第 四 章  カナンに向かっての四歩程


 
 今までに我らは約束の地のパノラマを展開し、そして曠野の経験の憐れと悲惨とを描写し、さらに我らの励ましのために異邦人の女丈夫の力強き勝利の信仰を顕示して来た。今朝私はさらに進んで、カナンへの四歩程とも言うべき四つの歩みについて熟考してみたい。
 ヘブル人への書翰の三章と四章を私と共に開かれんことを。諸君もご承知の通り、ここにおいて著者は約束の国への入国の物語を直截にすべての神の民に適用している。まず第一に『入る』という言い表し方に注意していただきたい。この言葉はこれら二章に亘って十一度を下らず記されている。神の休みは既に準備されている場所であり、保証され、確かめられたる祝福であり、約束されたと同様、既に準備されたる経験であり、我らが『入ら』ねばならぬ或るものであり、既に建てられたる逃れの町であり、既に我らの足下に横たわれる土地であり、そして我らが護るために創造しまた造りまた労作せねばならぬようなものではない、ということを再三聖霊は我らの心に深く印象せんと努めて在す。それは『入る』べき筈のものである。おお! このことを我らがよくよく悟るのみならず、さらに我らの心の奥深く沈み込むように私は切望する。
 もし我らがこの祝福されたる事実についてよく納得するならば、我らは次にかの恵み深き経験に我らを導き入れるところの四歩程を注視いたしたい。

第   一

 わたしたちが告白する信仰の使者また大祭司なるイエスを、思いみるべきである。(ヘブル三・一)

 この『思い見よ』という語(consider)は、英訳のヘブル書には三度起こっているが、原文においては三つの分明な異なる語が用いられている。第一はここにある『如何にキリストが忠実でありしかを思い見よ』(三・一、二)である。第二は『その人の如何に尊きかを思うべし』(七・四)。第三には『如何に彼は忍耐深かったかを思え』(十二・三)である。
 今朝我らは第一のものが約束の地に向かっての第一歩であるということを心に留めて、それのみを取り扱わんとする。原文におけるこの言葉は、斥候が土地をうかがうために使わされたとある民数紀略三十二・八、九における七十人譯聖書の用い方と同じである。
 英語の『思う』(consider)という語の語源はラテン語の sidus すなわち星座と関係あるように見える。聖霊は聖書という望遠鏡を用いることを命じ、しかして信仰というレンズを通してかの偉大なるヘブル民族の使徒──神に任命されてイスラエルの民をカナンの地にまで導いた人モーセ──の人となりの中に主イエスを見ることを命じたもう。
 モーセにはただ一つの熱望があった。彼は夜となく昼となく他のことは考えなかった。彼は一つのこと、ただ一つのことのみのために生きていた。すなわちそれは何であるかと言えば、神の贖われし民、しかしながら肉的であり、世的であり、始終呟いているイスラエルの民を、約束の地に連れて行くということであって、このことのために彼は生きていた。かくのごときイエスを我らは見たい。主イエスにとって、その贖いし民を乳と蜜の流れる地に連れて行くという願いこそは彼の全部であって、そのために絶えず労しておられるのであるということを我らは堅く覚えしめられたい。『されば共に天の召しを蒙れる聖なる兄弟よ……思い見よ』というこの勧めの現実の言葉に注意しようではないか。『されば』という言葉は上記の章に我らを引き戻す。そして『天の召しを蒙れる』という言葉と連接する。『彼は我らを兄弟と称うるを恥としたまわず』(二・十一)、この祝福されたる思い(consideration)は、モーセ自身の驚くべき言葉を思い起させ、我らの心を励ます。それはすなわちモーセが約束の地について語るとき、彼は次のごとく言うように神に命ぜられたのである。すなわち『主なる神は汝ら兄弟の中より我のごとき預言者を起こしたまわん』と(申命記十八・十五)。『キリスト来るときに、彼は我のごとくあらん』などというようなことを、立ち上がって思い切って大胆にも言うことが誰にできようか? しかもモーセはそう語るように命ぜられた。しかり、まことに人──人間なるモーセと等しく──我らの骨の骨──我らの肉の肉──まことに我らに近き、我らと同じ情の人でありたもう。──もちろん主が潔白な無瑕の罪なき人でありたもうという点においては唯一の御方であるけれど。──おお、かつてモーセがその民になせしごとく、我らが約束の地に入るようにと祈り、悩み、労したもう忠実なる主を思い見よ──諸君は召しを蒙れる者である。それなればこそ、主は我らを兄弟(単に下僕ではない、友であり息子である)と呼んでくださるのである。
 かくのごとき御姿の主イエスを思い見よ。我らはほかの多くの方法においても彼を充分に思うことができるかも知れないが、しかし第二の安息に入るという目的のためには、聖書という望遠鏡と荒野におけるモーセの物語を通してでなくてはならない。かくて我らにいとも近き我らの長兄であり、我らを兄弟と称えるを恥としたまわずして、我らと均しくなりたまいしところの主イエスを思い見ねばならぬのである。しかり、柔和な憐憫深きモーセと均しき主を思い見よ。彼モーセは、どんなに価を払ってもイスラエル人をカナンの地に導き入れようと決心して、祈りの中に悶えながら、神と論いながら日夜断食した。しかり、彼モーセは四十日の間、日夜彼らのために山の頂で主とあらゆることをもって論い、主が彼らの中に在りて歩み、彼らを勝利もてカナンの地に導き入れたもうように願ったのである。我らの学びのために描かれたこの絵に我らの眼を着けよう。我らの心に栄えある或る物が入って来て、『主よ、我信ず、信仰なき我を助けたまえ』と叫ぶまで、以上のごときキリストに眼を注ごうではないか。キリストが我らを導き入れたもうことを待ち、慕い望み、またその準備はいつでもできており、豊かにそうなし得たもうのであるということを確信するに至って、初めて全力を尽くして求めるに至るであろう。それゆえにこれがカナンへ向かっての第一歩である。『我らが言い表す使徒たる主イエスを思い見よ』。

