って万事を成し遂げます。私共も主に身も魂も献げるよりほかに仕方がありません。神の約束を信じ神の特権を知って、主に万事を任せるよりほかに途がありません。既に正直に万事を主に任せましたならば、『坐して待』たなければなりません。弟子たちは使徒行伝一章において十日間、このように坐して主イエスの働きを待ち望みました。彼らは最早昇天したもうた主に万事を委ねましたが、まだ火のバプテスマを得ませんから、坐して待ちました。望みをもって坐して待ちました。
ボアズは忠実な者でありましたから、早速そのことについて働き出しました。
一節『爰にボアズ門の所にのぼり往て』
門の所はその時代の裁判所でありました。ボアズはこの問題を裁判所で裁判官の前で決めなければならぬと思いました。このことを公に決しなければなりません。町の人々の前でこれをきれいに定めなければなりません。また法律に適うようにそのことを定めなければなりません。そういう風にしてこの問題を定めますれば確実であります。いつまでも変わりません。そうですからただ愛の問題でなく、また恩恵の事柄であるばかりでなく、これは法律上の事柄であります。これは実に幸福であります。私共の救い、私共の聖潔、また私共が聖霊に満たされる事は、ただ愛のためまた恩恵のためばかりでなく、これは律法に適うことであります。そうですから確実であります。永遠に変わらない事柄であります。
『其處に坐しけるに前にボアズの言たる贖業人過りければ之に言ふ 某よ來りて此に坐せよと 即ち來りて坐す』
二節『ボアズはまた邑の長老十人を招き汝等此に坐せよといひければ則ち坐す』
しかして三節からその問題を説きます。それは何ですかならば、第一に産業を贖うこと。それのみならず、第二にルツを贖うこと、この二つであります。三節四節に産業を贖うことについて書いてあります。別の贖い人はこれを聞いて『我これを贖はん』と言いました(四節終)。けれども産業ばかりでなく、ルツをも貰わなければならぬことを聞きました。
五節『ボアズいふ 汝ナオミの手よりその地を買ふ日には死る者の妻なりしモアブの女ルツをも買て死る者の名をその產業に存すべきなり』
これを聞いてその贖い人は六節に『我みづから贖ふあたはず』と申しました。一つのことはできますが、他の一つのこと、即ちルツを贖うことはこの人にはできませんでした。
さて私共の救いもちょうどそのように二つの問題に分かれております。神はこの世を贖いたまいました時に、この世の産業を贖いたまいました。けれどもそればかりではありません。私共を御自分のものとならしめたまいました。神はただ産業だけを贖いたもうたのみならず、この世とあらゆるものを贖う事を得ました。神は私共を恵み、私共をも罪より贖うて、私共にもう一度神の性質を有たしめ、御自分の新婦とならしめたまいとうございました。
主イエスは十字架の上で、この二つの事のために贖いをなしたまいました。第一に産業について、ロマ書八章二十二、二十三節をご覧なさい。『我らは知る、すべて造られたるものの今に至るまで共に嘆き、ともに苦しむことを。然のみならず、御靈の初の實をもつ我らも自ら心のうちに嘆きて子とせられんこと、即ちおのが體の贖はれんことを待つなり』。私共は主イエスがまた来りて、その新婦を迎えたもう時まで、心の中に悲しみ歎いております。けれどもその時に主は私共のために全き贖いをなしたまいます。私共を歎き悲しみより贖い、また私共が罪のために失いましたすべての物を取り返して、もう一度神の栄光を与えて、神の子たる栄光を表したまいます。これは全き贖いであります。けれどもそればかりでありません、この二十二節にあるように、すべて造られたる物もまたその日を待ち望みます。その日即ち主の日に、私共のために造られたる、すべての物が、もう一度エデンの園にあったように全き物となります。かようにその日にはこの二十二節と二十三節が成就します。神がそのように産業を贖いたまいます。
