大 な る 救 拯


パゼット・ウィルクス著



第一章  約 束 の 地



 我らが今ここに学ばんとする主題は、『神の斯くの如き大いなる救い』(ヘブル二・三)ということである。すなわちそれはどういうことであるか、またいかに経験されるべきであるか、また我らの歩まんとする道における妨碍物、およびその入口、またその後の道程はいかに、等ということが我らの題目である。
 ヘブル書の著者の導きに従い、我らはイスラエル民族がエジプトを出てカナンに入りし歴史をこの大いなる経験の型として用いんとするものである。聖パウロは、かの記憶すべき物語を我らの鑑として書かれたものと二度までも強調して我らに語っている(コリント前書十・一〜十二)。ヘブル書翰の著者もまた、同様なことを我らに語っている。約束の地に入ることは、単なる歴史の一断片ではなかった。それこそ実に我らのために書かれたものである。カナンの地へ入るという福音は、その昔イスラエル人に語られたと同様に、我らに説かれたるものであったと彼らは言うのである。単に昨日というのでなく、それは『きょう』である。また明日ではなくして今日である。いつまでもというのではなくして、今やちょうどその教訓を受くべき良い時なのである。このゆえにそれが単なる一歴史上の有益なる教訓を含んだ挿話に過ぎないとする解釈は極めて不適当なものである。またカナンを天国の型として説明することは当を得たる正しい見方であろう、けれども更にこれを現在の宗教的霊的経験の型として見ることは最も的中したる解釈であると思われる。エジプトから出でしことを称義の型として説明する時もなく、また必要もない。真のクリスチャンはみな悉くこれを熟知しているはずである。今朝、我らはむしろ、新生それ自身のごとくこれを受けるに明確であり、真実であり、また突然である一つの経験、すなわち──全き聖潔、或いは聖霊の充満、或いは内住のキリストとして心の中に知られている、かの第二の恩寵の御働きの型としてのこの約束の地について研究せんとするものである。新生、或いは魂がエジプトから逃れ出でること(ローマ六章)という経験と、聖霊の盈満、或いは約束の地への入国という経験(ローマ八章)との間には、曠野の生活(ローマ七章)という経験と物語とがある。
 今朝、我らはモーセと共にピスガの高嶺に登り、約束の地を眺めようではないか。後刻また平野に下り、曠野の砂地におけるかの惨めな、疲労し切った彷徨の道程を探し出すであろう。(約束された)『地』というのは旧約聖書において不易の題目である。この字はモーセの五書およびヨシュア記、士師記にほとんど五百回も出ている。すなわち創世記に八十四回、出エジプト記に六十回、民数紀略に九十回、申命記に百五十四回、ヨシュア記に六十回、士師記に二十五回である。
 しかり!  かの小さな微弱な地──それは日本の四国ほどの大きさもない──は世界祝福の中心となってきたが、またなお将来もそうであるだろう。その丘と谷の間からは活ける水の河々が流れ出して、地の諸々の国に及んだのである。それゆえにこれが人間の魂の最も深い、そして最も祝福されたる経験の型として用いられるのは当然のことである。我らは今朝この地の名称、表題の七つについて考えてみたい。そしてこれによって神様がキリストにおいて我らに約束せられしところのものを展望したいものである。

一、 安 息 の 地

 また彼らは主がエジプトで、エジプト王パロとその全国に対して行われたしるしと、わざ、また主がエジプトの軍勢とその馬と戦車とに行われた事、すなわち彼らがあなたがたのあとを追ってきた時に、紅海の水を彼らの上にあふれさせ、彼らを滅ぼされて、今日に至った事、またあなたがたがこの所に来るまで、主が荒野で、あなたがたに行われた事、およびルベンの子のエリアブの子、ダタンとアビラムとにされた事、すなわとイスラエルのすべての人々の中で、地が口を開き、彼らと、その家族と、天幕と、彼らに従うすべてのものを、のみつくした事などを彼らは知らず、また見なかった。しかし、あなたがたは主が行われたこれらの大いなる事を、ことごとく目に見たのである。(申命記十一・三〜七)

