第 五 章  ヨルダン川の横断


 
 我らの研究は我らに約束の地の絵を示した。曠野もまた「心のさまよい」と「神の道についての無智」とを描き出した。不信仰の悲劇と対照して、ラハブの信仰の勝利は我らの心を励まして、神は我らを──我らをさえも乳と蜜の流れる地に導き得る御方であるということを信ずるに至らしめた。今日、我らは非常に多くの人々が入ることを妨げられた、かの大いなる障碍であるところのヨルダンの渡りについて考えることになっている。主の臨在のみがこれを横断することを得しめたのである。何となれば、詩篇作者の言えるごとく『ユダは主の聖所となり、イスラエルは主の所領となりし時』にのみ『海はこれを見て逃げ、ヨルダンは後ろに退いた』からである(詩篇百十四・二、三)。
 ヨルダン川はおそらく世界で最も著名な川であろう。それは地中海の水平線を抜くこと1,000フィートの高さに起こり、150マイルの間ほとんど直線に流れて、海面下1,500フィートの死海に注ぐ。その進路は真っ直ぐであり、その流れは速くしてほとんど航行することはできず、わずかに灌漑の目的に用いられてきた。地上の他のいかなる川とも異なっていて、直接であれ間接であれ、いかなる海洋にも注ぎ込まない。死海はその終点である。その歴史は顕著な出来事で充ちている。それはユダヤ人の歴史において危機を物語る著名な型であって、すべての時代を通じてそれは死の型として考えられてきた。
 我らが見しごとく、イスラエルの大衆は小羊の血によって贖われ、紅海によってエジプトの世界と分離してから、曠野旅行という長い退屈な彷徨の末に、いまや彼らに約束せられたる安息所に達しようとする、その前に、ヨルダン川の岸辺に立って、もう一度水を横切るべく要求された。──我らは『神の民に遺されたる休み』に入らんとする贖われし魂の有様をいま雛型において見るわけである。旧き人の死、またはキリストと偕に釘けられたることは、一つの入口である──死は生命の扉(Mors janua vitae)である。それは我ら自身の個性の滅却を意味しない。他の奇妙なる個性、すなわち『旧き人』、『罪の身体』、『死のからだ』、『肉の罪の体』、そのほかの多くの類語名称は言うに及ばず、かく名づけられるものの破壊である。それは、聖パウロが折々ほとんど我ら自身と同一視するほど(ローマ六・一〜十)我らに密接せるものである。(けれども実際は、彼はこの二つを区別するに極めて注意深いのであった──ガラテア二・二十)。
 さらば我らはラハブの信仰の物語の次の章たるヨシュア記三章に帰って、我らの課程をここで学ぼう。我らがこの章で読むとおり、この物語の顕著な特色は『契約の櫃』が占めている場所である。かの霊妙なる横断の秘密はそこに見出される。その場所と目的とを調べてみよう。

(一) 信 仰 の 幻

 民に命じて言った、「レビびとである祭司たちが、あなたがたの神、主の契約の箱をかきあげるのと見るならば、あなたがたはその所を出立して、そのあとに従わなければならない。」(ヨシュア三・三)。

 信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ(ヘブル十二・二)

 ヨハネはまたあかしをして言った、「……わたしはこの人を知らなかった。しかし……わたしをおつかわしになったそのかたが、わたしに言われた、『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』」。(ヨハネ一・三十二、三)。

