新しい場所に移ってから行う集会の最初の会合はなかなか難しいものです。互いにほとんど知らない人ばかりだからです。共に祈り共に愛するという空気がなかなか醸成されません。集会の目的を全員が理解しているのかどうかもおぼつきません。ですが私は、天にいます我らの父が私たちの心を融かして一つにしてくださると期待してよいと確信しています。私たちは聖霊を通して父にお願いすることができます。父の栄光を求め、その全能の力に信任し、父にのみ祝福を期待することにおいて、私たちの心と思いとを一つにしてくださいますようにと。ですから私たちはみな、集会のまさに最初から神が働いてくださることを期待しようではありませんか。ただ一人ひとりにとっての必要のためだけでなく、全員に祝福があるように、一つの身体の肢として、熱い祈りをもって期待しようではありませんか。神の愛する子たちの群れとして神のみまえに一つになろうではありませんか。お互いに対する愛で満たされ、神が私たちを祝福してくださると確信しようではありませんか。父よ、どうかあなたの聖霊によって私たちの心を一つにしてください。あなたは一人ひとりの必要をご存じです。どうかみことばによってそれを満たしてください。どうかあなたの僕たちを恵みで満たしてくださり、神が私たちのために何を用意されているのか、また私たちのために神が何をなそうとしておられると期待してよいのか、それをあなたの子たちに取り次ぐことができるようにしてください。
今晩、私が語りたいと思っていますのは、この聖句からです。
よく言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。──マルコ10:15
もう一度繰り返します。『よく言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない』。この集会を始めるにあたり、私たちはこれから数日の間に語られること、聞くことに対して心を備えなければなりません。そして神のみまえに正しい立ち位置を取らなければなりません。私は、いま述べた主イエスの言葉が、私たちをそうあるべきところに正確に導いてくださると思います。この言葉は、私たちが今すぐに神の御国に入ってそこに住まうために、神が私たちに何を求めたもうかを教えます。すなわち、私たち一人ひとりがそれを小さな幼子のように心に受け入れなければならないということです。この完全な救いを受けるために、私たちが知っておかなければならないことが二つあります。この集会で語られる説教のすべてにこの二つのことが関わってきます。一つは、神が私たちのために用意されている驚くべき祝福であり、もう一つは、私たちがそれを所有する者となるための驚くべき道、この二つであります。
今お読みした箇所の中には、私たちがこの祝福の意味と力を知るようになるために、理解しておかなければならない四つの事柄が述べられてあります。私たちが理解する必要があるのは次の四つです。1.神の御国とは何か? 2.その御国に入るとはどういうことか? 3.その御国を受けるとはどういうことか? 4.その御国を小さな子どものようにして受けるとはどういうことか? この四つであります。
第一、神の御国とは何でありましょうか。バプテスマのヨハネもイエスご自身も、神の国は近づいた、あるいは天国は近づいたと説教したことを、あなたがたはご存じでしょう。旧約聖書の時代にも神の国について語られ、その到来が約束され、また期待されてはいましたが、しかし神の国はまだ来ませんでした。キリストが地上を歩まれた生涯の間には、神の国が近づいていることの明らかなしるしがありましたが、しかし神の国の力はまだ現れていませんでした。それはキリストがそうなると予言されたことでした。キリストはかつて、『神の国はあなたがたの中にあるからだ』(ルカ17:21)、また『ここに立っている人々の中には、神の国が力に溢れて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる』(マルコ9:1)とおっしゃったことがあります。このみことばが成就したのはペンテコステの時でした。天の神の国から聖霊が弟子たちの心に送られ、弟子たちは神の国の福音、神の国がやがてやって来るというのではなくいま来ているという福音を言い表し、説教したのです。
神の御国とは何かという問いに答えることは、もう難しくはありません。それは、神の生命、天国の生活を、人間が持つことができるようになっていて、人間は地上に暮らしながら天国の生活に入って享受することができるようになっているという、そんな霊的状態のことを意味しているのです。そのことはどのように現れるのでしょうか。私たちはその現れを、弟子たちの生き方の著しい変化に中に見ることができます。