 これはヘブル書の記者がカナンの地について書いた所の言葉である。全き成聖とか或いは内的聖潔とかは殊に安息したる心である。『平和の神』、すなわち聖霊なる神──天より鳩のごとく降りし──『汝らを全く潔くし』と使徒は祈っている(テサロニケ前書五・二十三)。あなたの戦闘において『平和の神はサタンを汝の足の下に砕き給うべし』(ローマ十六・二十)。あなたの働きにおいて『平和の神……汝らを全うし給わん』(ヘブル十三・二十、二十一)。あなたの思いにおいて『平和の神、汝らと偕に在さん』(ピリピ四・九)、これらのすべてはまずもって心の安息、平和が、きょう我らが考えている所の贖われたる魂におけるかの第二の経験の真実性を証明する検証刻印であることを我らに暗示するものである。
 確かにそれは内なる悪との争闘からの安息を意味し、また神より離れた心の彷徨と邪なる行いより安息に立ち帰ることを意味し、また服務における安息、責任負担における安息を意味し、そしてまたそれは暗黒の地における争闘に対する安息を意味するであろう。
 一、彷徨よりの安息 イスラエル民族は一年間旅行した。そして実に四十年間もさまよったのである。旅することとは、一つの定まった目標に向かっての進行を言うのである。さまようとは目的も進路もない絶え間ない動きを言うのである。ああ、如何に多くの神の子どもたちが、聖潔の点においてほんの僅かのそれらしい進行しかしないで、引き続いて単なるうごめきに過ぎないことを繰り返していて、いつまでもその状態に服罪しなければならないことよ!
 二、心の悪よりの安息 かの人々はエジプトから出ていたのであった。ああけれども、エジプトはなお彼らから離れてはいなかった。『汝らのうちの戦争は何処よりか、紛争は何処よりか、汝らの肢体のうちなる戦う慾より来るにあらずや』(ヤコブ四・一)。心の敵が追い出されるにいたって初めて平和は内住するを得るようになるのである。人性の内壁中の悪魔(わが肢体の罪)が発見され破壊されて初めて、内に完全なる平和はあり得るのである。
 三、働きにおける安息 魂が自分の経験によって、神様が働き手であり、我らは単に彼の御手にある器に過ぎないものであるということを発見し、また戦いは神御自身のものであり、我らのものでないということ、我らはただ彼の善き御働きによりてのみ完全にそれをなし終えることができるものであるということを深く悟り、ただ傍らに立ちて偉大なる成就者のなさることを拝見することができて、初めて魂の安息は完全であり、また完成されるに至るのである。これは祈禱における戦闘である。
 四、サタンとの戦闘における安息 魂がキリストの宝血の力を味わって後、また一人の仲保者なる御方の執り成しを学んで、初めて、敵と共謀したる暗黒の力との戦闘にあってもなお安息を味わい得るのである。
 しかり! そは安息の地である。もし我らがただ彼の軛を喜んで負い、彼について学ぶならば、我らは確かに彼が約束したまいしこの魂の休息の地を見出すであろう。
        主よ、我信ず、安息のなお遺れるを
        知られたる汝が民のすべてに
        聖き喜び溢るる安き憩いよ
        なれこそはげに愛のすべてなれ

二、 乳と蜜の流るる地

 かつ、主が先祖たちに誓って彼らとその子孫とに与えようと言われた地、乳と蜜の流れる国において、長く生きることができるであろう。(申命記十一・九)