 エジプトから贖われて後、引き続いてやって来たイスラエルの民の曠野の彷徨の物語は、意義深き型に充満している。主イエスの七つの輝ける型がある。すなわち燃ゆるいばら、過越の小羊、挙げられたる蛇、撃たれし磐、天よりのマナ、幕屋、芽生えたる杖である。しかも幕屋においてだけでもなお七つある。すなわち銅の祭壇、金の香壇、供えのパンの机、燭台、隔ての幕、贖罪所、契約の櫃もまたそうであって、これらは我らにキリストと、その救いと、聖潔と、また贖いの御働きとについて語る。これらのすべてについて我らは語ることができない。しかしながら聖霊が我らの注意を特に惹かんとしたもうものは、契約の櫃なるキリストである。これは我らを導きてヨルダンを渡らせるところの選ばれたる型である。小羊も蛇も磐も杖も、この絵の中にはない。否! イスラエルの民を導き入れるものは契約の櫃であった。しかしそれはどういう型であるか──言葉は肉体となれり──人によって破られたる神の契約は、受肉されしキリストの中に収められる。すべて神の約束は我らの主イエス・キリストの中に是となり、また彼の中にアーメンとなる。
 イスラエルの民は契約の櫃をじっと視ることを命ぜられた。幕の後ろに隠されてただ祭司長のみに見ることが許されたが、いまや顕わにされた。いまや直接それにすべての人の眼がじっと注がれた。それゆえに我らの眼も、彼すなわち忠実なる約束者の上に注がれねばならぬ。何となれば、彼こそは忠実なる証人(黙示録三・十四)であると共に真実(テサロニケ前書五・二十四)である。彼は我らの証人である。ヨルダンを渡るための先導者は彼でなくてはならぬ。聖言──キリストに在りての約束──は我らがヨルダンの水に踏み込む時の我らの支柱である。彼は我らが水に溺れないということを保証したもうた。我らが水の中を行く時に、彼が我らと偕に在すということを明言したもうた。我らは彼と偕に十字架に釘けられるのである。釘は彼の聖き御手御足を打ち貫く、茨は彼の頭を刺し傷つける、槍は彼の脇腹を突く、我らのそれをではない。彼の撃たれし傷によりて我らは癒される。我らは彼のうちに死んだ。悩みは彼が悩みたもうたのであって、我らではなかった。死の棘は彼が感じて下さったから、我らは感じなかった。水は彼の上に襲いかかって、我らはそのために救われた。
 それゆえに我らの第一歩は忠実なる約束者なるキリストを見つめることである。彼は我らにとりて契約の櫃である。悪魔は、我らを通過せしめんとの約束に何の力があるのかと質問せしめようと誘惑するであろう。おお愛する人々、契約は櫃の中にあることを憶えよ。約束の言葉はキリスト・イエスの中にある。約束の御言葉を軽しめないように注意せよ。何となればそうすることによって我らは約束者を軽しめることになるからである。何か特別な経験に眼を着けずに、我らの眼をただイエスに注いでいこう。何となれば、約束したもう御方は忠信に在すからである。

(二) 信仰の充当(appropriation)

 ヨシュアは祭司たちに言った、「契約の箱をかき、民に先立って渡りなさい」。(ヨシュア三・六)。

 ここで祭司たちは櫃を取り上げ、彼らの肩に舁くように命ぜられたということを読む。幕屋の型において、それはただキリスト御自身として象られているのみでなく、信者をもまた表している(『汝らの身は聖霊の宮なることを知らぬか』)。しかして祭司等は我らの性質のすべての官能──良心、意志、感情、願望、記憶、想像など──を代表している。もしそうであるならば、ここに我らの学びの意味を見はしないか。我らの魂のすべての能力は、忠実なる約束者キリストを受け、これを適用せねばならぬ。櫃は取り上げられ、祭司の肩に舁かれねばならなかった。そのようにまた信仰は、ただ信仰として留まっていないで、それは実際に適用せられねばならぬ。彼を単に熟視しているのみでは不充分である。我らの性質の一切の能力は、信仰をもってキリストとその聖言を摑むべく出て行かねばならぬ。我らの記憶をして彼の御約束を憶えしめよ。我らの感情をそこに集中せしめよ。我らの願望をして活ける言葉なるキリストに縋りつかしめよ。我らの意志をして神を信ずる決心をなさしめよ。キリストは我らのために聖潔とせられたもうた。彼は我らを導き入れるところの神の臨在と力の保証である。彼は神の契約の櫃である。祭司たちはその肩に聖なる櫃の重みを感じながら、大いなる確信をもって進み出た。もしキリスト、しかりただキリストのみに頼るならば、我らもまた同じようにあるであろう。昔のバプテスマのヨハネのごとく、彼が間近に在したまいしにかかわらず『我もと彼を知らざりき』と言い表さんか、否、むしろ見て悟り、しかして信ずることを命ぜられし使徒ヨハネのごとく、『我らが聞きしところ、目にて見しところ、つらつら見て手触りしところのもの、すなわち生命の言につきて』と言うべきである。生命の言葉はすなわちこの契約の櫃である。おお、謙った卑きしかも断乎たる信仰の大胆を持ち得んことを。

