ルツ記霊的講解
ビー・エフ・バックストン講述
米 田 豊 筆記
総 論
この小さき書物によりて、神は私共に大切なる事を教えたまいます。贖いの深い意味、また贖われることの広い恵みを教えたまいとうございます。二章の二十節を見ますれば、その終わりの方に『其人は我等に緣ある者にして我等の贖業者の一人なり』とあります。ルツはこのとき初めてそれを知りましたが、だんだんその贖いびとの恵みを経験し、ついに四章の十四節において『婦女等ナオミにいひけるは ヱホバは讃べきかな 汝を遺ずして今日汝に贖業人あらしめたまふ』とあります。そうですから神はルツに贖いびとを与えたまいました。これは神の大いなる恵みでありました。またその恵みのうちには、ほかの種々の恵みが含まれておりましたから、私共はそれによりて神の贖いびとの恵みを知ることを得ます。神は私共各自のために、大いなる贖いびとを立てたまいましたが、私共は或いはその円満なる恵みをまだ経験しないかも知れません。どうぞこの小さい書物によりて、贖い主なる主イエス・キリストの大いなる恵みを悟りとうございます。
イザヤ書四十三章一節『ヤコブよ なんぢを創造せるヱホバいま此如言ひたまふ、イスラエルよ 汝をつくれるもの今かく言給ふ、おそるゝなかれ 我なんぢを贖へり 我なんぢの名をよべり 汝はわが有なり』。我汝を贖へり、これはただあなたの罪を赦し、また潔むるばかりでなく、全く神の有となる意味であります。この節の終わりに『汝はわが有なり』とありますように、贖われた者は全く神の有となり、また神と一つになったのでありますから、実にこれは大いなる恵みであります。新約のテトス書二章十四節に同じことを見ます。『キリストは我等のために己を與へたまへり。是われらを諸般の不法より贖ひ出し』、これは第一です。『特選の民を己がために潔めんとてなり』、これは第二です。またその『己がために』とあるのは第三です。すなわちご自分の有とならしめたまいます。次に『善き業に熱心なる』、これは第四です。即ち熱心を与えて燃ゆる者となしたまいます。贖い出され、潔められ、神の有となり、また燃ゆる者となる。これはみな贖いという事の中に含んでいる恵みであります。もし私共が未だ聖霊の火を受けず、また未だ主イエス・キリストと一つになりませんならば、未だ真正に贖われるという意味を知らない者であります。贖われることの深い意味は、ペンテコステのバプテスマによりて、初めて知られるものであります。
ルツはモアブの人で、神に詛われた国の者でありました。けれどもその人が神の御手に贖われて、ボアズの妻となりました。ちょうどそのように神に詛われし罪人が、神の恵みを得てその贖いを経験し、ついには主イエスの新婦となる事を得るのであります。これが贖われることの意味であります。おお、どうぞ聖霊に教えられて、この書の深い意味を学び、それを経験いたしとうございます。
さればルツ記の主意は何でありますかならば、エペソ書五章二十五節以下に書いてあることであります。『キリストの教會を愛し、之がために己を捨て給ひしごとく汝らも妻を愛せよ。キリストの己を捨て給ひしは、水の洗をもて言によりて教會を潔め、これを聖なる者として、汚點なく皺なく、凡て斯のごとき類なく、潔き瑕なき尊き教會を、おのれの前に建てん爲なり』(二十五〜二十七節)。これは贖わるることです。主イエスが斯様に、私共を瑕のない、汚点のない御自分の新婦とならしめたまいとうございます。また続いてそこを見ますれば、『これを育て養ふ、キリストの教會に於けるも亦かくの如し』(二十九節)。キリストはただ今その目的をもって、私共を保り養いたまいます。これは実に安息であります。心の安息であります。斯様に主イエスの有となりますれば、初めて真正の安息を経験することを得ます。さればルツ記の主意は、他の方面より申しますれば、安息であります。
一章九節をご覧なさい。『ねがはくはヱホバなんぢらをして各その夫の家にて安身處をえせしめたまへ』。しかし、かくモアブに帰る道を踏めば、必ず真の安息を得ることはできません。ルツは己の国を捨て、神の国に参りましたから、真の安息を得ました。三章一節に『爰に姑ナオミ彼にいひけるは 女子よ 我汝の安身所を求めて汝を幸ならしむべきにあらずや』。主イエスはそのように、私共に真の安息を与えたまいます。ヘブル書四章にペンテコステの恵みを神の安息と言われてあります。即ちこれは罪よりの安息、肉慾よりの安息、この世の誘惑よりの安息で、ペンテコステの恵みによりてこの安息を得ることができます。言い換えれば主イエスと一つになれば、真の安息を得るのです。そうですからルツ記を見れば、ペンテコステの恵みを受くる道を見るのであります。ユダヤ人は二千年前に、ペンテコステの日に毎年ルツ記を読みました。彼らは主イエスを悟りませんから、ルツ記の深い意味を悟ることができませなんだでしょうけれども、何かペンテコステに深い関係があると思うて、毎年この小さい書物を読みました。
さて今はだんだん主イエスの再臨の時が近づいていますが、私共はこのルツ記によりて、主イエスの新婦となる事について知ることを得ます。この世にある間、主と一つになることは実に幸福であります。ヨハネ伝十五章にあるように、私共は主におり、また主が私共にいたまいますれば、それによりて多くの果を結びます。これは大いなる栄えであります。ペンテコステの栄えであります。けれどもキリストが与えたもう恵みはそればかりではありません。後の世において新婦たる栄えを経験するのであります。兄弟姉妹よ、私共はこのルツ記によりて、再臨したもう主を迎える準備をいたしとうございます。潔められて主の有となり、新婦の資格を得るために、厳粛に祈禱をもって、この書を開きとうございます。また大いなる望みをもってこれを学びとうございます。