王国の特徴は、王がいるということです。キリストは聖霊とともに弟子たちのところに降られました。それはキリストが弟子たちにとって、彼が肉体をまとっておられた時にまさって、現実的で親しい存在となるためでした。キリストと常にそば近くあって交わることができること、またキリストにおいて父なる神と交わることができることは、神の御国の祝福のまさに中心であります。ペンテコステの時に聖霊が降ったのは、この経験を現実のものとするためでした。弟子たちは、天国にいる天使たちが主をはっきり認めているのと同じようにはっきりと、主を認めることができました。主の臨在は、弟子たちの周囲のすべてを、また弟子たちの中を、天国に変えました。神の国に完全に入ることが許されている信者にとっては、神とキリストの臨在は決して奪い去られることのない持ち分となっているのです。
王国の特徴は、王による規律があるということです。『主は天に王座を据え、その王権はすべてを治める』(詩103:19)と書かれてあります。ペンテコステが来るまでは弟子たちは愛することもへりくだることもできませんでしたし、信任することも大胆になることもできませんでした。しかし御国がやってくると、神による支配が確立され、聖霊による神の臨在が勝利を収め、罪は打ち負かされ、そして神の意志が、天国で行われるように弟子たちのうちでも行われるようになりました。『御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも』(マタイ6:10)と祈るようにイエスは弟子たちに教えましたが、この約束がいま実現しているのです。御国が聖霊とともに降った時にこの約束は成就しました。そして私たちがこの御国に入るということは、神がすべてを支配する生涯に私たちが入れられるということです。神の御心が真実に、喜びをもって行われる生涯、天国を満たしているあらゆる祝福が地上でも見いだされる生涯に、私たちが入れられるということです。『神の国は聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです』(ローマ14:17)と書かれてあるとおりです。
王国の特徴は、力です。『神の国は言葉ではなく、力にあるのです』(コリント前書4:20)とあります。ただの漁師に過ぎなかったイエスの弟子たちが、敢えて引き受けて成し遂げた働きをご覧なさい。彼らがその働きのために用いた武器をご覧なさい。それは、十字架につけられたナザレ人についての、人々から嫌悪されていた福音でありました。彼らを通して神が働かれた、そのすべてのわざをご覧なさい。御国が来ることによって天国から新しい力がやってきて、弱かった弟子たちを神による強い者と変え、サタンの奴隷であったたくさんの人々を神の聖なる子どもたちに変えました。
みなさん、天からくだってきたと私たちが語っている御国とはこのようなものなのです。私たちがここに来てあなたがたに語ろうとしているのは次のことです。すなわち、神の臨在と意志と力のうちにある生涯がすでに開かれていること、すでにそこに入ってその中で生きている人々がいること、そしてあなたがたもまたそこに入ることができるということです。あなたがたの中には、ご自身のクリスチャン生活の弱さを告白される方があると思います。それを何とかしたいけれどもさっぱり成功しないと告白される方があると思います。そういう方は、イエスをご自分の救い主としては信じておられます。しかし力をもって到来する御国への入り口としてのイエスをまったくご存じではない。そのような方に私はお願いしたい。この地上で天国の生涯を送ることができることを信じなさい。今晩からすぐに信じ始めなさい。キリストの死はこのような驚くべき、そして完全な贖いを成し遂げました。聖霊が地に降られたことは、この栄光を受けられたキリストが霊として来られたということにほかなりません。その聖霊は、ほんとうに天国の生涯をもって来られますので、私たちは最初の弟子たちと同じように、上からの力を着せられることができるのです。そのことを信じなさい。あなたがもしこのことを信じ、しっかり握るなら、天の御国がすでに地上に来ているのですから、その祝福を受け継ぐ者となりたいという願いがあなたの内に起されるでしょう。そして、これから説明するように、この天国の生涯があなたのためでもあるということにあなたは希望を置くようになります。そしてイエスがその言葉を通して私たちに教えられたすべてを受け入れることができるように、あなたは備えられるでしょう。
