コリント前書十・一〜十二において与えられたるかの陰鬱なる記録の研究は、恐ろしき或るもの、不信仰の罪を現した。
今朝、我らはひるがえって、これよりも幸いなる物語である信仰の道を研究するのである。ご出席の諸兄姉に、もし新約聖書に書かれている最初の五人の婦人の名を、即座にどなたかお答えできますかとお聞きしたら、さあ果たして幾人の方が答えられようか。よろしい、それはマタイ伝福音書の第一章、主の御系図の中にみな見出すのであります。
第一は娼妓タマル、第二は娼妓ラハブ、第三は異邦人ルツ、第四は姦婦バテシバ、第五は祝福されたる処女マリアである。これらのみが救い主の系図の中に記録されている婦人であるが、私はその中の一人について語らんとするのである。
彼女はいかに神を信ずべきかを我らに教えるであろう。すなわち私はラハブについて語らんとするのである。私が語り終わったならば、きっと諸兄姉は、何故彼女が主の祖先になり、しかもついに聖書のウェストミンスター・アベイたるヘブル書第十一章に書き加えられたかということについて了解され、もはや不思議とも思われなくなるであろう。我らはどういう風にしてモーセが十二人の斥候を約束の地に遣り、そしてその報告を受けたかを前の研究において見た。彼は各支族よりの最も善き者を選び出した。彼らはみな牧伯であった。彼らの名と系図は記録されている。ああしかるに彼らは失敗した。しかして全会衆を迷い出さしめ、ついに惨めにも神の御手に滅ぼされたのである。
今やもう一度約束の地に到達した。今度はかつて忠実なる斥候の一人であったヨシュアが自ら全軍の指導者である。彼も約束の地に斥候を送った。充分に準備し、また警戒した。今度はただ二人であった。しかもその名も知られていない。彼らは急いで帰った。エシコルの葡萄は彼らの手に携えられていない。その土地やまた町々やその地の人々については何らの詳細な報告がされていない。彼らの提出したただ一つの事柄は、貧しい異邦人の娼妓についての証である。これは彼らをして非常に感動せしめた。ヨシュアも不思議に動かされた。待っていた全会衆もほんとうに確信を与えられ、満足せしめられた。それゆえに躊躇することなく彼らは征服と勝利に向かって前進した。
一人の貧しき婦人、極めて卑しき身分にありしその婦人の単純なる証が、全イスラエル民族を約束の地に携え入れるのである。我らはこの物語を沈思黙考しよう。しかして幾千年を隔てし今朝、私共の心にも彼女をして再び語らしめよう。何となれば、真に神は強き者を辱めるために世の卑しき者を選ぶことを望みたもうからである。
もし諸兄姉が聖書のヨシュア記の第二章を開かれるならば、かくのごとき力強きことをなしたるラハブの信仰の物語を見られるであろう。
……彼等は行って、名をラハブという遊女の家にはいり、そこに泊まったが、エリコの王に、「イスラエルの人々のうち数名の者が今夜この地を探るために、はいってきました」と言う者があったので、エリコの王は人をやってラハブに言った、「あなたの所にきて、あなたの家にはいった人々をここへ出しなさい。彼らはこの国のすべてを探るためにきたのです」。しかし、女はすでにそのふたりの人を入れて彼らを隠していた。(ヨシュア二・一〜四)
真の信仰はいつでも行動となる。敵の二人の間諜を受け入れるということは彼女の生命にかかわる大冒険であった。しかし彼女は神を信じた。彼女はそのことに彼女の一切を賭することをも甘んずるほど、神の道を信ぜさせられていた。そしてその信仰を行動に表した。