 これは聖書の頁に二十度を下らぬほども現れているもう一つの用語である。この『乳』と『蜜』とは神の聖言を標徴するためにしばしば用いられている言葉である。ゆえに『乳と蜜の流るる地』ということは、神の聖言という真正の食物また飲み物を知り、心にこれを楽しみ、喜び満ち溢れるばかりの霊的状態になっているさまを描き出すところのものである。これらのことは、すべてこれを経験する者にはいかにも真実である。神が多くの人々を満ち足れる祝福に導きたもう時、神の聖言は彼らのために一つの新しき書となり、彼らを喜びに満たし、その心に語り、その眼を啓き、そして彼らはヨナタンと共にまことに『我この蜜を少しく嘗めしによりてわが眼あきらかになりぬ』と言うことができるようになるということは、多くの人々の証によって明らかである。『聖言の真の乳』(ペテロ前書二・二=欽定訳)に対する欲求は十分に満足せしめられる。別言すれば、この神聖なる書の著者にて在す御方が、我らの心の衷に住みたもうに至れば、彼はこの言葉を活けるものとなし、これによりて語り、これをその衷に燃え上がらしめたもうということは、確かに期待されることである。

三、 活ける水の地

 しかし、あなたがたが渡っていって取る地は、山と谷の多い地で、天から降る雨で潤っている。(申命記十一・十一)

 緑の野広く、善き牧者なる主はそこに我らを導き入れ、そこにて我らを伏させ、神の言をもって養い、さらに憩いの水際に伴いたもう。活ける水は聖霊の盈満を表すものであって、主キリストの御約束になったところのものである。すなわち『これは彼を信ずる者の受けんとする聖霊を指して言い給いしなり』(ヨハネ七・三十九)、『我が与うる水は汝らの中にて泉となり』(同四・十四)、『我に来る者は飢えず、我を信ずる者はいつまでも渇くことなからん』(同六・三十五)とあるとおりである。
 ここに長い歳月、希望なく荒野をさまよった経験を持つ人があった。その人は実際まだエジプトの俗臭紛々たる者であった。ところがついに約束の地に入る経験を受け、ついこの頃、私に以下の如き手紙をよこした。

 『あなたは私に私の経験を書き記すようにと申されましたので、私もそうしようと切に願いました。しかし今ペンを手に取ってみると、どう書いたら最も正確に言い表し得るであろうかと迷っています。それは今私が持っているところの喜びなのでしょうか? もしそうだとすると、これは筆で書き表すことは到底不可能です。ただもう湧き上がって来ます。その中には種々の出来事がたくさん満ちているようです。すなわち清い心と、内住したもう驚くべき新たなる神、新たなる聖書、新たなる眺望、神と人とに対する新たなる感情、新たなる歌、そして神との交わりなどで心は一杯であります』と。

 かくの如きが約束の地における源泉である。それはすべて『ただ信ずる』ところの者に約束されたものであり、またこれがキリスト・イエスにおいて我らに備えたまえるものを握るために入らんとするすべての人に約束された、尽きぬ泉である。

四、 救 い の 地

 主はこの国々の民を皆、あなたがたの前から追い払われ、あなたがたはあなたがたよりも大きく、かつ強い国々を取るに至るであろう。(申命記十一・二十三)

 よく多くのクリスチャンによって用いられる句は『罪に打ち勝つ』という言葉である。確かに神は聖言の中において死に打ち勝ち、悪魔に打ち勝ち、しかして世に打ち勝つということを我らに約束していたもうのである。しかし神は勝利よりもよりよき或るものを我らに約束していたもう。すなわち勝利といってもそこには未だ心の罪に関係しているのであるが、最早そういうことのないよりよき或る物を約束していたもうのである。すなわち彼は罪の内住とその実在よりの救拯を我らに約束していたもう。神御自身の御血によって我らをして勝利よりも以上のものにしてくださるということを我らに示すために多くの言葉が用いられている。
 我らに向かって来る敵に立ち向かう時、神の臨在を意識することほど、約束の地において祝福された経験はない。彼は主の軍勢の長でありたもう。彼は我らのすべての敵を処分なしたもう。
 永い間──それは実に永い間──内なる敵に負かされていたところの或る人から次のような手紙を受け取った。