エペソ書一章十三、十四節、『約束の聖靈にて印せられたり。これは……神に屬けるものの贖はれ、かつ神の榮光に譽あらん爲なり』。主はそのように贖われました者に、いま聖霊を与え、また後に栄光を与えたまいまして、私共を全き救いに与らせたまいます。マタイ伝十三章四十四節に、同じことを譬話において見ます。『天國は畑に隱れたる寳のごとし。人、見出さば之を隱しおきて、喜びゆき、有てる物をことごとく賣りて其の畑を買ふなり』。この人とは神の子であります。この世にある宝をご覧なさいまして、それを得んために、喜んでその所有をことごとく売りたまいました。この世に下りたもう事により、また十字架の苦しみによりて、その所有をことごとく売りたまいました。そしてそれによりてその畑を買いたまいました。畑をもその中にある宝をも買い上げたまいました。言い換えますれば、主イエスは十字架の上に、すべて造られし物をも、私共をも共に贖いたまいました。罪人なる私共をも御自分の新婦となすために、畑と共に買いたまいました。ちょうどボアズが産業をもまたルツをも共に贖ったと同じ事であります。
これは実に価の高い贖いでありました。そうですから六節にあるように、ほかの贖い人はそれを恐れました。
六節『贖業人いひけるは 我はみづから贖ふあたはず 恐くはわが產業を壞はん』
そんなことをすれば必ず産業を損なうと恐れました。またこれは実際、産業を損なわなければできぬことであります。けれども私共の贖い主なる主イエスは、産業を損なうことをも厭いたまわずして、私共を贖いたまいました。これは感謝すべき事であります。主イエスは私共を潔めんがために、また私共に幸福を与えんがために、ただ神の力を伸ばしたもうたばかりでなく、またただ神の恩恵を宣べたもうたばかりでなく、御自分の産業を損ないたまいました。どうぞ深くそれを覚えとうございます。主は十字架の上でその産業を損なわねばなりませんでした。ピリピ書二章をご覧なさい。そこで主が私共を贖わんがために、いかにその産業を損ないたもうたかを知ることができます。マタイ伝十三章の言を借りて言えば、いかにして主がその所有を売りたもうたかを見ます。六節から見ます。『彼は神の貌にて居給ひしが、神と等しくある事を固く保たんとは思はず』、即ち第一にその神たる御栄光を捨てたまいました。『反つて己を空しうし』、神たる御力をも捨てたまいました。それほどに産業は損なわれました。『僕の貌をとりて人の如くなれり』、即ちその位、御自分を全く捨てたまいました。『既に人の狀にて現れ、己を卑うして死に至るまで、十字架の死に至るまで順ひ給へり』。そうですから私共を贖わんがために、苦しみをも死をも払いたまわねばなりませんでした。私共をも、また産業をも贖うためにかくまでに御自分の産業を損ないたまいました。
けれどもボアズはルツを受けるために、またその産業を買い入れるために、自分の産業を賭けて、値段を払いました。神の御子はその御栄光をも、その幸福をも、その生命をも賭けて私共を贖いたまいました。ボアズはかようにしてルツを贖う権利を取りました。そのように主イエスはその贖いによりて私共を祝福する権利を取りたまいました。
九〜十一節『ボアズ長老および諸の民にいひけるは 汝等今日見證をなす 我エリメレクの凡の所有およびキリオンとマロンの凡の所有をナオミの手より買たり 我またマロンの妻なりしモアブの女ルツを買て妻となし彼死る者の名をその產業に存すべし 是かの死る者の名をその兄弟の中とその處の門に絕ざらしめんためなり 汝等今日證をなす 門にをる人々および長老等いひけるは われら證をなす』
それゆえにボアズはその権利を取りました。ロマ書八章三節をご覧なさい。『肉によりて弱くなれる律法の成し能はぬ所を神は成し給へり』。ルツ記四章の別の贖い人は弱くして、贖うことができませんでした。ちょうどここにある律法のようであります。けれども神はその能わぬ所をなしたまいました。『即ち己の子を罪ある肉の形にて罪のために遣し、肉に於て罪を定めたまへり。これ肉に從はず、靈に從ひて步む我らの中に律法の義の完うせられん爲なり』。神はその贖いによりて、私共の中に御自分の聖旨を行わしめたまいます。その贖いによりて私共を御自分の聖旨に適う者とならしめたまいます。