ここにまた信仰の始まりがある。神は聖言をもって我らを探りたもう。我らこれを受くべきか? 神の言は、一切の肉性と我らの中に在る神の敵たるものには不倶戴天の敵である。我らは神に味方して彼の聖言を受くべきか? 救い主の最後のかの大いなる祈禱において、彼はその御弟子について御父に告げて曰く、『彼らは汝の言葉を受けたり』と。我らの心を探るために『彼はその言葉を遣わしたもう』義と愛の神を信ずるところの信仰のみその言葉を喜び迎え、言葉をして心のまま働かせまつるであろう。我らは本来『彼の焔のごとき一瞥』、『彼の探り給う聖言』、しかして我らの真相を暴露する彼の診断と分析を忌避する。しかしもし真の信仰が我らをして、神の偉大な力ばかりでなく、彼の善なる聖旨とその救いの力についてよく我らに信ぜしめるならば、我らは我らの貧しき心の赤裸々なる真相を偵察してこれを暴露する彼の御言を歓迎するに至るであろう。
おお、信仰の働くをなすには勇気を要する。しかして御言を受けることはその第一の働きである。近頃、魂の深い悩みをもって私のところに来た一人の青年は、神を信ずるということの第一歩は神の御言をその心に受け入れ奉るのであったということを知るように導かれた。
数日後、私に手紙を書いてよこした。
『おお驚くべき主イエスの恵みと愛の力よ、私は「思い切って信ずる」というあの言葉を愛します。ハレルヤ! しかし私は(あなたとお別れした時)「たとい彼われを殺したもうとも我は彼に依り頼まん」と申しました。しかして主は私を殺しつつありたまいました。しかし私は「わが愛する者は我これを懲らしめこれをむち打つ」との彼の御声を聞きました。ゆえに私は兎も角もハレルヤと申します。私は罪あるクリスチャン生涯の憐れな失敗の中にあるよりも、むしろ主に殺されることを望みます』と。
彼は昔のラハブのごとく、平和に、神の斥候を思い切って受け入れたのである。
そして彼らに言った、「主がこの地をあなたがたに賜ったこと、わたしたちがあなたがたをひじょうに恐れていること、そしてこの地の民がみなあなたがたの前に震えおののいていることをわたしは知っています。」(ヨシュア二・九)
真の信仰は情操でも感情でもない、それは『悟り』である。『信仰によりて我らはもろもろの世界の神の言にて造られしを悟る』。ラハブについてもそうであった。単に推定的であるとか、或いはまた直観的であるというような知識ではなく、真の知識があった。
確かに彼女はイスラエルの大衆の勝利の歩みについて学んだのであった。しかして一切の事実と出来事との背後に、またその勝利と救いの物語の背後に、神の御手の業があり、上よりの力があったということを彼女は見、また信じ、そして知ったのであった。彼女は言った、『汝らをかく遠く導きしのみならず、汝らにこの地を与えしは神なり。ただ神のみかくも遠く汝らを導き、しかも汝らにこの地を与えたもうなれ。神が与えたもう時に誰がこれを奪い去り得よう? 我知る、しかり、我知る、神のみ汝らにこれを与えたまえり。神ならでは誰がかくなし得よう』と。何という信仰、何という悟りであろう! 『イスラエルの中にだにかかる篤き信仰は見しことなし』と後日ほかの異邦の婦人について言われし言葉は、またこのラハブにも当て嵌まるのである。
愛する兄姉よ、我らが我ら自身の、またほかの聖徒の過去の歴史の事実や様子を読む時に、我らは文字以外の含蓄を信仰をもってその中に読み得ないであろうか? そして大胆に、それはみな主のなしたもうところにして、我らの眼に奇しとするものなりと明言し得ないであろうか?