 『私は神様が私の魂になしたまえることのために神様を頌めたたえ、またあなたに感謝いたしとうございます。……私にはかつて、どんなものでも、私の心の奥底にある悪の性質を正しくするものとてはありはしない、というように思われていました。ところがそれから後、キリストが釘けられたまえる時、これもまた十字架上に死んだのである、という事実を握りました。私は、あなたが私に言って下さった『××さん、私はあなたがキリストの宝血の力と効力をかつて味わいなさったとは思われない』とのお言葉を再三再四考えてみたのです。おお、幸いに神様は私をして信ぜしめて下さいました。──神を頌めよ──今や私の心の奥底にまで神の力があり、悪しきところのすべてのものと戦いつつありたまいます。何年か前に聞いた不信仰な思想を通して、いかに多くの不信仰が私の内にあるかを、先日私は認めました。そして私は思いました、どうして私はこの恐ろしい不信仰と戦い得るかと。そして私は祈りによってそれを主の御許に持って参りましたら、主は私に「汝が安息の地にある時に、神は汝のために汝の敵と戦って下さる」と仰せたもうように思われました。何と祝福されたことではないでしょうか。』

 しかり、確かにそうである。『これによりて活ける神汝らの衷に在し、その地に住める敵をことごとく汝らより追い払いたまわんことを汝ら知るに至るべし』(ヨシュア三・十)。カナンの地は救拯の地であり、内住の救い主の力によりて得る勝利の地である。この救い主こそは悪と戦うことを得、我らの敵をみな滅ぼし尽くすことを得、かくて我らはまた我らの生涯を通して聖と義をもって恐れなく神に仕え奉ることを得るということは、聖霊によって繰り返し教えられるところである。

五、 豊 饒 の 地

 主はあなたがたの地に雨を、秋の雨、春の雨ともに、時にしたがって降らせ、穀物と、ぶどう酒と、油を取り入れさせ、また家畜のために野に草を生えさせられるであろう。あなたは飽きるほど食べることができるであろう。(申命記十一・十四、十五)

   心もおどる希望もて
   山の頂嶺高く
   立ちてぞ望む緑の野
   乳と蜜との川流れ
   園の実りもいと繁く
   はかりしられぬ豊かさよ
   げに穀、油、酒の地ぞ
   聖顔の笑みに照らされて
   恵みに恵み加えらる

 ここには聖霊が自由にその実を結ぶことを得たもうところの魂の有様を描き出してある。荒野の寂しき場所は今や薔薇のごとく花咲くところとなると言われている。愛、喜び、平和、恒忍などと称える実を生ぜんとする我らの藻掻きは、今や彼自らがその心のままにその悦びたもうところを行いたもう恵みのわざに処を譲るに至る。最初のクェーカーたるジョージ・フォックスはこの経験について左のごとく語っている。

 『私は主イエスを知り、また彼がいかに私の魂に貴かりしかを知っていた。しかるに私の内には忍ぶことをなさず、親切ならざるところの何物かがあることを発見した。私は一生懸命それを抑え付けようとした。しかしそれはなおそこを去らなかった。
 私は主イエスに何事かをわがためになしたまわんことを乞い求めた。そして私が私の意志を彼に全く任せてしまったときに、彼は私の心の中に入り来たもうた。そして自らより出ずる快からざるところのものや、不親切なものや、忍ぶことをなし得ざるところのものをみな逐い出し、しかして彼は戸を閉め切りたもうた』と。

 彼は異様なる譬えを用いてはいるが経験は同一である。
 かの偉大なるウィリアム・ブラムウェルの伝記者は、彼の魂における神の聖霊の御働きを書き記して、かくのごとく言っている。

 『彼の性質はすべての矛盾から自由であった。私は二十年以上も親しく彼を知っている。そして十二ヶ月一緒に同一の家に住んだ。それゆえに私は彼のくつろぎの時も見たが、私が非難するような癇癪を起こすようなことはかつてなかった。殊に最後の二ヶ年ないし三ヶ年というものは、彼はちょうどよく実った穀物の束のようであり、それは天の国葬に入れるために備えられたるもののごとくであり、或いは異なった言い表し方をするならば彼はちょうど光の樹であり、その壮んなる繁茂した枝には最もよく熟した果実の鈴生りになって垂れ下がっているようであった。彼の精神の中には柔和と愛情がいよいよ相増し加わっていた。彼の全霊魂は絶えず最も柔和な、天的な、情深き感情の満ち溢れている泉のごとくであった。私はかつて、堕落せしアダムの子らにして道徳的革新がかくのごとく完全である者を見たことがない。またかくのごとき天使的な、聖徒的な人を見たことがない。彼は実にすべてのことにおいて主があるべく定めたまえるその通りの姿になっていたのである』と。