二番目の問いに進みましょう。御国に入るとはどういうことでしょうか。入るという言葉の意味は誰でも知っています。聖書の中でこの言葉が典型的に使われているのは、イスラエルの子孫たちが約束の地に入るという場合、また信者たちが信仰によって神の安息に入るという場合です。
入るということ、この言葉はただ、完全な所有または享受に至るということを意味しています。キリストが御国に入ることについて語る時に意味されているのはこれです。またあなたがたが御国について望んでいることもこれです。入るというのは、どこか大空の彼方に入って行くことではありませんし、また私たちが死ぬ時に入るという意味でもありません。そうではなく天国の方が地上にやって来るのであって、私たちがペンテコステの時の弟子たちのようにその中に入って力を受けるということなのです。死後に天国に行けるということだけで満足してしまうクリスチャンがたくさんあります。その人たちにとっては、地上で天国の生を生きることができるという約束には特に魅力が感じられませんし、そのような約束に対して何の応答も示しません。何を言っているのかが分からないのです。けれども、もっとよいものを求める願いを心に起されている人もあります。そういう人は、御国に入るとはどういうことなのかを、喜んで知りたいと思うでしょう。
入るとは、完全な所有に至るということを意味します。私がすでに述べた御国の祝福のことだけでも考えてみてください。すなわち、私たちに対して神がはっきりした形で臨在され、それが終わることがないこと、また神の頌むべき法と支配が私たちの上に確立されること、それによって、天国に行き渡る神の御心が私たちの内に、また私たちによって実現されること、神の大いなる力が私たちの上に降ること、その結果、キリストが私たちを用いてその魂を救うみわざを遂行することができるようになることです。このような祝福が毎日の経験となるような生涯に、あなたがたは今すぐに入ることができる。そのような生涯があなたがたのために備えられているのであり、約束されているのであり、あなたがたを待っているのです。あなたがたは信仰によって今すぐに入ることができます。軍隊が町を征服して入城する時のようにして、努力し、戦い、暴力によって御国を獲得しようとしている人々がたくさんあります。けれどもそういう試みは失敗に帰します。私たちはただ信仰によってのみ入ることができる。ヨシュアがイスラエルの人々を約束の地に導いた時には、エリコの城壁が一撃をも要さずに崩壊しました。そのように、私たちの主イエスは、私たちを善き地に導き入れようと待っておられるのです。弟子たちが何の懸念もなく御国に入ることができたのは、天から降ってこられた主イエスのお陰でした。私たち各人を導き入れるのも、同じ主イエスが聖霊によってなされるのです。彼を信じる信仰を見て、彼は私たちを導き入れます。
この信仰とはどういうものであるのか、それはどのように働くのかを知りたいと思うでしょう。それならば私たちの主が語るところを聞きなさい。三番目の問いは、御国を受けるとはどういうことか、というものです。主は御国に入るという言い方と、御国を受けるという言い方をなさっていますが、この二つをどのように使い分けておられるのでしょうか。主は、御国を受けるということは、御国に入るための条件だとおっしゃっているのです。御国に入るという行為は積極的でありまして、私は自らそこに入ってそれを所有するのであります。御国を受けるという行為は受動的です。これらの言葉が具現しているのは、私たちが御国に入ることができるためには、その前にまず御国が私たちに入らなければならない、という偉大な真理なのです。私たちが御国の特権と力を享受できるようになるには、その前にまず御国が私たちを、私たちの力と存在のすべてを、所有しなければならないのです。私は服従と献身のうちに、貧しく空虚になって、御国を心に受け入れなければなりません。そうして初めて私は、御国が私に提供する力と栄光とを受けるに相応しい者とされるのです。まず私の内にある暗い部分と邪悪な部分がすべて投げ捨てられなければなりません。神から来るものだけが私を満たすようにならなければなりません。ただ神のみから生まれた者だけが、御国と天国の生涯を受け継ぐことができるのです。天国のありさまが実現する前に天国の性質が作られていなければなりません。