第   二

 きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら、……心を、かたくなにしてはいけない。(ヘブル三・七、八)。

 もしカナンへの第一歩が御言の望遠鏡を通してあなたの偉大なる指導者キリスト・イエスを熟視することであるならば、第二は、飜って天の電話に向かい、聖霊なる神が語りたもうことに耳を傾けることである。
 彼らは『迷える心』(十節)、『頑ななる心』(十三節)、なかんずく『悪しき不信仰の心』(十二節)というように、以上の各節において語りたもう。彼はまた神の『業』、『道』、『休み』、『怒り』について我らに語りたもう。しかしてかのイスラエルの民が一切の神の『業』を見たのにもかかわらず、彼の『道』を知らなかったことが(詩篇百三・七参照)、『彼の休みに入る』ことのできなかった理由であるとして、入国の失敗を嘆いていたもう。彼は『神の怒り』という厳粛なる警戒を我らに遺したもう。しかしてそれは一つのこと、ただ一つのこと、すなわち不信仰に対して顕されたるものである。すべての偶像礼拝、また貪欲および罪は赦されることができた。これらのことは誰をも約束の地から締め出しはしなかった。否、門を閉ざし神の御手を縛ったものは、ただ『不信仰』であった。この恐ろしい罪に対して神の怒りは顕される。これは聖霊の声である。我らはそれを聞いたことがあるか? 不信仰が単に妨碍であるばかりでなく、すべての悪の fons et origo(源泉にして根本)であり、内住の罪の本体──蛇によって注入されたる毒──不信仰の悪しき心より湧き出ずる、神に対しておそるおそる不承不承に近づく疑い深き不信の態度である、ということを悟ったことがあるか。
 ただ聖霊のみこれを我らに示すことができる。我らの自然の理性は我らの性質の中にある他の形の悪を見つけるかも知れない。しかし聖霊の助けなくして我らは不信仰が非常な罪深きことであることを決して悟りまた了解し得ないであろう。
 おお神を、聖霊なる神を待ち望め、彼の呼びたもう御声に耳を傾けよ。天の電話は語るであろう。聖言におけるキリストのそれのごとく、魂には聖霊の御声がかかる。そしてこれらの二つの証は常に一致する。

