第 三 章
二章においてルツがボアズから豊かなる恩恵を得た事を読みました。私共もそのように主の御手から豊かなる恩恵を得た事を感謝します。けれども二章の終わりにおいて、ルツは実に喜びの音信を聞きました。すなわちボアズが自分共の贖いびとであるという事を聞きました。そのためにルツはその時からその贖いを思い、その贖いを待ち望んで、今までのようにただボアズの畑で穂を拾うことだけでは満足ができません。これからはボアズ自身を願います。ボアズの愛、またボアズと一つになることを願います。これが真正の贖いであります。私共も今までは主イエスの恩恵を拾うて、それによって心の喜悦と満足とを得ておりました。けれども主イエスは私共の贖いびとであります。心の聖潔を受けることは幸福です。また聖霊の恩恵と聖霊の能力を受けることも幸福でありますが、私共の特権はなおなお進んで主イエスの贖いを経験することであります。即ち主イエスと一つになることです。コリント前書一章三十節をご覧なさい。『汝らは神に賴りてキリスト・イエスに在り、彼は神に立てられて汝らの智慧と義と聖と救贖とに爲り給へり』。そうですから主御自身を受けますれば、そのために天に属ける聖潔を心の中に受け、心が潔められて真の聖潔を経験します。また主御自身を受け入れますれば、贖いの深い意味を知って、主はわが贖いとなりたまいます。おお、兄弟姉妹よ、どうぞそのように主イエスと一つにおなりなさい。そのために主イエス御自身を受け入れなさい。主イエスの贖いをお求めなさるようにお勧めいたします。
一節『爰に姑ナオミ彼にいひけるは 女子よ 我汝の安身所を求めて汝を幸ならしむべきにあらずや』
『安身所』、主イエスと一つになれば、それこそ真正の安身所です。そのために真の安心を得ます。そのために罪の嵐より救われて安息む事を得ます。またそのためにサタンに勝利を得る事ができます。そうですから真正に安息することを得ます。マタイ伝十一章を見ますと、その終わりの方に二つの安息について言ってあります。安息の経験とさらに深い安息の経験とが書いてあります。二十八節に『凡て勞する者・重荷を負ふ者』、これは格別に罪人を指す言です。『われに來れ、われ汝を休ません』。私共は各自この招きに従って主イエスの許に参りまして、主より安息を得ました。けれども次にもう一つの勧めがあります。二十九節『我は柔和にして心卑ければ、我が軛を負ひて我に學べ、さらば靈魂に休息を得ん』。これは別の事です。主イエスの軛を負うならば、そのために主と一つになり、主と偕に同じ途を踏まなければなりません。軛というものは二疋の牛が一緒に負うものであります。私共が主イエスの軛を負いますれば、その時より主と一つになり、主と一緒に行み、主と偕に働き、主と共に交際する事を得ます。そうしてそのためになおなお深い安息を経験する事ができるのであります。『さらば靈魂に安息を得ん』。これは真正に天に属ける安息であります。ちょうどルツ記三章のように、神は私共のために、そのような安身所を備えたまいました。
二節『夫汝が偕にありし婢等を有る彼ボアズは我等の知己(これは親類即ち贖いびとという意味であります)なるにあらずや』
どうしてその安息を得ますかならば、ボアズが贖いびとであるからであります。そのためにルツは安息の特権を有っておりました。イスラエルの法律上の特権がありました。法律に従って安息を受けることができるのです。これは実に幸福であります。ルツはそれゆえに堅固なる信仰をもって、それを求めることを得ました。これは法律上正当の安息でありますから、大胆に信仰をもって、それを求めることを得ます。二章においてルツはボアズの恩恵を求めました。けれども今はただ恩恵を求めません。法律を指して、法律上の特権を請求します。私共もそのように、一方より見ればただ神の恩恵を受けるというだけでなく、神の法律に従って正当に受けられる私共の特権を願って、神の御前に出るのでありますから、堅固なる真の信仰をもって神の御前に出で、それを求めることを得ます。ルツはそれを知りました。そんな特権のある事が解りました。
さてどうしてその恩恵を求め、その恩恵を経験いたしますか。多くの人は聖書を読んで神の恩恵を知ります。けれどもどうしてそれを得、それを経験すべきやを未だ知りません。即ち信仰の途を未だ存じません。この三章において、神は懇切に私共に信仰の途を教えたまいます。ナオミは懇切にルツを教えます。その特権を受けるためにボアズのところに行くには、その次の節をご覧なさい。
三節『然ば汝の身を洗て膏をぬり衣服をまとひて』