御国を受けること、この言葉はとても単純で、ただ二つの事柄のみを要請します。一方に与える者がいること、他方に受け取る者がいることです。天国の祝福された生涯とそれがもたらす喜びについて聞いていながら、それは生ける神ご自身から受け取るものであるということを考えたこともない人がたくさんおります。私たちに必要なことは、自分の完全な無知と無力を自覚させられることです。私たちは、提供されている驚くべき救いを自分で認識し理解することができないこと、ただ天の父と交わりを持ち、父からの天的な贈り物として、力として御国を受けなければならないことを、感じ取らねばなりません。御国は、神がそれを私たちに賜わるように私たちが神を説得しなければならないようなものではありません。子のための相続分として私たちが実際に所有するものなのです。そして神は私たちがそれを喜んで受けることを期待していたまいます。そうしたことを私たちは知らなければなりません。このことを私たちが信じ、私たちの心の中に力として御国を与えようと無限の恵みをもって備えておられる永遠の神を私たちが見上げる時に、私たちは、御国とその祝福が真実に私たちに入るという、そのことを期待する勇気を持つことができるのです。
その時に、私たちがそれを受けるということもとても容易になります。太陽の光は一つひとつの野花の中に、一枚一枚の草の葉の中に入って、命を与えようとして入るではありませんか。それと同じように、約束をお与えになった神は、無限の愛をもって私たちの内に入り、神にできるすべてのことをなそうとしていたまいます。私たちがそのことを知るならば、私たちの取るべき立場は、神がなされるままに安心して待つことだけであることが分からないでしょうか。御国を私たちの内にもたらす聖霊の偉大な賜物を求めつつ、力ある業をなされる神に依り頼んで忍んで待つことだけであることが分かるのではないでしょうか。そのことを受け入れた上で、神が私たちのために用意されていることをすべて開示して私たちの内に実現してくださると確信すること、それが私たちが日々保つべき自分の立ち位置なのです。
それでは、受けるということがそれほど単純なのであれば、なぜそれがなお困難で、求めるものを見出す者が少ないのでしょうか。あなたはそのように疑問を持たれるかも知れません。その答えは、事の全体は単純なのに私たちの方が単純ではないからです。私たちが単純さを失っているために、単純なことほど困難になってしまうのです。イエスが先の言葉の中で私たちに教えているのは、この失ってしまった単純さです。そこで私たちは次にそのことを語らねばなりません。
御国を一人の幼子として受けるとはどういうことでしょうか。その実例となるようなことが現実世界にあるでしょうか。あります。例えばウェールズの王子がイングランドの王位を継承した出来事がそれです。王子は、一人の幼子として生まれることによって、王国を継承しました。彼は生まれながらにそのように定められていました。同じように私たちも、聖霊によって生まれる時には、一人の幼子として御国を受ける、そのような心の在り方、子供らしい単純さに生まれながらに定められている者として生まれるはずなのです。一人の幼子が御国を受ける時には、弱い無力な小さな者として受けます。幼子が成長して、自分に定められていることを教えられる時には、幼子は単純な信頼と喜びをもってそれを聞きます。イエスが私たちを招かれるのも、私たちが幼子のようになって、このように御国を受けるためなのです。
しかし人が、自分自身の意志と力と知恵を持ったままで、自己と古き人の力をすべて抱いたままで幼子のようになるというのは、この上なく困難なことです。それは不可能です。しかし私たちは幼子のようにならなければ、御国と天的生涯に入ることはできません。御国について知ることならできるでしょう。その力の一部を体験することも、御国のために奉仕することも、御国を望み見て喜ぶこともできるでしょう。しかし御国に入るため、完全に入るためには、私たちはどうしても幼子のようにならなければなりません。そしてこのことは人間にはできません。しかし神にはすべてのことが可能です。
そのために、私たちにできることもいくつかあります。例えば神の霊が私たちに自分の高慢とうぬぼれを指し示された時に、その教えに服従するということができます。自分勝手な意志と自己努力があったことを告白することができます。幼子のような精神を求めて祈り、望み、励むということができます。ペンテコステ以前のペテロやほかの弟子たちが到達した地点までは私たちも行くことができます。しかし御国に入ることができる幼子の本性は、ただ聖霊だけが与えることができます。ただ『アバ、父よ』と声を上げる神の子の霊だけ、すべてを神おひとりから要求し、期待し、受ける神の霊だけが、与えることができるのです。聖霊はこれをなすために、キリストの霊としてあなたの内におられます。聖霊は幼子になるという恵みを与えたまいます。そして聖霊が天国の力によって御国を来らせる時に、私たちの心がそれを天から十全に受け取ることができるように備えたまいます。