第  三

 それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。(ヘブル四・一)。

 もし我らの感覚に対して機械の比喩をなおも用いるならば、今度は天の蓄音機(gramophone)について考えてみよう。音声(-phone)という字はギリシャ語の意味は声であるということは改めて申す必要もあるまい。電話(telephone)は遠方(tele)よりの声である。または他の端(telos)の声である。蓄音機は書かれたる(gramma)声である。
 ヘブル書翰の第三章は聖霊の声、天の電話について我らに語る。第四章においては聖霊について何らの陳述もない。その全題目は神の言、「書かれたる声」である。全聖書を通じて二重の声に注意することは大切である。ヨハネ第三章においてニコデモに語りたもう主イエスの御言は、突然、第一人称単数から第一人称複数に変わっている。『我ら知ることを語り、また見し事を証しす。しかるに汝らその証しを受けず』。先の節においては彼は彼自らの声および語調を、ここでは聖霊の声と語調とを紹介していたもう。
 黙示録三・二十においてまたしかり、そこに我らはキリストの声を聞く。いわく、『もしわが声を聞きて……』と。そして次の文において、彼は耳のある者は御霊の声を聴くべしと言いたもう。
 魂における聖霊の声──天の電話──と、聖言におけるキリストの声──天の蓄音機──とは常に一致する。意見の合わぬことはない。一は常に他を確証する。ヘブル書翰のこの場合もまたそうであって、聖霊の声の語りし後に著者は直ちに聖言によって、すなわちイスラエルのカナン入国の物語を適用してそれを確証している。彼は再三繰り返してそれは『神の休み』──安息、一つの経験──聖霊なる神により創造せられ準備されたる心の一つの状態であり、またそれは我らの側なる信仰の一つの態度のみでなく、神が神の民のために休みの日として安息日を与えたもうたごとく、そのごとく確かであり、神が彼らに備えまた彼らに与えたもうたところのカナンの国それ自体のごとく、現実なる心の現実なる状態であるということを語っている。安息の国、安息の日は共に神より与えられ、備えられ、しかして所有することのできたものである。それは人々から要求せられたのではない。安息日の休みは彼らへの賜物であって、彼らからの要求ではなかった。
 第三章の警戒の御言葉は、聖霊の語りたもうところの空しくならざるように充分注意すべきことについてであった。第四章の警戒の御言葉は、与えられたる聖言が空しくならざるように用心すべきであるということである。入らんことを願う人々は、聖言の約束を聾の耳や怠惰な心や不精な心意をもって受けることのないように、恐れをもって注意しなくてはならない。
 おお! 我らの鈍き心を鼓舞せよ。しかして書かれたる神の約束を握れ。我らが聖言に最も深い注意を払わず、我らの心にその御約束を隠す限り、神の民に遺されたる安息に我らは決して入るを得ないであろう。何となれば、我らの存在の何処の隅にも潜伏している不信仰を殺すのは、ただこれらのみによるほかないからである。

第   四

 だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。(ヘブル四・十六)。

 我らは今や我らの四歩程の最後に来た。モーセのごとく『忠実なる』預言者たるキリスト・イエスに我らの眼を着け、聖霊の御声に我らの耳を注意深く傾け、活ける神の聖言によって我らの心を励まされて、願わくば我らをして恵みの御座において大祭司キリストに近づき奉り、まず『憐憫』を受け、さらに『助けとなる恵み』を受けしめよ。
 大祭司としてのキリストのお働きやその御宝血を通して聖前に出ずる道については、引き続く章において驚くべく我らの前に展開されているが、今日はこれらのことについて語るべき時をもたない。ここで強調する必要のある点は、近づく必要と、その途である。高く挙げられたもうた昇天のキリスト、いま天において喜びて我らに常に祝福を与えんとて待ちたもうところのキリストに、謙遜な、大胆な、しかして当を得たる信仰をもって近づくことなくしては、御約束に注意を払い、聖霊の声に耳を傾け、キリスト・イエスを『思う』ということも、なお充分ではない。
 我らが彼に近づく時に第一に必要なことは、『憐憫を受くる』ことである。多くの人は『機に合う助けとなる恵み』を求めるけれども、その求めるところは空しくある。そは彼らの誇れる心が、まず第一に『憐憫を受くる』という何よりも大切なことをしないからである。経験を積んだ基督者の働き人、また牧師、教役者、また職業的伝道者たちが、幼児のごとく、貧しき癩病人のごとく、半盲の乞食のごとく、もう一度遜って出て来ることは何と難しいことよ! 『信者の悔い改め』とは何と難しいことであろうか! 我ら基督者のパリサイ主義、自己称義の残物がいかに偏屈でありまた強情であることよ! 我ら自ら顧みる時に、実際には不足していることを自ら認めながらも、それを素直に言い表す──概括的な抽象的な言い表し方ではない、はっきりと詳細に──ことはいかに難しいことであろうか。現今の基督者の奉仕はまだまだ曠野の中にあるということを認めることはいかにも屈辱と感ずる。神の力強き御手の下に我らを遜らせることはいかに難しいことであろうか。しかしここにこそ献身聖別の条件がある。それは人にいかに観られるかでなく、我らの必要と、我らの本来の罪のほか何物ももたないで、ちょうど最初に我らが罪と愆とのほか何物も持たなかった時のように、ただ率直に彼の御前に遜って悔い改めるということが必要である。おお我らの飢え疲れたる心を大胆に恵みの御座に持って来ようではないか。彼は常に祝福せんと待っていたもう。
 私はこれらのことを証拠立てるためにはいくらでも証を持ってくることができる。神の全能なる御手の下に自らを謙らせ、大胆にしてまことに当を得たる信仰によって、主イエスにその最も貴き賜物を頂戴したる人々を私は幾たびも幾たびも見た。二つ三つの実証で充分であろう。一つは一実業家のことである。その人は数日間、我らの集会に出席していた。そして日曜学校の校長であり、バイブルクラスの指導者であり、教会の役員の一人であった。彼は教会の最も熱心な、最も霊的な会員であると思われた。私は昔のイザヤが我亡びなんと叫びし時のごとく、聖霊が彼の罪を示したもうた時の彼の魂の名状しがたき苦悶をいつまでも忘れないであろう。彼は大いなる悩みのうちに、神の聖前に泣いた。しかしそこで我らが共に主を求めた時に、彼は啻に『罪を赦したもう救い主』としての主を見出したばかりでなく、内住の罪からの『力強き救い主』、『心の潔め主』としての主を知るに至ったのである。彼は『憐憫を受けん』がために本当の謙遜の精神をもって求めた。暫く後に彼は次のような手紙をよこした。