身を洗えよ。これは第一に必要の事です。まず主の聖潔に適わぬことを断然捨てなければなりません。これは理に合うことであります。潔き潔き贖い主を受け入れとうございますならば、潔き潔き贖い主と一つになりとうございますならば、まず第一にすべての汚れを脱ぎ去らなければなりません。コリント後書七章一節の勧めのようであります。『されば愛する者よ、われら斯る約束を得たれば』、私共は既に美わしい約束を得ましたが、ただその面白い意味を知っただけで満足すべきではありません。既に貴い約束を得ましたから、『肉と靈との汚穢より全く己を潔め』これは良心に適うことです。聖書に書いてありませんでも、私共の良心に教えられてそれを知る筈です。第一に肉と霊とのすべての汚穢より潔めることが必要であります。私共は自分で自分の心を潔めることはできませんが、悔い改めて罪を去ること、罪と汚穢を捨てることはできます。そうすればキリストの血によって潔められます。神は私共に第一にこれを望みたまいます。既に主イエスの美わしさを幾分か見ましたならば、また主の聖潔を見、その主と一つになる事を望みまするならば、必ず主に潔められて己を潔くする筈であります。
どうぞヨハネ第壹書三章をご覧なさい。一節で神の子となる事を得ました。またそれによりて神の御慈愛を感じます。『視よ、父の我らに賜ひし愛の如何に大なるかを。我ら神の子と稱へらる』。しかしそればかりではありません。二節にあるように、心の中に大いなる望みがあります。それは何ですかならば主イエスの新婦となる事であります。そうですから三節において『凡て主による此の希望を懷く者は、その清きがごとく己を潔くす』。おお、愛する兄弟姉妹よ、あなたは正直に悔い改めましたか。聖書に教えられて、正直に全く肉と霊とのすべての汚穢を捨てましたか。この聖別会の初めの集会で、神はあなたに光を与えて、あなたの生活の上にも、また心の中にも、汚穢のあった事を示したまいましたでしょう。その罪と汚穢を既に悔い改めましたか。如何です。誰でも必ず主イエスの再臨の時に、その前に出たいと願います。しかしそのためにこの聖別会において、神が語りたもう時に、神が光を与えたもう時に、神がこれぞと指示したもう汚穢と罪を断然捨てて、自己を潔くしなければなりません。これは第一に必要の事です。
第二に、ルツはボアズのところに行かねばなりません。その時にボアズは何をしていましたかならば、二節の終わりをご覧なさい。『視よ 彼は今夜禾塲にて大麥を簸る』。主イエスはそのような人、そのような救主であります。私共はこの大麦を簸りたもう神に近づかなければなりません。マタイ伝三章を見ますと、十一節の終わりに『彼は聖霊と火とにて汝らにバプテスマを施さん』。そうですからすぐに十二節が出て参ります。『手には箕を持ちて禾場をきよめ、その麥は倉に納め、殻は消えぬ火にて燒つくさん』。即ち主イエスは大麦を簸る御方であります。それゆえに私共がこの主イエスに近づきますれば、主は必ず私共の心をも思念をも、また生涯をも行為をも働きをも探りたまいます。私共の金を費やす方法をも、食物をも飲料をも、休む時の事、働く時の事、友達に接する時の事、家庭の有様等すべて簸りたまいます。心の奥までも簸りたまいます。
詩篇百三十九篇一節に
『ヱホバよなんぢは我をさぐり我をしりたまへり』とあります。またその二十三節を見ますと『ねがはくは我をさぐり……たまへ』という祈禱があります。この祈禱は当然の祈禱であります。けれどもこの一節は祈禱ではありません。『なんぢは我をさぐり我をしりたまへり』、即ち事実であります。恐ろしい事実であります。最早私共を知っていたまいます。箕をもってその大麦を簸りたまいます。なおその詩篇の続きをご覧なさい。『なんぢはわが坐るをも立をもしり 又とほくよりわが念をわきまへたまふ なんぢはわが步むをもわが臥をもさぐりいだし』。毎日の小さい事においても神はあなたを探り、それによりてあなたの心を知りたまいます。あなたが正直に身も魂も献げておるや否やを、その小さい事によりて判断したまいます。この三節の『さぐりいだし』という語の原語は、ルツ記の『簸る』という字と同じ字で、簸い出しという意味であります。主は私共の毎日の生涯における小さい事をも簸いたまいます。『わがもろもろの途をことごとく知たまへり』。おお、あなたは主のご慈愛を知りとうございますならば、主の贖いを経験しとうございますならば、大麦を簸りたもう主の許に来なければなりません。私共は多分それを恐れ、そのようなことを願わないかも知れません。私共は心の喜楽を願います。能力を願います。光を願います。けれども主の御手の働きを願わないかも知れません。けれども今朝正直に主があなたを簸いたもうことをお願いなさい。