『主なる神この約束の地を我らに与えたまえりと知る』と、すべてのことが反対のように見える際に我らは実際に言い得ようか? 聖潔の働きは、或る教理を支持することでもなく、キリストの十字架に対する強い心的な態度でもなく、献身という何かの働きとか、また我らがすることのできる、また摑むことのできる、また骨折って入り込むことのできる何かでもなくして、ただそれは神のなしたもうことであり、ただ彼の御領分であるということ、次には、キリストが十字架の上にて我らのために救いをなしたまいしちょうどそのごとく、神は確かに聖霊によって我らの衷になしたもうということ、第三には、その衷なる働きをなさねばならぬところの御方は神であり、正に神のみであり、しからずば何事も些かにてもなされないであろう、という、これらのことを我らは深くかつ霊的に悟らしめられたであろうか。
幸いなるかな、信仰の悟りを持つ人よ。
「主があなたがたの前で紅海の水を干されたこと、およびあなたがたが、ヨルダンの向こう側にいたアモリびとのふたりの王シホンとオグにされたこと、すなわちふたりを、全滅されたことを、わたしたちは聞いたからです。」(ヨシュア二・十)
どこから彼女はその知識を得たか? 信仰の悟りの本質は何であるか? 私は単に推理や推定でもなく、全くの直観でもないと言った。『信仰は聞くより出で』と使徒は言う。そして付け加えて『聞くところは神の言による』と言っている。しかもなおもう一つの『聞く』がある。すなわち証の聴聞である。これがラハブのそれであった。彼女は『主、汝らの前にて紅海の水を乾したまいしことを、我ら聞きたり』と言う。とはいえ、証の単なる聴聞は信仰を産出しない。ほかの人々も同じ話は聞いたのである。すなわち他のエリコの人々もみな同様に救いの事実については聞いたのであった。しかし彼らの聴聞は信仰とはならなかった。それは単に恐れと絶望を産んだ。否! 否! 御言を聞くことには証を聞くことが伴わねばならぬ。奇蹟や不思議を越えて、彼女は神を見たのである。『汝らの神、主は上の天にも下の地にも神たるなり』と彼女は叫ぶ。
彼女は聞いた。そして敢えて神を信じた。悪魔のごとく信じて戦くのでなく、異邦人たるとクリスチャンたるとを論ぜず、みな同様、神として答え、起ち、為し、救い、祝し、得せしめたもうという信仰を彼女は持っていたのである。ハレルヤ!
彼女の聴きしところの言葉には信仰を交えた。そしてそれが彼女の益となり、救いとなり、さらに彼女の限りない救贖となり、しかしてついには限りなき誉れと光栄とを受けしめるに至ったのである。
おお、人の唇を通して出ずる証の言葉が確かめられるため、我らの魂に語られる神の言を聞くべく時を用いよ。
「どうか……主をさして誓い……わたしの父母、兄弟、姉妹およびすべて彼らに属するものを生きながらえさせ、わたしたちの命を救って、死を免れさせてください。」(ヨシュア二・十二、十三)
魂の中にあって信仰が真実であり、かつ活きている時には、その魂は常に祈る。単に願望の祈りでなくして信仰の祈りである。かくのごとき祈禱は大胆であり、的確であり、しかして大きい。これがラハブの祈りであった。
彼女は神の軍旅が確かに勝利を得るということを信じた。それゆえに帰服するよりほかには安全な道がなかった。それゆえにまた彼女は直ちに神の力を信ずるということとその理由の証をなして、今や大胆にも神の善きものと恩恵とが彼女にも分け与えられるようにと求めたのである。おお、かくのごとき信仰こそ『禮代(いやしろ)を(人の中よりも)叛ける者の中よりも受け給えり、主なる神ここに住み給わんがためなり』(詩篇六十八・十八)と仰せたもう主を喜ばせまつるものである。
第一に祈禱、次に信仰ではない。我らは祈るゆえに信ずるのでない。信ずるゆえに祈るのである。真の祈りは信ずるところの魂の表現である。それはラハブにおいてしかりであった。彼女は神を信じた。しかしてその偉大なる力と、その確かなる御約束と、その確実なる勝利と、その不変の御旨と、また幾分にても確かにその豊かなる御恩寵とにおいて、神を信じたのである。それゆえに彼女は祈った。しかして彼女の大いなる祈願に対する答えを得た。
おお、信仰は何という活動的なまた生産的なものであろう! 推し進める力、高挙し感動せしめる勢力であろう!
