2. 神 の 内 住



神の神殿と偶像とにどんな一致がありますか。私たちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。「私は彼らの間に住み、巡り歩く。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる」。──コリント後書6:16


 神はどのようにして私の神となられるのでしょうか。ここにこの問いに対する答えがあります。神はどこか遠くにおられる偉大で全能の神なのでしょうか。私の外の、私から離れた天国におられて、そこから時たま私を助けてくださる、そのような神なのでしょうか。多くのクリスチャンがそのように思っていて、それが彼らが神の臨在と力を現実に経験することが少ない原因となっているのです。いいえ。このような見解は神を真実に信仰し始めるその最初にはありますが、聖書を学ぶにつれ、また私たちの心の深い欠乏と、私たちに完全に介入しようとする神の驚くべき愛とを覚えるにつれ、私たちはそれよりももっとよいものがあることを学ぶようになります。神はどのようにして私の神となられるのでしょうか。この問いに対する答えは、たったいまお読みした聖句の中にあります。「神は言われた、私は彼らの中に住む、私は彼らの神となる」と。

 なんと素晴らしい答えでしょうか。外にあるものと内にあるものは違います。前者は私たちの周囲にあって私たちの注意を惹き、私たちを捕らえることはあっても、私たちの心の中にその場所を得ることはできません。後者は私たちの中に入って私たちの生活を所有します。母親は心の中にその子のための場所を持っています。その子はそこで生きます。きんは強欲な者の心を捕らえます。強欲な者はその愛と希望のすべてを金に捧げます。私たちの心は、神がそこに住むために現実に創造されました。しかし私たちはそのことをほとんど考えません。神の生命と愛がそこに現れるように、またそこで私たちの愛と喜びが神お一人に向けられるように、神は心を創造されました。ちょうど私たちが親として、また子としての愛に満たされて幸福を感じるように、それと同じくらい自然に、私たちは生ける神を持つことができます。しかし私たちはそのことをほとんど知りません。その生ける神のために私たちの心は創られたのであり、そこに神が住まわれ、神ご自身の富と祝福で満たしてくださるのです。今晩、私から申し上げたいことはこれです。すなわち、神があなたの心を求めておられる。もしあなたが神に心を差し出すなら神はそこに住まわれる、ということです。

 この午後には、神がどのような方であるか、詩篇の詩人にとってどのような方であったかが、あなたがたに語られました。詩篇42, 43篇で詩人は神を、わが生涯の終極、わが力なる神、わが喜びなる神、わが目的の地と呼んでいます。しかし神はいかにして私の生涯の力、また私の神となるのでしょうか。それは、私の生涯の中に神がご自身の天的生命をもって入ってこられることによってにほかなりません。そのようにして神の全能の力によって私の生涯を満たすこと、それが神は私の生涯の力ということの意味です。神はその聖なる生命と愛をもって私の心に入られます。そこは私の生涯の王座であり中心です。神は私の内で私の神として行動したまいます。そして私の代わりに私の人生を作り上げたまいます。こうして神は神的な方法で、祝福をもって、『私は彼らの中に住む。私は彼らの神となる』という言葉を真実となしたまいます。

 もし私たちがこの言葉を信じていたなら、そして信じることによってそれが示す祝福を受けていたなら、私たちの生涯は大きく変えられていたのではないでしょうか。私たちの内には聖なる畏怖が、この聖であり愛である神を悲しませないようにという心からの畏れが、あったはずなのではないでしょうか。どうすればこの神と共に歩み、完全な交わりを保つことができるのかを知りたいという願いが呼び醒まされていたはずではないでしょうか。そしていまや、輝かしい確信があります。私の神は来てくださり、私の中に住んでくださいました。私はもう、神の臨在を失うことを恐れる必要はありません。神が私の必要とするすべてのことを、私のために、私の内に、必ずなしてくださいます。

 私はこれからあなたがたに、この驚くべき内住についてできるだけ率直に語りたいと思います。いくつかの事柄をお話しします。それは内住ということが真のキリスト教のまさに本質であることをあなたがたに分かっていただくためです。罪人つみびととしての人間は内住が回復されることを必要としているのであり、それを実現するためにキリスト・イエスは来られたのだからです。