どうすれば幼子になれるのでしょうか。どうすれば私たちの力と知恵と意志と生活を棄てて、生まれたばかりの幼子のようになることができるのでしょうか。そこに至る道を知っていれば、とあなたは叫びます。イエスの場合をご覧なさい。イエスはダビデの王国を受け継ぐために、ベツレヘムに赤子としてお生まれになりました。成長して人となった後、イエスはゲツセマネで『アバ、父よ』と声を上げて自らの意志を放棄し、命を捨て、暗い墓の中に、救いのない死の中に横たえられました。それからイエスは死者の中からの初穂として甦り、死者の中から出て栄光の王座へと再び生まれました。救いのない墓の中にあって彼は王位を得たのです。私たちはキリストと共に死ぬ必要があります。それが古き人と自己から解放される道であり、幼子のように天国の生を受ける道であり、御国に入る道なのです。ベツレヘムの飼い葉桶に寝かされた無力な赤子と、カルバリの墓地の中に寝かされた無力な屍、それがキリストにとって天の御国への道でした。私たちにとっても、それ以外に道はないのです。
私たちが自分を卑くして、自分の徳と善行を積むというすべての意志と希望を棄てようとする時、そして自分の人間的な能力と活力とを、死に価する罪以外の何ものでもないと告白して死に渡す時、神の霊は罪に対するキリストの死の力を私たちの内に働かせ、私たちはキリストとともに死に、キリストとともに新しい生命に甦らされます。その新しい生命とは、神の国を受ける幼子なのです。
この集会期間中に私たちが向き合わなければならない課題のいくつかは、いま述べたキリストの言葉が含意する四つの事柄によって示されています。明日は私たちは、教会に欠けているものについて語ることにしています。明後日は、神がその民になそうとしておられることについてです。説教者たちはおそらく、私たちの間に神の御国の力ある到来を目にすることがとても少ないことを語らなければならないでしょう。そこで今晩は、私たち一人ひとりが自分にとってはどうであろうかと問うことを始めたいと思います。神の国が到来していること、そして私は神の一人の子としてそこに入って天的生活のあらゆる祝福の中に生きることができていること、それを私は、自分の経験に照らして他者に対してあかしすることができるでしょうか? 私は心の中に聖霊によって神の国を受けているのでしょうか? それによって私の中に神の臨在と力とがあらわされ、私の中に、また私を通して、神ご自身が御心を行っておられるでしょうか? またそのことが確かに私の宗教の力となり喜びとなっているでしょうか? これ以下の水準で満足してはなりません。このことをこの集会での私たちの願いといたしとうございます。
この目的のために二つのことを心の中にしっかりと握りたいと思います。一つは、神の国が力をもって到来することは神の民に約束された取り分であって、そこには言語を絶する祝福があり、それは神には可能であり、そして必ず与えられるということです。私たちの心は神が住まわれる場所として定められているのであって、それ以外のものではあり得ないのです。聖霊は私たちの内にあって私たちを通して働くものと定められているのであって、心の動きと心がなす一切のことは聖霊の感化によってなされることになっているのです。神の国はすでに地上に来ているのであり、それが私たちの中に力をもって樹立されることによって、神の臨在と意志と力とが私たちの生活となり喜びとなります。そのことは知性によって理解できる限界を超えておりますから、私たちは信じなければなりません。奇跡を行われる神がそれを真実としてくださいます。
もう一つのことがあります。それは、この祝福を完全に自分のものとするために必要なすべてのことは、聖霊がなしてくださるのであって、その聖霊はすでに私たちの中におられると信じることです。聖霊は私たちを神のみまえに幼子となしてくださいます。そのようにして聖霊は私たちが父から御国を受け継ぐことを可能にし、私たちを導いて連れて行ってくださいます。その結果、私たちは神の国とそれが与える天的生涯に入るのです。
今晩いますぐに声を上げようではありませんか。「主よ、これ以下のことでは私は満足できません。私を完全にあなたの御国に生きる者としてください。私は自分自身とその生活全体をあなたに委ねます。聖霊を信じて私は申し上げます。私は幼子としてここにおります。父よ、ペンテコステの霊の賜物により、私を幼子として御国を受け継ぐ者となしてください」と。