そこでラハブは綱をもって彼らを窓からつりおろした。(ヨシュア二・十五)
信仰は常に冒険を伴う。彼女がかく間諜を出してやることには彼女の生命が賭けられている。しかし神の御旨の道にあっては全く安全であるとの確信をもっていたゆえに、恐れなく彼女はよく準備して冒険を敢行した。
信仰なき冒険は全くの狂言であろう。しかし我らは神の御旨と御目的についていよいよ深く確信すればするほど、危険極まる企てにおいてさえも確かに神の御保護のあることを確信するに至る。他の者が失敗し、沈没している同じことにおいても、賢く深みに漕ぎ出して岸辺を離れ、安全に沖に浮かぶことができる。
神と偕に歩まんとする人々の道は極めて狭く、また時には寂しいものであるということを、よろしく記憶すべきである。
どうしても、その人からそんな取り扱いを受けるはずがないと思われる人々から、反対が起こり来る。そして或る人は誤解し、或る人は「あれが罪のない完全者だとよ」などと言って辱めるようなことも起こってくる。主と偕に歩む時には何か常に価を払わなくてはならない。しかし信仰もってやってのけよう。
我らは神の御旨の中にあるという、我らの大胆なる確信を原動力としよう。さらばすべてのことは満足である。土地の探索に出掛けていた斥候は、確実な完全な究極的の救いという約束を彼女に与えた。彼女はこの約束に対して忠実でなくてはならないのである。彼らは神の言そのもののごとく、極めて大いなる貴き約束を、彼女の心配しているその魂に伝えたのであった。
かくて彼女は彼らを保護するためにはすべてを賭けるであろう。おお、我らも常に同様に致したい。すなわちもし我らの信仰が我らの魂に御約束を貴いものとするならば、我らの救いこそその御約束の上にかかっており、その御保護と成就によるものなることを知って、我らはラハブのごとくに一切を投げ出すことを厭わないであろう。
「ひとりでも家の戸口から外へ出て、血を流されることがあれば、その責めはその人自身のこうべに帰すでしょう。……しかしあなたの家の中にいる人に手をかけて血を流すことがあれば、その責めはわれわれのこうべに帰すでしょう。」(ヨシュア二・十九)。
我らが何か信仰の的確な求めをなし、またそのために何か冒険を敢えてしているような場合に、我らは直ちに何か著しき変化が起こるであろうと思う。或いは目覚ましき救いを経験するであろうと思う。そして別に直ちに何事も起こってこない時に、我らは失望するに違いない。こんな時には攪乱し動揺しやすいものである。ラハブにおいてはそうではなかった。彼女は救い出されるその日まで、こんな危険な場所で満足して待っていた。彼女は問題を自分の手中にしようとしたり、また自らの計画、画策の中に問題を運ぼうとしたり、そのために家を飛び出し、町から抜け出て、イスラエルの陣地の方へと歩み出そうなどとはしなかった。否、彼女は彼女とその一家の者がその周囲に起こる破滅と殺戮とから救われるという、その約束の時を静かに待って、そこに留まっていた。彼女は神を信じた。彼女は信仰の中に憩うた。
信仰の道において忍耐ほど必要なものはない。『信仰と忍耐によって』昔の族長たちは『約束を嗣いだ』ということを読む。これは呑気な、不注意な、無頓着や怠慢などとはたいへんな相違である。御約束に足を踏み出してからそれが成就するまでには『七日間』待たされると、いかに多くの神の子どもたちは証して言ったことであろう。聖潔の効力の現れが起こる前に、彼らは七度水に浸らねばならなかった。しかし真実の活ける信仰は常に辛抱し、忍耐し、しかして勝ちを得る。最近、大いなる恩恵深き経験に入れられた一人の人は、次のように書いている。
『集まりが終わりになって、あなたは去り行かれた。私は何の変化をも感じませんでした。しかしただしっかりと『神を信じ』続けました。しかして聖霊が来りたもうたという確信を得てから十日後に、私の心は喜びに充ち、今もなおそうであります。そして私は何と言ってよいかわかりませんが、喜びよりもなお深い何かがあります』。