 まず第一のこととして申し上げますが、人間が神によって創造されたのはこの内住が目的であって、それ以下のこと、それ以外のことが目的ではありません。神がいったいどうして人間を創造されたのか、それをあなたはこれまでに考えたことがあるでしょうか。神が被造物に存在を与えられたのは、神ご自身の神的な徳と栄光を被造物に分与して、被造物がそれを具現するようになるためでした。それゆえ被造物は、それに可能な限りにおいて、神の神的な完全性と祝福とを神と共有するのです。神はとりわけ人間をご自身の形に、ご自身と似た者に創造されました。それは、神の生命が人間存在の中に内住することができること、また人間存在が神と共に、また神の内に永遠に住むべく、次第に変えられ引き上げられることができることを、神が人間に示すためでした。神の愛はおっしゃいました。「私は人間がそれぞれに応じて、私がそうであるようにきよく、善良で、恵まれた者となってほしい。私は自分自身から離れている人間に聖さや恵みを与えることはできない。そうではなく、私は人間の生命の最奥に内住することができ、また実際に内住する。そうすることによって私は人間のためにその善となり力となる」と。そうです。神は人間にご自身の持つすべてを与えようとされました。ご自身を人間の生と喜びのために与えられました。これこそ創造する神としての愛の栄光でした。

 神は人間に内住する以外の方法をもってこれを実現することがおできになりません。ちょうどランプがその内から輝く光を発して、それを囲むガラスを通して周囲全体を照らすように、神の愛は人間を、神ご自身がその内に住んでその生命の光となるように創られました。これが人間に与えられた神性であり祝福でありまして、それは人間の内から、人間を通して、恵みの神のあらゆる栄光が世界の前に常に輝き出るようになるためでした。私たち人間のすべての本性、すなわち意志も感情も力も、それらはすべて、神の生命の祝福の富を私たちの内に受け、保ち、そこから溢れ出る器となるべく創られたのです。そしてこの聖なる関係を自覚して神に仕え、自分を献げること、それがまさに人間の至高の特権となるはずでした。神が天において生きておられるご自身の生をそのままに、神は、地上において人間の内に、人間を通して、天におけるのと同様に真実に生きようとされたのでした。ここに人間であることの栄光と至福があります。私たちを創られた神に栄光がありますように。

 しかし今は二番目の事柄として、『私は彼らの内に住む』というこの恵みの真理の光のもとに罪がなしたことに目を向けとうございます。神は人間をご自身の家、ご自身の宮として創られました。そこでは神の臨在と意志とがすべてのすべてとなるはずでした。罪が神から、そして私たちから奪い取ったのは、この内住でありました。このことは、パラダイスにおいてサタンから人間に向けられた誘惑が如実に示しています。人間は父であり主である神に、自分自身をその住み場所として提供し、ただ神お一人の意志を行うために、全心をもって神に明け渡そうとしたでしょうか。それとも自分自身の意志を行うために自分の家で自分のやり方で振る舞おうとしたのではないでしょうか。ああ、これが死に至る選択でした。神は王座を奪われ、その宮から追われました。そして自己が王位に就いたのです。のちの時代に現実に行われたように、神がご自身で私たちのために建てられたその家の中に偶像が安置されましたが、それは自己が神の座を奪うためでした。この罪の人がその全貌を現した時の様子がテサロニケ後書2:4に記されています。『この者は、神と呼ばれたり拝まれたりするものすべてに反抗して高ぶり、神の神殿に座り、自分こそ神であると宣言します』と。これはあらゆる段階、あらゆる状態における真の自己の姿です。自己は神として神の神殿に居座るのです。恐るべき異教徒のあらゆる罪、またさらに恐るべきキリスト教徒のあらゆる罪は、この一つの根から発生したものです。すなわち人の心から神が追い出され、自己が王座に就いているという、この根からです。私たち各自の人生における罪と悲しみはすべてこれでありました。すなわちあなたがたが本来そうあるべきように創造された者とはなっていなかったこと、あなたがたの心の中に生命と平和と愛を満たす神の内住を有していなかったことです。あなたがたはあらゆる汚らわしい爬虫類や獣と一緒に家で暮らすことに満足ですか? あなた方の住む家に誰か他の人がいてその人が支配者となっているという状態に我慢できますか? 私には確信がありますが、あなたがたは決して満足できないでしょう。ああ、それなのにあなたがたは、神お一人が支配しているべきあなたがたの心を、他のたくさんのものが支配するに任せているのではありませんか。そして多くの人々はそれに気付いてもいないではありませんか。今晩私があなたがたにお伝えしたいことは、この神殿破壊をすべて終わらせなさいということです。神はあなたの心全体を求めておられます。神に心を献げなさい。