これは幸福であります。律法は弱うございますからそれができません。けれども主イエスはその所有を尽く売りて、私共を神の聖き旨に適う者となす事ができました。これは実に感謝すべき事です。恩恵の大いなる事、望みの大いなる事、愛の大いなる事、歓喜の大いなる事であります。深く深くそれを味わって、その全き結果をお受けなさるようにお勧めいたします。コロサイ書一章十九節より数節をご覧なさい。『神は凡ての滿足れる德を彼に宿して、その十字架の血によりて平和をなし、或は地にあるもの、或は天にあるもの、萬の物をして己と和がしむるを善しと爲給ひたればなり』。これは主が十字架の血によりて産業を贖いたもう事であります。けれどもそればかりではありません。二十一節において私共をも贖いたもう事が書いてあります。主イエスは畑とともにその畑にある宝をも買い入れたまいます。『汝等もと惡しき業を行ひて神に遠ざかり、心にて其の敵となりしが』、即ち先にはモアブ人でありました。けれども『今は神キリストの肉の體をもて其の死により汝等をして己と和がしめ、潔く瑕なく責むべき所なくして、己の前に立しめんと爲給ふなり』。即ちそのモアブ人を救い潔めて、潔き、汚れのない、瑕のない、新婦として御自分の前に立たしめたまいます。ルツ記の方の
十節に『我またマロンの妻なりしモアブの女ルツを買て妻となし(これは英語では『わが妻となし』であります)彼死る者の名をその產業に存すべし』
『わが妻となし』(To be my wife)これは実に幸福であります。わが奴隷となすではありません。わが僕となすでもありません。わが妻となす。おお、主はあなたを罪と死より甦らせて、かようにあなたを天の処において御自分と一緒に坐らせたまいます。黙示録三章二十一節をご覧なさい。『勝を得る者には我とともに我が座位に坐することを許さん、我の勝を得しとき、我が父とともに其の御座に坐したるが如し』。誰が王の座位に坐することを得ますか、ただその新婦のみであります。他の者は決してそれができません。ただ新婦にだけそれが許されます。神の御子たる主イエスは、私共にそれほどの栄光を与えんがために、その御自分の産業を損なって、十字架の上において死にたまいました。主イエスはボアズのごとく、このことを天の裁判官の前において定めたまいました。
ダニエル書七章をご覧なさい。六章と七章の始めを見ますれば、この世の国々の汚れと騒ぎと罪について記してあります。ついに神は裁判を開いて、裁判官の決議によりて御子にこの世の政治を委ねたまいます。九節十節、『我觀つゝありしに遂に寳座を置列ぶるありて日の老たる者座を占めたりしがその衣は雪のごとくに白くその髮毛は漂潔めたる羊の毛のごとし 又その寳座は火の熖にしてその車輪は燃る火なり 而して彼の前より一道の火の流わきいづ 彼に仕ふる者は千々 彼の前に侍る者は萬々 審判すなはち始りて書を開けり』。今までこのダニエル書によりて、この世の種々の政治と王の有様が書いてありましたが、ついにこの九節においてこの世の王の王、主の主たる御方を見ます。この世の審判主、裁判官である御方を見ます。この審判主は必ず世よりすべての悪を放逐したまいます。『その角の大なる事を言ふ聲によりて我觀つゝありけるが 我が見る間にその獸は終に殺され體を壞はれて燃る火に投いれられたり』(十一節)。すべて悪魔の術と謀略は毀たれ、この獣は殺され、逐出されました。それゆえに十三節にその位とその権威を人の子に委ねたまいました。『我また夜の異象の中に觀てありけるに 人の子のごとき者雲に乗て來り日の老たる者の許に到りたればすなはちその前に導きけるに 之に權と榮と國とを賜ひて諸民 諸族 諸音をしてこれに事へしむ その權は永遠の權にして移りさらず又その國は亡ぶることなし』(十三、十四節)。神はかように天の裁判において、天の法律に従って御子にすべての権と、すべての勝利と、すべての政治を与えたまいました。ボアズがイスラエルの法律に従って、裁判官の前で、ルツとその産業を贖いましたように、主イエスは天におる者の眼の前において、天の法律に従って、審判主なる神よりすべての権威とすべての能力を受けたまいました。救いの能力、潔めの能力、悪魔を逐出す能力、罪のために得たすべての損害を返す能力を悉く受けたまいました。