六、 約 束 の 地

 おそらく主はあなたがたにむかい怒りを発して、天を閉ざされるであろう。そのため雨は降らず、地は産物を出さず、あなたがたは主が賜わる良い地から、すみやかに滅びうせるであろう。(申命記十一・十七)

 これはとりわけ約束せられたる地、すなわち──天父の約束──神の賜物──彼が与えたもう経験──である。さらば我らの義務はそれを所有することであるが、申命記だけにでも『獲る』とか『所有』とかいう言葉が六十三回より少なくはない。『我与え始たり』と主は宣う。『汝ら獲始めよ』と、そは信仰の働きである。『神の賜物なり、行いによるにあらず。これ誇る者のなからんためなり』(エペソ二・八、九)、『信仰によりて約束の霊を受けんためなり』(ガラテヤ三・十四)と、これにも勝って我ら自らの誇りや己の義に対して遜らせられ、またこれほど神に栄光を帰するものはない。
 塵にまで己を卑くし、ただ神をほめたたえ、神に感謝する信仰、ただ信仰によってのみ全き救いの経験に入るのであって、ヨルダン川を越えたところの人はすべてこの経験を得るのである。或る人はこのように書いている。

 『私にとってそれはこうであった。私は自らを卑く空しきものにせられた。そしてイエスは私のすべてのすべてとなりたもうた。私は自らという者の弱きことを未だかつて経験せしことなきほどに深く感じた。そして主は私の力のすべてであった。私自らという者は全く無になってしまった。彼こそは充ち足れるすべてたる御方であり、私自らは全く依杖なき者、彼こそは全能であった。私は私自らという者から逃げ出して、イエスの中に逃げ込んだ。彼は、金なく、値なく、またそれにふさわしい価値もなく、或いは忠実もなく、何もないのにわが救いとなり、わが願望の一切となりたもうた。私は彼の限りもなき謙遜の最も低きところにまで卑くなり、そして愛に満たされるに至って初めて神と偕なる者ということを感じた』。

七、 誓 い の 地

 かつ、主が先祖たちに誓って彼らとその子孫とに与えようと言われた地、乳と蜜の流れる国において、長く生きることができるであろう。(申命記十一・九)

 あたかも神の約束といえども充分ならざるもののごとく、神は誓いによってそれを一層確証していたもう。ほとんど五十度にわたって『汝らに与えんと汝らの先祖らに誓いし』というこの驚くべき事実が記されている。
 神がこの誓いを、我らにではなく、我らの先祖たちに与えたまいしことのために神に感謝せよ。約束も誓いもキリストにおいて我らに与えられたものであった。ゆえにそれは永遠であり不変なものである。すべての約束はイエス・キリストにおいてしかりでありアーメンである。
 神はその聖名をほめたたえる民を持ちたまわねばならぬ。『これに入るべき者』(ヘブル四・六)あり、そは我らのためにでなく、彼の御名のためにのみ与えられ、また約束せられたのである! さらば我らは『その安息に入るべき約束はなお遺れども、恐らくはこれに及ばざるものなからん』(同四・一)ために警戒せねばならぬ。もし我らが失敗するならば、他の者は我らに代わるであろう。そして我らは永久にその損失を嘆きつつ、永遠の失敗者となるであろう。しかしてこれに入りし者は栄えある約束を頂戴し、神の聖言の成就せられるために『入るべき』ところの人々の完全なる数を補って、選ばれたる者の数は満たされ、新郎を迎えるために新婦の装いは整えられるであろう。願わくば我らをして不信仰の罪とその愚とその永久の恥辱とを学び、時既に遅くならざる間に彼の全き救いを受け入れ、これを喜び得るために急がしめよ。
 


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