 三番目の事柄に移ります。この神の内住の光のもとにキリストの贖いのわざに目を向けなさい。キリストが天から来られたその目的は何でしたでしょうか。それは、人が神とともに、神にある神の生涯を生きることができること、そしてその幸いを、私たちに示すためでした。私たちは子どもたちに教える時に図像や模型を使います。神の子が人となられた時、彼は完全な人間の生涯を生きられました。『あらゆる点できょうだいたちと同じようにならなければなりませんでした』(ヘブル2:17)とあるとおりです。そして私たちに、それは彼の内に内住される父なる神の力によるものであることを教えられました。『私は自分からは何もできない。…… 父が私の内におり、その業を行っておられるのである』(ヨハネ5:30; 14:10)。これは抽象的な哲学や神学の問題ではありません。ここには真の人がおられます。私たちと同じように眠り、空腹を覚え、疲れ、誘惑を受け、涙を流し、苦しみを味わわれた方が、父がご自分の内に住んでおられるとおっしゃるのです。そしてそれが彼の全き幸いな生涯の秘訣であるとおっしゃるのです。彼はすべてのことを私たちが感じるのと同じように感じられましたが、彼の内に住む父によってすべてを行い、すべてを耐えることができました。人間は同じように生きることができること、私たちが同じように生きることができるように父がなしてくださることを、彼は私たちに教えたまいました。

 彼は生きることを通してこのことを教えられた後、死に赴かれました。それは、私たちを罪の力から解放して、私たちが神に立ち帰る道を開くためでした。十字架の上で、彼は、神が内住している人はどんな苦しみにも耐えることができること、自分の命を死に献げることさえできること、そしてそれは神の生命の豊かさの中に入るためであることを証しされました。罪が入ってきた時に、人は内住の神の生命を失いました。つまりそれに対して死んだのです。人が罪の生涯から解放されるためにも、それに対して死ぬほかに道はありません。キリストは罪に死にました。それは、私たちを彼との交わりにあずからせることによって、私たちをも罪に対して死んだ者、神に対して神の生命によって生きる者とするためでした。彼は、彼がそれまで生きてきた命そのものを私たちに与えることによって、私たちが本来生きるべきであった生涯、内住の神に生きる生涯を、私たちのために取り返されたのです。彼ご自身が祈られたとおりです。『父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください』と(ヨハネ17:21)。

 愛するクリスチャン、これがキリストが私たちのために勝ち取られた救いです。十字架の死によって自己を死に至らしめることによって、私たちを自己から解放なさったのです。私たちが本来そのために創造されたところの生涯、私たちの心が神の家となっているような生涯を、私たちのために取り戻されたのです。

 この救いにあずかる者となるために、私たちはいま何をすればよいのでしょうか。神の内住というこの幸いな真理の光のもとに、もう一度、ペンテコステと聖霊の来臨について学びなさい。神が私たちの心に聖霊を送られたということにどのような意味があるのか、あなたは気がついていますか? それが意味するのは、キリストがかつて地上で弟子たちと共にあられた間は彼らの内におられたわけではありませんでしたが、聖霊として彼らに帰って来られた今は、以前に彼らと共に住まわれたように、彼らの内に住まわれるようになったということです。私たちが読むように、弟子たちは変えられました。利己心は愛に変わり、虚栄心は人間愛に取って代わられ、受難に対する恐怖は大胆さと喜びに変わり、不信仰は信仰の盈満に場所を譲り、弱さは力に変えられました。こうしたすべての驚くべき変化は、ただ一つの事実、すなわち栄光を受けられたキリストが来て彼らの内に入り、彼らの生命として生きられるようになったという事実に由来しているのです。このペンテコステの喜びは天における喜びでもありました。というのは神はその住むべき宮を取り戻され、人類の堕落以前に神が意図されていたように、人間の内に住むことができるようになったからです。キリストは宮が破壊されることを預言したまいましたが、それは彼の肉体という宮が、私たちの罪を負ったことによって破壊されるということでした。キリストは宮を三日で建てると預言したまいましたが、それは聖なる天的な生命を帯びた彼の復活のからだのことを意味していました。この復活のからだと一つになることによって、私たちは今、生ける神の宮となるのです。聖霊は三一の神の名によってこの宮を所有されます。すなわち御父おんちち御子みことが来られて私たちと住まいを共にするのです。

 『私は彼らの中に住む』──この偉大な約束と、そのペンテコステにおける成就とを見る時、私たちは、聖霊が回心と新生においてなされる準備的なわざと、ペンテコステにおける聖霊の内住との間にある大きな違いに気付かされます。前者は一人ひとりのクリスチャンが必要とするもので、それなしには命はありません。その時に与えられる命は虚弱で病気になりやすい命であるかも知れませんが、それでも命があるところには聖霊の働きがあります。けれどもそれは宮を造るための準備に過ぎません。ペンテコステにおいて神の栄光がその宮を満たし、神が来て住まわれるのです。約束は成就されるべきものであり、必ず成就されることを信じとうございます。