エペソ書三章十節をご覧なさい。『いま教會によりて神の豐なる智慧を天の處にある政治と權威とに知らしめん爲なり』。主イエスは天にあるすべての者の眼の前に、神の全き贖いと救いを示したまいます。コロサイ書二章十四節をご覧なさい。『かつ我らを責むる規の證書、すなはち我らに逆う證書を塗抹し、これを中間より取り去りて十字架につけ』。これは感謝すべき事です。外部を見ればただ神の子が十字架に釘けられています。けれども信仰を眼をもって別の点より見ますれば、私共に逆らう者が彼処に釘づけられています。そうですから十五節『政治と權威とを褫ぎて之を公然に示し、十字架によりて凱旋し給へり』。十字架を見れば、彼処で主イエスが滅ぼされたようでありますが、実は彼処で悪魔が滅ぼされたのであります。信仰がありますれば、この事実を悟ることを得ます。私共は十字架によりて、悪魔が滅ぼされ、キリストが勝ちを得たもうた事を知ります。ボアズが長老等の前において、ルツを買ったと同じように、主イエスは天に在りて政治を執る者の前において、明らかに勝利を得て、私共のために全き贖いをなしたまいました。そうですから私共はその全き贖いを受け入れることを得ます。これは公然のことであります。主は公然にそれを成し遂げたまいました。
黙示録五章一節をご覧なさい。『我また御座に坐し給ふ者の右の手に、卷物のあるを見たり。その裏表に文字あり、七つの印をもて封ぜらる』。これは産業の地券状であります。けれどもなぜか、その地券状が七つの印で封印してありましたから、何の値打ちもなく、駄目の物となっていました。そうですから、ヨハネはそれを見て大いに憂い悲しみました。けれども五節を見ますれば『長老(長老とは救われし者また贖われし者であります)の一人われに言ふ「泣くな、視よ、ユダの族の獅子・ダビデの萌蘖、すでに勝を得て卷物とその七つの封印とを開き得るなり」』。即ち産業を贖う者があります。その地券状を受けて、それを効力あるものとする事のできる御方があります。即ち勝ちを得たもうた贖い主があります。この主イエスは神の座位の前にて、また天に在るすべての者の眼の前にて、贖いの権利を取りたまいました。また九節をご覧なさい。『斯て新しき歌を謳ひて言ふ「なんぢは卷物を受け、その封印を解くに相應しきなり、汝は屠られ、その血をもて諸種の族・國語・民・國の中より人々を神のために買ひ」』。また十一節『我また見しに、御座と活物と長老たちとの周圍にをる多くの御使の聲を聞けり。その數千々萬々にして』。また十三節に『我また天に、地に、地の下に、海にある萬の造られたる物、また凡てその中にある物の云へるを聞けり。曰く「願くは御座に坐し給ふものと羔羊とに、讃美と尊崇と榮光と權力と世々限りなくあらん事を」』。主イエスはかように天に在るすべての者の眼の前に、贖いの権利を受け取りたまいました。これは公然の事、法律上の事、天の法律に適う事であります。
十三節『斯てボアズ、ルツを娶りて妻となし』
そうですからルツの望みがみな成就しました。三章十八節でボアズの働きを待ち望みました。ボアズは忠信なる者であることを知って、失望せずに、待ち望んでおりましたが、ついにボアズと一つになりました。おおこれは実に幸福であります。そのようの私共も私共の贖い主に依り頼み、身も魂も献げ、私共の受くべき特権を願いまするならば、主は必ずその特権を与えて、その恩恵を成し遂げたまいます。
詩篇四十五篇をご覧なさい。その大意はやはり同じことであります。一節より見ますれば、新郎が戦いに出ることを見ます。また勝ちを得ます。そして十節より新婦のことが記してあります。『女よきけ目をそゝげ なんぢの耳をかたぶけよ なんぢの民となんぢが父の家とをわすれよ さらば王はなんぢの美麗をしたはん』(十、十一節)。かように私共も身も魂も献げますれば、また耳を傾けて主の御言に従いますれば、主は私共を受け入れ、私共にその御慈愛を示したまいます。また十四節十五節『かれは鍼繍せる衣をきて王のもとにいざなはる 之にともなへる處女もそのあとにしたがひて汝のもとにみちびかれゆかん かれらは歡喜と快樂とをもていざなはれ斯して王の殿にいらん』。神はこの言の霊的の意味を、私共に成し遂げたまいとうございます。そうですから主と一つになって、断えず主と交わり、断えず主の恩恵を得て、主の許嫁せる新婦の生涯を送る事を得ます。