(三) 信 仰 の 再 確 証

 ヨシュアはイスラエルの人々に言った、「あなたがたはここに近づいて、あなたがたの神、主の言葉を聞きなさい」。そしてヨシュアは言った、「生ける神があなたがたのうちにおいでになり、あなたがたの前から、カナンびと、ヘテびと、ヒビびと、ペリジびと、ギルガシびと、アモリびと、エブスびとを、必ず追い払われることを、次のことによって、あなたがたは知るであろう。ごらんなさい。全地の主の契約の箱は、あなたがたに先立ってヨルダンを渡ろうとしている」。(ヨシュア三・九〜十一)。

 ヨハネは彼らに答えて言った、「……あなたがたの知らないかたが、あなたがたの中に立っておられる。……『その人こそは、聖靈に由ってバプテスマを授けるかたである』」。(ヨハネ一・二十六、三十三)。

 あたかもイスラエルの人々の中に在りし櫃の臨在が十分でなかったかのごとく、主はさらにその大能の臨在をその僕によりて再び確証したもう。
 昔のバプテスマのヨハネはキリスト──この櫃の原型──を、彼が同じヨルダン川に入る前に『汝らの中に汝らの知らぬ者一人立てり……これぞ聖霊にてバプテスマを施す者なる』と証した。そのようにヨシュアは人々に叫ぶ、『ここに近づき、汝らの神なる主の言葉を聴けよ……視よ、契約の櫃……活ける神なんじらの中に在して……汝ら知るべし』と。しかり、弱き肉的なる、潔められざる、休みなく彷徨える者なる汝ら──そしてこの活ける神こそ汝らの前より間違いなくこの国におる一切の敵を追い払いたもうところの御方である。しかり、いつでも最後に書かれ、しかして聖き町のその城砦の中に住んでいたので、ダビデに黜けられ投げ出された最後の者であるエブス人でさえも、この活ける神がついに追い払いたもうたのである。
 今まで我らは彼の美しさを見ず、『我らは彼を知らず』と言わねばならないからと言って、それによって悩まされる必要はない。信仰をもって見、ただ信じようではないか。しかし我らの信仰はただ一つの学説、一つの真理、一つの教理の中になく、また我ら自身の信仰それ自らの中にさえもないということを確かにしておこう。契約の櫃をして我らの信仰、我らの確信の土台であらしめよ。もしキリストが信仰によって我らの心に住みたもうならば、もし彼が我らの唯一の抗弁であるならば、間違いなく神御自身は残りのことをなしたもうであろう。『海はこれを見て逃げ、ヨルダンは後ろに退き』(詩篇百十四・三)、ガリラヤの湖において風を責めしごとく、ヨルダンの岸にて水を責めしは彼である。『主の御声は水の上にあり』、『神は海を変えて乾ける地となしたまえり、人々徒歩にて河を渡りたりき。その所にて我らは神を喜べり』。

(四) 信 仰 の 勇 気

 箱をかく者がヨルダンにきて、箱をかく祭司たちの足が水ぎわにひたると同時に、……水は全くせきとめられたので、民はエリコに向かって渡った。(ヨシュア記三・十五、十六)

 イエスはバプテスマを受けるとすぐ、自ら上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。(マタイ三・十六)