 もう一つ、四番目の事柄があります。与えられている聖書の言葉の光のもとに、キリスト教会の状態に目を向けとうございます。そこには、その心は神が清められた宮であって、神がそこに住んでおられるとは、誰も言うことができないような信者がたくさんいるのではないでしょうか。教会には心の冷たさと世俗性、利己心と罪深さ、すなわち信仰告白と矛盾するあらゆることが蔓延していて、そのために人は時に、ここにはほんとうにクリスチャンがいるのだろうかと疑わなければならないほどなのではないでしょうか。キリスト教会の現状はほんとうに悲しむべきものです。神の誉れを求める熱心、神との交わりを喜ぶ喜び、神のみわざと御国みくにのための献身が、そこにはほとんどないのではないでしょうか。聖霊の力に満たされた生活がほとんどないのではないでしょうか。そこでは『私は彼らの中に住むであろう』という約束がまったく理解されても信じられてもおらず、また多くのクリスチャンはそれを求めてすらいないことが明らかなのではないでしょうか。

 質問させてください。あなたはそれを、求めたことがありますか? そのような生涯を生きたいと望んでおられますか? そうでないなら、あなたが回心を受けたその偉大な目的をあなたは自覚する必要があります。すなわち神がそのためにあなたを救われたところのこの祝福の生活のことです。神はあなたがこの祝福の生活に入り、その中を歩むように励まし、助けようとして、回心を与えられたのです。

 どうすればよいのかをあなたに告げなければならないのでしょうか。まずあなたは、これまで神の宮として生きようと求めたことがほとんどなかった、ということを告白しなければなりません。神は御子と聖霊を通して再びご自分の住まいを得ようとされたにもかかわらず、そのすべての努力に対してあなたはほとんど注意を払わず、それを知ろうとも求めようともしませんでした。そのことが父なる神の愛をどれほど悲しませてきたかを考えてみなさい。また、自分が無力であることを告白しなさい。あなたはもっと善くなろうと試みましたが、そのたびに失敗しました。あなたは、神ご自身があなたの生涯の力となられるということを絶対的に必要とし、かつそれが与えられることが約束されています。そのように神の言葉を受け入れない限り、あなたは必ず失敗します。

 あなたの心をこの祝福の上にしっかりと据えなさい。願望こそが世界を動かす力であることをあなたは知っているでしょう。あなたの願望を、『私は彼らの中に住む』という、この神的で奇跡的な恵みの上に固着させなさい。自分が無価値であることや弱いものであることを思って怖じ気づいてはなりません。これはそもそも人間には不可能なことですが、神には可能です。神はその約束を成就することがおできになり、実際に成就されます。それをあなたの心のただ一つの願いとしなさい。この救いは、あなたが聖霊にすべてを委ねる用意ができたなら、聖霊がただちになしてくださる救いであることを知りなさい。心がすべて自己と生来に属することを棄て、完全に空虚になってそれから清められる用意ができたなら、約束はただちに必ず成就します。『私は彼らの中に住む。私は彼らの神となる』と。

 聖書の言葉は次のように続きます。『「だから、彼らの中から出て行き、彼らから離れよ」と主は言われる。「けがれたものに触れるな。そうすれば、私はあなたがたを受け入れる」』(コリント後書6:17)。世と世の宗教に属するあらゆるものの外に出なさい。神の聖なる宮であることとその内住を受けるという聖なる特権と相容れないあらゆるものから出て来なさい。出て来て分離しなさい。あなたを取り巻く人々とは異なる生を生きようとする者としての立ち位置を定めなさい。神とそのご意志に向かって自分を聖別しなさい。『汚れたものに触れるな』──清められた宮であれ。ほんのすこしでも汚すのもの入れてはならない──神のために全くあれ、神に向かって聖なる者であれ──そうすれば神はこの約束を守られます、『私はあなたの内に住む』と。この約束が含むすべてのものを神はあなたの内にご自身の手で示され、与えられ、保たれるでしょう。

 みなさん、この全き救いを受け入れたいですか? 今すぐ受け入れますか? あなたにお願いします。どうかこの驚くべき愛を拒まないでください。神にあなたを所有していただきなさい。あなたの中に住んでいただき、それによって神の愛とあなた自身の愛を満ちたらしめなさい。いまこの瞬間に受け入れなさい。神があなたの中にそれをなしてくださるとあなたは信じてよいのです。アーメン。



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