ロマ書七章四節に『汝等もキリストの體により律法に就きて死にたり。これ他のもの、卽ち死人の中より甦へらせられ給ひし者に適き(即ち結婚して)、神のために實を結ばん爲なり』。私共が死より甦りて新婦となり、主イエスの有となりますれば、神のために豊かに果を結ぶ事を得ます。ヨハネ伝十五章のように、生命の繋ぎに繋がれて、必ず愛の果、喜びの果、忍びの果を結ぶ事を得ます。また必ずそのために主に従い、愛に励まされて主と伴い、主と偕にこの世を過ごす事を得ます。
おお皆様、しかし私共の新郞の御目的は何でありますかならば、他の罪人を救うことであります。他のモアブ人をイスラエルと、イスラエルの幸福に導くことであります。主がこの世に来りたもうた唯一の目的は罪人を救う事でありました。主はこのために身も魂も献げて生涯を送りたまいました。私共がこの主イエスの新婦となりますれば、この主と真正に一つとなりますれば、私共の生涯の目的もこの主の御目的と一つになる筈であります。必ず主の御心を自分の心として、断えず己を捨て十字架を負い、苦痛をも忍んでぜひ罪人を導きたいという心がある筈であります。時を得るも時を得ざるも、いつでも、何処ででも、福音を恥とせずに、主と共に罪人を救うために力を尽くす筈であります。愛する兄弟姉妹よ、主は十字架によりて私共にこの全き贖いを与えたまいました。そうですから私共は主と共に十字架の苦しみを負うて、主と共にこの世を救う事をせなければなりません。身も魂も献げて、主と共に罪人を導かなければなりません。
かように生涯を送りますれば、黙示録十九章七節のように『その新婦みづから準備したればなり』という叫びが響いて参ります。私共救われし者が全く主と一つになり、主の心と一致し、喜んで主の十字架を負いまするならば、新郞が再来りたもう時に、私共をその幸福に迎え入れたまいます。その時は近うございます。聖書に書いてある再臨の兆は大概最早成就しましたから、私共は『主よ來りたまへ』と熱心に祈る筈であります。心の準備ができて、主のために身も魂も献げて新郞の来りたもう事を俟たねばなりません。
おお、愛する兄弟姉妹よ、私共の新郞は思うところに愈る幸福と歓喜と栄光を私共に与えたまいます。ルツが初めベツレヘムに参りました時に少しも予期していなかった幸福を、そこで受ける事ができましたように、私共の思うところ、願うところにいたく愈れる幸福を、主は私共のために備えていたまいます。そうですから、どうぞ身も魂も献げて、主イエスの全き贖いをお受け入れなさい。主イエスはその権威をもって必ずサタンの権力を砕きたもう事を信じて、主を待ち望みなさい。主は必ずあなたの心の中に、その大いなる全き救いを成し遂げたまいます。
ルツ記霊的講解 終
大正 四年一月廿九日印刷
同 年二月 一日發行
大正十二年六月廿六日再版
大正十四年三月二十日改版
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(定価四拾銭)
著 作 者 ビー・エフ・バックストン
東京市赤坂區氷川町五番地
發 行 者 ジョージ・ブレスウェート
神戸市吾妻通三丁目十七番屋敷
印 刷 者 佐 藤 爲 吉
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印 刷 所 中 外 印 刷 株 式 會 社
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發 行 所 基 督 敎 書 類 會 社
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