ルツ記と雅歌とは霊の意味において、深い関係があります。ルツ記においては、詛われし者が如何にして主の有になることを得るやを知り、雅歌においてはその主イエスの有となりし新婦と、主イエスとの美わしい愛の関係を知ることができます。それゆえに霊的の意味において第一にルツ記、第二に雅歌を読んで、ペンテコステの恵みを知ることができるのであります。
ルツ記全体を見ますれば、ルツにとりて三つの時代がありました。初めに彼女はイスラエル人の妻となりました。そのゆえに自分もイスラエル人となりました。そのために自分も神の契約の中に入りました。神の恵みを受け納れ、神の有となりました。まだ神の国には参りませんけれども、また神の国の人と交わることを得ませんけれども、やはりイスラエル人であります。基督信者の中にもこういう人があります。もはや主イエスを自分の救主としましたから、自分は救われた者、また神の国の一人となりて、神の契約の中に入り、神の恵みを得ました。その時までは詛われし国の一人でありましたが、今は神の国の一人となりました。けれどもまだ神に遠い生涯を送っています。神に近づき、神と交わり、また聖徒と交わりませんけれども、やはり神の国の一人であります。或る人はそのように、信仰の生涯ではありますが、まだ実に低い生涯を送っています。そんな人にはコリント後書六章十七節を勧めなければなりません。ルツがモアブにいた時に、こういうことを勧める筈でありました。『汝等かれらの中より出で、之を離れ、穢れたる者に觸るなかれと。さらば我なんぢらを受け』、なお七章一節『されば愛する者よ、われら斯る約束を得たれば、肉と靈との汚穢より全く己を潔め……』。肉に属ける信者にこういう勧めを致しとうございます。おお、ここにいなさる愛する兄弟姉妹の中に、神に遠ざかって生涯を送っていなさる御方があれば、どうぞこのコリント後書の勧めに耳を傾けて潔められなさい。どうぞ身も魂も全く神に献げて、神の有となることをお求めなさい。神は必ずあなたを潔めて、ご自分のものとならしめたまいます。ルツの伝記の中にかように第一の時代がありました。
けれどもルツは神の国に帰りました。二章を見れば、ルツは神の国に止まり、神の恩恵を経験し、平安と安息を受けることを得ました。ボアズの面を見、ボアズの声を聞き、ボアズの手より恩恵と養いを受けることを得ました。ルツは神の国に帰りましたから、すぐさまかかる経験を得ました。皆様のうちにそんな人がありますれば、その方は誠に幸福な方であります。贖主なる主イエスと交際し、主イエスに守られ、主イエスに恵まれ、主イエスに養われ、直接に主の御手より霊の養いを受け、神の歓喜と平安を経験するのは、実に幸福なことであります。これはルツの伝記における第二の時代でありました。
けれどもそれよりさらに幸福なる時代が参りました。ルツはなおなお美わしい経験に進み、贖主となおなお親しい交際に入ることを得ました。即ちルツはボアズの新婦となりました。おお、愛する兄弟姉妹よ、あなたはもはや幾分か神の国の恵みを得、また主イエスと交わりましたならば、あなたはまだもっと親しい交際に進み、もっと深い恵みを経験し、主イエスの新婦となりて、主イエスと全く一つになることができます。ルツの伝記の中において、これは第三の時代でありました。私共もペンテコステの恵みを受けて、主イエスと全く一つになりますれば、即ち言い換えれば主イエスの新婦となりますれば、かような親しい交際に入ることを得ます。ルツはその時に、ただボアズの手より恵みを受けるばかりでなく、ボアズ自身と一つになり、ボアズの有はみな自分の有となりました。これは実に幸福なる経験であります。ルツはボアズと一つになりましたから、ボアズの宝はみな自分の宝となりました。コリント前書三章二十一節に『萬の物は汝らの有なればなり』とあるとおりであります。おお、ハレルヤ。神の宝はかかる経験を得た信者の有となります。神の有はすべて皆その人の有であります。『或はパウロ、或はアポロ、或はケパ、或は世界、あるひは生、あるひは死、あるひは現在のもの、或は未來のもの、皆なんぢらの有なり。汝等はキリストの有、キリストは神のものなり』(同二十二、二十三節)。おお、実に感謝すべき事であります。
またエペソ書一章三節を見れば、同じ事を見ます。『讃むべきかな、我らの主イエス・キリストの父なる神、かれはキリストに由りて靈のもろもろの祝福をもて天の處にて我らを祝し……給へり』。もはや霊のもろもろの祝福を与えたまいました。ただ毎日なくてならぬ祝福を僅かばかり与えたもうのではありません。ご自分の宝を悉く私共に与えたまいましたから、いつでも必要の時に、自分の思うままに、それを受けることができるのであります。おお、兄弟姉妹よ、聖霊のバプテスマに由ってかように主イエスと一つになり、主イエスの新婦となり、主イエスのご慈愛を経験し、また主イエスの霊の恵みを悉く自分の有とすることを得ます。どうぞこのたび主が私共の悟りを開いて、その事を見せしめ、またそれを実現せしめたまわんことを祈ります。これを実験すれば、私共はいつも雅歌の経験、またヨハネ伝十五章の経験を有つことができます。またエペソ書にあるように、天の処に止まりて主と親しく交際することを得ます。
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