 『私は主の愛と恩恵によって引かれ、聖霊によって導かれて彼の前に私の罪を言い表し、十字架を見上げ、彼の宝血こそすべての罪より潔めたもうと信じました。主は確かに私を潔めたまいました。そして今や私は主が内に住みたもうという祝福されたる自覚を持っています。おお何と驚くべきことでしょう! 私はそれを書き表すことができません。おお私が朝起きる時には喜びと平和が私の魂を満たします。私はそれを直ちに知ります。そして私はわが主を讃美し始めて言います、「愛しまつる主よ、感謝いたします。あなたはすべてを成し遂げたまいました」と。おお私の中には主の臨在したもうことを感ずる喜びが! 時としてはほとんどこの喜びを我慢することができないほどです。……この祝福されたる交わりは、事務所の机に向かって働いている時も、そのほかいかなる時も、一日中継続します。私はいかに主を愛しているかを主に告げます。そして私の眼はすべて思うところに過ぐる喜びの涙でしばしば曇ります。私は単純に誰にでも語らざるを得ません。そしてほかの人々もこの祝福を受けるようにと、どんなに心を労することでしょう』。

 ここにもう一人の証がある。彼は陸軍の将校である。彼は熱心なクリスチャンであるが、しかもまだ煙草の奴隷であった。まず最初はこれについてではなく、それよりもより深い問題のものたる──より痼疾であり、より蔓延している──内住の悪それ自身について、深刻に真相を暴露されたのである。そして小羊の宝血による救いの道を聞いて、彼は恵みの御座に、聖霊によって最も謙った姿を持って来ることができた。そこで彼は罪を一つずつ言い表して、罪を滅ぼすところの救い主を信じた。暫くして彼は次のごとく書いている。

 『おお! 小羊の血がかの内住の罪に対して有効でないなどとは、想像するだに何と恐ろしい鉄面皮でしょう。おお、すべてこのことを見なかった以前は何と盲目でありしことよ! しかし主を頌めまつれ、彼はもう一度私に語りたまい、また来りたまいました。……主は本当に驚くべく私の全状態と存在を変えたまいました。それゆえに私は今や主ご自身のほかについては何事もほとんど考えません。私が主の中に見出し奉るものは何と驚くべき貴重なものであるでしょう。主が実に遙かに超絶せる御方であるということが書かれるのは怪しむに足りません。わが主イエスは何という驚くべき救い主でしょう』。

 神の約束の地に入国する秘訣は、恵みの御座に来りて憐憫を求めることであったということを発見したなおもう一人の人は次のように書いている。

 『私は安息しています。完全な、しかして卓絶せる安息です。私はこの現世においてかくのごとき安息を我がものにするなどとは夢にも思いませんでした。私が来ましてあなたと打ち解けて話をした時、まるで日光の中にあるごとく、本当にはっきりとそのすべてを見ました。そこで直ちに言い表し信じました。そしてその瞬間から、私は私の過ぎし生活の中で最も憐れむべき月を送りました。私はいま何故そうあったかを知ります。私はロマ書七・二十四になっていませんでした。そして神は私を潔めたまわんとしているのに、そして潔められたいならば一切を献げてしまわなくてはならないのに、すべてを任すことを欲しなかったのです。さて一ヶ月の苦悩の後、私は主が欲したもうことなら、またもし主が私の心を潔め、主の御満たしをもって私を充満してくださるためとあるならば、何でも喜んで致しますというところにやって来ました。そこで彼は私をして信ずることを得しめたまいました。そして安息をもって満たして下さいました。いまや私は主が望みたもうことは何でも喜んで致そうとしています』。

 神の御忠実なることについてのこれらの、またほかの多くの証言に取り囲まれているのを見ては、我らをすぐに妨げるところの罪(不信仰)を棄てて、我らの信仰の創造者にして完成者たるイエスを見上げなくてはおられないはずである。大胆に恵みの御座に来れ。そこで我らは恵みを受け、また機に合う助けとなる恵みを見出すことを得よう。
 


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