 ついに彼らはヨルダンの川の畔にまで来た。しかし紅海の時のように杖を伸べるモーセはそこにいない。否! そこには遙かに善きものがある。主の契約の櫃がある。それはただに神の臨在の保証のみでなく、神の御忠実と御力とを保証するものである。すなわち神は水をとどめんとなしたまい、しかしてその民の面前より敵を追い払いたまわんとなしたもう。川を渡れば水はまたもとのように流れ帰りて、民を敵と共に閉じ込めるであろう。神は、かくのごとき環境の下にありてもすべてのことは善きようになるであろうということを彼らに確信せしめるには、奇蹟を必要となしたもう。
 私が既に指示したごとく、ヨルダン川は死を──肉的心の死を表徴する。おお如何に我らはかの経験を忌避することよ! 旧き人は死ぬことを嫌う。我らはこれがほとんど我ら自身の撲滅を意味するであろうことを恐れる。もし世とか野心、快楽とか流行とか富とか名声とか評判とかいうようなものが我らから取り去られるならば、生活は生きる価値なきものとなるであろうか。川は冷たくまた荒々しく、渡ることができない。しかし我らは恐れるにおよばぬ。旧き人の死はただ罪の身体の破滅を意味する。神は害あるもののほか、我らより何も取り去りたまわぬ。そして再び私は繰り返して言う、喜びて死なんとする力は我らの力ではなくして神の力である。彼こそは一切の苦悩を、患難を、死の棘を負いたもう。我らが釘けられるのでなく、我らは彼と共に釘けられるのである。水を止めたのは、祭司の足ではなくして神である。しかして大水は防遏された。それは圧倒しなかった。そして民は乾ける土を歩いた。
 いかにも恐ろしそうに見えるが、この死には苦痛はない。信仰をもって敢えて我らが信ずる時に、すべての恐怖は消え去り、主はすべての苦痛を背負いて死にたもうたということを知るに至る。そして我らは乾ける地を渡るのである。『我らは徒歩にて渡り、その所にて我らは神を喜びぬ』。おお躍り込むことを恐れないように。昔のナアマンのごとく水の中に七度も潜ろうではないか。昔のエリシャのごとく我らのエリヤの外套を取りて流れを打とうではないか。主イエス御自身のごとくヨルダンに入り、授洗者に身を委そうではないか。昔の祭司たちのごとく漲り流れる大水の中に足を踏み入れようではないか。
        おお潔めの波の見ゆるかな
            深き水源、闊き水
        御胸の御傷を指さして
            救いの力示したもう
        潔めの流れの見ゆるかな
            心雄々しく跳び入れば
        おおハレルヤ我は潔まりぬ
            我潔まりぬいさぎよく

(五) 信 仰 の 忍 耐

 すべてのイスラエルが、かわいた地を渡って行く間、主の契約の箱をかく祭司たちは、ヨルダンの中のかわいた地に立っていた。そしてついに民はみなヨルダンを渡り終った。(ヨシュア記三・十七)

 ヨルダンは撃退された。水は堆くなった。そして下方の流れは死海に向かってその途を走り進んでいったので、平らな広い道が両岸の間に開かれた。そして民は急いで横切った。祭司がいよいよ高くなり行く水壁の直下に恐れずに立って、動けという信号を待っているその間に、百、二百、五百と並んで渡ったのであった。
 疑いもなく彼らの信仰、勇気は試みられた。しかし彼らは神にあって彼ら自らを励ました。そして神の宿りたもう臨在の上に彼らの信仰を置いた。契約の櫃は彼らの肩にあり、また『活ける神なんじらの中に在して、カナン人、ヘテ人、ヒビ人、ペリジ人、ギルガシ人、アモリ人、エブス人を汝らの前より必ず追い払いたもうべきを、左のことによりて汝ら知るべし。視よ、全地の主の契約の櫃なんじらに先立ちてヨルダンに進み入る』という聖声は彼らの耳に響いていた。これらはみな経験する者にとって何と真実なることよ! 神に驚くべく用いられ、霊魂を導いて約束の地に案内している一人の婦人は、彼女自身の入国についてかくのごとく書いている。

 『私は跪いて祈っていましたが、立ち上がった時、サタンはもう一度次のような言葉で襲撃してきました。すなわち「お前はこれから種々の困難や冷酷な世に直面せんとしている。そしてお前は祝福を失うだろう」と。しかし直ちに聖書は私に与えられました、「イスラエルを守りたまう者は微睡むことも寝ることもなからん。主は汝を護る者なり」と』。

 櫃の中の契約(約束)を彼女は思い出した。そして彼女は勝利を得た。河は彼女の上に圧倒してこなかった。彼女は見事にヨルダンを渡って約束の地に入った。そして彼女を遮ったその河は彼女を今や閉じ込めてしまい、もはや彼女は後に帰って行くことができなくなった。
        ヱホバにかたく頼りなば
            心はめぐみにみち溢れ
        約したまいしみいこひの
            ちとせの巌と動かじな。

(六) 外 部 の 証

 「おのおの石一つを取り上げ、肩にのせて運びなさい。これはあなたがたのうちに、しるしとなるであろう。後の日になって、あなたがたの子どもたちが、『これらの石は、どうしたわけですか』と問うならば、その時あなたがたは彼らに、むかしヨルダンの水が、主の契約の箱の前で、せきとめられたこと、すなわちその箱がヨルダンを渡った時……」(ヨシュア記四・五〜七)