ルツはボアズの許に参りました。それのみならず、ボアズに全く身を委ねました。ボアズの足下に身を委ねました。これは信仰の行いであります。信仰とはただ言を信ずることだけではありません。主イエスに身を委ねることであります。主の御足下に伏して、全く己を主に任せ、身も魂も委ねることであります。ルツのようにボアズの足下に参ることです。ヨシュア記五章十三節十四節をご覧なさい。ヨシュアは主の足下に倒れて、主に身も魂も献げました。『ヨシユア、エリコの邊にありける時 目を擧て觀しに一箇の人 劍を手に拔持て己にむかひて立ゐければヨシユアすなはちその許にゆきて之に言ふ 汝は我等を助くるか 將われらの敵を助くるか かれいひけるは 否われはヱホバの軍旅の將として今來れるなりと ヨシユア地に俯伏て拜し我主なにを僕に告んとしたまふやと之に言り』。ヨシュアはそんな態度をもって主に献身し、主に従いました。そうですから主は何と言いたまいましたかならば、六章二節をご覧なさい。『視よ われヱリコおよびその王と大勇士とを汝の手に付さん』。ヨシュアは自分をヱホバの手に付しましたから、ヱホバはエリコをヨシュアの手に付したまいました。ボアズの足下に参りまして、ボアズに身を委ねる事は、ちょうどそのような事であります。主は必ず早速我エリコを汝の手に付さんと言いたまいます。
ルカ伝を見ますと、たびたび主イエスの足下に倒れた人の話が書いてあります。まずはじめに七章三十八節、これはマリアの話であります。『泣きつつ御足近く後にたち、淚にて御足をうるほし、頭の髮にて之を拭ひ、また御足に接吻して香油を抹れり』。イエスの足下に倒れるという事は、そのように砕けたる心をもって、また愛をもって、主に身も魂も献げることであります。次に八章三十五節『惡鬼の出でたる人の、衣服をつけ、慥なる心にて、イエスの足下に坐しをるを見て』。この人はイエスの足下に坐して、イエスと親しき愛の交際ができました。またその四十一節(元訳では四十二節)『イエスの足下に伏し』。これはヤイロの祈禱のところです。執り成しの祈禱のところです。おお、イエスの足下に平伏しておれば、生命──復活の生命を受けるほどの祈禱ができます。また十章三十九節に『イエスの足下に坐し、御言を聽きをりしが』。私共もイエスの足下において真理について光を受けます。そこで主イエスの教えを受ける事ができます。また十七章十六節『イエスの足下に平伏して謝す』。これは感謝のところです。どうぞこの六つの引照を深く考えて、主イエスの足下にお近づきなさい。主イエスの足下に平伏して、主に身も魂も献げる事は、真の信仰であります。
ルツは自分の特権を知り、またボアズが信ずべき人である事を知りて、かように大胆にその特権を求めてボアズの足下に参りました。そうですから九節でボアズはルツに語り、ルツはボアズの恩恵を求めました。
九節の終わりに『汝は贖業者なればなり』
『贖業者』、ルツはそれを要求します。あなたは贖いびとですから、あなたを信用します、という大いなる願いと信仰と望みをもって、ボアズに一切を委ねました。それゆえにボアズは十三節にそれについて取り扱うことを約束いたします。
十三節の終わりに『ヱホバは活く 我汝のために贖はん』
そうですからルツはボアズの約束を得ました。未だその贖いを経験しません。けれども贖い主の堅い約束を受けましたから、その約束を信じてそこを去る事を得ました。ボアズは必ずその言の通りに事を行うと信じて、そこを去りました。
けれども空しくはそこを去りません。ボアズはルツに豊かなる恩恵を与えました。
十五節の終わりに『大麥六升を量りて之に負せたり』
私共も主に面会しますならば、主の足下に参りますならば、必ず何も得ずに空しく帰るようなことはありません。その時に火のバプテスマを得ませんでも、その時に全き贖いを経験しませんでも、空しくは帰りません。必ず多くの恩恵を持って帰ります。そうですからそれによりても、ボアズは必ずその約束を成し遂げるという事を、なお堅く信仰する事を得ます。
十八節『姑いひけるは 女子よ坐して待ち事の如何になりゆくかを見よ 彼人今日その事を爲終ずば安んぜざるべければなり』
これは真の望みです。信仰の望みです。主にすべてを委ね奉りましたから、主に法律上の特権を願いましたから、必ず主は躊躇せずしてそのことを取り扱い、恩恵をもって贖いたまいます。私共の中に多分最早主の足下に参りまして、主に身も魂も献げ、全き救いを得た者もありましょう。また未だそれを経験しませんでも、既に主にそれを願いましたならば、主は必ずそれを成し遂げたもう事を信じて、それを俟ち望みなさい。これは信仰であります。
信仰は第一に法律上の特権を知ることです。神の法律、天の法律に適う特権を知り、またそれとともにそれを願います。第二に信仰は、主イエスの足下に来りて、主に万事を委ね奉ることです。第三に、主にそれを願いましたならば、主が必ずそれを成し遂げたもう事を信じて、それを待ち望み、喜悦をもって楽しみ望んでそれを待つことであります。愛する兄弟姉妹よ、どうぞそのような信仰をもって、主イエスが約束したもうた恩恵をお求めなさい。主は必ずその法律上の恩恵を与えたまいます。必ず聖書に記してあるように、あなたを潔め、あなたを恵み、あなたを御自分の花嫁とならしめ、あなたに御自分の愛を表し、あなたを御自分と一つにならしめたまいます。
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