彼女は見えざる神を見るがごとく耐え忍んだ。
彼女は赤いひもを窓に結んだ。(ヨシュア二・二十一)
『われ信ずるによりて語れり』と詩篇の作者は言った。真の信仰は常に証をなす。そして主はいかになしたまいしかを語る。
ラハブの場合において確かにそうであった。彼女は神に、ヨシュアに、全イスラエルの大衆に、彼女が自らの救い主として主を信じているということを、そして神の二人の代表者たちによって彼女に与えられた約束を信じているということを証しするのである。
確かに謙遜な信仰の心はなおそれ以上のことを見るであろう。すなわち彼女の窓から吊されていた赤紐は、かの贖いの血の祝福されたる標章であるであろう。真の信仰はその信ずる魂によって取られたる歩みを、最善の力をもって一層固め、強めるであろう。
ラハブは後日のエステルのごとく背水の陣を布いた。すなわち彼女が『我もし死ぬべくば死ぬべし』、されど我は神を信じて死なん、と言ったであろうことは疑いもない。
ヨシュアが数日後にそっと陣中を忍び出て、その攻撃の手はずを準備するためにただ一人町を探査に出掛けたとき、彼は城壁の上の窓からぶらぶら下がっている一筋の赤き紐を見、きっと『剛毅ないじらしい婦よ』と独り言を言っただろう、などと考えることを私は好む。もし私の想像が極端に走らないとすれば、この沈黙のうちに語っているラハブの信仰こそ、この指導者の心に力強い堅信礼であったと結論してもよいと思う。
証の哲理は極めて単純である。
【一】それは我ら自らの信仰を強め、背水の陣を布かせる。これによって言質を取られることになる。しかして或る者にはちょうどこのことが必要なのである。
【二】それは我らを醫したもうた御方についての祝福されたる広告である。我らは公に彼を頌め讃えねばならぬ義務がある。証は常にキリストについてであり、何を彼がなしたまいしかということであるべきである。
【三】それは他の誰かに祝福を与えるであろう。他の者に勇気を与えて、同様に行きて為さしめるに至るであろう。或いは神が我らに与えたまいし祝福を他の人が見て、同じような祝福を受けたいと渇望させるようになろう。
そしてヨシュアに言った、「ほんとうに主はこの国をことごとくわれわれの手にお与えになりました。」(ヨシュア二・二十四)
さて今や勝利を目指して行く! 彼女の酬いられたる信仰の物語は旧新約聖書の後のページに現れる。すなわち彼女及びその一族の救出の話、そして結婚して王のメシアの家系へ入れられしこと、また一大ウェストミンスター・アベイにおける碑文などはみなすべて大いなる酬いの部分であった。しかし今ここで学ぶところは勝利についてである。彼女の信仰は大いに二人の斥候を感動させた──彼女の信仰は彼らの想像と彼らの心の世界に火を点じたのである──その結果、彼らは大急ぎで帰り、ヨシュアに『誠に主はこの国を悉く我らの手に付し給えり』と言うに至った。もうこれ以上の証拠は要らなかった。かの妓婦の信仰はそれとともに圧倒的な確信をもたらしたほど、聖霊の力と証明とに満ちていた。
この二人の思いと心に点火された焔は、直ちにヨシュアの魂に燃え移っていった。イスラエルの民は召集された。報告が(もしかくのごとく呼ばれ得るとせば)どんどん伝えられた。燎原の火のように全大衆中に火道を作って燃え拡がった。ゆえにもう一切の疑いも不信仰も、そんなものは焼き払われてしまい、ついにすべての者が勝利は自分たちのものであり、自分たちのなさねばならぬことはただ起ちて地を嗣ぐことであるということを確かに信ずるに至った。我らは神を信じなければならぬ。ブレングルは言う、「すべての天は信仰にとって自由なる戦利品である」、「イエスの名を信ずることができる者にとりてすべてのことは可能である」と。さらば聖書の厳かなる警戒の聖言によく注意したらよろしくはないか。
【一】『汝ら信仰におるや否や自ら試みよ』(コリント後書十三・五)
【二】『心せよ、恐らくは汝のうち活ける神を離れんとする不信仰の悪しき心を懐く者あらん』(ヘブル三・十二)