 石はなお語る。ベテルの石、モーセの手にある石の板、ダビデの石投げの石、宮の建造物の石、ラザロの墓の石、救い主の墓の石、これら及びなお多くのその他のものは永遠の説教を我らにしている。ここでもそうである。石の板を抱いている契約の櫃は、祭司たちの肩の上に所を得てここに休んだのであるが、いま証の石は負われて河の岸──そこは再び荒々しい元通りの水路に流れ帰り、ヨルダン川の水流となったところを見下ろしている──その堤に置かれた。これらの石は何を意味するかと質問者が尋ねるならば、答は速やかである。すなわちそれらは神の力の記念碑である。設計者があって、彼が漲り流れる大水の上に橋を架けて彼らを渡したのではない。造船工があって、一生懸命彼らのために船を造ったのではない。強い泳ぎ手があって人々を助けて渡らせたのでもない。否! 神御自身こそ彼らに川を渡らせたのであった。流れを止めたのは契約の櫃であった。魂を潔め、圧倒してくる流れを止めるのはキリストである。ただキリストのみである。彼はすべての人のために死を味わった。そして我らをして乾ける地を行かしめる。言葉を換えて言えば、彼は救いたもう。彼は我らが救われるために我らに力を貸したのではない。全部を彼がなしたもう。彼は救いたもう。これを常に我らの証であらしめよ。建てられたる記念の石を見て悟りたい、すなわちこの石こそ我らの操縦、我らの造船術、我らの勇気また胆力、また献身、また善き働き、また強き骨折りではないということを証ししている。常に我らは言わんかな、『ヨルダンの水、主の契約の櫃の前にて切れ止まりたり』と。肩の上の石が、櫃の中の石の上に書かれた契約について証したごとく、我らにおいてもそうあらしめよ。
 すべての人に見える祝福された証の石! 我らの生涯の証の記念碑を明らかであらしめたい。さらば常に『これらの石は何を意味するか』との質問を喚び起すであろう。そこで我らの唇をして神の力を語らしめるに速やかならしめようではないか。おお神の力、実に我らが安息の地に入るために横切っているその間、恐れと不信仰の高ぶる流れを止めた神の力である。

(七) 内 部 の 証

 ヨシュアはまたヨルダンの中で、契約の櫃をかく祭司たちが、足を踏みとどめた所に、十二の石を立てたが、今日まで、そこに残っている。(ヨシュア記四・九)

 かの地は非常に聖なる地点であった。恐れず動かされず固く立つことは、全大衆をして足を濡らすことなくして行くことを得せしめた。
 ここにもまた証の石が置かれる。私はしばしば、ヨルダン川の水が漲ってこれらの石が水に浸されるならば、この流れを横切らんとて惑い悩んでいる逃亡者に飛び石として用いられはしなかったかしらんと思うのである。天路歴程には、絶望の泥穴を横切る踏み石があった。そして旅人を導きて、絶望の泥と地瀝青の中に沈み込むことなく、正しく通り過ぎることを得しめた。そのようにまた多くの打ち破られたる魂も、既に歩みし人々の証によってヨルダンを横切ることができた。
 内部の証は外部のそれと同様に重要なものである。神は魂の中にこれらの踏み石をおくことを喜びたもう。その肩に契約の櫃を舁いてしっかりと立ったところの人々の足跡を記念することを喜びたもう。そのように神の御眼に、信仰と勇気によって立ちし土地は聖なるものである。
 これは我らの経験であるか? 我らの中に置きたもうた御言葉が──我らがヨルダンを越えし時の驚くべき確信の御言葉が──『今日まで彼処に』残っているか。ハレルヤ、もしそうであるならば! 昔のマリアのごとく人々が怪しみ、しかして牧者が崇め、かつ讃美しているという光景の中に、我らの『心に留めて思いめぐらし』たいものである。『信ぜぬにより汝もの言えずなりて……』と我らは言われたくない。むしろ我らは我らの魂の中に主が石を置きたもう時、『よくなした』『信ぜし者は幸いなるかな、主の語り給うことは必ず成就すべければなり』という主の御声を聞きたいものである。


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